サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(成長・記憶・苦痛・恥辱)

*最近、改めて「成長」ということに就いて考えることが増えた。

 このように書き出すと、何となく典型的な自己啓発系の記事だと思い込まれてしまうかも知れないが、例えば「成長のための具体的で明確な方法論10箇条」みたいなことは、残念ながら書けないし、書こうとも思わない。物事の一般的な「解」を探究してみることが無益だとは思わないが、成長に関する一般的な法則を書き連ねたからと言って、それが実際の個別的な人生に直ちに「効く」ことは稀である。人間は皆、遺伝子レヴェルで眺めれば殆ど同じ組成で出来上っているというのに、同じ理屈が万人に妥当することは皆無に等しい。これは如何なる絡繰の仕業なのだろうか?

 身も蓋もない言い方になるが、私が殊更に「成長」という観念に関心を惹かれる背景には、加齢という現実が影響しているのではないかと思う。自分がもう若くない、少なくとも若さを失いつつあるという感覚は、様々な要素の複合した結果として齎されている。

 今の会社に入ったとき、私は未だ二十歳の小僧であった。最初に配属された店舗では、学生のアルバイトから仕事を習ったものだが、その学生さえ年上であった。当然のことながら、上司も年上、取引先も年上、パートの御姉様方も皆年上、という状況に絶えず埋没する日々を過ごしていた。二十三歳の時に初めて新入社員を部下として抱えたのだが、彼は私と同い年であった。店長と新入社員が同い年というのは、冷静に考えてみると不可解な事態である。

 だが、今の配属先では、部下の社員は六歳、今期配属の新入社員に至っては十一歳も年下である。取引先の社員にも、同年代の人がいる。随分と景色が変わったものである。

 そうやって年老いていく自分を間接的に理解する。自分はもうそれほど若くなく、無限の可塑性や、幾ら失敗しても構わないくらいの未来の余白は、徐々に翳りを帯びつつある。だからこそ、私は真剣に考えずにはいられない。齢を重ねたのならば、相応の成長を遂げる必要があるだろう。そうでなければ、まさしく「馬齢を重ねた」ことになってしまうではないか。

 無論、私は無益な絶望に溺れて善がっている訳ではない。自分がこの十二年間、全く成長しなかったと悲嘆に暮れている訳でもない。十二年前と比べれば、私は別人のように変わった。知らぬ間に、こんなにも遠い場所まで流れ着いてしまったのか、という心境である。何が変わったのか、その一つ一つを計え上げようとしても、多岐に渡っていて、適切に表現出来る気がしない。ただ、十二年前には知らなかった多くの事柄に就いて、私は様々な出来事や、様々な人から、色々な省察を学んだと思っている。その学習は時に劇しく鋭い痛みを伴っていたり、絶望的な恥辱に塗れていたりもした。振り返れば、自分は如何に愚かだったのかと、歯咬みしたくなることもある。

 私はもう若者ではない、若者のようには生きられないという感覚は、必ずしも苦痛に満ちた認識ではない。反動のように、再び若者らしく生きようと試みる性急な態度に、価値を認めようとは思わない。意識や自我が如何なる自己規定を信じ込もうと、降り積もる時間の重量と、その影響を等閑に付すことは出来ないのだ。それは新たな自己欺瞞に雪崩れ込むことでしかなく、自己欺瞞によって維持される精神的な快活さは、いわば阿片のようなものである。

 若者ではなくなりつつある自分の価値に就いて考えるとき、自ずと「成長」という観念が脳裡に浮かび上がるのは、それが若者の特権的な無謀さの代償であるからだろう。要するに、成熟した大人にならなければならない、という倫理的な意識が、今の私の精神を根底から捕捉しようとしているのだ。無論、それは十二年前からずっと懐き続けてきた内的な要請でもある。二十歳で結婚し、父親となったときから、私はずっと「成熟しなければならない」という宿命的な要請と闘い続けてきた。闘うというのは、成熟を拒否するという意味ではない。文字通り、私は父親として、或いは社会人として、命懸けで「成熟」を求め続けてきた。それは紆余曲折を経て、現在の私という人格に流れ着いている。果たして積年の「野望」は達成されたのだろうか? いや、未だだ。そう正直に答えるしかない。私はもっと成長しなければならない。私は未だに「青二才」の尻尾を完全には断ち切れないでいる。

 年齢に相応しい成熟を求めようとする欲望が、保守的な狭隘さを意味するのならば、それは単なる老衰の徴候に過ぎない。恐らく、私はもっと精神的な何かを求めているのだろう。肉体は極めて儚く脆弱に滅び去る。精神も何れは滅び去るだろうが、その速度は肉体ほど迅速ではない。磨き得る限り、己の精神を磨いていきたい。それは「世界」に就いて学ぶということだ。

Cahier(師走・宿命・軍曹)

