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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「独裁者」に就いて

 最近、米国のドナルド・トランプ大統領は、ロシアとの「不適切な関係」を取り沙汰されて、四方八方から攻撃を受けている。ロシアのラブロフ外相に同盟国(イスラエル)から入手した機密情報を流したということで、国内の情報機関からも敵視されているらしい。東西冷戦時代の宿敵であったロシアとの癒着が事実であるとすれば、アメリカの国益を死守することを目的とする情報機関(CIAやFBI)の人々が激昂するのは自然な成り行きであろう。

 事実関係に就いては、私は何も判断する材料を持たないが、何れにせよトランプ大統領が国内のメディアに対して極めて露骨な敵意を剥き出しにしている現実(ロシアとの癒着疑惑を大っぴらに報道されることが気に食わないようだ)は、政権の遠からぬ末期を予測させる。大統領選挙におけるトランプの衝撃的な勝利の原因に就いては、様々な議論や憶測が今日まで囂しく飛び交ってきたが、そういう具体的な経緯が如何なるものであれ、トランプが一国の元首に相応しい人格の持ち主であるとは思えないという世間の素朴な感想の正しさは、いよいよ立証されつつあるように感じられる。

 無論、元首が隅から隅まで清廉潔白である必要はないし、デモクラシーに基づく政治と社会の運営を選び取った近代国家において、多少なりともポピュリズムの傾向が強まることは避けられない現象であろう。だが、大衆の支持を得た者が政治的な正当性を手に入れるという原則に対する尊重を忘れないとしても、ドナルド・トランプの政治的手法は、明らかに歴史的な理想と対立している。彼は近代社会が少しずつ積み上げてきた諸々の理想的な観念を土足で荒々しく踏み躙ることによって、合衆国の政治的絶頂に昇り詰めた。選挙に勝利した者が政治的な正当性を認められるというデモクラシーの原理は、ドナルド・トランプの下品な言論活動によって、その栄誉を明瞭に毀損された。彼は自らの方針や信条に反対する者を劇しく非難し、触れられたくない問題に容赦なく嘴を突き入れるメディアを中傷することに聊かの痛痒も覚えない人物である。だが、報道の自由言論の自由が、如何なる歴史的経緯を踏まえて形成されて来たのか、それを少しも考慮しないように見える彼の粗野な政治的手法は、厳しい詮議の対象に据えられるべきである。ドナルド・トランプが如何なる政治的信条を持とうと、確かにそれは本人の有する市民的自由の範疇に属する問題だが、彼が大統領であるという事実に就いて、過剰な意味づけを施す必要はない。これはデモクラシーの無惨な失錯の驚嘆すべき実例である。

 広義の政治が、清廉潔白な倫理的態度だけで成り立つものではないこと、それは誰しも自らの経験に照らし合わせて理解している。だが、ドナルド・トランプの問題点は、彼が清廉潔白な人間ではないという当然の事実に根差しているのではない。重要なことは、彼がアメリカという国家が今まで象徴してきた先鋭な理想主義を、決定的に破壊しているという点に存する。奇しくもロシアとの癒着が疑われている今、トランプを自由主義の国家に侵入した古臭いファシズムベクターとして定義することは、必ずしも荒唐無稽の暴論であるとは言い切れないだろう。無論、現代のロシアを全体主義国家と呼んで蔑むことは出来ないが、スターリンの時代の記憶を、完全なる過去の亡霊として忘却するのは、賢明な振舞いではない。

 移民やイスラム教徒に対する威圧的な差別、貿易赤字に関する強硬で独善的な憤怒、そうした見苦しい短所に加えて、彼の人格的未熟さを露骨に象徴しているのは、メディアに対する露骨な(無思慮な)嫌悪の表明である。彼はメディアに対する誹謗中傷を辞さないが、恐らく本人は自身に対するメディアからの誹謗中傷への、当然の報復を行なっているに過ぎないと考えているのだろう。或いは、控えめな反発を示しているに過ぎないと信じているかも知れない(定例会見の中止の意向を示すくらい、大したことではないと考えているのではないか)。だが、メディアに対する嫌悪が、自分にとって不都合な真実を報道しようと試みる人間に対する憎悪なのだとすれば、彼の怒りは余りにも幼稚で、自己中心的である。合衆国の大統領であるということは決して、絶対王政の君主であるということではない。彼は人民に委託されて政権運営を担っている公僕の長であるに過ぎない。

 ドナルド・トランプの様々な振舞いが、如何にも典型的な独裁者の風貌に相応しいものであることは明らかなのに、彼が米国の民衆の支持を集めて元首に推されたという事実は、本来ならば慨嘆すべき事態である。バラク・オバマの理想主義が政治的な実効性を発揮し得なかったのだとしても、その後釜にトランプを据えれば種々の社会的問題が解決すると信じ込むのは余りにも無思慮な反動の産物だろう。

