サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

街衢十句

一  春の雪 生まれ変わりは どの赤児

二  夕暮れに 燃え立つ祈り 金閣寺

三  淡墨の 空染み渡る 蝉の庭

四  記録から 貴女の名前 除かれる

五  殷々と 弔鐘の打つ 港町

六  鎹の 積りで生まれ 父なし子

七  親不知 抜き差しならぬ 血の因果

八  空騒ぎ 繰り返しつつ 三十路過ぎ

九  頬杖を ついた男に 蹴飛ばされ

十  夏色の 口紅を刷き 立眩み

ロゴスの不協和音(小説における「調和」)

 小説は、単一の論理的な体系による支配に叛逆し、それを巧妙に突き崩す。それは、或る一つのイデオロギーに、別様のイデオロギーを対峙させるという、通常の論駁とは異質な方法意識に基づいている。

 或るロゴス(logos)と別のロゴスとの相剋、これは小説に限らず、私たちの暮らす実社会においても日常的に生起している凡庸な現象である。私たちは様々な理由と経緯に導かれて、実に多様な口論と係争を恥じることなく繰り広げている。それは結局のところ、何れが正しいのかという単一の規矩を求める仕方で行なわれている訳だが、それは世界を単一なロゴスによって説明し、定義し、支配しようとする潜在的な欲望の隠然たる反映である。つまり、その根底には「ロゴスは単一的である」という認識が、絶対的な基準として横たわり、暗黙の承認を受けているのだ。

 だが、小説とは正に、そのような「ロゴスの単一性」に抵抗する為に編み出された文学的技法であり、従って小説の内部に描き出される種々のロゴスは、如何なる綜合的な結論にも達することが出来ない。言い換えれば、綜合的な結論に到達し得る物語は決して「小説」とは呼称し得ないのである。明治期の文学者・坪内逍遥は「小説神髄」という著名な書物の中で、江戸戯作の世界を支配する勧善懲悪のイデオロギーを批判し、人情や世態風俗の写実的な描写の重要性を説いた(私は「小説神髄」を読んでいない。従って、この理解が正しいという確信は持っていない。間違っているようなら、御教示願いたい)が、それも恐らくは「勧善懲悪」というロゴスの単一性を排撃することで、明治期の日本に「小説の精神」を導入しようと企てたからではないだろうか。

 勧善懲悪というイデオロギー、或いはロゴスそのものが、小説の題材若しくは主題として否認されるべきだと、私は言いたいのではない。問題は、作品の世界全体が、勧善懲悪という単一のロゴスによって包摂され、隅々まで占有されてしまうことに存している。だからと言って、勧善懲悪を否定する別種のロゴスが全面的な勝利を得ればいいと考えるのも謬見である。頗る大雑把な表現を敢えて用いるならば、小説という芸術には断じて「結論」を持ち込んではならないのだ。明確な「結論」の附与は、小説の構造的な成功ではなく、寧ろその原理的な失敗であり、ロゴスに対する屈辱的な敗北に等しい。何故なら、結論の確定は或る単一的なロゴスの確定に他ならず、それは「小説」という文学的様式が孕んでいる本質的な方針に正面から背反する事態であるからだ。

 ヘーゲル弁証法(私はヘーゲル書物を一冊も読んだことがない)は、或る一つの命題(テーゼ)と、それに対立する性質を備えた命題(アンチテーゼ)が止揚されることで、両者を統合する高次の命題(ジンテーゼ)に昇華される、という論理的な手順を定式化している。この定式を踏まえるならば、小説とは正しく「止揚」(aufhebenに抵抗する技法であり、精神的原理である。如何なる結論に向かっても止揚されることの有り得ない現実の構造を描き出す為に、小説は多様なロゴス(ミハイル・バフチンの用語で言えば「ポリフォニー」)を受け容れ、それらを戦わせ、そして最終的な決着を拒絶し続ける。言い換えれば、小説はあらゆる種類の矛盾を、その世界の内部に保存し続けるのである。

 小説は一切の矛盾を止揚せず、最終的な解決も齎さず、そのまま事実の構造を克明に浮かび上がらせる。その意味で、坪内逍遥が勧善懲悪の理念を排撃し、人情や世態風俗の描写を重視したことには意義がある。無論、それは決して小説が写実的な描写に固執しなければならないという窮屈な規律を正当化するものではない。小説における「リアリズム」(realism)の目的は、事物や風俗の克明な模写を通じて、その対象を読者の眼裏に再現することに存するのではない。重要なのは、リアリズムが「ロゴスの単一性」という偏狭な欺瞞を打破する為の武器であることを、正しく認識することである。そうでなければ、小説は「映像」の有無を言わさぬ強烈な表現力に悄然と屈服する以外の途を選ぶことが出来なくなるだろう。

