サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

歪んだ愛の精細な記録 ウラジーミル・ナボコフ「ロリータ」

 九月前半からずっと格闘し続けてきたナボコフの「ロリータ」(新潮文庫)を読了したので、覚書を認めておきたい。

 このペダンティックな文体で織り上げられた稠密な作品を、強いて要約しようと試みるならば、表題に掲げたように「歪んだ愛の精細な記録」ということになるだろう。或いは「両義的な愛情」と呼ぶべきだろうか。だが何れにせよ、そのような言い方で、ハンバートとロリータの関係を手っ取り早く定義してしまうのは、ナボコフの意図を致命的な仕方で裏切ることに帰結すると思う。「ロリータ」という作品に附随するスキャンダラスなイメージも、そのような簡便な要約に類する誤解の一種であると附言しておくべきだろう。

 この作品は発表当初、ポルノグラフィであるという誤解を受け、物議を醸したらしい。確かに、この作品から「ペドフィリア」という主題を抽出することは、如何なる読者によっても容易なことであるし、実際にロリータに対するハンバートの異様な情愛が、作品の中心的な原理として彫琢されていることは事実である。だが、この作品がポルノグラフィであるとするならば、余りにも非効率な構造になっていることに我々は留意すべきだろう。読者の動物的で倒錯的な劣情を喚起し、煽動することが「ロリータ」の主眼であるならば、夥しい隠喩と引用に満ちたペダンティックな文体を殊更に貫徹する理由は生じない。そもそも、ナボコフは「ロリータ」の執筆に際して、露骨な性的描写を殆ど用いていない。彼の文体は常に事態の中心から逸脱するような遠心力に支配されており、直截な描写の代わりに盛り込まれる複雑な暗示は、私たちの精神に対して、素朴な性的興奮を覚える余裕すら与えないほどなのだ。

 英語のみならず、随所にフランス語の表現や、種々の文学的引用が象嵌されている、ナボコフの過度に饒舌な文体は、作者が自ら附した後書きの中で触れているように(同じく巻末の解説で、作家の大江健三郎も触れている)、彼が「英語という言語との情事の記録」を志したことの反映である。ロシア語の揺籃に育まれたナボコフにとって、英語は後天的に習い覚えた異国の言葉に他ならない。その異質な言語との凄まじい格闘=遊戯が、あの独特な文体を産み出す最大の要因となったのであり、ペドフィリアという主題は飽く迄も、その導火線に過ぎない。いや、ペドフィリアという概念そのものが、彼にとっては極めて曖昧で浮薄な代物に過ぎないのである。彼は徹頭徹尾、ハンバートとロリータの関係を書いただけであり、その倒錯的な情愛の形態が、どのような社会的通念によって切り取られるかという問題は、少なくとも作者にとっては、大して重要な論点ではなかっただろうと考えられる。

 この作品の複雑怪奇な両義性は、優れた小説が有している普遍的な特徴と重なり合っている。私たちは、ロリータに対するハンバートの倒錯的な情愛を批判し、蔑視する一方で、その情愛の真摯な側面にも眼を向けるように、作品そのものから迫られている。何れの解釈が適切であるかという議論は、この小説の根源的な両義性の前では、不毛な戯言に過ぎない。「ロリータ」を読むことは、ペドフィリアの甘美な醜悪さを味わうことでもないし、ハンバートの没落を邪悪な歓びを伴って鑑賞することでもない。ロリータの不幸を憐れむことでも、クィルティの血腥い死に様を嘲笑することでもない。重要なのは、ナボコフの綴った文章そのものの目紛しい構造と現象に眼を奪われることなのだ。私にペドフィリアの趣味はないが、少なくとも「ロリータ」を読んでいる間は、ハンバートの歓喜と苦悩を分かち合うことが出来るし、ロリータの絶望的な幸福を理解することも出来る。それらが渾然一体となって、ナボコフの刻みつけた単語の一つ一つに、琥珀のように閉じ込められているのだ。私たちは、その驚嘆すべき魔術をじっくりと咀嚼し、賞味するしかない。無論、それは得難い幸福である。

 詳細な訳注が付されているにも拘らず、それでも未だ私には、理解出来ていない箇所が無数にあり、是非とも再読しなければならないと思う。だが、それはもっと先の話になるだろう。何故なら、再読には読者としての成長が要求されるものだからだ。

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

 

 

Cahier(期日前投票・パネルクイズ予選会)

*荒天の中、朝から期日前投票に出掛けた。花見川区役所まで、シーサイドバスに揺られていく。同乗者は誰もいない。鬱陶しい長雨が、羽織ったチャコールグレイのコートに少しずつ染み込んでいく。悪天候の休日にわざわざ、バスに揺られて区役所へ向かう物好きなど、そんなに多くはないだろう。

 ところが、バスが区役所に近付くに連れて、事態は異様な変貌を遂げ始めた。普段なら閑散としている区役所沿いの道路が、車列で埋まっている。目的地まであと少しなのに、バスは牛歩戦術を余儀無くされた。ドライバーは苛立っているだろうか。

 週末の区役所は、類を見ない混雑に覆われていた。エントランスの付近には、出口調査を任された報道関係者が屯して、作り笑いを浮かべて有権者たちに挨拶を送っている。二階の投票所から発した列は、既に階段の踊り場まで延びていた。しかも、それは投票を待つ列ではない。投票に先立って行なう宣誓書記入の列なのだ。宣誓書を書いたら、もう一度別の列に並び直さなければならない。聞き耳を立てると、現在30分待ちだという。今回の衆院選はやはり、世間の関心を集めているようだ。

 だが、混雑の理由は投票者の数だけではない。投票を取り仕切る役所側の段取りの悪さが最たる原因であった。狭苦しい階段に、投票待ちと宣誓書待ちの列を両方とも並ばせて、その隙間を投票を済ませた人々が、身を捩りながら降りていく。一体、車椅子の人はどうやって投票すればいいのだろう? 老齢の人々にも、こんな不自由な待機を命じる積りだろうか?

