サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(ヨーロッパ・近代・小説)

*最近は専ら海外の小説を読むことに、乏しい読書の時間を充てるように意識している。ウラジーミル・ナボコフの「ロリータ」を舐めるようにちびちびと読み進めながら、日本語のみを理解し、一度も国境線を跨いだ経験を持たない、生粋の島国根性の持ち主として生活を営んでいる日本人の私が、敢えて海外文学に積極的な関心を懐こうと努めているのは、何故なのだろうかと自問していた。

 ミラン・クンデラの一連の著書に限らず、小説という芸術を「近代のヨーロッパ」が生み出した歴史的な産物として捉える論調は、決して特異なものではない。そうした言説を実証的な仕方で確認する手段を持たない私はただ、クンデラの華麗で犀利な文章に眩惑され、魅了されるばかりの体たらくだ。スペインのセルバンテス、フランスのラブレー、そしてイギリス及びアイルランドの初期の小説家たち(デフォー、スウィフト、スターン、フィールディング)を嚆矢とする近代文学の精華である「小説」を、クンデラは極めて断定的な口調で「ヨーロッパ」という歴史的=地理的なコンテクストに接続している。

 様々な世界宗教が、布教の範囲を拡大する過程で、徐々に各地の土俗的な異質さを夾雑物のように呑み込み、消化吸収していったように、小説という芸術もまた、今日では単なる「ヨーロッパ」の専売特許とは称し難い多様性を獲得しているように見える。同時に小説は「近代」という謎めいた歴史的観念から遠く隔てられた場所にも、成育の為の新たな土壌を幾つも見出しているように思われる。だが、こうした考え方は、小説が形成されてきた構造的な理由に対する無理解と、根源的なレヴェルで密接に絡み合っているのではないだろうか。言い換えれば、そうした「小説」の世界的な普遍性に対する明快な盲信は、例えばクンデラが抱懐しているような「小説」の具体的な歴史性に関する省察の欠落によって支えられているのではないか。

 文字言語を用いて何らかの虚構性の高い物語を書き綴り、一つの新たな時空を創造することの世界的な普遍性を手懸りとして、所謂「小説」という文学的理念を、世界的な普遍性の下に拡大して適用しようと試みる態度が、クンデラの厳密な歴史的意識と相反するものであることは注意すべきポイントであると言えるだろう。もっと言えば、そうした態度は「小説とは一体、何を指す概念なのか?」という根源的な問い掛けに対する考究の甘さと密接な関係を有している。

 クンデラは「小説」という芸術を西洋の近代に固有の歴史的な様式として定義している。「小説」を、セルバンテスラブレーやデフォーを嚆矢とする西欧の「近代」が生み出した芸術であると看做すことは、少なくともクンデラの作家としての方法論においては重要で中心的な意義を備えているのである。それが明治以降の日本に移植されたとき、西欧とは全く異質な文明的背景を有する東洋の島国で、「小説」という理念が一切の変貌と無縁であったと信じ込むのは、原理的な意味で公正な態度ではない。基本的な枠組みを拝借したとしても、それが百年余りの歳月を経て、日本という国家の風土に馴染み、徐々に組み込まれていく過程において、「小説」という理念が如何なる変質も蒙らなかったと考えるのは、無反省な「信仰」に過ぎない。

 一体「小説」とは何なのか、という設問は、市井の読書家に過ぎない私にとっても依然として興味の尽きない難解な「壁」である。だが、そもそも「小説」の厳密な定義を樹立することが、この地上で「小説」を巡って繰り広げられ、日々営まれている種々の「現場」にとって、本当に必要な作業であるかどうかは、冷静に点検してみる必要があるだろう。「小説とは、極めて自由で雑種的な文学の様式である」という言い方は巷間に満ち濫れている。「小説」というジャンルには、如何なる猥雑な要素も持ち込めるし、詩歌や戯曲のスタイルを導入したり、場合によっては挿絵や写真、図表の類を織り込んでも許される。にも拘らず、そうした柔軟な「寛容さ」の形式に何故、ミラン・クンデラは、飽く迄も「ヨーロッパ的な歴史性」という但し書きを付け加えることに固執しているのだろうか? そうした猥雑な精神性は、近代西洋の特権的な性質なのだろうか? こうした問題は、実地に近代西洋の小説作品を一つずつ繙読して、自分自身の五感と知性を以て確認する以外に、解決の端緒を持ち得ないだろうという当たり前の結論に、今は行き着くより他ない。

Cahier(ロヒンギャ・人道的危機・世界宗教)

*夜の十時過ぎに仕事から帰宅して、夕食の仕度が整うのを待ちながら、普段と同じ習慣に則って「報道ステーション」を見ていたら、ミャンマーで起きた大規模な人道的災害に関するニュースが流れていた。ビルマ語を操る仏教徒が人口の大半を占めるミャンマーにおいて、独自の言語を用い、イスラム教を信仰する「ロヒンギャ」と呼ばれる人々に対して長年、国家的なレヴェルでの悲惨な暴力が吹き荒れているのだという。そうした不条理な暴力に対して、バングラデシュに逃れた四十万のロヒンギャの難民たちは大規模な抗議デモを実行し、国際連合アントニオ・グテーレス事務総長はミャンマーの人道的現状に就いて、真剣な懸念を表明している。