 小説が「結論」と「止揚」に抵抗する芸術である以上、その筋書きは常に唐突な「断絶」によって遮られるほかない。単一のロゴスには必ず明瞭な結論が存在しなければならないが、複数のロゴスが並立する小説の時空においては、明瞭な結論が樹立されることは有り得ない。そもそも、明瞭な結論を樹立することの不可能性を告示することが、小説という精神の本義なのである。ハーマン・メルヴィルの「白鯨」において、エイハブ船長率いる捕鯨船ピークオッド号は、モービィ・ディックとの熾烈な争いに破れて呆気なく難破し、唯一人、語り手に選ばれたイシュメールだけが生き残る。そこに明確で筋道の通ったロゴスの介在を見出せるだろうか? 寧ろメルヴィルは、そのような尤もらしい「ロゴス」としての物語を否定する為に、あの「白鯨」という法外な作品を生み出したのではないだろうか。「単一のロゴス」を否定しようとする「白鯨」の情熱は凄まじい。その逸脱と矛盾の絡まり合った不協和音は、小説という芸術に固有の壮麗なハーモニーなのである。

白鯨 上 (岩波文庫)

白鯨 上 (岩波文庫)

 
白鯨 中 (岩波文庫)

白鯨 中 (岩波文庫)

 
白鯨 下 (岩波文庫 赤 308-3)

白鯨 下 (岩波文庫 赤 308-3)

 

 

「意味」を求めない散文

 「小説」とは「意味」を求めない散文であるという妄説を思いついたので、書き留めておく。書き留めておくとは言っても、この妄説の全貌が既に予見されている訳ではない。漠然たる想念の束が、意識の内部を浮遊しているというだけの話である。

 小説とは基本的に「断片」の集積である。無論、この場合の「小説」という観念は狭義の代物である。世の中に流布している諸々の小説作品は、便宜的に「小説」とラベリングされているだけのものを数多く包摂している。私が本稿で捉えたいと思っている対象としての「小説」は言わば、理念としての「小説」である。考えるという作業は原則として、対象を理念化する作業から出発しなければ、建設的な有効性を確保することが出来ない。

 理念化された「小説」は、言い換えるならば「小説」が「小説」として構成され、承認される場合の純粋な条件を問い詰める為の、或る抽象的な仮説である。「小説」とは何か、という設問に対して、個々の具体的且つ多様な実作の群れを提示するだけでは、議論が深まることはないし、小説を定義することの不可能性という尤もらしい退屈な真実に直面するのが関の山だろう。それでは考察を実行する意義が生み出されない。

 小説の本質的な要件として、私が「断片性」という奇矯な言葉を挙げるのは、小説が或る単一の合理的な体系に還元されることのない「散文」である、という仮説を明快に説明する為である。「小説」が常に断片的なものの集積として構成されるのは、或る単一のロジックからの逸脱を果たす為である。何故なら、単一の首尾一貫した論理的体系を構成する為に綴られる散文は、わざわざ「小説」とは呼ばれないからだ。

 小説が小説である為の条件は、その題材が事実に基づいているかどうか、という観点には関わりを持たない。これは小説を「散文によるフィクション」と看做す、素朴で古典的な謬見に対する一つの警告である。事実であるかどうか、つまり小説の「虚構性」に小説の本質を還元するような理路は、様々な矛盾に衝突して直ちに砕け散ることを確約されている。自伝的な小説が「小説」として成り立ち、奇想天外な法螺話も同時に「小説」として成り立つことを鑑みれば、虚構性という一見すると尤もらしい基準が、如何に恣意的な捨象の上に組み立てられているか、直ぐに判明するだろう。

 だからこそ、私は小説に含まれている「意味」の内容が事実であるかどうか、という極めて実証主義的な確認の作業に価値を見出したくはないのである。作者が地上に生を享けた人間であり、予め他者によって築き上げられた母国語の揺籃を手懸りに、言語的な創造の履歴を開始することを原理的に運命づけられている以上、純然たる虚構などというものが成り立ち得ないことは、自明ではないだろうか。虚構とは、事実の観念的な組み合わせと混淆のことであり、如何なる奇怪な妄想も、必ず経験的な事実との間に何らかの臍帯を有しているものなのである。

 従って、小説の定義を「絵空事」と看做す凡庸な謬見には、明確な訣別を告知せねばならない。その代わりに私が持ち出したいと考えている御題目が「断片性」なのである。

 小説が小説として成立する為には、その文章の総体が「要約」に叛逆している必要がある。世上、頻々と言われる話ではあるが、小説の全体を一つの辻褄の合った論説に還元し得るのならば、わざわざ「小説」という記述の形式を選択する必要はない。論説として明確に書き表した方が、書く側にとっても読む側にとっても手間が省けて、簡便でいい。だが、そうすることが許されない事情や企図が存在するからこそ、人間は「小説」という迂遠な話法を発明したのである。