 美しい理想を語るだけで役に立たない元首が退くのは当然だと、米国の恵まれない白人たちは訴えるかも知れない。だが、ドナルド・トランプが元首として有能であると信じ得る根拠は見当たらない。成功した実業家が、成功した合衆国大統領に転身し得るとアナロジカルに考えるのは個人の自由だが、それは飽く迄も表層的な類推に過ぎない。そもそも、あれほど差別的で粗野な人物が、成功した実業家として認められているという事実自体が、私にとっては信じ難い話なのだ。そこにはアメリカという国家の特殊な「体質」が関与しているのだろうか。

「正論」に就いて

 「正論」は凶器のようなものである。無論、これは一種の極論に等しい命題だ。如何なる正しさとも無関係に、己の実存を歩み続けることは簡単ではない。如何なる正しさも肯わないままに、自分の人生を切り拓いたり、苛酷な試練に挑戦したりすることは不可能である。だが、そうした経験的事実を踏まえた上でも、私は「正論」が凶器であることを信じて疑わない。

 正しさの主張は、或いはその論理的な立証は、他者を屈服させる為の暴力的な装置として存在する。「正義」が人の数だけ存在することは既に広く知られた「真実」であるが、そうした原理原則に絶えず依拠しながら、日々の生活を営むことは酷く難しい。私たちは「主観」と「客観」の矛盾の中に投げ込まれている。自信を持って人生の行路を歩む為には、己の感じた主観的な事実に対する絶対的な肯定を貫かねばならない。しかし、自分の所持している「真理」が、結局は主観的な相対性の渦中に置かれていることを同時に認識していなければ、如何なる自信も不毛な「狂信」と見分けがつかなくなるだろう。この厄介な矛盾は、私たちの人生に植え付けられた、決して覆すことの許されない根源的な両義性である。

 「正論」を振り翳して相手の弱点を苛むこと、それは相手を打ち倒す為の手段としては非常に有効である。憎むべき相手を刺殺する為に、言葉の匕首を研ぎ澄ますことは、世間では少しも珍しくない類型的な行為である。だが、私たちは時に、そうした危険な凶器を慈しむべき相手に突き付けてしまう。それが如何なる稔りを齎すのか、充分な検討を加える手間を惜しんで、あたかも通り魔のように「正論」の切っ先をぎらりと燦めかせてしまうのだ。大抵の場合、その愚かしさを悟る頃には、既に不毛な流血が地面を濡らしてしまっている。

 自分の正しさを信じることは個人の勝手だ。しかし、自分の正しさを相手に承服させようとするのは、越権行為であると言える。自分の信じる正しさを、他人が共有してくれるかどうかは、完全に他人の裁量に委ねられた問題である。だが、私たちは直ぐに自分の信じる正しさの「普遍性」を希求してしまう生き物であるから、少し気を緩めただけで容易く慎重な自制心を失ってしまう。どう考えても正しい、非の打ち所のない推論の涯に辿り着いた答えを、他人が幼稚な理由で峻拒するとき、相手の愚かさを嗤笑せずに持ち堪えられる者は、本当の意味で優れた人間である。言い換えれば、それは他人が愚かである権利を承認するということであり、翻って己の愚かさを肯定することに等しい。正義という熱狂的な麻薬に手を染めるなと言いたい訳ではない。正しさが相対的な観念に過ぎないことを自覚すべきだという尤もらしい言説の有効性を、無条件に信頼している訳でもない。

 自分の正しさを信じるというのは、他人と比べて己が論理的な優越性を確保しているという事実を支持するものではない。論理的に眺めれば明らかに間違っていたとしても、私がこのように感じ、考えているという事実そのものは否定出来ない、という認識が、自分を信じるという精神的秩序の基礎的な原理であり、手続きである。まるで、デカルトのような口吻だ。森羅万象を疑うことは可能だが、森羅万象を疑っているという事実そのものは肯定するしかない。同じように、私が現に考えていることの内容の妥当性と、私がそのように考えているという事実そのものの妥当性は、同列に論じることが出来ない。私がどのような愚かしい考えや信仰に囚われているとしても、そのように囚われているという事実自体を否認してしまえば、如何なる前進も有り得ないのだ。先ず大前提として「私は、このように感じている」という経験的な事実から出発することを閑却してはならない。

 私が「自信」という言葉で呼びたいのは、こうした根源的事実の肯定である。私は幾らでも謬見を述べるだろうし、頻繁に視野狭窄にも陥るだろう。だが、そうした愚行を繰り返している自分自身の存在と精神を否認しようとは思わない。恐らく世の中に数多存在する「自信のない人々」は、自分が謬見を述べたり愚行を演じたりするという事実に、感情的若しくは道徳的な嫌悪を禁じ得ない人々なのだ。如何なる誤謬とも罪悪とも無縁でありたいという奇怪な道徳的高潔が、彼らの自尊心を度し難いほどに毀損している。それはキリスト教における「原罪」の観念を想起させる。自分たちは根本的な過ちを犯した存在であり、その罪から逃れることは絶対に出来ないという恐るべき理念が、人々の素朴な自己信頼を破壊するであろうことは眼に見えている。そして怯えた人々は「正しい人生」を手に入れることで、打ち砕かれた自己信頼の再建を目論むのである。それが「異常な廉潔」の温床であることは論を俟たない。