 アルカイダによる米国の同時多発テロから、イスラム国によるイラク・シリア地域を中心とした軍事行動に至る経緯により、宗教的過激派勢力と言えば直ぐに、イスラム原理主義のムジャヒディンが想起される慣わしが、私の脳裡には根付きつつあるが、原理主義は何も、イスラム教の専売特許という訳ではない。キリスト教の世界にも、熱狂的なファンダメンタリストは存在している。ミャンマーラカイン州を中心に繰り広げられている、ロヒンギャに対する深刻なジェノサイドには、仏教徒民兵も荷担しているらしい。言い換えれば、必ずしも一神教的な峻厳さを持たないように考えられている仏教の世界にも、異質な他者への高圧的な横暴を肯んじて恥じない過激な思想の持ち主が少なからず存在しているということだ。日本の歴史を顧みても、仏教徒たちは僧兵を有したり、一揆を繰り広げたりと、歴然と殺生戒の教えに反するような行為に手を染めてきた。キリスト教の十字軍や異端審問、或いはイスラム教におけるジハードだけを、宗教的な偏狭さに起因する暴力の事例として挙証するのは、必ずしも公正な態度であるとは言い難い。仏教的な暴力という奇態な矛盾が現実の世界に存在することを、ミャンマー仏教徒たち(無論、総ての仏教徒を含む訳ではない。ミャンマー仏教徒の中にも、ロヒンギャの虐殺に反対している人々は少なからず存在する筈だ)は、血腥い惨禍を通じて、国際社会に向かって立証してみせたという訳だ。

 釈迦如来の教えを信奉している筈の敬虔な仏教徒たちが、宗教や言語の異なる社会的集団に差別的な待遇を行なって恥じないという現実、しかもそれが殺戮や強姦などの醜悪な犯罪を通じて、具体的な排斥と攻撃へと転化しているという現実は、暗澹たる心境を私の心に強いた。決して良心的な善人を気取る積りはない。どんな犯罪者にも、相応の正義と言い分が存在することは認めない訳にはいかないし、仮に私がミャンマー仏教徒として生を享けていたら、ロヒンギャに対する反倫理的な攻撃に絶対に荷担しなかっただろうと言い切る傲岸な自信も有していない。だが、こんなに醜悪な現実が、数百万年の歳月を投じて徐々に文明化してきた筈の人類の歴史の最前線において、今も堂々と実在しているということは、悲嘆と絶望の直接的な源泉に他ならないだろう。ロヒンギャに限らず、たった七十余年の星霜を遡ってみるだけでも、私たちはナチスによるユダヤ人への筆舌に尽くし難い巨大な暴力の記憶に行き当たることが出来る。たった七十余年の歳月が、そうした人類史における最大の汚点の一つに対する反省を、これほどまでに身も蓋もなく歴然と褪色させてしまうというのは、恐怖すべき事態である。

 こうした悲惨な暴力が、国際的に知られる主立った世界宗教キリスト教イスラム教・仏教)の本質とは、根源的な意味で絶縁していることに、私たちは充分な注意を払うべきである。本来、世界宗教は民族や国家などの枠組みによっては遮られることのない、普遍的な浸透性を備えた信仰と教義の体系であるからだ。従って、こうした世界宗教の信仰を理由に人々が啀み合い、例えば十字軍のような宗教的抗争が展開されるのは、論理的に矛盾した現象なのである。言い換えれば、世界宗教は本質的に「抽象化された理念」として存在しなければならないという責務を負っている。だが、例えばイスラム国(Islamic State)のような過激派勢力は、イスラム教を絶対化することによって、世界宗教的な抽象化の志向に反動的な退嬰を齎している。ロヒンギャに対する仏教的右派勢力(例えば、アシン・ウィラトゥという僧侶の率いる「969運動」)の野蛮な振舞いは、仏教の普遍的な抽象性に対するローカルな「致命傷」に他ならない。

 更に懸念材料を妄想的に肥大させることも可能である。アルカイダなどのイスラム過激派勢力が、ミャンマーにおける同胞への苛烈な弾圧を、どのように解釈するだろうか? 最悪の場合、ミャンマーにおける一連の人道的惨事は、ムスリム仏教徒との間に大規模な宗教的抗争を喚起しかねないのである。そのとき、世界宗教は単に、規模を拡張しただけの民族宗教として、悲しむべき排他性を明瞭に身に纏うこととなる。それは宗教的な体系が本来有している筈の普遍的な可能性を閉ざし、座礁させることに繋がるだろう。日本でも「廃仏毀釈」などの歴史的な事例を鑑みれば、こうした一連の人道的惨事は決して対岸の火事ではない。

Cahier(高野山・空海・虚構性・他者の「無答責」)

*先日、珍しく土曜日に休暇を取り、母親と弟夫婦を自宅に招いた。夕方からは、地元の神社の祭礼があり、近くの通りは歩行者天国と化して、道に沿って一面に露店が軒を連ねた。台風の影響で弱々しい雨が降っていた。

 子供を風呂に入れた後で、居間のソファに陣取って久々にNHKの「ブラタモリ」を見た。テーマは和歌山県高野山で、弘法大師空海が切り拓き、創建した日本有数の霊場の様子が詳さに語られ、映し出されていた。