*年の瀬で、何かと忙しい。師走ともなれば、小売業に携わる人間は皆、来る日も来る日もフロアを駆け回ることになる。靴紐が千切れるくらいに忙殺されて駆け回るのは、何も僧侶だけとは限らないのである。

 正月休みを心待ちにして騒めいている世間の空気を、私たちは違った角度から捉える。年末年始を家族や友人と共にゆっくり過ごす、という感覚が、私の内部には既に存在していない。我々にとっては、年末年始こそ最高の書き入れ時なのである。

 知らぬ間に気忙しくなっているのか、読書が一向に捗らなくて困っている。いや、別に読書が進捗しないくらいのことで、生活が滞る訳でも、誰かに迷惑を掛ける訳でもない。ただ、普段と違うリズムの渦中に、いま自分が呑み込まれつつあることの警笛を聴き取っているだけの話だ。十二月は、戦争の季節である。私は日々、京成電車に揺られて戦場へ出陣するのである。札束が飛び交う戦場で、ニコニコと愛想笑いを大盤振る舞いし、スタッフを叱咤して売上を盗賊のように稼ぐのである。

 そういう生活に、昨秋の私は疑問を懐いて、このままではいけない、別の世界へ飛び込んで、己の宿命を書き換えるのならば今しかないと焦躁に魂を焼かれていた。全く異質な業種へ転身し、もう少し真っ当な生活を送りたい、その方が家族の為だと真剣に考えていたのである。だが、十余年の歳月と習慣が培った精神性は、そう簡単には折伏し難い。結局は、売り場に立って働く生活に、何かしらの矜りを懐いている自分を発見して、捨て切れぬ愛着に絆されて、私は転職を断念した。そうやって肚を括ってしまえば、眼前には札束と食品の戦場が広がるばかりで、私はそれなりに蓄積してきた知識と経験を自動小銃のように携えて、再び軍曹を思わせる表情で一歩を踏み出すこととなった。保守的な考え方に囚われて、挑戦を諦めて怖気付いたに過ぎないと、世人は嘲るだろうか。だが、世人の嘲弄を自分の人生の物差しとして採用するのは、馬鹿げた茶番である。私は改めて考え直し、自分自身に言い聞かせる。自分のケツを拭えるのは、自分の手だけだ。他人の芝生が蒼く萌えて見えるからと言って、過去の歳月を一刀両断に否定するのは正しい心掛ではない、と。

 自分で選んだ途を信じる。それは生きていく上で最も基本的な道徳で、それ以外に矜りを持つ術はない。自尊心を欠いた人間には、奴隷の幸福が餌のように投げ与えられるだけである。正月休みなど糞喰らえだと声高に笑うのは、如何にも痛ましい虚勢の一環に過ぎないと感じられるかも知れないが、それこそが我々の矜持であり、尊厳なのである。我々がいなければ、世間の休日は頗る退屈で無味乾燥な時間の堆積となるだろう。

「自立」に就いて

 「自立」という言葉は当たり前のように気安く用いられて、誰にとっても耳に馴染のあるものだと思う。誰でも小さいときは親に依存し、何もかも勝手に整えられて、自分で難しい判断を積み重ねる必要も持たずに生きることが出来た。だが、大人になれば、そんな安楽な御身分とは切り離されて生きることになる。或いは、そんな安楽な御身分を捨て去らない限り、人は誰も「大人」としての成熟を享受することが出来ない。尤も、そんな困難を抱え込むくらいならば、いっそ「子供」のままで生きた方が幸福だと考える人も少なくない。それが倫理的な観点から眺めるならば、疑いようのない「堕落」であり「怠慢」であるとしても、それを望みたがる個人の心情を、第三者が自在に制御することは出来ない。

 誰もが簡単に、平気な顔をして「自立」という言葉を用いるが、その厳格な定義に就いて、どれだけ思考力を傾注しているか、それは疑問である。無論、自分のことを棚上げにする積りはない。私も極めて依存的な性格の人間であったし、今も依存的な性質は、完全には払拭されていない。理想と現実との間に広がる距離を、性急に縮めようとしても、その焦慮は不毛な自己欺瞞を産み落とすだけである。だから、私は己の依存的な部分に就いて、それを既に克服したなどと言い張る積りはない。克服したいという願望と、克服したという事実的判断を混同してはならない。そんなことは当然だと人は言うかも知れない。けれど、私たちの御都合主義に汚染された脳味噌は極めて容易に、両者の混同という愚かしい暴挙に傾斜してしまう習慣を堅持しているのだ。

 自立という観念の裏側には、依存という観念が潜んでいる。依存的な人間は、自分自身の決断や思考を信用していない。彼らは、自分の意見に重要な価値を認めることに慣れていない。それが下らぬ謬見である虞を絶えず警戒して、他者によって己の意見を批判されることに絶大な恐怖心を懐いている。それは一見すると、正当な「謙虚さ」であるように見えるし、場合によっては美徳として評価されるかも知れない。だが、それこそが「依存」という観念に絶えず随伴する厄介な罠なのだ。