 恐らく、想定を上回る投票者の来館に、全く段取りが追い付いていないのだ。投票所の前の狭い廊下に、折り畳みの長机を壁沿いに並べて、宣誓書の記載台にしているのだが、その配置が全く以て最悪だ。唯でさえ狭い廊下に、投票待ちの行列と、選挙管理のスタッフと、宣誓書の記載台が詰め込まれて、往来も儘ならない。

 この状況を鑑みて、例えば宣誓書の記載台を一階のフロアに移設しようとする気配は微塵もない。ただ謝り倒して、冷汗を掻いているだけだ。このスタッフたちを統率する人間は何処にもいないのだろうか? 方針の変更を号令する気概のある人間は誰もいないのか? 待ち時間の長さと段取りの悪さに苛立ち、捨科白を吐いて帰っていく人も少なからず見受けられた。待たされるなら投票しないという態度も随分と幼稚だが(役所の劣悪なオペレーションと、投票の重要性との間には、何の相関性もないのだから)、苛立つ気持ちは理解出来る。こういう事態が、役所に対する不信と軽蔑を醸成する要因となることは疑いを容れない。

 ところで、今回の衆院選と併せて、最高裁の裁判官の国民審査が行われることは、皆さん御存知だろうか。案内の葉書に、その旨が記載されていることは気付いていたが、事前に予備知識を頭に入れておく手間は省いてしまった。投票所で、罷免したい裁判官の名前の上に罰印を記入しろという注意書きを前に、私は暫し途方に呉れた。記された名前に一つも心当たりがない。こんな状態では、罰印など書ける訳がない。薄っぺらな出来心で、他人の人生に難癖をつける訳にはいかないからだ。己の怠慢を棚上げして言うのだが、政党や政局の話だけではなく、最高裁の国民審査に就いても、もっとマスコミは報道して、情報を周知すべきではないだろうか。無論、最大の難点は、私自身の怠慢に存することは言うまでもないのだが。

 

*午後から、朝日放送の視聴者参加型パネルクイズの予選会に参加した。以前、一念発起してネットで予選会に応募し、音沙汰がないので落選したのだと思い込み、そのまま忘れていたところ、つい先日、案に相違して予選会に当選した旨の葉書が届いたのである。慌てて仕事の段取りを調整し、上司の許可も得て、臨時休業を勝ち取り、午前中に遽しく期日前投票を済ませた次第である。

 会場は朝日放送の東京支社、調べてみると、最寄りの駅は大江戸線築地市場駅、人生で一度も立ち寄ったことのない土地である。地図を眺めてみると、新橋や汐留の直ぐ傍である。私は二十一歳から二十二歳の時期に、新橋の店舗に配属されていたので、漠然たる親しみと懐かしさを覚えた。西船橋から東西線に乗り、門前仲町大江戸線に移る。降り立つと、眼前に朝日新聞社のビルが聳え立っていた(幼少期、実家の両親はずっと朝日新聞を取っていた)。鬱陶しい雨は、少しも止む気配がない。

 予選会の開始時刻まで、未だ一時間を余していた。本館の建物を潜り抜け、小さな喫茶店に入る。パンケーキとアイスコーヒーを注文し、莨を吹かして、静かに気持ちを整える。二十分前に会場のある新館へ入ると、一階の廊下に多数の眼鏡男子(男子と言えるほど、若くはないが)が屯しているところに遭遇した。同じく眼鏡の私も、その集団へ素早く溶け込む。数十人規模の眼鏡の男性が、無言で壁面に沿って並び、一様にスマホの画面を睨みつけているのは、なかなか異様な光景であった。

 定刻になり、係員の案内に導かれ、私たちは列を成してシールタイプの簡易な入館証を受け取り、エレベーターで十階へ運ばれた。殺風景な会議室に通され、やはり無言で席に着く。女性のアシスタントプロデューサーが、控えめな関西訛りで予選会の流れを説明する。最初に自己紹介のシートを三十分かけて各自記入し、その後に八分間全三十問の筆記試験を受けた。ネットに上がっている過去問で修業を積んだ積りではあったが、分かりそうで分からない絶妙な問題が並んでいて、確信を以て答えられた問いは一部に過ぎなかった。それでも空欄は残さなかったので、案外いけるんじゃないかと甘い期待を懐いていたが、十五分間の採点の後、そのぼんやりした自信は見事に殲滅された。合格者は面接の為に別室へ呼ばれ、落第した私たちは即座に解散となった。桜よりも儚く散ったのである。カゲロウよりも短い命だったのである。

 帰り道、築地市場駅の改札を通るとき、ゴムの長靴を履いた短髪の男性を見かけた。風貌から察するに、築地市場にお勤めの方ではないだろうか。私もまた、荒天に備えてコロンビアの長靴を履き、坊主頭である。まるで市場関係者ではないか。

Cahier(反復・学習・詩歌・単一性)

*子供は同じ遊びを執拗に繰り返すことを好む。一度気に入れば、無際限に同じ行為を反復して、嬉しそうに笑い声を立てるのが、小さな子供の普遍的な習性である。そうした行為に付き合わされる大人は、時にうんざりして溜息を吐きたくなるだろうが、子供にとって「反復」は「認識」を生み出す為の大切なプロセスである。