 私は空海に就いて詳しい知識を有していない。司馬遼太郎の著した「空海の風景」(中公文庫)も読みかけのまま、長らく放置している。私が持っているのは、極めて断片的な知識の切れ端に過ぎない。真言密教創始者であり、非常に博学多才で、宗教家としても書家としても一流であるという通り一遍の情報しか、この頭の中には残っていないのだ。小学生の頃、学校の図書室から様々な学習マンガを借り出して読み耽っていた私は、空海の伝記を漫画化した作品にも手を出したのだが、それは飽く迄も空海という人物の個人史的な表層を切り取ったものであり、本当の意味で、空海の本領や、その「凄み」のようなものを理解した経験は一度もないのである。

 だが、分からないなりに私は、歴史上にその令名を謳われる偉大な宗教家たちの生き様や思想に素朴な関心を懐いてきた。そもそも、宗教という巨大な思想的伽藍自体が、とても興味深いシステムに感じられる。それは近代的な自然科学の価値観に照らせば、概ね荒唐無稽な幻想の集積である。だが、そうした断定とは無関係に、宗教的なものの持つ異様な影響力は今も、世界中で強靭な作用を人々の精神と実存に及ぼし続けている。宗教的なものの虚しさや、その建設的な合理性の不足を、尤もらしい口吻で論難することは寧ろ容易い。神様なんか存在しない、常世なんか存在しないと、偉そうに断定して斬り捨てることは、文明化された人間の良識的な判断であるかのように考えられている。だが、そうした論難が宗教的な体系の保持している豊饒な権威を打ち崩すことは難しい。いや、難しいと言うよりも、無益であると言った方がいいだろうか。

 宗教とは何か、という難問に、私のような浅学菲才の人間が太刀打ちすることは不可能である。ただ、素人目にも直ぐ思い浮かぶのは、宗教的な体系が「信仰」という精神的原理との間に、容易に切り離し難い緊密な関係を取り結んでいるという事実である。何かを信じるということ、それは宗教的な体系の根本に位置する営為である。

 同時に宗教は、世俗の原理との間に何らかの隔壁を設けることを習慣としてきた。無論、それは世俗との交わりを一切断ち切るという意味ではない。禅宗でも浄土宗でも、悟りを開いた人間は再び俗塵に塗れて、衆生の為に働くべきであるという意味の教えが重んじられている。例えば、中国の臨済宗の禅僧が発案したという、悟りの階梯を描いた「十牛図」の掉尾は、修行を積んで解脱を果たした僧侶が、再び市井の暮らしの中に立ち戻って衆生の救済に邁進する姿で飾られている。だが、それは市井の凡人が俗塵に塗れて暮らすのとは全く意味合いの異なる境涯である。

 宗教が俗界との間に緊密な交わりを有することは事実である。特に大乗仏教は、自分一人の悟りに留まることを戒め、菩薩となって他者の救済に尽力することを、自らの思想の根本に据えている。だが、それでも宗教が或る特権的な超越性を、その内部に宿している事実から眼を背ける訳にはいかない。それが所謂「聖なるもの」ということになるだろう。では「聖なるもの」とは何か? 俗なるものから隔てられ、禁域に祀られる神聖な「何か」は、如何なる原理に基づいて聖化されているのか? そもそも、何かを「聖化する」とは一体、如何なる作用を意味する言葉なのか?

 こうした問題を、高野山の風景をテレビの画面越しに眺めながら、漫然と考えた。今まで知らなかったことだが、高野山では現在でも弘法大師空海が、奥の院の御廟で生きているという「物語」を信仰しているらしい。それゆえに、千年以上の長きに亘って今も、奥の院に朝夕二度の食膳を僧侶が運んでいるのだ。こうした「擬制」(こういう言い方が適切であるかどうかは別として)が、連綿と受け継がれて今も現実に続いているということは、驚くべき挿話ではないだろうか。現代の日本に生まれ育った僧侶たちが本気で、空海は今も生きていると信じ込んでいるとは思えない。にも拘らず、そうした擬制が途絶えることなく継承されているという事実は、単なる荒唐無稽の儀式と呼んで斥けられない、奇妙な迫真性を有しているように感じられる。この異常な信仰心(「異常」という言い方に悪意や、賢しらな批判の含意はない)の持続は、その情熱の出処は、奈辺に存在しているのだろうか?