 過ちを犯してはならない、という原則は、一見すると健全な規矩のように感じられるが、過ちに対する極端な恐怖心は、過ちを犯してはならないという正義とは本質的に無関係な感情である。それは何よりも先ず、自己防衛の為の感情であり、煎じ詰めれば矮小なナルシシズムに過ぎない。過ちを犯してはならないという命題が絶対化されたとき、人間は一切の行動や決断を峻拒することで、己の正当性を保持しようと図る。何もしなければ、失錯を犯す心配も生じないという、極めて退嬰的で保守的な論理が誕生する訳である。それはペーパードライバーが、長年の無事故無違反の実績を誇示するような滑稽さと無力さを孕んでいる。路上に出ないドライバーが事故を起こさないのは、美徳ではない。単なる物理的な事実、非常に退屈で凡庸な事実に過ぎない。

 だが、こうした保守的な論理は極めて強力に、人間の心を掌握することが出来る。行動しなければ事故に遭うこともないという尤もらしい論理に屈服し、何も意見を述べなければ批判されることもないという度し難い退行に傾く人間は少しも珍しくない。こうした実存の形式は、まさしく「依存」の本質的な要素である。言い換えれば、何も選ばなければ、外れ籤を引くことはないという極端な保守性が、依存的人間の精神を領する根本的な特徴なのである。外れ籤を引かない人間は、当たり籤からも永劫に見放される。それでも構わないから、外れ籤を引かない人生を歩みたいという人間は、絶えず何かに依存することで、自分以外の何かに自分の人生を委ねることによって、そうした法外な野心を実現に導こうと試みる。

 自立は、そうした依存的人間の保守的な論理との間に顕著な対照を成す。自立するということは、自らの責任に基づいて物事を選択し、決断し、行動することに重要な意義を見出す。勇敢な決断を試みることは、彼らにとっては倫理的な規範である。自立的な人間にとって、自分の人生は、自分自身の決断の累積的な結果である。だが、依存的な人間にとって、自分の人生というものは常に、他人の意見と命令によって構成された寄木細工のようなものである。

 しかも依存的な人間は、他者に総ての責任を委ねておきながら、その結果に不満を懐き、他者を攻撃することを辞さない。言い換えれば、依存的であるということは、他責的であるということと同義である。問題の原因を他者に見出すことは、問題の解決を他者に委ねていることと同じである。本来ならば、他者が頼りにならないのであれば、自分自身で解決の糸口を模索するのが正しい道筋である筈だ。だが、依存的な人間は、自分の思索や行動によって事態を打開する能力も経験も有していないので、正しい道筋に進むことが出来ない。これは幼児的な現象である。

 依存的であり、他責的であるという特質は、極めて幼児的なものである。無論、幼児がこうした特性を有するのは生物学的な問題であるから、少しも非難される謂れはない。だが、肉体的な年齢を重ね、充分に成熟しているべき人間であっても、こうした幼児性の残滓を色濃く保持している者は珍しくない。空腹のとき、ミルクを欲して泣き叫ぶ赤児を見て、努力が足りないと叱る大人はいないだろう。だが、同じような行為を、生物学的な意味での成人が演じているのを見れば、誰でも嫌悪と侮蔑の感情を懐かずにはいられないだろう。幼児性からの脱却は、人間的成長における必須の過程である。だが、誰もが自動的に幼児性からの脱却を成し遂げ得る訳ではない。そもそも、自立とは何か、大人になるとは如何なる事態を意味するのか、それを真剣に考えたことのない人間が幾らでも地上に存在するという事実から、私たちは出発しなければならない。

 一部の人間は何故、自立を望むのか? それは自立が、他者による支配からの解放を齎すからである。他者に依存することは、自らの存在を奴隷として捧げることを意味する。そして、奴隷には「奴隷の幸福」と称すべき安閑たる境涯がある。従順な奴隷も、傲慢な奴隷も、奴隷であることに甘んじている限り、本質的な成長を獲得することは出来ない。隷属は、人間の尊厳を破壊し、生きる歓びを歪曲する。そして隷属は、あらゆる人間的な愛情に対する致命的な暴力として機能するのだ。

Cahier(繁忙期・「青の時代」)

*前回の更新から、思いの外、間が空いてしまった。

 毎年、十一月の第三木曜日と定められているボジョレー・ヌーヴォーの解禁日辺りから、小売業の現場は俄かに忙しさを増し始める。特に百貨店は歳暮ギフトの早期割引で集客が上がり始めるし、十二月に入れば冬のボーナスシーズンだ。歳暮が終わる頃にはクリスマスが来て、それが終われば直ちに年末年始の買い物が始まる。光陰は矢のように足音高く過ぎ去っていく。