 たった一度の「出来事」が「認識」を形作ることは難しい。「奇蹟」は「認識」を齎すのではなく、寧ろ「認識」の不可能性を告示する現象である。たった一度しか味わうことの出来ない「経験」を「認識」に昇華させることは難しい。だが、繰り返される「経験」は「認識」として組み立てることが可能である。何故なら「認識」は常に「経験」の関係化として営まれるものであるからだ。

 或る感覚的な経験の断片が、反復を通じて記憶の領域に蓄積されていく。反復されることによって、或る経験が他の経験との間に「関係」を持っていることが確認される。その果てしない累積が、人間の思考を形作っていく。子供が同じ遊びを幾度も反復するのは、単にその遊びを気に入ったということだけが理由ではない。それは人間の「知性」に備わった固有の衝動なのである。その衝動が、経験の「反復」を要求するのである。

 

柄谷行人の「坂口安吾論」(インスクリプト)が届いたので、寝る前に少しずつページを繰っている。未だナボコフの「ロリータ」を読み終えていないのに、浮気しているのだ。先日は新たにミハイル・バフチンの著作をAmazonで注文してしまった。無論、現在の正妻は飽く迄もナボコフであって、バフチンではない。

 小説を、様々な性質の「言語的表現」が交錯する「往来」若しくは「広場」として定義すること、柄谷行人の言い方を借りれば「交通」の現場として捉えること、そして、そのような小説的原理に対置されるべきものとして「詩歌」を捉えること。これが先日来、私の脳裡を満腹の鮫のように緩慢な速度で泳ぎ回っている「主題」である。以前にも、このブログで記事に纏めたことのある、普遍的なテーマだ。

 単一的なロゴスの支配を許さないことが「小説」の条件であるという考え方は、少なくとも「小説」の定義を「言語化された虚構」に求めるよりは遙かに建設的な方針であると思う。翻せば「詩歌」を構成する原理は、統一されたロゴスの美しさに基づいていると言えるだろう。小説においては、複数の異質な他者の声が交響曲のように入り混じり、調和したり不協和音を奏でたりすることで、その芸術的価値が構築されていく。だが、詩歌は原則として特定の個人の純然たる「自己」から紡ぎ出されるものである。小説においては、ロゴスの単一性は承認されないが、詩歌においては寧ろ、ロゴスの単一性こそが、その芸術的価値の純度の高さを証明する重要な基準として適用されるのである。

 バフチンの著作を購入したのは、有名なキータームである「ポリフォニー」と「カーニバル」を駆使して、小説の本質に就いて縦横無尽に論じていると小耳に挟んだからである。バフチンの名前自体は随分昔から耳に残っていたが、実地に繙読した経験はない。何れにせよ、ドストエフスキーの小説を殆ど読んでいない私が、いきなりバフチンの著作に着手しても、その魅力は半減してしまうだろうと思われる。暫く二階の物置で熟成されることになるだろう。無駄な買い物だと難じられるかも知れないが、繙読の機が熟したときに、直ちに手を伸ばせる場所に該当する書物を確保しておくのが、案外大事な心掛けなのである。

ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)

ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)

 
小説の言葉 (平凡社ライブラリー (153))

小説の言葉 (平凡社ライブラリー (153))

 

 

Cahier(引き続き「ロリータ」・読書における一方的な信頼)

*先月からずっと、ウラジーミル・ナボコフの「ロリータ」を読み続けている。新潮文庫で漸く400ページの背中が見え始めた。ビアズレーという大学町での暮らしを引き払って、再び二人の壮大な逃避行が始まったところ、いよいよ本格的に不穏な臭気が漂い始めている。

 それにしても、ナボコフの紡ぎ出す文章の驚嘆すべき技巧性と、少女愛を巡る偏執的な描写の克明さには、脱帽する他ない。そして読み進めていくほどに、この「ロリータ」という小説が、通俗的なイメージとしての「変態小説」とは全く異質な文学的企図に支配されていることに、否が応でも気付かされていく。少女愛を巡る情欲に塗れたファンタジーの文学化という不毛な偏見は、成る可く捨て去ってしまった方がいい。手記の作者として設定されたハンバートの脳味噌は、性的な幻想に覆い尽くされているが、ナボコフ自身は如何なる幻想も許容しない、苛烈なリアリズムの精神を堅持しているように見える。本文と詳細な訳注との間を頻繁に往来する所為もあって、通読には猶更時間が掛かっている。自分に外国語を理解する能力があればいいのにと思いつつ、他方では、外国語を勉強している時間があるのなら、翻訳でも構わないからどんどん色々な作品に手を広げた方がいい、という風にも考える。恐らく今後も、怠惰な私は決して外国語の本格的な勉強には乗り出さないだろう。

 中学生だったか高校生だったか、洋書を読むことに憧れて、セメントで出来たブロックのように重たい英文法の教本を、高い金を払って買ったことがある。結局、殆ど読まずに筐底へ眠らせてしまった。母国語に限っても、その鬱蒼たる樹海の深奥まで辿り着くのに、今生だけでは足りない見込みであるというのに、外国語にまで手を伸ばす余裕などあるものか。無論、これは単なる自己弁護に過ぎない。例えばナボコフは、現代文学の古典の一つに数えられる「ロリータ」を、母国語である揺籃の如きロシア語ではなく、後天的に習得した英語で書いたのである。真の才能というものは、凡人の尺度では到底測り難い代物なのだ。

 

*「ロリータ」の泥濘に嵌まり込んで足掻いている立場でありながら、次は何の本を読もうかという考えが定期的に、私の脳裏を掠めては消えていく。先日、柄谷行人の新著が刊行されることを偶然に知り、即座にAmazonで注文してしまった。インスクリプトという出版社から間もなく発売される予定の「坂口安吾論」である。十代の頃から、柄谷行人坂口安吾も愛読してきた私にとっては、まさしく最高の組み合わせである。

