サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「戦争」は選択し得るものなのか

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 最近、世の中には血腥いニュースがあふれています。

 先日もロシア軍の戦闘機をトルコ軍が領空侵犯を理由に撃墜した挙句、パラシュートで脱出したロシア兵が、トルコ系の武装勢力の攻撃を受けて死亡するという悲劇が起こり、ロシアとトルコの国交に重大な危機を齎しつつあります。

 その発端が、混迷するシリア情勢への対応のスタンスの違いに起因しているらしいことは、テレビやネットの報道から窺い知ることができます。

 イスラム原理主義という言葉が、私たちの耳目に触れるようになってから、気づけば随分と長い年月が過ぎ去りました。シリアやイラクを中心に凄まじい暴力を積み重ねているIS(Islamic State)の問題は未だに解決の目途がついておらず、パリで発生した同時多発テロの首謀者及び実行犯もイスラム系の急進的な勢力であると報道されています。

 一方、先日のエントリーでも軽く触れましたが、日本では「集団的自衛権」を巡って国論が紛糾しており、安保関連法案の強行的な採決に反発する学生団体のデモが話題を集めました。この複雑で感情的な「闘争」も、広い意味では「戦争」を巡る議論であると言えます。

 また、沖縄では辺野古への米軍基地移設問題を巡って、政府と沖縄県との対立が深刻化しつつあります。これも「戦争」の悲劇的な遺産であり、在日米軍の兵力をどう扱うかという政治的な課題は長らく、戦後の日本社会に底流し続けています。

 太平洋戦争が終わって70年が経った今も、その禍根が絶えることなく生き延び続けていることを思うと、交戦権の抛棄を規定した日本国憲法第九条を巡る昨今の議論の異様な過熱も、決して奇異な現象ではないと言えます。戦後70年間の「平和」は、戦争の災禍の上に築かれたものですし、しかもそれは戦争の痕跡を完全に覆い隠し得るものではありませんでした。そして、私たちの母国が一度も本格的な戦争に踏み切らぬまま、戦後の「平和」を謳歌することが出来たのは、必ずしも「憲法第九条」の効果であるとは言い切れません。それが歴代の政権に対する一定の抑止力として作用したことは事実であったとしても、日本が交戦権を抛棄した国家であることは、外国による日本への軍事的攻撃を禁圧するものではないからです。端的に言って、日本の平和は多かれ少なかれ「米軍」の威光と戦力によって保たれてきた筈です。

 安保関連法案の妥当性を巡る様々な議論が飛び交う中、私は正直、どうすることが正しい選択なのか、分からないままに平凡な日常を過ごしています。「集団的自衛権」への強烈な反発が果たして「正当な感情」であるかどうかも、判断がつきません。戦争が夥しい悲劇と災厄を齎すことは、既に人類の長大な歴史が証明していますが、だからと言って、直ちに戦争の可能性を、この世界から完全に廃絶することは不可能です。現にシリアやイラクアフガニスタンで、或いはイスラエルパレスチナの間で、戦争は今も続いており、しかもその解決の糸口は掴めないままです。確かに殺人は悪であり、戦争は類例のない深刻な「罪悪」ですが、それを「罪悪」として忌み嫌うだけでは、問題の本質に指先を届かせることは困難だと言えるでしょう。集団的自衛権、それは核兵器を持たず、交戦権を自ら抛棄した「奇妙な国家」である日本が、緊迫する東アジアの情勢の中で、安全保障体制を強化する為に選んだ「ギリギリの綱渡り」であるとも言えるのです。それを「改憲」ではなく「憲法の解釈変更」という実に強引で独裁的とも呼べる方法で自民党政権が実現させたことは、少なくともデモクラシーの原則を重んじる法治国家のあるべき姿ではないでしょう。しかし、逆に言えば彼らが何故、そこまで強権的な手段を駆使してでも「集団的自衛権の容認」を勝ち取ろうとしたのか、ということも改めて考えてみないといけません。単に独裁者的な手法が気に食わないというだけでは、議論は感情的な分裂にしか繋がらないと、私は思うからです。