 単一の合理的な体系、これを便宜的に「ロゴス(logos)」と呼びたい。最初から最後まで首尾一貫した合理的な秩序として構成されたもの、これがロゴスである。このロゴスは、あらゆる散文にとって基礎的な標識であり、導きの糸である。このロゴスに抵抗する身振りとして現れるのが「小説」という文学的技法である。それは単一の滑らかな秩序に対する異議申し立てという役割を担っている。しかも、その異議申し立ては、或るロゴスに対して別様のロゴスを向き合わせるという、通常の「論駁」の手続きを取らない。ロゴスそのものに対する本質的な抵抗として、小説は「単一のロゴスの破綻」という原理を、自らの記述の次元に導入するのである。

 その結果として、小説は或る単一な「意味」の体系を絶えず断片化し、銘々の細部が互いに矛盾し合うような緊張関係を形作るように、自らの記述を組織する。それが小説という原理の本質的な特異性であり、定義の要件である。中上健次の長大な一冊を例に挙げよう。「地の果て 至上の時」は、一般的には「父殺し」を主題に据えた紀州サーガの絶巓を成す物語であるという風に説明されるものだが、実際に読んでみれば、この物語が(厳密には「小説」が)単純な「父殺し」の説話だと言い切れない、複雑で矛盾した細部の記述を夥しく含んでいることに否が応でも気付かざるを得ない。そもそも、余分な先入観を省いて虚心に読む人々の眼には、果たして秋幸が浜村龍造を「殺したい」と思って動いているようには映らないのではないか。浜村龍造の自殺という「意想外の顛末」に衝撃を受けるような読者も存在するようだが、そもそも浜村龍造の自殺の意外性を「父殺し」の不可能性という認識に短絡させることは、一面的なロゴスの作用に他ならない。

 寧ろ中上健次は、様々な「細部」の集積に呑み込まれながら、筆を走らせたのではないか。それは彼が「地の果て 至上の時」という巨大で奇怪な、矛盾した作品を執筆したという歴史的な事実によって証明されている。そこには、一見すると意図の不明瞭な挿話が数多く彫り込まれていて、それらの挿話を一繋がりの巨大な数珠のように解説し、論証することは不可能であり、同時に無益でもある。もっと明快な事例を挙げれば、夏目漱石の「吾輩は猫である」は如何だろうか。そこに織り込まれた無数の挿話、衒学的な雑談、申し訳程度の筋書き、そして麦酒を舐めて酔っ払い、水甕に落ちて死没する語り手の猫の独白など、それらの様々な「細部」を一つの明瞭な「ロゴス」に還元することが、一体誰に出来るだろうか? 然し、これらの作品の価値は専ら、そうした「矛盾する断片」の奇怪な屹立に、その水源を有しているのである。

 或る小説を、一繋がりの数珠に似たロゴスに還元してしまうということは、その小説を殺害することに等しい。私たち読者に求められているのは、そのようなロジカルな還元を差し控えて、矛盾する断片の協奏に、虚心に耳を傾けることなのである。或る作品を土台に選んで、自らの主観的なロゴスを繰り広げるだけならば、批評という営為は緊張を欠いた、不毛な堕落に過ぎない。そういう陥穽に囚われがちであることは、私自身の課題でもある。

地の果て 至上の時 (講談社文芸文庫)

地の果て 至上の時 (講談社文芸文庫)

 

 

吾輩は猫である (新潮文庫)

吾輩は猫である (新潮文庫)

 

 

暗夜十句

一  野良犬が 虹を眺めて 溝攫い

二  年の差の 数だけ鳩を 撃ち殺す

三  虫の声 眠る私の 膝枕

四  卒塔婆に 似て束ねられ 蛍光管

五  風の坂 駆け下りゆく 夏至の街

六  静けさの 内側に降る 火矢と雪

七  興醒めの 途中で気づく 雪月花

八  お前には 何も言わない 阿鼻叫喚

九  清潔な シャツの襟許 雀蜂

十  路地裏の 夜の帷の 温度計

短詩愚見

 最近、下手糞な俳句を捻り出して恥知らずにも投稿している関係で「短詩型文学」というジャンルに就いて、漠然と考えることがあった。

 頗る大雑把な前提であることは承知の上で書くが、散文と詩歌とを隔てる一つの重要な分水嶺は、恐らく「理窟を語るかどうか」であり、もっと言えば「意味を説明するものであるかどうか」という点に存するのではないかと個人的に思っている。

 散文の基本的な機能は(散文詩などを持ち出すと話が混線し始めるので、一旦捨象しておきたい)「意味」に就いて詳細に語ることである。物事の「意味」を一義的に確定することが、散文に課せられた重大な使命であることは、実際に種々の散文を徴してみれば直ぐに歴然とする経験的事実であろう。明確な「意味」に向かって結実しようとする散文の使命は、多義的な曖昧さを抹殺することに存する。