 総ての作品を網羅するほどの敬虔な愛読者ではないが、柄谷行人坂口安吾は、常に特権的な地位を占める作家として、我が蒼穹に君臨し続けてきた偉大な存在である。柄谷行人の「意識と自然」も、坂口安吾の「堕落論」も、私にとっては特別な文章であり、それは現在の私という人間の精神的秩序の形成に少なからず影響を及ぼしている。そういう作家を有することは、紛れもない人生の歓びの一つである。

 私は彼らに、極めて個人的で一方的な「信頼」の感情を寄せている。彼らの書き物、彼らの訴え、彼らの告発と見解、彼らの信条には、無条件に同意を示しても構わないという偏倚した認識を持っているのだ。それは実際に、生身の人間としての彼らと接したときに、私が如何なる感想を覚えるかという問題とは、異質な次元に属する事柄である。今まで幾度、彼らの文章に刺激を受け、精神を鼓舞され、明るい展望のようなものの手懸りを与えられてきただろう。成程、確かに彼らの著作は、私の卑近な実生活そのものには、如何なる建設的な役割を果たすこともなかった。仕事や家庭の問題を、彼らの著作の繙読によって乗り超えたことはない。何故なら、俗塵に塗れた諸問題は悉く自分の手を動かすことでしか解決しないのが、世間の相場というものであるからだ。

 だが、書物は行動を変えずとも、精神を変えることが出来る。それは実用的なマニュアルとは異質な次元で、人間の実存に決定的な影響を及ぼすのである。その根源的な変容が結果として、実生活における様々な具体的判断の礎のような役割を担うことは、充分に起こり得る。この世界を如何にして捉えるかという問題は、最終的には「この岐路を右折すべきか左折すべきか」という些末な問題に関する判断さえも動かすようになるだろう。その意味で、必ずしも実用的であるとは言い難い彼らの著作は、根源的な次元においては頗る実用的であり、その効果も圧倒的なのである。

 

*特定の作家を全面的に信頼するということは、容易な所業ではない。だが、そういう作家の候補を増やすことは、長い目で見れば人生の資産を培うことに通じる。前述した二人の作家に加えて、私は三島由紀夫にも特別な関心を持ってきた。その関心の主要な対象は、三島の批評家的側面である。

 彼の書き遺した批評的文章の明晰さは、驚嘆すべき水準に達している。しかも、その明晰さは学者的な堅苦しさとは無縁であり、艶やかな官能的色彩を加えた法律家の文章といった感じで、硬質な論理性が柔軟な文学的装飾に包まれて、絶えず皮肉な機智が銀鱗の如く飛び跳ねている。「小説家の休暇」(新潮文庫)のような、フランスのモラリストを思わせる、人生や芸術に関する断片的な省察の鋭さと余韻は、天下一品である。

 「ロリータ」を読了したら、三島の作品を集中的に読んでみるのも面白いかも知れないと、先日思い立ったところである。気紛れな性分なので、実際に着手するかは未だ疑わしいが、差し当たり「仮面の告白」から始めようという腹積りは仕上がっている。

 俄かに三島への関心が高まってきたのは、Youtubeで久々に新海誠監督の「君の名は。」の予告編映像を眺めたことが契機である。私は以前、このブログで「君の名は。」の感想を記事に纏めたことがあるのだが、そのときに考えたのは「恋愛の本質」という問題であった。私見では、恋愛という精神的様式は常に「不可能なものの希求」という性質を孕んでいる。それは二人の男女が「隔てられる」ことによって生じる欲望の形式であり、従って両者の関係が公的に成就した瞬間に「恋愛」という感情は終焉を迎える。その辺りの消息を、極めて人為的な設定の下に純化して抽出し、精細なアニメーション映像として定着させたのが「君の名は。」の魅力の核心ではないか、というのが、その記事の概略である。そこから不意に三島由紀夫の遺作「豊饒の海」を思い出したのだ。遠い昔、中学生の頃に、私はずっと憧れながらも手を出しかねていた「豊饒の海」の第一巻「春の雪」を購入して読み出した。三島の畢生の大作であり、それを書き終えて直ぐに自衛隊の市ヶ谷駐屯地で割腹自殺を遂げたという血腥い挿話に彩られた、半ば「事件」のような長篇小説である。しかし、私は事前に懐いていた漠然たる憧憬を満たしてくれるものを、田舎臭い中学生には聊か難解に感じられる三島の端正な措辞の中に発見することが出来ないまま、志半ばで通読を抛棄してしまった。そういう十数年前の惰弱な自分の遺志を引き継いでみたいという考えも、此度の目論見には幾らか関係していると言って差し支えない。

 だが、先ずは「ロリータ」を読了することが肝心だ。遅くとも今月中には、感想文を投稿出来る段階まで辿り着きたいと思う。

坂口安吾論

坂口安吾論

 
小説家の休暇 (新潮文庫)

小説家の休暇 (新潮文庫)

 
仮面の告白 (新潮文庫)

仮面の告白 (新潮文庫)

 
春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)

春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)

 

 

Cahier(「正解主義」・誤答・恐怖・奴隷)

*自分の外部に絶対的な「正解」が予め存在していると信じ込む態度を指して、私は「正解主義」という用語を提案したいと思う。

 正解主義者は、自分の内部に絶対的な規範や、譲れない信念というものを持たない。或いは、持っていても信じ切ることが出来ない。その為に、物事の価値を判断する尺度が「他人」の所有物となっている。言い換えれば、正解主義者は常に外在的な価値観に従属することを、自らに対して命じているのである。

