サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 九 蜘蛛の糸の如く絡み合う因縁

「何故、州侯殿下が私という人間のことを御存知なのですか」
 至極尤もな質問を吐き出すと、書記課長は厳めしい眉を少しだけ和らげて、漆黒の珈琲を口へ運んだ。
「この珈琲は苦過ぎるな」
「話を逸らさないで下さい、課長」
 無礼を承知の上で、私は敢えて露骨に語気を強めてみせた。此処まで話が大きくなっているのなら、つまらない気遣いで真実の細部を曖昧に霞ませておく必要もないだろう。向こうが攻撃的に、何か尊大な理由を振り翳して私を追い詰める積りなら、此方としても借りてきた猫のように大人しく縮こまって遠慮深い下っ端課員を演じ続ける筋合いもないのだ。弾薬輸送の監督官? 王家の勅命だと? だったら、アステル氏直々に出向いたって少しも大袈裟ではない筈だ。そんなに重要な使命なのだと口を酸っぱくして脅しつけるなら、自他共に認める筋金入りの凡人に過ぎない私へ大役を宛がうのは、どう考えたって奇異な話なのだから。
「逸らす積りはない。嘘を吐いている訳でもない。州侯殿下は、コスター商会のパドマ・ルヘラン三等書記官を監督官に指名しておられる。いいか、戸惑っているのは君だけじゃない。商会の首脳陣も大混乱に陥ったんだからな」
「そりゃそうでしょう。一体、どういう絡繰なんです」
 州侯殿下と言えば、市井の民草どもには生涯縁のない至高の存在であるというのが皇国の相場であって、況してや私のようにファルペイア州の奥まった山村に生まれた田舎者が認知される理由など欠片ほども見つからないに決まっているのだ。何らかの摩訶不思議な絡繰でもなければ、州侯殿下から名指しで光栄な御命令が下される筈はない。
「州侯殿下の近侍に、マレリネア・ルヘランという女性が仕えている。その者の推挙という話だ」
「マレリネア?」
 意想外な名前に、私は思わず眼を瞠った。マレリネアはトラダック伯父さんの末の娘で、私にとっては従妹に当たる可憐な女の子だ。いや、精確には女の子であったと言うべきであろうか。最後に会ったのはもう随分前、私がファルペイア州の州都サーカンタスの郊外にある古めかしい商務学校へ通っていた頃だから、彼是もう十年ぐらい昔の話だ。私が由緒あるプラレイタス商務学校を卒業したのが二十一歳のとき、それから伯父さんの伝手に縋ってラーヘル商会へ潜り込み、そこを這々の体で叩き出されるまで、八つも年の離れたマレリネアは度々、私に手紙を呉れた。学校を出て愈々世間という荒れ狂う大海へ出帆することになった私の先行きを、幼心に案じたのだろうか、彼女は励ましに満ちた文面の手紙を何通も認めて、ラーヘル商会の寄宿舎に宛てて送ってくれた。同じ寄宿舎に暮らす仲間たちは皆、恋人からの甘ったるい手紙だと疑って毎日のように冷やかしの言葉を浴びせ掛けてきたので、うんざりした私は次第に返事を書かなくなり、寄宿舎を引き払って裸一貫の状態でユジェットへ発つときには新居の住所すら教える手間を省いたものであった。その露骨な手抜きが彼女にも何となく伝わったのか、それ以来我々の間の繋がりは完全に途絶えてしまった。今になって顧みれば、私は随分と非情な従兄であったのだ。
 トラダック伯父さんは既に述べた通り、敏腕の商売人であり、皇国東部のヴァガントリア州に本店を構えるルヘラン商会の創業者でもあった。元々は私の父と同じくファルペイア州の僻村で畑仕事や狩りや木の実集めに明け暮れる素朴な少年であったにも拘らず、どうやら伯父さんには小さな頃から野心家の側面があったらしい。頭の回転も良くて読み書きや計算にも大人びた才覚を示したことから近隣で「神童」と騒がれ、村長や顔役たちからも将来を嘱望されていた伯父さんは一念発起、苦学して商館員になる為の基礎的な勉強を積み重ね、ラーヘル商会に食い込んで勤勉な仕事振りと優れた機略で上長の信頼を勝ち得たのだという。国内有数の林産地帯であるヴァガントリア州で建築用の高価な材木の取引に手を染め、幸運にも巨額の利益を稼ぎ出したのを契機に独立し、自らの姓を冠したルヘラン商会を立ち上げて盛大に商売を始め、立派な業績を築き上げた。私がラーヘル商会に拾ってもらえたのも、役立たずだと露顕した後にも馘首ではなくコスター商会への移籍という人事で済ましてもらえたのも偏に、ルヘラン商会のトラダック・ルヘラン氏の社会的評価の高さが、ラーヘル商会の御偉方の横っ面を叩いてくれたからであった。
「マレリネアが私を推挙したんですか」
「君は気立てのいい親戚を持ったものだね」
 アステル氏は意味ありげな微笑を口許にちらりと浮かべて言った。
「君は実に恵まれている。トラダック・ルヘラン氏の甥っ子だという理由で、ファルペイア州で最も権威のあるラーヘル商会で、商館員としての経歴を出発することにも成功した。今回は州侯殿下直々の発注に名指しで選ばれた。恐ろしいほどの幸運だと思うべきだろう」
 此れは厭味なのだろうか、だとしたら書記課長も随分と間の抜けた人だと、見方を改めねばならないだろう。私は今回の御指名を全く有難いとは思っていない。寧ろ迷惑千万だと歯咬みしているくらいなのだ。
「世の中は、複雑極まりない因縁で出来上がっている。時には、蜘蛛の糸のように見事な刺繍を描くこともあるのだ」
 アステル書記課長の有難い金言を片耳で聞き流しながら、私は自分の頭を弄って、急に白髪が増え始めてはいないかと恐る恐る確かめてみた。