 如何なる邪悪な考えも、それを懐いているという事実を否定することで抹殺され得るものではない。寧ろ、そうした認識の否定は、否定された対象の異様な膨張を齎しかねない。正論に固執する人々は、自分が罪悪によって穢されているという事実に堪えかねて、罪悪を犯す人々を劇しく憎むようになる。だが、本来イエス・キリストは、そのような「異常な廉潔」に対する倫理的な抵抗を企図したのではなかっただろうか。私はキリスト教の歴史に就いて頗る無知な人間だが、姦淫の罪を犯した女に石を投げる人々に向かって「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」(「ヨハネによる福音書」)と言い放ったキリストの精神は、あらゆる「正論」の尋常ならざる暴力性に対する簡明な警告であるように思われる。

「コミュニケーション」に就いて

 現代は「コミュニケーション」という理念が異常に重視され、魔法の言葉として濫用される時代である。多くの人々が「コミュ力」(コミュニケーション力)の多寡を競い合い、自分は「コミュ障」(コミュニケーション障碍)であるという奇怪な卑下を用いて、不可解な予防線を張りたがる時代である。無論、コミュニケーションという事象そのものは太古の昔から私たち人類にとって根源的な機能、或いは習性として存続してきたものであり、決して近来の発明品ではない。然し、これほど頻繁に、極めて卑俗な観念として「コミュニケーション」という言葉が用いられるのは、現代的な事象であると看做して差し支えないのではないだろうか。

 良くも悪くも様々な技術の発達で、世界は随分と狭くなった。特にインターネットの爆発的な普及が、世界の狭隘化に拍車を掛けている。二十四時間、絶えず世界中の人々と何らかの関わりを持つことが可能であるという現実は、たった半世紀前でさえ考えられなかった異様な状況である。そうした通信技術の発達が歯止めを欠いたまま劇しく亢進し、最早人々は全くの純然たる孤独の内側に耽溺することすら許されない。ミラン・クンデラは、フランツ・カフカの文学の特質として「侵害された孤独」という表現を用いていたが、まさしくカフカの偉大なる洞察力は来るべき新世界の本質的な特徴を照らし出していたのだと、大袈裟に称讃してみるべきだろう。実際、私たちの本質的な苦悩の由来は「侵害された孤独」に存するのではないか。インターネットの普及、そして携帯電話の普及が、私たちを或る集団やシステムから切り離し、アトミックな個人としての形成を促した。固定電話から解放された私たちは同時に「家庭」という単位からも解放され、浮遊する自由な個人として生きているが、それは言い換えれば、個人があらゆる「隔壁」を喪失したということである。家族からの解放は確かに一種の「自由」の実現だが、その自由が結果として「剥き出しの個人」を産み落とし、そのナイーブな表面に直截な社会的影響を齎しているというのは、厄介な逆説である。

 剥き出しの個人として定義された私たちは、絶えず他者との「コミュニケーション」の成否に神経を尖らせることを強いられるようになった。家族のように親密な領域においては、例えば「言葉の使い方」や「表情」や「振舞い方」に意識的な洗練を求める必要性は小さい。彼是と冗長な説明を試みずとも、共有された時空(「場所」と「歴史」の共有)の堆積が、つまり親密な「文脈」が総てを事前に定義し、描写し、物語ってくれるからだ。親密な共同体に帰属することが、そのまま生きることの総てであった時代においては、コミュニケーションという観念が殊更に人々の念頭へ浮かび上がる必然性は極めて乏しかっただろう。しかし、アトミックな個人としての実存、そういう現代的実存の宿命に囚われた私たちは最早、そのような共同体の文脈に依存して万事を遺漏なく処理することなど許されないのだ。良くも悪くも私たちは「他人の沙漠」に暮らしているのであり、何も共有し難い相手とも努力して交流を持たねばならない因果な時代を生き延びねばならないのだ。