 正解は外部にあり、自分自身の内側にある「答えらしきもの」は不完全な結論の過ぎないという否定的見解、これが正解主義者の精神を構成する主要な成分であり、思い込みである。一方、そうした自虐的認識の齎す反動的な効果として、外在的な規範に対して過度の執着を示し、無批判な盲信を抱懐してしまうのも、同じく正解主義者の顕著な特性である。このアンバランスな「認知の歪み」が如何なる個人史的経緯を踏まえて形成されるのかという問題に就いては、一般論を唱えても無益である。

 正解主義者の精神は「子供」の精神である。言い換えれば「学童」の精神である。親や教師が持っている「正解」の正当性を疑わず、素直にそれを受け容れ、自己の内的な規範の一部として消化してしまうのが、正解主義の特質である。そのこと自体は、少しも否定的な意味合いを有していない。何も知らない子供が、人間的成長の階梯を登っていく途上では、そうした「正解主義」の順応性と柔軟性は、重要な教育的効果を備えている。先賢の叡智に耳を傾けることの出来ない人間が、飛躍的な成長を実現することは出来ない。

 だが、飽く迄もそれが学童期に固有の精神的態度であることに留意すべきである。私たちの肉体的な加齢は自動的に、物理的な現象として営まれていくが、私たちの精神的な加齢は必ずしも自動的に進んでいくとは限らない。日本語には「馬齢を重ねる」という表現があるが、実際に同じ年齢の人間が同じ精神的境涯に達していると信じ込む為の根拠は存在しない。物理的な年輪が、自動的に精神の成熟を醸成する訳ではない。幾ら齢を重ねても、脆弱な幼児性を引き摺っている人間は、この世界に少なからず実在している。翻って、一般的に「青二才」と呼ばれる年齢の人間であっても、生半可な壮年では太刀打ちし難い強靭な精神性を宿していることは充分に有り得る。両者の境目は複数挙げられるだろうが、私は先ず「正解主義からの脱却」という言葉を、重要な命題として掲げておきたい。

 自分の内部に絶対的な規範を持ち得ないということは、少しも恥ずべき状態ではない。問題は、自分の内的な規範に対する不信と、外在的な規範に対する異様な敬意が、ぴったりと接合されている点に存する。自分の内的な規範が不完全であるならば、他人の内的な規範も同じく不完全なものであろうと推論するのが、成熟した「大人」の採用する基本的な原理である。しかし「正解主義」に憑依された「学童」は、そうした水平的構図を巧く受け容れることが出来ない。そこに根深く蔓延っている感情は「恐怖」である。何に対する「恐怖」なのか? 無論、それは「誤答を選ぶ」ことに対する「恐怖」である。

 正解主義者は失敗することを重大な過ちとして定義している。この定義が、近代的な公教育の枠組みの中で築き上げられた、極めて堅牢な桎梏であることは論を俟たない。正解主義者は「誤答」を重大な蹉跌として認識するように馴致されており、その手枷足枷は極めて強靭な制度として作用している。この桎梏を解除しない限り、正解主義からの脱却は決して進捗しない。

 彼らを支配している強迫観念は「失敗は許されない」というものである。そこには殆ど道徳的な感情が根深く関与している。恐らく正解主義者は、失敗することで厳しく叱責されたり、或いは「正答し続けること」によって厖大な社会的利益を獲得したりした経験を持っており、尚且つその経験が過剰に内面化されてしまっているのである。

 人間的成長の過程は必ず、外在的な「正解」に対する疑念を懐くように、当人に向かって要求するものである。知的にも感情的にも一定の発達を遂げた人間が、世間に蔓延する様々な「尤もらしい見解」に違和感を覚えるのは、自然な経験である。だが、極めて抑圧的な環境に縛り付けられていたり、或いは極めて順応的に振舞うことによって延命を成し遂げ、優良な社会的評価を確保したりしてきた人々にとっては、そのような批判的見解を有したり表明したりすることは、極めて困難な選択肢として映じるだろう。

 だが、それを口実として堅持し続けることが、正解主義者の幸福を一層深めることに繋がるだろうか? 常に「正解」だけを見抜き続けることを強いられた人間が、「誤答」という地雷を踏みかねない重大な「危険」を自ら冒す筈もない。彼らは「奴隷」であることに価値を見出している。誤答によって懲戒された人間が、絶えず他人の顔色を窺い、誰にも後ろ指をさされないように心掛け、懲罰を受けないように汲々とし続ける姿は、余りに憐れである。それは「無能な奴隷」の姿だが、だからと言って「正解」だけを選び続ける人間を称揚しても始まらない。彼らは単に「優秀な奴隷」であるに過ぎない。何れも外在的な正解を、内的な規範に優先させるという点で「敬虔な奴隷」であることには変わりがないからだ。

 正解主義者は先ず、何らかの「正解」が存在するという信仰から、自分自身を解放しなければならない。少なくとも、自分自身が絶対的に正しい存在として生きなければならないという不可解で傲岸な盲信を棄却せねばならない。正解主義者が如何に臆病な人間であったとしても、そこには正解主義者に固有の暴力性が必ず横たわっている。「誤答を選ばない」ということを常に優先する人間は、常に自分自身の正しさを点検することで精神的な安定性を確保しようと努める。そうした態度が既に「暴力的なもの」であることに誠実な眼差しを注がねばならない。