 弘法大師空海が今も生きているという信仰が、科学的な事実に反していることは言うまでもない。だが、それが事実に反しているという認識は、こうした信仰の虚構性を、根本的な仕方では破壊し得ないのである。或いは、このような虚構は、仏教的なものの本質とは無関係な代物であり、所詮は世俗の論理の転用に過ぎないという見方も成り立つだろう。それでも、弘法大師空海が今も生きているという信仰そのものを否定することには帰結しないのである。こうした現実に、私は何だか蒙を啓かれたような気分を覚えたのだ。

 千年以上も昔に亡くなった人間を、未だに生者として扱い、二度の食事を毎日欠かさずに捧げるなどという営みは、現代の平均的な価値観から眺めるならば、恐ろしく無益な「愚行」に過ぎないだろう。だが、例えば盆や彼岸に身内の墓参りへ行くのも、葬儀に参列するのも、墓標を水で洗ったり、線香や仏花を供えたりするのも、馬鹿馬鹿しさという点では五十歩百歩である。にも拘らず、私たちはそうした「愚行」を、或る敬虔な心情を伴って生真面目に遂行する習慣を捨てていない。合理的に考えるということが世俗の規矩であるならば、このような堅苦しく欺瞞的な儀礼に時間と金を費やすような真似は即刻廃止すべきであろう。だが、私たちは自ら望んで「死者」に対する各種の儀礼の盛大な挙行を惜しまないのである。この矛盾に、宗教的な信仰心の「鍵」が潜んでいるのだと思われる。

 死者を弔うという儀礼は、それが原理的に交信することの不可能な相手との交信の企てであるという意味で、極めて宗教的な営みである。もっと言えば、そもそも死者を弔うという儀礼の中に、宗教の有する壮大な知的伽藍の最大の基礎が存在しているのではないか。宗教の本質は、私たちが知ることの出来ない、厳密な「他者」との交わりの内部に存しているのではないか。その「他者」がイエス・キリストであろうと、釈迦如来であろうと同じことだ。彼らは常に「無答責」である。従って宗教的な信仰は常に、厳密な「他者」に対する劇しい飢渇を病んでいるのである。

Cahier(ナボコフ「ロリータ」・今後の読書計画)

*最近は仕事に追われつつ、専らナボコフの「ロリータ」(新潮文庫)をちまちまと読み進めている。現代文学の古典の一つに数えられる「ロリータ」は、その性的な内容ゆえに当初は出版が難しく、結局はフランスのオリンピア・プレスという、ポルノグラフィの出版社から初版が刊行されたらしい。確かに、この作品に「変態小説」という肩書を被せるのは強ち不当な振舞いとも言えない。未だ百余ページしか読んでいない段階で、彼是と総括めいた表現を用いるのは公正な読者の態度であるとは言い難いが、手記の書き手に擬せられたハンバート・ハンバートの精神的な内容は、露骨なペドファイルとしての側面を微塵も隠し立てしようと試みていない。しかし、ロリータに対する性的な関心と妄想を詳細に書き連ねていくハンバートの(つまり、ナボコフの)偏執狂的な情熱と筆力は、この作品を、単なるペドフィリアを主題に据えた煽情的な三文小説であることから救済していると言い得るだろう。

 ハンバートのロリータに対する異様な執着を、ナボコフが如何なる個人的関心に基づいて組み立て、更には一つの文学作品として形成しようと考えたのか、その具体的な背景に就いて私は完全に無知である。ただ、ナボコフにとって本当に重要で意義深い問題であると感じられていたのは、ペドフィリアそのものであると言うよりも、それを精細に描き出す奔放で多彩な言語的挑戦の方であったに違いない、という印象は、作品そのものの感触から抽出することが充分に可能である。徹頭徹尾、ペドフィリアという主題に集中する形で作品の構成に腐心しているように見せかけながらも、ナボコフ自身の最大の目論見は、ペドフィリアという主題の内側には存在しないというのが、この「ロリータ」という作品を巡る消息の核心ではないかと、個人的には考える。

 直ぐに夏目漱石を引き合いに出すのも安易な気はするが、我慢して御付き合い願いたい。漱石の「吾輩は猫である」という小説は広く巷間に膾炙した有名な作品であり、日本語文学を代表する傑作の一つだと思うが、この作品における重要な主題は、猫の生い立ちや、麦酒を呑んだ末の大往生や、苦沙弥先生や迷亭先生の呑気な議論や、そういった物語としての側面には存在しない。猫を語り手に据えるという奇策も、所詮は縦横無尽の語りの方法を実現する為の手段に他ならず、物語の中身自体には、本質的な重要性は備わっていないのである。「猫」を読む醍醐味は、筋書きを味わうことの中には存在していない。皮肉な諧謔に満ちた猫の語り口を味わうことが、この作品の鑑賞の要諦なのだ。

 同じくナボコフの「ロリータ」も、描き出されるペドファイルの妄想そのものや、ロリータの姿態や言動を愉しむことが本当の眼目ではない。若しもそうならば「ロリータ」は単なる一介のポルノグラフィ以上の価値を帯びることは出来なかっただろうし、アメリカ文学の古典の一つに数えられることもなかっただろう。言い換えれば、「ロリータ」を読んで何らかの性的な慰藉を得るのは、余りにも実用的な態度であり過ぎるのだ(念の為に附言しておけば、私にはペドフィリアの性向はない)。該博な知識を織り込み、ダブルミーニングやライムを駆使して、独特の複雑な文章を拵えるナボコフの卓越した技巧によって完成された「ロリータ」は、新潮文庫の巻末に大江健三郎の附した解説に引用されているナボコフ自身の言葉を借りるならば、まさしく「英語という言語との情事の記録」に他ならない。だからこそ、取り扱っている主題の変態的な下品さとは裏腹に「ロリータ」の文章は、極めて知性的な舞踏のような品格を保持することが出来たのだろう。

 