 だが、コミュニケーションの巧拙に関する種々の議論が、安定した共通の地盤の上に展開されているとは言い難い。コミュニケーションが「他人の沙漠」を生き抜く為の不可欠な手段として認知されている為に、却ってその本質が客観的に理解されていないという懸念が存在しているのだ。多くの人々は「他人と巧く付き合う方法」という次元で「コミュニケーション」を論じているが、それは単なる表層的な処世訓の亜種に過ぎない。本当に大切なことは、つまり「コミュニケーション」の礎石として理解されるべきことは「自己理解」であり、「自己との対話」である。この面倒で地味な過程を軽々しく踏み越えて一挙に「他者」へ迫ろうとする総ての方法論が、下らない蹉跌に苦しむことになるのは自明の理である。自分自身が何者なのか、それを充分に検討することもなく、そもそも「自分の意見」を確かめるという素朴な手続きさえも怠って、他者との表面的な共存共栄の実現に血の滲むような努力を捧げる生き方が、己の精神に及ぼす禍いに就いて、私たちは慎重な分析を惜しんではならない。コミュニケーションの目的は社会的な栄達でも、私利私欲の満足でもなく、この世界に関する真実を捉えることなのだ。愛想笑いや巧みな雑談の技術で、コミュニケーションの「上達」を成し得たと信じる愚かな謬見の懐で、私たちは絶えず悪足掻きを続けている。そうした危険な方針は「自己の喪失」を齎し、結果的に「他者の喪失」を惹起する羽目に陥るだろう。コミュニケーションは常に「真実」と手を繋いでいる。それは時に暴力的な仕方で「他者との訣別」さえも、哀れな私たちに強いるのである。

 

小説の技法 (岩波文庫)

小説の技法 (岩波文庫)

 

 

「悼むこと」に就いて

 余り具体的なことを書くと差し障りがあるので、詳細は省くが、今日、勤め先の店舗の固定電話に、常連の御客様(仮に「Sさん」としておこう)から、私宛てに電話が掛かってきた。

 最近、余り顔を見なかったので一頻り久闊を叙した後に、Sさんは今度の日曜日にオードブルを作ってもらうことは可能かと私に訊ねた。事前に予約してもらえれば、予算や食べる人数に応じて見繕いながら用意出来る旨を伝えると、Sさんは唐突に、母親が「旅に出てしまった」と言った。一瞬、発言の意図を掴みかねた後で、いつも一緒に買い物に来ていた老齢の女性の姿を眼裏に想い描き、母親が亡くなったという意味だと悟った。日曜日に焼き場へ行くので、その都合でオードブルが入用になったという訳だ。母も貴方のことを気に入っていたから、貴方の店で頼めるのならば頼もうかと思ったのだけれどと、Sさんは言った。私は咄嗟に何と答えればいいのか分からず、恥ずかしながら当惑してしまった。

 一通り事務的な遣り取りを終え、向こうが電話を切ろうとする気配を感じたところで、私は受話器に向かってSさんの名前を呼び、自分は不勉強で、こういうときに、どういう言葉を掛けて差し上げればいいのか分からないのですと告げた。するとSさんは穏やかな口調で、こういうときは「御力落としのないように」と言えばいいのよと教えてくれた。私が改めて「Sさま、どうか御力落としのないように」と告げると、Sさんは私の名前を呼び、「ありがとう」と咬み締めるように答えた。

 自分が未熟な人間であるということ、それは例えば、こういう局面での咄嗟の対応に表れるのだろうと、電話を切った後で静かに考えた。帰り道も、何かの拍子に昼間の一件を思い出し、誰かを「悼む」という経験が、或いは不幸に見舞われた人を「慰藉する」という経験が、自分には欠けているのだなと痛感した。

 勿論、身近な誰かを亡くすような経験は、少ない方がいいに決まっている。だが、私の両親も数年経てば七十の坂へ差し掛かるし、今は元気でも何がきっかけで躰を壊したり、堰を切るように三途の川を渡ってしまったりするか、それは誰にも予測し難い話だ。自分自身が齢を重ねていくほどに、知り合いの訃報の数は着実に増えていくだろうし、その度にどうにもならない悲哀と踵を接することになるだろう。私は未だ、自分の親が存在しない世界を経験したことがない。生まれてこの方、一度も親の不在を味わったことがない。考えてみれば、それは少しも当たり前の状態ではないのだ。

 誰かが死ぬということ、それ自体はこの世界では有り触れた出来事で、戦争やテロリズム、事件や事故、病気や老衰など、様々な原因に荒々しく踏み躙られるように、人間の生命は容易く散ってしまう。だが、本来エゴイスティックな存在である人間は(私を筆頭に)遠い他人の死を生々しい事件として感受する力を有していない。けれども、あらゆる「死」には必ず「当事者」が附随しているものであり、そこには深甚な絶望や悲哀が必ず刻み込まれている。

 そうした「死」との付き合い方や「作法」に関する活きた知識も具体的な経験も、今の私には欠けている。それが三十一歳という年齢ゆえの「幸運」の賜物であることは事実だが、何れにせよ、その「幸運」が私の人間的「未熟」の温床であることは否定出来ない。「死」というものと半ば無関係に存在し、生きているという相対的な現実が、私という人間の軽薄な側面を形作る原因として働いている。それを具体的に革めることは出来ない。自ら「死」との関わりを望むのは、倫理的な意味で不健全であるからだ。だが、人間としての成熟を企てるのならば「死」との関わりは何れ、避けて通れぬ道程として私の行く手に立ち開かることになるだろう。