 食品小売りの現場で働く私も、連日忙しく過ごしている。疲れが溜まって、唯でさえ乏しくなってくる睡眠時間を少しでも余分に確保して、明日の仕事に備えようと努めると、自ずと本を読んだり文章を書いたりする時間は削られることになる。

 それでも、三島由紀夫の文業を集中的に繙読するという企ては、辛うじて続いていて、「盗賊」を読了した今は「青の時代」に着手している。実質的な処女長篇小説である「盗賊」に比べれば、文体の洗練と稠密は明白に、その水準を高めている。作品の前半は、主人公である川崎誠の生い立ちが綿々と綴られていく構成になっているのだが、その途上で早くも「自殺願望」に関する描写が現われたことに、私は如何にも三島的なニュアンスを感じ取らずにいられなかった。彼が繰り返し作中で言及する「自殺への衝迫」を鑑みれば、後年の割腹自殺に至る伏線は極めて明瞭に示されていたということになる。「自殺」に対する彼の執着は決して文学的な観念ではなかったのだ。或いは、単なる文学的な観念に過ぎないものを現実の人生において具体化してみせるところが、徹底的な「演技」への欲望を堅持した三島由紀夫という男の「凄み」なのだと、言い換えることも出来るかも知れない。

青の時代 (新潮文庫)

青の時代 (新潮文庫)

 

 

「死」という毒薬を弄ぶ男 三島由紀夫「盗賊」

 先日、三島由紀夫の処女長篇小説「盗賊」を読了したので、感想を認めておきたい。

 「仮面の告白」に先立って発表された「盗賊」は、三島由紀夫の遺した厖大で華麗な文業の経歴の中で、余り脚光を浴びない位置に佇んでいる作品ではないかと思う。後年の三島を思わせる文学的な特質の萌芽は随所に現われているが、実質的な出世作である「仮面の告白」と比較しても、その文体の未成熟は一読して判明である。人間の、短い言葉ではなかなか言い表すことの難しい微妙な心理的現象を、巧みに掬い上げて言い当てる持ち前の鋭利な観察眼は既に一定の強度へ達しているものの、冒頭から文体の弛緩が目立ち、全体の構成も随分と粗っぽく、作者の描いた事前の青写真に、作者自身の技倆が追い付いていないような印象を受ける。「観念的であるがゆえに様式的であり、様式的であるがゆえに明晰である」という三島の文体の独壇場が、未だ仕上がっていないように見えるのだ。

 「仮面の告白」や「愛の渇き」に比すれば数等、その出来栄えに瑕疵があると思われる、この若書きの「盗賊」には、それでも如何にも三島らしい主題や観念が織り込まれている。特に作品の中心的主題でもある「情死」という観念には、予定された死を掲げることによって、眼前の生を堪え難いものに変えるという抽象的な魔術の効果が、明確に期待されているように思われる。逆に言えば、この作品において、三島が企図したのは「自らの結婚式の当夜に心中を遂げる若い夫婦」という奇怪で蠱惑的なイメージを成立させることの一点に尽きており、それまでの物語的な前段は副次的な助走のようなものに過ぎない。藤村明秀が、所謂「小悪魔的な」性質を有する原田美子との関係の挫折から、一足飛びに「自殺」を志すという構成にも、偶然知り合った山内清子が、彼と同じように失恋の痛手から秘密裡に「自殺」を企てているという設定にも、そうした中心的なイメージへの一方的な隷属が見出される。その隷属が、作品の細部そのものが備えるべき小説的な強度の低下を招き、結果として文体の弛緩を招来しているように思われる。そして、前段となるべき部分の強度が脆弱である為に、助走の涯に辿り着いた唐突な第六章の芸術的な衝撃力が大幅に減殺されてしまうという悪循環を形成しているのである。

 その意味で、私は「盗賊」という作品に高い評価を与えることが出来ない。無論、総てが瑕疵と謬見に覆われているなどと、偉そうな批判を述べる積りはない。例えば終盤の「キルシエ」というレストランにおける、藤村子爵と新倉との微妙な心理戦を活写する三島の筆鋒には、人間の心理に対する異様な省察の情熱を燃やしていた作者の面目が躍如としている。だが、そうした細部だけを殊更に称揚することで、全体のアンバランスや、頻々と浮かび上がる文体の局所的な弛緩に、瞑目して接するべき理由を捏造することは難しいと言わざるを得ない。