*或る小説を読みながら、この作品を卒業したら次は何に着手しようかと、漠然と思考を巡らせることがある。最近は海彼の名作を周遊する旅路の途上であり、ウンベルト・エーコの「バウドリーノ」を皮切りに、フランツ・カフカの短篇小説、アルベール・カミュの「ペスト」、カズオ・イシグロの「日の名残り」と進んで、今はナボコフの「ロリータ」に辿り着いている。元々の予定では、ナボコフの「ロリータ」を読了した暁にはバルザックの「ゴリオ爺さん」(新潮文庫)に着手する段取りであったのだが、今はフローベールの「ボヴァリー夫人」を読んでから、ジュリアン・バーンズの「フロベールの鸚鵡」に進むという選択肢にも関心を寄せている。「フロベールの鸚鵡」は私が子供の頃、父親の書棚にハードカバーの単行本として収められていた作品で、何かの拍子にぱらぱらとページを捲ってみたら、妙に面白く感じられたことを今でも記憶している。

 ただ、この計画にも若干の揺らぎのようなものが生じ始めていて、先日、二階の納戸に置いてある私のささやかな書棚を眺めているときに、不図思い立って、古井由吉の「雪の下の蟹・男たちの円居」(講談社文芸文庫)を久々に開いてみたことが、その揺らぎの直接的な契機である。「雪の下の蟹」という短篇小説に就いては以前、このブログを開設して間もない頃に一度、その拙劣な感想文を投稿したことがあるのだが、正直に言えば、作品の魅力も、その方法論的な企図も、当時の私には到底理解出来たとは言い難いのが実情であった。同じ作者の「槿」(講談社文芸文庫)も、二十代半ばの、離婚して束の間の一人暮らしを松戸のアパートで始めた頃に買い求め、数ページだけ読んで以来、長らく放置したままになっている。「ロリータ」を読了したら、古井由吉という作家に絞り込んで、その豊富な作品群に連続的に挑戦してみるのも面白いかも知れない、という考えが、最近の私の脳裡を断続的に掠めている。傍から聞けば、まさしく「勝手にしやがれ」という話であるに違いない。無論、勝手にする積りである。何れにせよ、ナボコフの華麗で意地悪な文章との格闘を済ませない限り、前進することは出来ないだろう。

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

 
雪の下の蟹・男たちの円居 (講談社文芸文庫)

雪の下の蟹・男たちの円居 (講談社文芸文庫)

 

 

芸術と記憶(あるいは「祈り」)

 芸術とは「記憶」の異称ではないだろうか。

 芸術は、一瞬を永遠に変えたいという欲望に貫かれている。或る瞬間の出来事を永遠に記録しておきたいという欲望だけではない。つまり、単なる事実の記録だけに留まらない。失われてしまった何かを再び甦らせ、明瞭なイメージを与えて、永遠に遺しておきたいという欲望は、必ずしも厳密な事実の再現に固執しようとはしない。寧ろ、失われてしまった何かを甦らせる為には、往々にして「虚構」の建設が要請される。それが様々なフィクションを生み出す根本的な原動力である。

 たとえ虚構を語ろうが、事実を語ろうが、そういった問題は、芸術の本質的な機能や原理とは関係を持たない。重要なことは、或るイメージや記憶を、つまり確実に喪失されることが明らかであるような束の間の「命」のようなものを、永遠に語り継ぎたいという欲望の働きである。それが芸術的な営為の根底に存在する、最もプリミティブな衝動の性質である。

 この「語り継ぎたい」という奇怪な欲望は、人間性の根源的な領域に根差したものであると私は思う。私が今、こうしてブログを書いているのも、そうした「語り継ぎたい」という欲望の具体的な反映の一例であるだろう。そのとき、語り継がれる内容に社会的な価値が認められるかどうかという問題は、副次的で些末な事柄に過ぎない。そういう社会的な諸観念に先行する衝動として、この「語り継ぎたい」という原始的な欲望は存在している。

 だが、人間は何故、つまらぬことや、とても個人的な事柄を「語り継ぎたい」という異常な野心に憑依されてしまうのだろうか? こうした事情は、語りの主体が「一流の作家」であろうと「市井の無名の庶民」であろうと、無関係に存在する素朴な疑問である。世界的な傑作として既に評価の定まっている作品(今、私は主に小説を念頭に置いて自分の意見を語り、考察を油絵の如く塗り重ねている)であっても、そこには極めて些末で個人的な「細部」というものが随所に編み込まれているものである。極めて個人的な「細部」を語り継ごうとする衝動の主体として、一流の作家も無名の庶民も、定義の上では同一であり、同等である。一流の作家だから、歴史的な財産として受け継がれるべきものを提供し得るのだ、という考え方とは異なる次元において、何かを「語り継ぎたい」と希う欲望は万人に向かって等しく開かれている。その原理的な事実自体と、語られたものが社会的な淘汰の圧力に抗い得るかどうかという問題は、相互に異質な次元に属している。

 何故、人間は何かを語り継ごうとするのか。それは単なるコミュニケーションの問題に還元し得るとは思えない。つまり、見知らぬ誰かに語り掛けようとする欲望として、単純化して捉えるべきではないと私は思う。事態はもっと複雑に構造化されていて、色々な事情が相互に陥入し合っている。