 死者に寄り添うこと、或いは遺族の哀しみを自分のことのように引き受けること、それが人間的な価値の重要な側面であることは論を俟たない。大事な存在を失った人に向けて投げ掛けるべき常套句の一つも弁えないようでは、幾ら馬齢を重ねたところで「餓鬼」のままである。それでは駄目だ、もっと学ばなければならない、もっと成長しなければならない、というのが、今日の私の「気付き」であり、反省点である。

「書評」に就いて

 私は最近、中上健次の分厚い長篇小説「地の果て 至上の時」(新潮文庫)を読んでいる。最初に購入して通勤の往復の電車で読み出し、途中で飽きて投げ出したのが二十代前半の頃だったと曖昧に記憶しているので、それから知らぬ間に随分と月日が過ぎてしまったことになる。

 相変わらず読み辛い、独特の屈折と転換に満ちた文章なのだが、最初に読んだときよりも随分と面白く感じられるのは、年の功という奴だろうか。物凄い筆圧で押し付けるように書かれた、凝縮した文体なので、読み進めるのにやたらと時間が要る。未だ物語の半分にも達していない。

 此処数箇月、もっと熱心に、集中して読書しよう、今まで恐れ戦いて敬遠してきた世界中の古典と呼ばれる書物にも挑んでみよう、確りと読書の時間を確保するように努めようと考えながら、実際にそのように行動してきた訳だが、そうやって日々を暮らすうちに徐々に溜まっていく「澱」のようなものの存在を、不図悟らずにいられない瞬間が、脳裏を掠めるときがある。「澱」と言っても、明瞭にその存在の中身や内訳を自覚している訳ではないのだが、ずっと読書に浸っているうちに少しずつ「現実」の感覚が削れて、麻痺していくように思われるのは、必ずしも気の迷いではないだろうと思う。或いは、ずっと水の中に潜って、日頃とは異なる風景の中に耽溺し続けるうちに、何だか息苦しくなって水面へ顔を突き出したくなるような感覚と、言い換えられるかも知れない。何れにせよ、余り好ましい徴候ではないという気がするのだ。

 こうした漠たる考えに一層鮮やかな輪郭を齎したのは、ショウペンハウエル(ショーペンハウアー)の「読書について」(岩波文庫)を読んだ影響かも知れない。多読を戒め、書くことを整理する前に書き出すことの愚かしさを論難する、ドイツの哲学者の機智に富んだ文章を読みながら、本を読むことに人生の目的を半ば委ねるような生き方が、果たして自分の望む生涯の姿であろうかと、改めて考え直す契機を授かった次第である。読書という営為を「他人の頭に考えてもらうこと」であると定義し、寝ても覚めても書物に齧りつく学者の生活を「精神的不具廃疾」の要因と、攻撃的に断言して憚らないショウペンハウエルの言説は、一から十まで直ちに頷いてよいものか判断に苦しむところだが、その言い分には真摯で清冽なものが含まれている。少なくとも尋常ならざる説得力が隅々に浸透していることは明白である。

 無論、読書の効用を全面的に否定する意思は、現在の私には備わっていないし、ショウペンハウエルも無闇な多読を批判しているだけで、良書を読むことには確実な価値を見出している。少しずつ時間を割いて、仕事や私生活の合間に、中上健次の書き遺した南紀の異様な物語を読み進めていくのは、決して無益な経験ではない。ただ現在の私は、読書感想文だけでこのブログを埋め尽くすことに就いては、懐疑的な考えを持ち始めている。一冊の本を読み、その内容に関して雑多な文章を書き散らすことが、個人的な思索に対する生産性を全く持ち得ないなどと、極論を吐く積りはない。書くことが読むことと切り離し難い、緊密で根源的な関係を有していることは、明白な事実である。けれども、私は専ら本を読むことから、個人的な思索の燃料や養分を汲み上げようとする姿勢が、果たして建設的なものかどうか疑わしく思っている。本当に大事なことは、つまり「生きる」ことの本義は、自分自身の意見を作り上げることであり、その材料として書物に刻み込まれた先人の偉大なる「叡智」の片鱗を流用することは、決して罪悪ではないと思うが、意見を汲み出す「水源」が常に「他人の言葉の凝集された形」であるというのは、幾分、不健全であるようにも思う。ショウペンハウエルの執拗な説教が、そうした疑念を私の胸底に芽生えさせたのであろう。