 作品の内容に就いて触れておく。この「盗賊」という作品を構成している根源的な原理は、予定された「死」に基づいて「生」を捉えるという終末論的な幻想である。

 人はこのようにして、生の象徴である漠たる好奇心、その好奇心のいちばん純粋な形である遊戯的な好奇心を、徐々に未来の死の領域へとひろげるのである。死を人は生の絵具を以てしか描きだすことができない。生の最も純粋な絵具を以てしか。かくてただ遊戯にしか価いしなくなった生の無垢な幻影は、死のなかにかかる生と親近した遊戯的なもの、きわめて不真面目な或るものをしか見出ださなくなる。人は結局、死の中に、幼年時代がもっていた一つの意義を見出だすだろう。幼年時代、そこではあらゆる生が純粋な遊戯の形にまで高められ統一されていたのである。(P79)

 予定された「死」によって「ただ遊戯にしか価いしなくなった生」を獲得しようと試みるニヒリスティックな心理的詐術には、恐らく十代後半の最も多感な季節を戦時下に過ごさねばならなかった三島の個人史的な経験が反響している。同様の心理的現象、同様のタナトティックな欲望は「仮面の告白」にも「金閣寺」にも色濃く反映している。その意味で、確かに「盗賊」は三島の処女作に相応しい文学的特質を示していると言えるだろう。

盗賊 (新潮文庫)

盗賊 (新潮文庫)

 

 

Cahier(「盗賊」・文体・「作品」という芸術的単位)

三島由紀夫の作品を集中的に読破するという俄仕立ての計画は、今のところ生温い速度で進んでいる。「仮面の告白」「愛の渇き」を読み終えて、今は三島の処女長篇と定義されている「盗賊」(新潮文庫)をのんびりと繙読しているところである。

 私は漠然と「仮面の告白」が、三島の実質的な処女作だと思い込んでいたのだが、実際には「盗賊」の方が年代的に先行しているという、少し調べれば直ぐに判明するような素朴な事実を初めて認識した。だが、そうした予備知識を弁えずとも、文章そのものの完成度、或いは密度が、明らかに「仮面の告白」と比較して劣っていることは、一読して直ちに了解出来た。尤も、これは飽く迄も私の個人的な感想であるから、一般化は出来ない。

 「仮面の告白」にも、終盤に入ったところで妙に物語の進行が不自然な加速を演じている箇所があり、作者の技倆の乱れを感じなかったと言えば嘘になる。だが、僅かな瑕疵を除けば、明らかに「仮面の告白」における稠密で明晰な文体は、それが如何に人工的で装飾的な美文としての性質を具備しているにせよ、才能を持たない人間には綴り得ない洗練と魅惑に達していると証言することが出来る。三島の文体そのものに対する好悪は、評家によって大いに意見の分かれるところであろうが、少なくとも「仮面の告白」における文章の水準は卓越していると看做して差し支えないように思う。

 私は三島由紀夫という特異な作家に、十代の頃から漠然たる関心を懐いてきた。若くして燦めくような才能を発揮し、数々の傑作を世に問うて、四十代半ばという前途ある年齢で、自衛隊の駐屯地に日本刀を帯びて殴り込み、古式床しい自裁を遂げたという華やかで意味深長な経歴に、半ば醜聞に対する下世話な関心を交えた好奇心に囚われたことが、最大の要因であったには違いない。これほど「伝説」に相応しい衝撃的でロマネスクな生涯を送った作家は、それほど多くないだろう。

 今日、三島由紀夫という作家に対する偏見は夥しく繁茂している。それは文学的な観点からも、政治的な観点からも、等しく発せられた批判的意見の塊である。自衛隊の駐屯地で割腹自殺を遂げた彼の右翼的な狂奔と、態とらしいほどに磨き抜かれた観念的な美文に対する敵意、これが三島由紀夫に対する固陋な偏見の主要な成分である。だが、多くの人々にとって、それは又聞きのイメージの上に構築された、借り物の感想に過ぎないのではないか。如何なる感想を持つにせよ、世の中に流布するステレオタイプな見解に、感覚的な判断に基づいて便乗するのは、はしたない振舞いであるし、品位を欠いた考え方であると思う。重要なのは、自分の意見を持つことであり、個人的な尺度に依拠して、個人の責任において、自らの意見を公表することである。ならば、誰かの書き綴った解説の文章ばかりを読み漁って、己の一知半解に磨きを掛けるよりも、実際に三島の著作に当たってみるのが正当な捷径ではないか。

 もう一つ、三島の作品を集中的に読んでみようと思い立った契機は、或る作家の文業を理解するに際しては、個別の作品を断片的に、場当たり的に選び取って読むだけでは足らないのではないか、という考えが脳裡を掠めたことであった。例えば三島に関して例を挙げるなら、単に「金閣寺」の一冊だけを読んで「金閣寺」を理解しようと試みるよりも、彼の遺した厖大な作品の総て、或いはその主要な作品の総てを通読した上で「金閣寺」を読んだ方が、その一冊に対する理解は結果的に深まるのではないか、という意味である。作品というのは確かに一個の芸術的な単位であり、それ自体の独立性や完成度が問われることは普遍的な慣習である。しかし、或る作家の文業を「作品」という単位で離散的に切り分けるだけでは、芸術的価値の本質は見極め難い筈だ。言い換えれば、作家の文業を「作品」という単位で離散的に切り分けるという作業は、大海原に引かれた国境線の如く、飽く迄も便宜的な約束事に他ならないのだという理解を忘れるべきではないのである。