 私たちが日常で「コミュニケーション」という言葉を使うとき、それは概ね「見知っている誰かとの関係性」を指している。言い換えれば、既に構築され、成立した関係性の中での色々な支障を「コミュニケーションの問題」としてラベリングしている。だが、芸術がコミュニケーションから切り離されるのは、それが出来合いの関係性における「伝達」や「通信」とは異質な「語り継ぎ」を志向する点に存している。言い換えれば、芸術とコミュニケーションとの区分は、伝達する主体と客体との「距離」に基づいて設定されているのだ。

 私が妻と交わす日常の会話は明白に「コミュニケーション」の一環である。それは私にとって妻が「既知の存在」として定義されているからだ。無論、私は彼女の実存の総てを知悉している訳ではないが、関係性の定義として、彼女のことを「既知の存在」と呼んで差し支えない。

 だが、芸術とは近しい人間に対するコミュニケーションとは全く異質な欲望に支えられていると考えるべきである。それは具体的な他者の顔を思い浮かべられないような状況の渦中に生起する欲望であり、言い換えれば「決して成就することのないコミュニケーション」として定義されるべきものである。日常的なコミュニケーションは、それが相手に届き、受理され、返信されなければ価値を得られない。少なくとも、送受信の成立を目指して実行に移されるのが、コミュニケーションという営為の本義である。だが、芸術は必ずしもコミュニケーションの「成就」を求めないし、本質的には、そのような「成就」とは無関係に営まれている。これは俗っぽい商業主義を指弾する為に組み立てられた論理ではない。生前、無名のままに社会の狭間へ埋没し、死後、何らかの力に導かれて巨大な名声を獲得することになった、数多の芸術的な天才たちのことを説明する為に持ち出された論理でもない。

 ヨーロッパの宗教画やアジアの仏像などを鑑みると、芸術の歴史というものの過半が「神」という超越的な存在に向かって捧げられてきたという事実に、否が応でも眼差しを向けずにはいられない。言い換えれば、そういう特権的な超越者に向けて捧げられる「祈り」のようなものが、芸術という枠組みの根底に備わっているのではないか。その意味では、先刻から私が再三述べている「語り継ぎたいという欲望」の対象は、特定の個人ではなく、飽く迄も「神」や「宇宙」や「歴史」や「世界」といった巨大な「天蓋」であると考えるべきであろう。芸術的な「遺言」の欲望は、身近に存在する親しい人々への「伝言」とは全く異質な心情によって構成されていることに、私たちは充分な注意を払うべきである。それは「世界」との対話であり、生身の人間との個別的な会話とは、所属する次元が決定的に異なっている。

 こうした「遺言」の欲望は、それが相手に聴き届けられたかどうかを確認する手段を持たない。その意味で、芸術的な「遺言」は原理的に「成就」という事態から見放されている。だが、そもそも「成就されるかどうか」ということは、芸術的な遺言の主体にとっては重要な「条件」や「分水嶺」とはならない。祈りを捧げるとき、主体は決して「聴き届けられること」を前提として祈るのではなく、ただ純粋に「祈る」のである。曹洞宗における「只管打坐」の理念のように、そこには実効的な目的のようなものは存在しない。この一瞬の、確実に失われてしまうであろう「光景」や「想念」を、決して自らが出逢うことのない対象に向かって捧げることが「芸術」の本領なのだ。

サラダ坊主風土記 「千葉公園」

 一昨日は仕事が休みで、妻は独り美容院に出掛けた。珍しく娘と二人きりである。単独の子守りを仰せ付かる機会は殆どない。昼飯を食べさせてから、晴れ間が広がってきたので、娘を連れて散策へ出掛けることにした。

 とりあえず新装開業したばかりの千葉の駅ビルを見物に行った。ベビーカーを押しながらの移動なので、階層を上下するのが手間である。エレベーターは狭く、混み合っている。六階の書店と東急ハンズが入っているフロアを最初に眺め、五階の飲食店と雑貨のフロアに移り、屋外庭園へ出てみた。娘を遊ばせようと思ったのだが、折悪しく彼女はベビーカーに揺られて眠りに落ちてしまっていた。

 暫く眺めて飽きてしまったので、駅ビルを出て、千葉公園口の方角へ歩いて行った。特に何の宛てがあった訳でもなく、単純に時刻も未だ早いので、もう少し千葉の街並を散策してみようと思い立ったのだ。

 エレベーターを降りたところで、千葉市中央図書館の在処を告げる標識を発見した。千葉市に移り住んでから、図書館を訪れたことは一度もない。興味を惹かれて、標識の指示に従い、緩やかな勾配の道を歩き出した。余り人通りのない、住宅地の間を走る小径である。

 途次、市街地の案内図を記した看板に行き当たった。千葉市中央図書館は、道なりに直進した先にあり、その向こうには千葉公園の広大な敷地が広がっているらしい。公園の傍には、千葉都市モノレールの駅が置かれている。図書館を少し覗いて、娘が眼を覚ましたら、公園で遊ばせようと考えた。帰りはモノレールに乗って千葉駅まで戻り、そこから京成線に乗り換えて家路に就けばいい。