 正解だけを選択しようとする態度は、誤答を許容しないという点において暴力的であり、無慈悲である。重要なことは、誤答を経由することで正解の精度を高めるという一連の過程に存している。私たちは誰も絶対的で最終的な「正解」など有していない。何故なら、現世の真理は常に流動的なものであるからだ。未来永劫、常に革められることのない「真理」が存在するという考え方は、極めて重大な危険を含んでいる。それは古今東西、絶えず繰り返されてきた深刻な宗教対立の事例を徴するだけで直ちに理解し得る素朴な事実である。唯一神に対する信仰は、絶対的な「正解」に対する信仰と、構造的に同型である。言い換えれば「真理は常に自己に先行している」という命題が、そうした信仰を根源的に支える筐底なのだ。

 だが「真理は常に自己に先行している」という発想は、過度に敗北主義的な精神性に依拠している。本来、真理とは人間の手によって作り出されるものであり、それが人間の手で作られたものであるという事実が忘却されたときに限って、正解主義者を抑圧する危険なイデオロギーに転化する。

 正解主義者が先ず知るべきは、真理が形成される歴史的過程を学ぶことである。その真理が真理として定義されるに至った経緯を把握することは、真理の有する根源的な相対性を端的な事実として理解することに等しい。それは結果的に、或る事実に附与された真理性が、賞味期限のようなものに過ぎないことを、正解主義者の頭脳に刷り込むだろう。だが、正解主義者は往々にして「答え」にしか関心を懐かない。彼らは「答え」に到達するまでの過程を愉しむという成熟した趣味を持たない。考えることに対して怠慢な人間ほど、速やかに「正解」だけを欲しがるというのは、随分と厚かましい話ではないだろうか。何らかの疾患の影響でもない限り、自分の頭で考えようとしないのならば、自分が生きている意味はない。本稿の結論は、この一文に尽きている。

Cahier(方法・価値観・守破離・相転移)

*或る組織に属して労働に明け暮れる。年数が経ち、春が来る度に真新しい心身を携えた後輩が現れる。その繰り返しで、組織の新陳代謝のリズムは保たれ、旧弊な慣習にも徐々に罅割れが生じていく。

 或いは、子供が生まれる。夫婦だけの静かな生活に、喜ばしい波紋が生じる。右も左も分からぬ赤児が、日毎に大きくなり、出来ることが増えていく。

 何れの場合にも「教育」という問題は重要な意義を帯びている。何も知らない人間の真っ新な心に、様々な知識や手法が少しずつ刻み込まれていく。

 そのときに勘違いすべきでないのは、教育の本義とは「技術」や「方法」を伝えることに存するのではない、という点だ。本来、教育とは「価値観」の伝授でなければならない。価値観の伝授に比べれば、方法や技術の教育は枝葉末節の問題に過ぎない。

 こういう言い方に反発が寄せられる可能性は理解している積りである。不毛な精神論を唱えるだけで、何事かの教育を成し得たと誤解する愚昧な指導者の存在と権威に、辟易しておられる方も、世上には少なくないだろう。確かに、抽象的な観念を振り回すだけで、具体的な技術に就いて、初心者にも理解出来るように咬み砕いて説明する辛抱強さは、教育者の資質としては重要なものである。だが、具体的な技術の指導に終始して、その技術を支える理念や価値観に就いて何も語らないというのは、教育の在り方としては偏頗なものである。

 私は別に「方法」と「価値観」の何れを教えるべきかという二元論的な構図を描いてみせようと考えているのではない。抽象的な理念だけに偏しても、具体的な技術ばかりに特化しても、片手落ちであることに変わりはない。誰にとっても、これら二つの要素は一つの車の両輪である。

 ただ、何かを教え込んで、可能な限り早く実践の役に立てようと急く余り、肝心の理念や価値観を省いて、具体的な手続きだけを機械的に暗記させるのは本末転倒である。技術の習得そのものは、理窟で覚えるより、肉体的に浸透させた方がいいに決まっている。肉体に浸透した技術でなければ、それは実践の現場で活きないからである。だが、そうした肉体主義を過度に信奉することは、思考の硬直を招き、延いては成長の停滞に帰結することになる。物事には必ず背景があり、その背景を理解しないまま、結果だけを丸暗記しても、それは人間の教育の方法としては余りにもインスタントである。

 肉体的に覚え込んだ技術は確かに廃れない。そして、迂遠な理窟を介さずに運用される技術が、所謂「現場」の円滑な運営に欠かせないものであることに就いては、私も同意する。しかし、そうやって一つの肉体的な形式にまで高められた技術が、技術そのものの「更新」或いは「革新」を妨げる弊害となり得る懸念に就いても、関心を向けるべきであろうと私は考える。

 技術の肉体的な習得は、一つの形式的な枠組みの中に、自らの存在を押し込んで馴致する作業である。この「馴致」という作業は予め「正解」が存在することを前提に据えている。予め「正解」が定められていない状況で、或る技術を習得することは不可能である。若しも事前に「正解」の存在しない技術を習得することが可能であるとするならば、それは最早「習得」ではなく「発明」であり「創意」である。この差異は、ささやかなものに見えるかも知れない。しかし、この差異が決定的な意味を持っていることに注意を払うべきだ。

 技術の習得は常に「既存の枠組み」を受け容れることであり、その意味では、習得の主体は、常に既存の体制に対して受動的な立場を取ることを強いられる。そのこと自体の是非を断じても仕方ない。全くの門外漢が、或る領域や分野で一定の水準に達する為には、先賢の叡智を拝借し、その功績に便乗するのが最も合理的であるからだ。しかし、教育と成長には必ず「ステージの変更」が存在する。初心者も達人も、同じ枠組みや方法論で物事に処するという訳にはいかない。

 日本語には「守破離」という言葉があり、個人の成長の道程を表現するものとして広く人口に膾炙している。但し、これは滑らかな成長曲線を表現するものではない。寧ろ熱力学における「相転移」のようなものだと捉えた方が適切である。或る境目を越えた途端に「液相・固相・気相」の転移が生じるように、「守破離」のプロセスには非連続性が備わっている。