 そう考え出したら今更、大上段に振り翳した竹刀を振り下ろすように、わざわざ気持ちを入れ替えて「本の虫」になろうと企てるのは随分と滑稽な、或いは窮屈な判断であるように、自分の心が感じ始めたのだ。確かに本を読むことには様々な「愉悦」も「利得」も付帯しているが、だからと言って、その道を専一に歩もうと覚悟を固める義理はない。世の中には凄まじい量の書物を読破して、その感想文を認めている猛者たちが数多く存在しているが、そういう人たちの後塵を拝しているのが癪だ、などと考え始めるのは実に馬鹿げた話であろう。熱心に本を読み続けて、そこから触発された幾つかの「些末な考え」を後生大事に抱き締めて、尤もらしい「書評」のような文章に纏めて公表したところで、一体何になるのだろうか。ショウペンハウエルが「多読」を戒めるのは、それが「再読」や「精読」の障碍として作用してしまうことを懸念した為であろう。実際、一冊の優れた書物から汲み上げることの出来る「思索」の振幅と奥行きは、たった一回分のブログ記事に収まるほど痩せ衰えた、貧弱な代物ではない筈だ。

 このブログには、幾つも「書評」に類する記事を投稿しているが、沢山の書物を読み、それに就いての文章を著そうとする不自然な衝動が、私の下らぬ虚栄心と結び付いていることに、反省の眼差しを向けない訳にはいかない。その証拠に、私は読んだばかりの書物に就いて、その中身の記憶が薄れないうちにと、慌てふためきながらキーボードを乱暴に叩いているのだ。そういう軽薄な営為の堆積の涯に、一体如何なる人間的価値が形成されると言うのだろうか? 本当に大切なことは、自分が心を惹かれた数行の文章の為に、長い時間を費やして己の思索を磨き上げ、深めていくことではないだろうか?

 無論、一冊の書物も読まずに己の考えを深めることは出来ないだろうし、書物から多くの智慧を学び得るという人間の習性は貴重な財産であるには違いない。だが、世の中に蔓延する多くの「書評」が、生きていく上でどれほどの価値を持ち得るのか、疑わしいということも一つの真実ではないかと思う。本を読み、そこから導き出された感想の断片を書き殴る、それだけで私たちが有益な(「実用的である」という意味ではない)思索の体系や秩序に到達することが出来ると信じるのは、幼稚な考えである。一行の文章に「真理」を宿らせる為には、私たち自身の実際の「生活」や「経験」に就いて、充分に思索を練り上げることが肝要である筈だ。人は読む為に生きるのではなく、生きる為に読むのである。ショウペンハウエルが「学者の生活」を嘲笑したのは、彼らが「読む為に生きている」ように見えたからではないだろうか。人間にとっては、生きることが総てであると、確か坂口安吾も書き遺していたではないか。

 

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)

 

 

「自信を持つこと」に就いて

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 昨春から約一年間、一緒に働いてきた部下の女性社員が今月で異動になり、後任の女性社員が配属されてきて、三日間の引き継ぎ期間に入っています。

 新たに着任した彼女の働きぶりを見ていて、最も強く感じたのは、根本的な「自信」の欠如です。前任の社員が自信と活気に満ち濫れた優秀な女性である為に、知らず知らず比較してしまい、どうしても際立って頼りなく見えてしまうのかも知れませんが、自信を持ち難いタイプであることは、本人も認めていました。

 自信を持つということは、確かに簡単なことではありませんが、結局は「習慣」の産物であることも確かで、生まれ持った遺伝子の配列に自信の有無が書き込まれている訳ではないと、私は思っています。そもそも「自信」という言葉の定義自体が、非常に多義的で議論を呼ぶものですが、差し当たり私は「自信」という言葉を「自分の意見を肯定すること」として捉えています。

 世の中には、自分の手持ちの知識や経験や判断力では対処し難い事象というものが山積しています。学校の教科書に書き込まれているような、様々な先人の探究と検証を経て鍛え抜かれたパブリックな定説とは違って、それらの生身の「問題」には、絶対的で普遍的な正解というものが附属していません。そういうとき、私たちの思索と決断と行動は多かれ少なかれ「博打」の要素を含むことになります。正解を持たない問題、或いは状況に応じて幾らでも正解が変化していくような性質の問題に対して、私たちが下す判断は常に相対的で個別的なものです。それは、この世界における「実存」の基本的な様態であり、決して特殊な事象ではないのですが、世の中には、そうした「実存的決断」に対する恐怖や不安を根強く抱え込んでいる人々が数多く存在しています。

 自分の知らないところに「正解」が存在する、という強固な信憑に囚われた人々は、絶えず外在的な「正解」を追い求めることに労力の過半を費やしながら生きています。確かに、最終的な「正解」は自分の能力を超えたところに存在することが殆どです。けれど、生きることが常に「正解を選択すること」ではないという常識的な意見が、そのような探究に付き纏う過重な精神的消耗を緩和するのが通例でしょう。

 しかし「生きることは、常に正解を選択することではない」という常識的な命題を肯定出来ない人々が、この世界には実在します。彼らは唯一神を信じる敬虔なキリスト教徒であるとは限らないのですが、自分以外の絶対的な審級に対する盲従を好みます。例えば、その対象は「両親」であったり「上司」であったり「教科書」であったり「前例」であったりします。何れの場合にも共通して言えることは、それが「他人」であるということです。