 一方の詩歌は、寧ろ多義的なイメージ、特定の「意味」に回収されない、拡散的且つ重層的なイメージの構築に、その目的を置いている。或る単一の論理的な体系によって隈無く照らし出され、その全貌を明らかにするようなイメージは、その時点で「詩想」を名乗る資格を喪失している。様々な断片的で複合的な要素を、単一の簡明な論理的秩序へ向かって整理し、引き絞っていく作業が散文の執筆であるならば、詩歌の目的はそれとは対蹠的に、単一の論理的な体系からの逸脱と解放を目指す営為であると、定義してみたい(無論、こうした詩歌の論理を散文的な枠組みの中で達成しようと試みることが、狭義の「小説」の目的であるという考え方を受け容れることも不可能ではないが、それは脇道へ逸れることになるので、差し当たり触れずに済ませる)。

 日本の伝統的な短詩型文学と言えば、誰しも即座に「短歌」と「俳句」を思い浮かべるだろう。両者の形式的な相違点は、その字数(音数)の違いに由来している。短歌は三十一文字、俳句は僅々十七文字で構成される、極めて簡潔な文学的様式である。その「短さ」は、散文的な論理から眺めれば何れも大差のない「短さ」であるように感じられるが、それは飽く迄も散文的な見解であり、詩歌の次元に立脚すれば、両者の僅かな字数(音数)の差異は、重大で決定的な意義を含んでいる。

 実際に手を動かし、頭の中身を掻き回して、短歌や俳句を作ってみれば、直ぐに得心の行く話ではないかと思う。随分と昔、もう十年くらい前に、私は一時期、熱心に短歌を作っていた。パソコンの画面に向かって、思いつくままに言葉を並べるだけの、拙劣な手遊びに過ぎなかったが、小説を書くのとは違って、幾らでも楽々と吟ずることが出来た。そのときは、俳句という形式では余りに字数が少なくて、巧く想いを盛り込めない気がして、短歌ばかりを吟じていたのだが、この肉体的な感想はそれなりの根拠を持って、当時の私の意識を捉えていたのだ。短歌という三十一文字の短詩型文学は、作り手の「想い」や「考え」を織り込むことが出来る様式である。だが、俳句という十七文字の短詩型文学には、そうした個人の「内面」が忍び入る余地はない。内面を物語る為には、俳句という器は余りにも小作りである。感情が濫れる前に、歌声が途絶えてしまうような短さなのだ。無論、この場合の「内面」とは「意味」そのものである。

 俳句という器に、内面とは限らずとも、明確な「意味」を盛り込もうとすると、途端に最悪の出来栄えとなる傾向がある。短歌ならば許容される抒情性も、俳句においては単なる厭らしい「穢れ」として読者の眼に映じるのだ。賢しらな「濁り」と言い換えてもいい。

 一読して明瞭な「意味」が刻印されているものは、分かり易いが詩歌としては落第であろう。それは一瞬に了解されてしまう明晰さによって、如何なる詩的な衝撃力とも疎遠な境涯に置かれてしまっているからだ。詩歌が芸術的な価値を持つのは、それが散文的な明晰さの正義に反して、束の間、見知らぬ「異界」を読者に垣間見させるからである。一つの明瞭な意味、多くの人々によって堂々と公認された意味、それを覆すところに詩歌の本懐がある。短歌が新たな「内面」の発見に伴う衝撃力を発揮する一方、俳句は「意味」の断絶の瞬間に読者の認識を誘い込み、従来の認識の構造を震撼させる。内面を構築しないこと、明瞭な意味に帰結しないこと、それが俳句の本懐ではないかというのが、私の極めて主観的な仮説である。

房総十句

一  真夏日の 船橋を往く 三輪車

二  亥鼻の 木蔭に犬が ひとやすみ

三  空き缶を 蹴飛ばした音 京成線

四  武蔵野線 途中で不意に 宙返り

五  嘶きが 空を断ち割り 皐月賞

六  海原に 漁火の咲く 鴨川港

七  隣人の 鞄を盗み 松戸駅

八  白々と 冴える金筒 千葉みなと

九  手賀沼の 畔で我ら 青姦中

十  江戸川を 隔てて二人 愛してる

夏色十句

一  ベランダに 蛍火が飛ぶ 死期を待つ

二  壊れたら 買い替えるだけ 夏の闇

三  簪が 落ちていました 路地裏に

四  三毛猫が 必死に駆ける 警報機

五  踏み切りの 風吹き渡る 通学路

六  紫陽花が 腐れていくよ 登校日

七  純白の 海岸線に 水死体

八  夏休み 午後の曳航 蝉時雨

九  花壇には 植えられないの クレヨンは

十  スカートを 買いに出掛けた きりでした