 作家の言いたいことや描きたい主題、或いはもっと盲目的な「創造」への衝動のようなものが、作品という一個の単位によって強引に切断され得ると考えるのは、狭隘な料簡である。「金閣寺」という作品は、それ単体で確かに一個の独自な世界を形作っているが、だからと言って「金閣寺」が、作家の過去の業績とは無関係に、一回限りの博打のように生み出された訳ではないことは、常識として弁えておくべきだろう。個々の作品は、一人の作家の実存を経由して生み出される創造的衝迫の、或る断面図のようなものである。断面図が多ければ多いほど、作家の衝迫に関する私たちの理解は拡張し、深化する。様々な角度から描かれた同一の事物が、その「風景」の複数性によって一層鮮やかに本質的な要素を開示するということは、一般的に認められた現象ではないか。

 無論、芸術は作品だけが価値を持つ、という見解にも一定の説得力は備わっている。作家の存在など、作品の巨大さに比すれば矮小な塵芥に過ぎないと断じるのも、勇ましい卓見のように感じられないこともない。恐らく私という人間は、単に「小説」の具体的な実例そのものに重要な関心を有している訳ではないのだろう。作品に刻み込まれた、或る特異な精神的形態の構造に惹かれているのかも知れない。それは、私が「文学」を「生きること」と結び付けて理解しようと試みる旧弊な古典的価値観の虜囚であることの、紛れもない証左である。卑近な言い方をするならば、私は「文学」を単なる絵空事として定義することに堪えられず、それを己の実際の生活に何らかの形で「役立てよう」と試みているのだ。小説を読むことが、単なる空想の浪費に過ぎないのであれば、もっと効率的で優等な娯楽は他に幾らでも求めることが出来るだろう。或いは、小説が自分の人生との間に何らかの連絡を持たないのであれば、精々それは「巧みに作られた刺激的な御伽噺」の栄誉に与るくらいの価値しか持たない。実際、多くの人々にとって、小説を読むというのは、そうした娯楽の一環に過ぎないのである。そうした風潮に異論を唱えることが今日では、恥ずかしいほどのアナクロニズムと看做され、存分に軽侮され得ることは弁えている積りだ。だが、私は寧ろ「感動」という娯楽を安易に欲しがる態度の方に一層根深い「慚愧」を覚える。別にそれを罪深い行ないだ、などと難じる積りはないが、そうした「感動」や「共感」が殊更に素晴らしいものであるかのように喧伝するのは、自慰行為の快楽を声高に吹聴するような醜態と同根ではないか、という感覚を否むことが出来ない。少なくとも、それはわざわざ他人に報せるべき次元の事柄ではない。

 或いは、単に受動的な「快楽」の享受が疎ましく思えるというだけの話なのか。相手の都合で「快楽」の性質や水準が一方的に決定されるという立場が、忌まわしく感じられるのだろうか。芸術に限らず、一般的に物事は、理解が深まるほどに、その魅力が高まって感じられるものである。言い換えれば、小説を読むことで得られる「快楽」を一層高めていく為には、相応の代償を支払う必要があるのだ。「巧みに作られた刺激的な御伽噺」を味わうだけでは癒やされる見込みのない「退屈」を、私が病んでいるということだろうか。それを成熟と呼ぶのか、或いは老衰と呼ぶべきか。別にどちらでも構わないが、私は過日、三十二歳になったばかりである。

盗賊 (新潮文庫)

盗賊 (新潮文庫)

 

 

苦痛への欲望、或いはタナトス(thanatos) 三島由紀夫「愛の渇き」

 三島由紀夫の「愛の渇き」(新潮文庫)を読了したので、感想を認めておく。

 この作品の全篇に行き渡っている、或る陰鬱な雰囲気の由来を、一言で名指すのは困難な業である。何もかもが皮肉の利いた、底意地の悪い文章によって抉り取られ、無条件の肯定に晒されることのないように、周到な工夫を施されて横たわっているように見える。「愛の渇き」という露骨な、或いは無恥なほどにロマネスクな表題さえ、一種の毒薬めいた警句に感じられるのは、作者の厭らしい技巧に見事に欺かれ、甚振られていることの証左であろうか。