 「正解は外部に存在する」という信憑に余りにも強く囚われてしまった人は、絶えず「自分の意見」よりも「他人の意見」を優先する思考の様式に取り込まれてしまいます。こうした思索の形態が「自分自身の意見に対する肯定や信頼」の意識を徐々に減殺していくであろうことは、歴然としています。「自分の頭で考える」ことの重要性は、こうした思索の形態を選択し続けている限り、決して本当の意味では体得することの出来ない「真理」です。「正解」を選ばなければならない、という窮屈な価値観に囚われた不幸な人々は、その為に何時でも「自分の意見の疑わしさ」を吟味しなければならないという緊張に呑み込まれてしまい、そこからの脱出を図って「盲目的な臣従」へと飛躍してしまうのです。

 「正解」は外部から与えられるものではなく、常に自分の頭を濾過した上で把握しなければならない、というのが実存的な真理であると私は思います。それは他人の意見に耳を傾けない、という「狷介さ」の肯定とは異なります。自分の頭で吟味していない「意見」を丸呑みするのは不誠実であり、無意味であるということを理解すべきであると、私は言いたいのです。

 どれほど正しい意見であっても、それが自分の「頭」を通じて消化され、自分自身の意見として作り変えられない限り、それは単なる「他者の答え」に過ぎません。私たちは「他者の答え」に隷従して生きる限り、決して自分自身を愛することも、自らの人生に「責任を取る」ことも出来ないのです。言い換えれば「自信を持つ」ということは即ち「自分の人生に対する責任を、他人に背負わせない」ということです。その覚悟を固めない状態で幾ら頭脳を使役し、知性と感性を全力で稼働させても、納得のいく「答え」に到達することは不可能です。

 往々にして「自信」の欠如は「責任」の欠如であり、「責任」の欠如は即ち「自由」の欠如です。「責任」に対する異常な怯えは、様々な個人史的過程、つまり自分の意見を持つことを認められないような状態での成長=生活によって培われるのではないかと思います。幼い子供は誰しも叱責を嫌いますが、叱責に立ち向かう勇気は「生きる勇気」と同義です。反抗期を持たない子供が、正常な成長を遂げることは難しいと、私は思います。

 叱られないこと、失敗しないこと、誤った選択を行なうこと、それを過度に忌避する精神的傾向は、必ず人格を委縮させ、覇気を奪い去り、未来に対する建設的な展望を阻害します。たとえ失敗であったとしても、自分が選択した途ならば後悔はしない、というのが人間の健全な態度であると私は信じています。他人に自分の判断の責任を委ねるような生き方は、不毛な自己弁護の科白を生み出すだけで、結果的には如何なる利益も生み出さないのです。「反省」は有意義な理性的態度ですが、「後悔」は不毛な感情的態度であるに過ぎません。「自分の人生に対する責任は自分で負う」と決意することが、大人になることの本義であり、甘美な幼少期の郷愁から遠ざかる為の唯一の方途なのです。

「赦すこと」に就いて

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 今日、昔の部下(男性です)と電話で話す機会を持ちました。今は転職して、別の会社で働いているのですが、久々に逢いましょうという連絡が届いたのです。何かあったのかと思い、メールで「そろそろ結婚の報告か?」と冷やかしたら、案の定「別れました」という返信が来ました。人間は、順風満帆の時には後ろを振り返らないものですが、何らかの蹉跌に遭遇すると、無性に過去が懐かしく思えたりするものです。

 電話で話したところ、要するに相手の人間性に納得し難い部分を見出すようになり、冷却期間を置いた上で話し合った末、別れるという結論に到達したということでした。詳しい事情は分かりませんが、付き合っていた女性が、ルームシェアしている同居人の女性に対して、傍目には理不尽とも異様とも思える憎悪を懐くようになり、それを露骨に表現するようになって、彼はそれまで隠蔽されていた相手の「本性」を目の当たりにしたような想いで、百年の恋も冷めてしまったようです。

 彼女が同居人に対して、如何なる経緯から「赦し難いもの」を胸底に滾らせるようになったのか、その精確な真実は本人にしか分かりませんし、或いは本人も明瞭には自覚し難いものなのかも知れませんので、又聞きの第三者が彼是と論評を加えるべきではないでしょう。ただ私が、その出来事から触発されるように考えたのは、一体「赦す」とは如何なる営為なのか、という問題でした。

 例えば私は、電話で話した部下と一緒に働いていた当時は、かなり高圧的で鼻持ちならない男で、他人の失錯を絶対に「赦し難い」と感じる傾向の強い人間でした。しかし、最近では随分と角が取れて丸くなり、多少のことでは怒りませんし、仮に怒ったとしても、それを表に出すことは稀です。そうした精神的変化は、単なる加齢の所産なのかも知れませんが、それ以上に私自身が身に染みて、他者の失錯を厳しく見咎め、糾弾し、叱責することの「不毛」を理解するようになったことが、最大の要因であると分析しています。昔の私は、他者の失錯を叱責することを「正義」であると信じ切っていました。しかし、様々な経験から、私はそうした「正義」が極めて無力な理念でしかないことを少しずつ学んでいきました。厳しい糾弾や訓戒が、他者の力を伸ばし、成長を促すことは極めて稀です。もっと言えば、そういう「粗捜し」のような行為は、どんな盆暗な人間にも出来る下賤の行為であると、考えを革めるようになったのです。