 事前に用意された「正解」に辿り着く為の適切な手順を理解することは、初学者にとっては重要な心得であり、技術的な目的である。だが、その段階に留まり続ける限り、初学者は「相転移」を喚起することが出来ないまま、何時までも「新人」の立場に拘束されることになるだろう。

 そのような閉塞を突破する為には、従来の技法の盲目的な踏襲を切り上げる以外に途はない。別の言い方をすれば、それは外部に「正解」を探すという受動的な立場を棄却するということである。事前に「正解」が用意されている筈だという子供らしい信仰は、既存の枠組みに対する批判的な意識を麻痺させるばかりか、そもそも「既存の枠組み」というような客観的な感覚さえも滅ぼしてしまうのである。誰かに投げ与えられた「正解」や、それに類する指標を鵜呑みにすることが、人間的な成長に繋がるという素朴な盲信に死ぬまで囚われている訳にはいかない。何処かで意識を切り替える為の「転移点」を確保すべきなのだ。

 その為には、既存の枠組みを包括的に捉えるような視野を手に入れる必要がある。如何なる種類の「正解」も、誰かの手で作り上げられた相対的な真実に過ぎず、歴史的な形成物に過ぎないという単純明快な「真理」を理解することから始めなければならない。その技術の背景を知ることは、それが形成される歴史的な過程を学ぶことに他ならず、そうした手続きを経由しなければ、私たちは「既存の枠組み」に対する絶対的な信頼を免かれることが出来ない。盲信を捨てない限り、私たちは批判どころか、真の意味で「信頼する」ことすら出来なくなってしまうのだ。

Cahier(三毒・懲罰への欲望・感情の制御・排除の論理)

*今日、と言っても日付が改まったので昨日の話ということになる。職場で少し腹立たしいトラブルがあり、久々に厳しい口調で通達を発した。些細なミスの積み重ねが生み出した状況に過ぎないことは確かである。私の指導と監督が不充分であったことも認める。ただ、一人一人の意識の低さが連鎖して持ち上がった問題であったことに、無性に苛立たしい気分を掻き立てられてしまった。

 怒りという感情は余り肯定的な取り扱いを受けない代物である。仏教では「三毒」と呼んで「貪(強欲)・瞋(忿怒)・癡(愚昧)」の三つの悪徳を戒めているし、昨今では「アンガー・マネジメント(Anger management)」という心理療法プログラムが社会的な注目を集めている。怒りを制御することは、人間の成長において最も重要な心得の一つである。その意味では、腹立たしい想いに囚われるというのは、私の不徳の致すところであるだろう。

 所謂「パワハラ和製英語 Power harassment)」という言葉若しくは概念が世間の常識に登録されて久しい現代の日本社会で、怒りを制御することの重要性と倫理的な要請は益々高まっている。ただ、怒りという感情そのものの存在を否定することは、場合によっては精神的な歪みを生み出す結果に繋がりかねない。重要なのは、怒りという感情を抹殺することではなく、その正しい使用法に習熟することであると言うべきだろう。どんなに悲惨で不合理な出来事に遭遇しても全く怒りを覚えない人間が、精神的に健常であるかどうかは議論の余地を有する。無論、怒りを覚えないに越したことはないし、怒りが正常な判断力や思考力を混乱させ、機能不全に導くことは、歴史的にも経験的にも証明された事実である。だが、そうした現実を極端な方向に解釈して「怒りを覚えること自体が罪悪なのだ」という命題を信奉するのは、必ずしも人間性に関する適切な省察の結果であるとは言い難い。

 私も過去の自分を振り返って、その驚愕すべき(或いは慨嘆すべき)短慮と愚かさに気恥ずかしさを覚えることがある。それを若さゆえの「血の気の多さ」だと強弁して、過去の自分を正当化するのは私の今も変わらぬ愚かさの証明である。他人の過ちを赦し難いものだと看做して興奮し、荒々しく劇しい罵言を用いて、当事者に懲罰を加えようとする異様な情熱に駆られる習慣は、今も完全には克服されていない。昔に比べれば遙かに穏当な言い方を選ぶ辛抱強さを身に纏えるようになったと自負しているものの、修行が足りていないことは厳然たる事実である。

 如何なる忿怒も排斥されるべきであるという極端な理想主義に、私は全面的な賛意を示すことが出来ない。それは如何なる犯罪に対しても懲罰を科すべきではないという極端な理想主義に同意することが出来ない、ということと同義である。懲罰そのものは、存在しない方が望ましいに決まっている。懲罰の不要な社会を建設出来るのならば、それが最も充実した理想郷であることは疑いを容れない。だが、そうした理想を想い描くことと、現実の世界で「懲罰」という仕組みが稼働していることの間に、潔癖な考え方に基づいて、恥ずべき矛盾を発見しようと努力する必要はないと、私は思う。無論、例えば「適切な懲罰」という考え方が極めて曖昧な基準に即していることを私は認める。それは「適切な軍事力」という考え方の根源的な脆弱さを想起すれば、直ちに理解し得ることであろう。人類の歴史は、暴力の適切な運用に失敗を重ね続けてきた。同様に、人類の歴史は懲罰の不正な執行を幾度も繰り返し、場合によっては無辜の善人を虐殺することさえも肯定してきた。その意味では、軽々に「適切な懲罰」或いは「適切な怒り」という理念を掲げるべきではない。しかし、軍事力=懲罰=怒りといった理念的体系を完全に廃絶することが、直ちに人類の幸福に資するとは言い切れない。

 日本語には「義憤」という言葉がある。この言葉に付き纏う根源的な危うさを否定しようとは思わない。「正義」の名の下に執行された数多の暴力が、単なる権力の濫用に過ぎなかった事例を、私たちは歴史的な地層の中に幾らでも探り当てることが出来るからだ。だが、如何なる不正に対しても怒りを覚えないのは、人間の目指すべき理想的な態度であると言い切れるだろうか?