 先ず、全篇を覆っている陰鬱な空気の根源に、仮初の名前を授けることから始めてみたい。私の考えでは、それは「タナトス」(thanatos)と呼ばれる独特の精神的衝迫であり、暗い欲望の形態である。尤も、無学な私に「タナトス」という言葉の厳密に学術的な意味を理解する力量は、少なくとも現時点においては備わっていないことに留意されたい。精神分析を提唱したオーストリアの医師フロイトが案出した、この特異な術語は、具体的な物理的実在に捧げられた名辞ではなく、飽く迄も抽象的な観念、一種の学術的な仮説のようなものである。その案出の背景や経緯に関して精確な知識を持たない私が、偉そうにフロイトの有名な術語を借用するのは僭越な振舞いだが、素人の戯言だと思って是非とも寛恕願いたい。

 タナトスの性質に関する議論を要約することは難しい。そもそも、タナトスという概念によって説明されるべき事象の種類は甚だしく多く、それらの総てに就いて遺漏のない指摘を試みることは本稿の趣旨に即さない。先ずは端的に、これを「死に対する欲動」という言葉に置き換えてみる。無論、これだけでは同語反復に過ぎないが、多少なりとも理解の視野は澄んで感じられるだろう。尤も、この場合の「死」という言葉は一種の象徴として解釈されなければならない。それは或る個人の肉体的な死という現象だけを意味しているのではないからだ。そもそも、死の欲動という観念自体が、極めて抽象的な想念の複合体であることを閑却してはならない。タナトスは単に「肉体的な死」という即物的な事件だけを志向しているのではなく、あらゆる生命体や秩序を「無機的な状態」に還元しようとする衝迫に操られているのである。

 「愛の渇き」において、主役に当たる悦子という女性は、異様なメランコリーを絶えず患っているように見える。その背景には、死別した夫の男女関係における飽くなき不品行という陰惨な記憶が蟠っているのだが、それだけで彼女の特異なメンタリティの本質を定義することは不適切である。彼女の精神的な秩序を構成している原理には、決して単純な「幸福」への志向性だけが備わっているのではなく、その意味で、一見すると驕慢な彼女の言動に反して、彼女には近代的な功利主義のようなものの凡庸な陰翳が見受けられない。彼女は明確且つ一般的な意味でエゴイストなのではなく、傍から見れば異様に悲劇的で薄倖の女性なのである。だが、その薄倖が、部分的であるにせよ、彼女自身に内在する根源的な欲動によって積極的に求められたものであるとは、普通は誰も考えないだろう。少なくとも弥吉や謙輔夫妻は、そのような異常な欲望が有り得ることを俄かには信じないだろう。

 悦子は「絶望」や「苦悩」に対する異様な執着を有している。それが所謂「タナトス」と名付けられた欲動の求める対象と重なり合っていることは明白である。こうした自壊的な欲動の存在は、近代的な市民社会が想い描くような「幸福」に対する欲望を信頼して疑わない人々の眼から眺めるならば、殆ど猟奇的な精神障害に類するものと感じられるかも知れない。しかし、幸福を求めて得られない現実に打ち拉がれた孤独な人間が却って、一切の幸福に対する欲望を踏み躙ろうと試みるのは、有り触れた心理的現象であるし、多くの宗教的体系が推奨する「禁慾」や「清貧」の教えも、そのような心理的逆説に基づいて樹立された訓戒であると看做すことが可能である。敢えて幸福を否定し、希望を峻拒することで得られる逆説的な「平安」を、仏教は「涅槃」(nirvana)という言葉で呼び、救済の象徴として壮麗な理念化を施した。そのような「涅槃」に対する奇怪な欲望を、私は「タナトス」という言葉で表現したいと考えている。

 「涅槃」の絶対的な静寂は、生命という存在の根源的な原理そのものに背馳するような形式で構成された安心である。「涅槃」は物理的な死を仮想的な仕方で経験することに他ならず、それを自ら積極的に求めることは、生命体としての自己否認を明確に含んでいる。だが、そのような欲望を感じているという事実自体は、明らかに生命体に固有の現象である。生命体としての肯定的な欲望(libido)とは裏腹に見える、一種の破滅的な欲望であっても、それが生命体に固有の欲望であることは動かし難い事実なのである。

 従って、悦子のような精神的形態の持ち主を一概に「異常」の区分へ括り入れて遠ざけるのは、人間に対する精密な理解を欠いた態度であると言わざるを得ない。もっと言えば、リビドーだけで構成された精神的主体が存在しないように、純然たるタナトスだけで構成された精神的主体も存在しない。人間の内面には絶えず二種の相反する欲望が蠢き、互いに混じり合って不可思議な化合を繰り返しているのである。

 だが、タナトスが人間の共同体において禁圧されるべき欲望として存在し、認知されていることには注意を払わねばならないし、あらゆる人間的な倫理は、タナトスの自在で無際限な発露に対する抵抗を、その重要な使命として担っている。あらゆる生命体を無機的な状態に還元しようとする危険で野蛮な欲望が公然と是認されれば、人類の社会が致命的な打撃と損失を蒙ることは明白であるからだ。従ってタナトスは常に監視と制約の対象に指定され、その禁忌に違反した者は社会的な懲罰を科せられることになる。