 千葉市中央図書館は、立派な外観を備えていて、敷地の端、交差点に面した辺にドトールコーヒーの店舗を併設していた。硝子越しに眺めた印象では、割と閑散としている。娘も寝ていることだし、陽射しは強まってきたし、冷たいコーヒーでも飲んで一休みしようと思い立った。駅のホームで買った缶コーヒーは、娘が延々と握り締めて振り回し続ける所為で、すっかり生温かい泥水のような状態に変貌を遂げていたのである。

 冷涼な店内に入り、一番奥まった卓子に席を確保して、アイスコーヒーとジャーマンドッグを注文する。この組み合わせを味わうのは久し振りだ。柏に通っていた頃は、出勤前にしばしば立ち寄った。娘が目覚めないのをいいことに、ナボコフの「ロリータ」の続きを読む。とても面倒臭い、入り組んだ文章を好んで書く作家だ。しかし、そこには夏目漱石をもっと腹黒くしたような印象の知性的なユーモアが隅々まで滾っている。言葉を拳銃のように弄ぶ才能に恵まれた人物なのだろう。

 数ページを読み進めて、グラスの中のアイスコーヒーが残り僅かになったところで、娘がベビーカーの幌を自分の手で跳ね上げて起き出した。それを合図に本を閉じ、千葉公園に向かって移動を開始した。

 下り坂の道を進んでいくと、公園の敷地に通じる勾配の急な階段に辿り着いた。階段の中央部分が、幅の狭いスロープになっている。腰を沈めてゆっくりとベビーカーを押していき、下まで降り切ったところで娘を歩かせることにした。

 木々の豊富な公園の敷地には幾つか運動場のような広場があり、高校生くらいだろうか、若い男たちが球技に興じていた。空のベビーカーを押しながら、娘と一緒に舗装された道を散策する。日除けの帽子を被った娘は、日盛りの空の下を悠然と歩いていく。もう随分と大きくなった。こんなに自由に、堂々と歩けるようになるとは、半年前には想像も出来なかった。成長は常に想定を裏切るものだ。そうでなければ、それは成長とは言えない。

 モノレールの駅に程近い、木蔭の坂道の辺りで、自転車を押して坂を登ってきた見知らぬ老婆と遭遇した。小さな足で元気に歩く娘の姿に、立ち止まって眼を細めている。坂の横にある、崖を下った先の運動場では、草野球の素っ頓狂な掛け声や叫び声が、次々に泡沫のように顫え、弾けていた。娘が立ち止まって、騒めきの生まれる方角を興味津々の表情で指差し、おうおうと声を出す。

 自転車に興味を惹かれて、娘が物怖じせずに近づき、華奢な指先でチェーンやサドルに触れるのを、老婆は和やかな表情で眺めていた。パパとお散歩いいね、ピンクの靴が可愛いね。話し掛けられて、娘はきょとんと老婆の顔を見上げる。暫く経って、老婆がじゃあね、バイバイと告げると、娘は不満げに鋭い声を発して嫌がる。そういう遣り取りを幾度か繰り返した後に、老婆は坂の上へ消えていった。

 敷地内に飾られた蒸気機関車を一頻り眺めた後、娘をベビーカーに戻して、千葉都市モノレールで私たちは家路に就いた。翌日、娘の躰に八箇所くらいの虫刺されがあったことを、妻に注意された。改めて考えてみれば、私の配慮が足りなかったのだ。新米の父親の行く手には、学ばなければならない知識が堆く山積している。

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晩夏の千葉公園の散歩道

 

サラダ坊主風土記 「千葉」(一日平均乗車人員数の比較)

 今日、JR千葉駅の真新しい駅ビルがオープンした。未だ実地には中身の作りを見学していないが、人伝に聞いた話では凄まじい人出で、午前中は入場制限が掛かっていたらしい。家の郵便受けに投じられていた広告を眺める限りでは、なかなか有名なブランドが揃い踏みで、駅に繋がっている分、利便性は高い。パルコも三越も消滅してしまった千葉駅周辺の状況を鑑みれば、恐らくかなりの集客が見込めるのではないだろうか。

 私は未だ千葉市民に転身してから一年と少ししか経っていない新参者で、千葉市とその周辺に余り馴染がある方ではないが、幕張出身で、私と同棲を始めるまでずっと幕張の実家に暮らしていた妻の話では、千葉駅は実に長い間、改良工事を行ない続けてきたそうだ。私は現在、千葉駅の近くに聳え立つ百貨店(ここまで書いたら直ぐに屋号は割れてしまうだろうが、一応伏せておく)の中のテナントで働いているが、昨年の春に配属の辞令を受け取るまで、千葉駅を利用した回数は十指に満たず、初めて降り立ったのが何時の出来事だったか明瞭に記憶していないが、そのときには既に工事の都合で駅舎の中身は一面、仮設の板壁で覆われてしまっていた。

 私にとっては、新規に開業したJRの駅ビルは紛れもない商売敵である。入居しているブランドの名前を眺める限り、北千住のルミネや柏のステーションモールが想起される。比較的若い年齢層の客を狙ったフロアの構成になっている。昨年11月の新駅舎・エキナカ商業施設開業以来、JRの巨大な計画が立て続けにその全貌を現しつつある。これは「斜陽産業」と呼ばれる百貨店にとっては深刻な打撃となるだろう。

