サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「文明」と「文化」の差異について

 どうもこんにちは、サラダ坊主です。

 本日も抽象的なテーマで徒然と雑文を草します。

 日本語には「文明」という単語と「文化」という単語があります。どっちも似たような意味合いに聞こえる一方、本によっては明確な区別をして用いている場合もあります。例えば今、私の手元にある「新潮現代国語辞典 第二版」(平成22年1月20日第2版第2刷発行)で見てみると、それぞれの定義は下記の通りとなっています。

 ブンメイ【文明】

 ①学問・教育が盛んで人知が進むこと。

 ②(civilization)〔哲学〕人知が進み、生産手段が発達して、社会の生活水準が上がること。また、その状態。

 ブンカ【文化】

 ①世の中が開け進歩し、人々の物質的・精神的な生活の水準が高くなること。

 ②(culture)〔哲学〕人間が自然に対して働きかける過程で作り出した、物質的・精神的所産の総称。

 随分抽象的な定義なので、その指し示す対象を明確に定めるのは難しいのですが、これら二つの言葉はそれぞれ、明治以降に輸入された異国の言葉の「訳語」であるようです。つまり、これらの言葉の精確な由来や、その意味の変遷を辿るためには「civilization」や「culture」の歴史的な変遷にまで立ち入って考えなければならない訳ですが、素人の私には手に余る話なので割愛させていただきます。

 この語釈に注目して考えてみたとき、両者を区分する重要な指標として現れるのは、もともと「civilization」の訳語として漢籍から独自に抽出され、借用された「文明」という言葉の語義に、「進歩」とか「成長」といったニュアンスが明瞭に含まれている点です。一方の「文化」には「物質的・精神的所産の総称」という文言が含まれており、進歩や成長のみならず、その所産の総てという意味合いが籠められていると解釈することも出来るのではないかと思います。

 すごく端的に言って「文明」というのはグローバルな達成であり、「文化」とはローカルな蓄積であると看做すことが出来るのではないでしょうか? 「文明」とは合理的・効率的な発展の技法であり、その尺度は「有用性」「実用性」です。言い換えればそれは、様々な風土に関わらず、あらゆる場所・国家・土地で普遍的に共有し得る人類共通の「財産」であり、人間の根源的な共通性に、その類的な共通性に基盤を有しています。今、世界中に自動車が普及し、パソコンやスマートフォンが当たり前のように浸透しつつあります。紛争に苦しむアフリカの大地でも、貧しい暮らしを強いられている人々の間でも、スマートフォンの有用性は動かし難い現実として共有されており、それは東京でもニューヨークでも何ら変わらない現象です。「文明」の強烈な伝播力は、その土地に固有の文化や伝統とは無関係に、或いはそれを傲然と超越して広まっていくものであり、絶えず時代の趨勢や技術の発展に基づいて「更新」されていくものです。もっと言えば「文明」とは本質的に進歩主義的な概念であり、常に昨日よりも明日を重んじる価値観であり、或る意味では「歴史」の否定であるかもしれません。

 一方「文化」は、その土地、その民族、その国家の長大な歴史を通して積み上げられ、蓄積されてきた人間の営為の「総合」であり、従ってそこには風土に根差した極めてローカルな独自性が備わっています。その多くは、歴史的な推移や変遷の結果であり、合理性という尺度から見れば価値の不透明な事象も少なくありません。思い切って言い切ってしまうなら、「文化」とは「過ぎ去った文明」であり、既に古びて使い物にならなくなった、前時代的な「文明の遺産」なのです。ですから、今日の価値観に立脚して振り返ってみるならば、「文化」の内容には過ぎ去った時代の状況や因縁を反映した非合理性が不可避的に含まれているのだと言えます。

 先日、NHKの「ブラタモリ」という番組で、北海道の小樽市がテーマに取り上げられていました。小樽は明治時代以降、海運の拠点として爆発的な発展を遂げた街ですが、時代の変転に伴い、凋落の季節を迎えるようになりました。海運の主流となる航路が従来の日本海ルートから苫小牧を拠点とする太平洋ルートへ移り変わったこと、産業に用いられるエネルギー源が石炭から石油へ切り替わったことなどが、その背景にあったそうです。結果として産業の拠点都市という地位から転落し、衰退の一途を辿った小樽市はやがて、古い街並みや建物を観光資源として活用することで再生を果たし、平成26年度の年間観光客数は740万人にも達しています。番組では、そうした一連の経緯を「衰退が発展のカギであった」という具合に纏めていましたが、ここには「文明」と「文化」との対照性がくっきりと浮かび上がっています。「文明」という観点から見れば、現在の小樽に産業の拠点という役割を求めるのは合理的な選択ではありません。しかし「文化」という観点から見れば、用済みとなった昔の建物や、遠い時代を想起させる歴史的な街並みの美観(例えば煉瓦造りの倉庫などは、かつて栄えた海運業の「遺産」です)は、重要な価値を帯びています。それは小樽という風土に根差した歴史的な必然性の「所産」であり、合理的な進歩主義の観点に立つならば「無用の長物」だということになりますが、そこには紛れもない「歴史的価値」が備わっているのです。

 「文明」の本義は「発展」「成長」「合理化」「普遍性」であり、それは時代的な変遷に応じて無限に更新されていくものです。しかし「文化」には「発展」という概念がありません。それは「滞留」であり「蓄積」であり「遺物」であり、現代人にとっては「不合理の極み」である場合がほとんどです。ですが、それは過ぎ去った「歴史」の痕跡であり、現代に暮らす「私たち」がこの場所へ至るまでの過程の記録でもあります。それは計り知れないほど多くの「ムダ」を含んでいますが、にもかかわらず私たちはそれを忘れ去ることが出来ません。なぜなら、それは私たちの固有性であり、個性であり、私たちが私たちであることの根拠のようなものとして残り続けるからです。

 「文明的進歩主義」は旧弊を打破し、悪しき因習を葬るのに絶大な役割を果たします。しかし同時に、文明は文化の固有性を破壊することで、私たちの抱える歴史までも破壊してしまいます。ここが難しいところで、伝統の墨守はそれ自体では社会の活力を削ぎますし、閉塞と停滞を齎します。けれども、例えば鎖国政策を取っていた江戸時代の日本を見れば分かる通り、閉鎖された環境で、文明的な進歩主義から切り離された時空の内部で醸成された「文化」には驚くべき個性的な魅力が備わることもあるのです。それは往々にして「不合理な環境的条件」によって育まれており、合理的な進歩主義の観点から見れば「馬鹿げた思考と行動の集積」に他ならないものです。

 けれど、その「馬鹿げた思考と行動の集積」が、私たちにとって「豊饒なアーカイブ」として存在することを否定してはならないと思います。なんだか、本当に結論のない雑駁な文章となってしまいました。毎度のことですが。サラダ坊主でした!