 けれども、タナトスに対する峻厳な禁圧が、タナトスの堂々たる発露を防ぐ抑止力として働くことは事実であるとしても、直ちにそれがタナトスの完全なる扼殺に繋がることは有り得ない。様々な理由に触発されて、人間の内部に蟠踞するタナトスは社会の表層へ身を躍らせようと企てる。人類の歴史を顧みれば、私たちが今まで一度もタナトスの野蛮な表出を全面的に抑止することに成功した例がないことに否が応でも気付かされることになるだろう。その意味で、タナトスは極めて人間的な欲望であり、現象である。そして、あらゆる小説が、人間の実存に対する厳格で精緻な「認識」の欲望に貫かれていることを鑑みれば、三島由紀夫タナトスの齎した陰惨な悲劇を綿々と書き綴ったという歴史的な事実は、少しも奇異な振舞いではないのである。

 「仮面の告白」において断片的に触れられていたタナトスに関する描写は、この「愛の渇き」においては一挙に拡大され、最も中心的な主題として作品の基調を成している。悦子が示す愛情は、「良人」の度重なる背徳によって深刻な歪曲と屈折を施され、明瞭なタナトスの臭気を豊富に含んで瀝っている。例えば、次のような独白に注目してほしい。

『こうして私は良人がとうとう私のところへ、私の目の前へ還って来るのを見た。膝の前へ流れ寄って来た漂流物を見るようにして、私はかがみこんで、仔細に、水のおもてのこの奇異な苦しんでいる肉体を点検した。漁師の妻のように、私は毎日海辺へ出て、たった一人で待ち暮したのだ。そうしてとうとう、入江の岩のあいだの澱んだ水のなかに漂着した屍体を見出だした。それはまだ息のある肉体だった。私はすぐそれを水から引きあげたろうか? いいえ、引き揚げはしなかった。私は熱心に、それこそ不眠不休の努力と情熱とで、じっと水の上へかがみ込んでいただけだった。そしてまだ息のある体が、すっかり水に覆われ、二度と呻きを、叫びを、熱い呼気をあげなくなるまで見戍った。……私にはわかっていた。もしよみがえらせれば漂流物は忽ち私を捨てて、また海の潮流に運ばれて無限のかなたへ逃げ去ってゆくに相違ないことを。今度こそは二度と私の前に還って来ることはないかもしれないことを。(P51-P52)

 これを一般的な意味での「愛情」と呼ぶべきか、当惑する読者は少なくないだろう。この匂い立つようなサディズムの気配は、明らかに悦子の精神を支配し占有しているタナトスの蠢動から分泌されたものである。愛する人の恢復を願わない悦子の心理は、愛する者を拘束して自分の所有物として定着しておきたいという、標本の採集に余念のない昆虫学者のような論理を抱え込んでいる。それは言い換えれば、他者の存在と人格を一種の「無機物」として固定したいという明白にタナトティック(thanatotic)な欲望である。他者の存在を「無機物」に還元することによって充足される欲望は、最早「愛情」というよりも、常軌を逸した「我執」の一種であると看做すべきかも知れない。本来、愛情とは他者の成長と幸福を願う感情であり、その死を希求するようなものではない。釈放した途端に自分の手から逃れて他の女の許へ去っていくのならば、その死を願ってでも引き留めておきたいと考えるパセティックな熱情は、その温度に限って言えば劇しい愛情に類似しているが、その本質において愛情とは全く対蹠的な認識に基づいている。それは結局、相手の死を願うことによって、永劫の喪失に帰着せざるを得ない。にも拘らず、悦子がそのような内なる欲望の教唆から遁走し難く思うのは、彼女の懐いているタナトティックな欲望が極めて観念的な性質を保持しているからである。

 あのときの私にとっては、もし良人がよみがえった場合、良人と私との間に想像される幸福のたよりなさは、目前の良人の生命のたよりなさと殆ど同質のものだった。だからまた、このたよりない幸福よりもむしろ今の一刻に幸福を見ようとしたとき、良人のたよりない生よりは確実な死にそれを見るほうが容易に思われた。ここに至って、良人の持ちこたえている刻々の生命に懸けた私の希みは、彼の死を希うことと同じだったのだ。(P68)

 これほど明確に、悦子のタナトティックな欲望が露わに語られていることを思えば、この「愛の渇き」において作者の選択した芸術的主題の正体に、彼是と思い悩む必要は乏しいように感じられる。「確実な死」に「幸福」を見出そうと努める悦子の異様な「熱情」は、殆ど「希死念慮」と同義である。

愛の渇き (新潮文庫)

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