 いや、こんな推論はまるで誘導尋問だ。場合によっては、怒りは有用であるという理窟を正当化する為の煽動のようなものだ。結局、怒りは己の人間的な度量の限界を示すものなのだろう。その意味では、怒りを否認することは一見正しい態度に見える。だが、怒りを否認すれば、その矛先は自分の臓腑を傷つけるばかりであろう。怒りを覚えたという事実そのものを恥じるべきではない。

 

*考えてみれば、様々な人間的感情の顕現を「否認」するべきか、それとも「肯定」すべきか、という問題は、必ずしも「忿怒」に限られた話ではない。何らかの理由で深刻な「悲嘆」に囚われたり、或いは望外の僥倖に恵まれた揚句、その歓びに深入りして享楽的な強欲に呑み込まれたりする場合もあるだろう。何れにせよ問題なのは、感情の発生そのものではなく、感情を制御し得るかどうかという点である。それは「怒り」の場合も「悲しみ」の場合も何ら変わりない。

 だが「感情を制御しなければならない」という倫理的な要請は実に容易く「感情を否定しなければならない」という極論へ転化し得る。こうしたストイシズムの亢進が、却って人間性の荒廃を惹起しかねないことにも、私たちは留意すべきだろう。「感情の否定」は即ち「事実の否定」であり、それは「感情の制御」という理性的な方針と、根本的に対立している。何故なら、理性的な方針は常に「事実の肯定」を本分としているからだ。「感情の否定」は、怒りを覚えている自分自身を心理的に抹殺するということである。だが、そのような「心理的自殺」が、本当に理性的な自我の構築に役立つと言えるだろうか?

 無論「事実とは何か」という根源的な難問が聳え立っていることは一応、私も承知している積りである。「事実」は、単に理性的であろうと試みるだけで手に入るほど、生易しい代物ではない。だが、少なくとも「事実」を把握しようと切実に望まない限り、理性的な精神は確保し得ない、ということは言えると思う。そして「事実」に対する認識の欲望を燃やさない限り、徒に「感情の否認」に赴いても無益であることは論を俟たない。

 

*小池代表率いる「希望の党」が、民進党所属の候補者に公認を出すに当たって、厳格な「選別」と「排除」に踏み切ったことで、当初の政権交代への期待は急激に縮小しつつあるように見える。小池代表が民進党からの合流希望者を丸呑みすれば、自民党に一泡吹かすことも可能だったかも知れないが、改憲と安保法制を踏み絵にした選別の結果、枝野氏を中心にリベラリズム的な「立憲民主党」が出来上がってしまい、当初の「反安倍」という旗幟が曖昧に揺らぎ始めている。

 これまで小池氏は自身の衆院選への立候補を否定してきた。それを「本音」として受け止めるべきなのかどうか、誰もが疑いの眼差しを向けていたように思う。敢えて方針を明確に示さないことによって、自民党に揺さぶりを掛けているのではないか、或いはマスコミや世間の関心を集める為に敢えて態とらしく本音を隠匿しているのではないか、と私も考えていた。だが、民進党を丸呑みすることで得られる「果実」を、自ら「排除」し始めた小池氏の言動を徴する限り、若しかしたら本当に国政選挙には打って出ない積りなのではないか、と感じられるようになってきた。

 民進党の人間を無条件に受け容れたら、首相指名の対象が前原氏に移ってしまうのではないか、という疑念を理由に挙げる識者もいるらしい。それも一つの説得的な見解ではあるが、民進党を丸呑みしない限り、倒幕の快挙は成功しないだろう。誰であろうと「反安倍」の旗幟の下に結集して、持ち前のパフォーマンスで無党派層を一挙に攫ってしまえば、盤石の自公長期政権も罅割れることは必定である。敢えて、そうした無節操な総力戦を自重するということは、言い換えれば現時点で、小池氏の側には総理の椅子を簒奪する意思がないのではないか、という風に思われてならない。

 或いは、政権奪取後に恐らく必然的に訪れるであろう「政治的な分裂」を警戒しているのだろうか。総選挙に圧勝する為に「烏合の衆」を形成しても早晩、空中分解することは眼に見えている。それでは意味がないと考えたのだろうか。

 或いは、とりあえず野党第一党の地位を確保し、憲法改正に向けて、自民党との協力体制を構築する腹積もりなのだろうか。その為には、弱体化しているとはいえ、リベラリズムの重鎮を擁する民進党を破壊しておく必要があると考えたのかも知れない。当初は丸呑みするような素振りを見せておいて、後から厳格な「選別」を始めるというのは、民進党に対する陰湿な悪意を感じさせる振舞いである。

 小池氏は「保守的な自民党と闘う女性革命家」の鮮烈なイメージを纏うことによって、都知事選に勝利し、都議会さえも掌握してしまったが、その政治的な思想信条は、必ずしも安倍政権との間に非妥協的な対立を作り出す性質のものではない。彼女が自民党と喧嘩を始めた最大の理由は、思想的な対立であるというよりも、自身の栄達ではないか。自民党に留まっていても首相に指名される見込みは極めて小さい。いっそ独立して、自ら「社長」の肩書を手に入れた方が、総理の椅子までの距離は縮まると計算したのかも知れない。そうだとしたら、驚くべき策士ということになる。