 私には今、一歳二箇月の娘がいますが、徐々に自我がはっきりとしてきて、気に入らないことがあると、直ぐに声を荒らげて泣き叫んで、反抗心を露わにします。水分補給の為に薄めた麦茶を飲ませようとしても、気分が向かないと娘は、不機嫌な大人のようにそれを手で乱暴に払い除け、顔を背けます。そういう態度は時に、相手が幼子だと分かっていても、腹立たしく感じられるものです。けれど、大人であり、親である私にとっては、娘のそうした振舞いを「赦す」ことが責務であり、使命であると言えます。人間が成長の過程で様々な理不尽な振舞いに及ぶことは至極当然の話であり、理窟で言えば「黙って飲めばいいのに」と思うことでも、彼女の側では何らかの理由があって、麦茶を飲むことに抵抗している訳ですから、私はそれを「赦さなければならない」のです。いや、決して義務感に縛られて、不承不承そのように思うのではなく、赦すことが、彼女を愛することであり、延いては彼女の成長を促すことにも通ずるのだと、半ば信じ込んでいるのです。

 赦すことは、相手を理解しようと努めることと同義ではないかと、近頃の私は考えます。年度が革まって間もない職場でも、新入社員や新人のアルバイトと接する時間が増え、彼ら彼女らの仕事振りに頼りなさや瑕疵を見出すことは日常茶飯事です。そういうとき、昔の自分だったらもっと露骨に不機嫌になったり、苛斂誅求を加えたりしただろうなと思う場面でも、私は努めて冷静さを保ち、仮に叱責するとしても注意深く言葉を選ぶように努めています。単なる感情的な叱声が、他人の心を積極的な、明るい方向へ揺り動かす見込みは皆無に等しいからです。他人を委縮させ、落胆させ、恐怖させることは、相手の成長に歯止めを掛けることと似ています。無論、厳しい口調で叱らなければならない場面というのは存在しますが、それを感情的な叱声によって相手に伝えようとする試みは、往々にして無益な徒労に終始します。そのように考えられるようになっただけでも、私という人間が社会に齎す害毒は、減少したと言えるのではないでしょうか。

 赦す力が強ければ強いほど、人間の器量は大きいのではないか、という仮説が頭に浮かびましたが、この命題を安易に一般化し得るとは思いません。例えば自分の娘を何者かに殺されたとき、私は下手人を寛大に「赦せる」かどうか、自信が持てません。情状酌量の余地がある事情ならば未だしも、例えば純然たる「遊戯」のような積りで、相手が娘を嬲り殺したと仮定したら、私は極刑を望まずにいられるか、分かりません。赦すことが、殺された娘への「裏切り」に値するのではないか、死んだ娘は下手人への「復讐」を求めているのではないか、という考えから、自由でいられるかどうかも分かりません。そのとき、赦すことが常に正しいのだと、神のような境地に立って、他人にも自分自身にも言い切れるだろうかと想像を逞しくしてみると、私は今のところ「否」と答えることしか出来ないのです。

 今日、仕事の帰りに千葉駅のコンコースへ通じるエスカレーターに向かって歩いているとき、向かいから猛然と走ってきた高校生くらいの男の子の肩が、私の肩に劇しくぶつかりました。先方は謝るどころか立ち止まりもせずに走り去っていき、私は幾らか腹立たしい想いに囚われました。道を空けるべく避けようとしなかった自分も悪いのですが、あんな勢いで狭い道を走って、想像通り人に衝突しておきながら一言の謝罪もしないとは、全く屑みたいな野郎だと思いました。とはいえ、追い掛けて怒鳴りつける訳でもなく、私は黙って自分自身に言い聞かせました。若しもあの少年が、暴力団に所属する強面の人々だったら、私は振り向いて怒鳴りつけるだろうか、いや、報復が怖くてそんなことは出来ないだろう。しかし、高校生の少年に対してならば、追い掛けて罵声を浴びせることも辞さないのだとしたら、それは「卑怯」と言うべきではないだろうか、と。

 こんな小さな揉め事にさえ、苛立ちを禁じ得ない私が「小者」であることは、火を見るより明らかです。況してや、自分の妻や娘が第三者の悪意によって傷つけられたとしたら、私はもっと歴然と「阿修羅」になるでしょう。無論、そうした現実が「赦すこと」の尊厳を毀損する訳ではありません。ただ私は、こうした問題に就いて、葦のように頼りなく考え続けることしか出来ないのです。

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