 今、日本の財政は慢性的な赤字に苦しんでいます。もしも私たちが自力で、自国の安全保障をやりきろうと考えたならば、恐らく国防に充てられる巨額の予算によって、唯でさえ青息吐息の財政は決定的な破綻へ陥るかも分かりません。また、私たちの国家は広島・長崎における原爆の惨劇を教訓として、核兵器保有を自らに禁じています。良くも悪くも「抑止力」として絶大な効果を有する核兵器を自前で保有できないことは、それ自体の善悪は別として、純粋に軍事的な観点から考えれば恐らく「足枷」でしょう。しかし、日本が核武装に踏み切れば、中国や韓国の日本に対する感情は益々悪化するでしょうし、日本の庇護者であるアメリカもそんなことは望まない筈です。また、福島第一原発の事故以来、原子力に対するアレルギー反応が亢進しているこの国で、国民の信任の下に核武装を進めることは実に大きな国内対立を惹起することにもなるでしょう。

 ざっと考えてもこれくらいの問題が、日本の自力での安全保障体制構築に対する「壁」として立ちはだかっている以上、日米同盟の解体ということは現実的な選択肢ではなく、そうである以上は、沖縄の基地問題も、集団的自衛権の問題も、「軍国主義的悪夢」への単なる感情的な反発だけで解決することは不可能に等しいと言えると、私は思います。

 だからと言って、お前は戦争に行きたいのか、徴兵制度が布かれても文句を言わないのかと問われれば、もちろん戦争なんか行きたくないし、兵隊にもなりたくない、人も殺したくないし殺されたくもないと答えるほかありません。日本には太平洋戦争の苦い記憶が今でも息衝いており、脳裡に刷り込まれた「反戦の思想」は案外根強い教育的効果を発揮しているのではないかと思います。ですから、私は絶対に戦争になんか行きたくないと思うのですが、そもそも根本的な疑問として思い浮かぶのは、戦争というのは個人の選択で行ったり行かなかったり、或いは国家の思惑や方針だけに基づいて踏み切ったり踏み切らなかったりするような次元の事象なのか、ということです。

 朝鮮の方々には何の恨みもありませんが、例えば仮に北朝鮮が日本へ核ミサイルを撃ち込み、日本海を渡って軍艦で攻め寄せてきたとき、私たちは自国の防衛の為にいかなる努力もせずにいられるのでしょうか。戦争は米軍と自衛官に任せておけばいい、そのために高い税金を払い、米軍基地の維持費を国庫で負担しているのだ、と考える方もいらっしゃるかもしれません。それはそれで正論なのでしょうが、私たちは本当に「戦わない」という選択肢に固執し続けることが出来るのでしょうか。それは「選べる」問題なのでしょうか。寧ろそれは否応なく「巻き込まれる」ものなのではないのでしょうか。

 だからこそ、「巻き込まれないために」安保関連法案の成立を阻止せねばならない、平和憲法の恣意的な曲解を許してはならない、という理屈が出現することも理解出来ます。しかし、これは繰り返しの論述となりますが、日本が戦後70年間の平和を謳歌出来たのは、平和憲法の効能である以前に、私たちの国家が米軍の「傘下」に雨宿りし、国防における自主独立を諦めて、彼らの軍事力に依存することを選んだからではないかと思います。言い換えれば、私たちが「憲法第九条」という類例のない奇妙な規定を自らの「家訓」として定めることが出来たのは、米軍という世界最強の軍事力を有する国家の軍門に降ったことの恩恵なのではないでしょうか。

 それを「国辱」だと捉える方もおられるでしょう。歴史を顧みれば、日本は言うまでもなく第二次世界大戦の「敗戦国」であり、アメリカによって「占領された国家」です。サンフランシスコ条約に基づいて独立し、主権を回復したとはいえ、軍隊という牙を奪われた日本が完全なる「主権国家」であるとは言い難いのではないかと思います。ですが、日本は国防という実に費用も手間もかかる「業務」をアメリカへ委任することによって、経済や教育に国家的リソースの大半を注ぐことが出来ました。それが戦後の驚異的な復興を、経済的な発展を支えたこともまた、歴史的な事実でしょう。

 しかし、同じく財政赤字に苦しむアメリカが、日本から一方的に国防という厄介な業務を押し付けられることに不満を抱くのも、当然の感情と言えるでしょう。自衛隊の発足も、朝鮮戦争への対応に手一杯となった米軍が、日本に「自衛」を求めたことが発端であると言われています。遅かれ早かれ、或いは多かれ少なかれ、アメリカが日本に一定の「軍事的自立」を求めることは必然的な成り行きです。だとしたら、いつまでも私たちは憲法第九条に象徴される「例外的な平和」を慈しんでばかりもいられません。

 けれど、私はやっぱり戦争には行きたくないのです。何が正しいのかも分からないのです。相変わらず結論の出ない記事ですいません。

 深夜の船橋から、サラダ坊主がお届けしました!