 千葉駅というのは、地元の人間にとっては慣れ親しんだ施設であるが、縁遠い人にとっては概ね、関心の埒外に置かれている場所である。東京駅には誰でも足を運んだことがあるだろうが、千葉駅には特別な用事でもない限り、なかなか遠方から人は訪れない。無論、千葉駅は房総半島の玄関口としての機能を担っているので、内房線外房線総武本線成田線などの沿線に暮らす人々にとっては交通の要衝として重んじられているだろう。だが、例えば私はかつて長い間、千葉県松戸市に暮らしていたのだが、常磐線沿線に暮らす千葉県民にとって、千葉駅というのは全く無縁の場所である。わざわざ東武野田線やJR武蔵野線を経由して、千葉まで足を延ばす必要性は滅多に生じない。

 もっと言えば、私は幕張へ越す以前は津田沼に三年ほど住んでいて、津田沼から千葉までは総武線快速でたったの二駅の距離であるというのに、殆ど私用で千葉へ赴いた記憶がない。百貨店に用事があるならば、一つ隣の船橋駅に接する東武百貨店へ行く方が近いし、洋服や靴などを物色するならば、京成電車か、若しくは平和交通のバスに乗って、南船橋ららぽーとまで出掛けていく。わざわざ千葉まで足を運ぶことはない。その意味では、千葉市は孤立した状態に置かれているのである。

 そもそも、総武線の船橋や市川、或いは常磐線の柏や松戸ならば、東京は眼と鼻の先である。最先端のショッピングを望むなら、さっさと都心へ繰り出した方が遙かに話が早い。しかし、外房線内房線総武本線成田線の傍に暮らす人々にとっては、千葉が最も有力な買い物の候補となるだろう。千葉市に暮らす人々は東京まで気軽に出掛けるかも知れないが、例えば館山や鴨川、或いは君津や富津から東京まで行くのは、なかなか骨の折れる話であろう。

 過去の経験を振り返ってみたとき、私が個人的に興味深く感じるのは、総武線と常磐線の照応である。他愛のない戯言だと思って聞き流してもらって構わない。例えば、私が十年以上も暮らしていた松戸市は、江戸川に面しており、河を隔てた向こうは直ぐに東京都の下町である。この条件は、総武線における市川市と類似している。どちらも夏場に河川敷を利用して盛大な花火大会を催すところも共通している(しかも毎年、八月の第一土曜日に開催される点も同じである)。

 松戸にとっての最大のライバルであり、尚且つ若干競り負けていると内心で密かに感じているのは、隣の柏市である。松戸よりも東京から離れている、つまり「下っている」にも拘らず、松戸よりも柏の方が繁栄しているというイメージが強い。ウィキペディアによれば、駅の一日平均乗車人員数は柏の約19万人(JR・東武合算)に対し、松戸は約15万人(JR・新京成合算)と、やはり若干競り負ける結果となっている。

 松戸にとっての柏に該当するものを、市川の場合に考えるとすれば、恐らく船橋ということになるだろう。同じく駅の一日平均乗車人員数をウィキペディアから拾ってみる。船橋駅の約19万人(JR・東武合算)に対し、市川は他の路線への乗り換えが出来ない所為か、たったの6万人である。ちなみに都営線への乗り換えが出来る隣の本八幡駅は、9.6万人の乗車人員数を誇っている。両者を合算すれば、概ね松戸駅と同等の数値に達することが確認出来る。

 序でに常磐線と総武線を結び付ける大事な架け橋の役目を担っている武蔵野線に就いても確認しておこう。常磐線側の新松戸駅が3.8万人(乗車人員)に対し、総武線側の西船橋駅は、東葉高速東京メトロを除いたとしても13.6万人(乗車人員)、総てを合わせると、平成二十七年度の実績で約33万人という怪物的な数値を弾き出している。年間乗降客数は何と2億人を超えるらしい。

 それでは、我らが千葉駅の現況はどうなっているのか。多方面から電車が乗り入れるジャンクションとしての役割を担っていることを鑑みれば、相当な数値に達するのではないかと推測されるが、実際には千葉都市モノレールを含めても、11.6万人であり、柏にも船橋にも、松戸にさえも敗北を喫している。JR同士の乗り換えが多い為に、乗車人員への反映が小さくなってしまうのだろうか。

 ちなみに、千葉市花見川区幕張町に生まれ育った私の妻は、熱心な「国道14号原理主義者」であり、千葉街道以南の埋め立て地に広がる後発の美浜区が、メッセやマリンスタジアムを抱えている現実に胡坐をかいて、厚かましくも「幕張新都心」を詐称していることに以前から劇しい不満を訴えている。彼女に言わせれば、真の「幕張」とはJR幕張駅及び京成幕張駅の近辺を指すのであり、美浜区は飽く迄も「贋物」なのである。そこで愛妻家を自任する私としては、彼女の主張を裏付ける為に、関連する駅の一日平均乗車人員数を、ここに掲げておこうと思う。贋物の「幕張」の中心部に踏ん反り返って鎮座するJR海浜幕張駅の6.5万人に対し、JR幕張駅は1.6万人。何と、中央・総武線各駅停車の中では、最小の値であるという。あれっ?