サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(七十二回目の終戦記念日・「記録」の重要性・米国の年老いた戦闘機乗り)

*昨日は七十二回目の終戦記念日ということで、先の大戦に関連する報道番組が数多くテレビの画面に映し出されていた。夜にはNHKの総合テレビで「本土空襲」と銘打ち、太平洋戦争において米軍が展開した、日本に対する本土空襲の実態を解明するドキュメンタリーが放映されていた。

 その中で、当時の日本やアメリカが国内向けに流していた「国威発揚」「戦意高揚」の為のプロパガンダ的なテレビ報道の一部が取り上げられていた。アメリカは「皆さん、今日はジャップを殺しましたか?」という何とも衝撃的で悪魔的なメッセージを国民に向かって流し、日本は米国の主要な爆撃機であったB-29の墜落現場の映像を流しつつ、勇ましいアナウンサーの音声を流している。映し出される文字のフォントさえも無闇に武張っていて、到底文明人の気風というものは感じられない。何と言えばいいのか、どちらの国も「戦争に勝つ」という至上命題に囚われて精神的に追い込まれ、所謂「人間らしい生活」から随分と遠ざかっているように見える。それらの映像から、昨今の北朝鮮の国営放送に見出されるような、異様に武張った精神性を連想することは至極容易い。言い換えれば、北朝鮮の国営放送が漂わせている異様な空気は、北朝鮮という国家及び人民に固有の特性ではなく、恐らくは「戦時下」という条件が不可避的に醸成するものなのであって、一旦「戦時下」の状態に置かれてしまえば、人間は誰でも、あのような好戦的な「頽廃」の渦中に墜落してしまうものなのだろう。つまり、そういう「戦時下」の精神性は、あらゆる人間的な文明の精華を無造作に踏み躙り、呑み込んでしまう、抗い難い暴力性を孕んでいるのだ。

 スポーツなどの勝負事と同じで、所謂「戦争」は、それを実行に移した以上は、絶対に勝利を収めなければ意味がない。勝てないのならば、最初から手を出さない方がマシである。こうした「勝たなければ意味がない」という「戦時下の精神性」は、個人の倫理的な信条などによって覆し得るほど生易しいものではない。つまり、一旦始まれば、あらゆる手立てを尽くして、勝利を得る為に奮迅するしかないというのが「戦争」の根源的な特質なのであり、中途半端なタイミングで、随意に切り上げるということは不可能なのだ。だからこそ、戦争という巨大な国家的事業に就いては、極力「開戦を回避する」ということが肝要である。開戦してしまえば、それは個人や政府の思惑とは無関係に、半ば自動的に膨張し、戦線を拡大し続ける「システム」であるからだ。

 

北朝鮮とアメリカの政治的関係が悪化の一途を辿っている。彼らは、七十二年前に終わった悲惨な戦争の記憶など、何処かに投げ捨ててしまったかのように、好戦的な言辞を弄し、互いに醜悪な威嚇合戦を繰り広げている。太平洋戦争も、朝鮮戦争も、ヴェトナム戦争も、終結以来百年も経たぬうちから、早くも歴史の風化という嘆かわしい事態に直面し始めている。そもそも、人生八十年と考えるならば、やはり歴史的教訓を生々しい実感を通じて受け継ぐことが可能であるのは、八十年くらいのものなのだろう。そこから先は、当事者と呼ばれる人々の物理的な退場が始まってしまう。そうなれば、問われるのは「記録」と「想像力」の蓄積ということになる。だが、想像力というのは使い方を誤れば容易く堕落する「諸刃の剣」であるから、先ずは「記録」ということが重視されねばならない。安倍内閣は森友・加計問題において「記録の廃棄」ということを無闇に強調したが、本来は「記録の廃棄」というのは人類の歴史に対する犯罪なのである。不要なものは処分したと言うが、何が不要であり、何が重要であるかという判断には必ず権力者の独善的な「恣意」が介入する。記録というのは、取捨選択を排除し、絶えず「包括的」な営為として形成されるべきものである。例えば大岡昇平の「レイテ戦記」などは、そうした「記録」の超越的な力に対する謙虚な奉仕の形ではなかっただろうか。

 

*前述した「本土空襲」のドキュメンタリーで、NHKのインタビューに答えたアメリカの戦闘機乗りの姿がとても印象的だった。彼は戦時中、B-29を護衛する戦闘機部隊のパイロットだった。彼は日本兵を憎み、地上に機銃掃射を仕掛けて、無数の忌まわしい「敵」を撃ち殺すことに興奮さえも覚えていたという。無論、それは「死」と隣接した、まさに「戦時下の精神」が生み出した特殊で奇態な興奮であっただろう。

 戦後数十年が経ち、彼は日本を訪れ、そこで見知らぬ子供から親しげな「ピースサイン」を向けられたという。そのとき、彼は初めて「ジャップ(Jap)」が単なる「標的」ではなく「人間」であったことを生々しく理解した。日本の空を見上げると、B-29が自分に向かって爆弾を落としに来るような錯覚に囚われたという。この挿話は、単純な「回心」の神話に還元されるべきではないし、七十余年前に日本人と米国人が互いに懐いていた「憎しみ」の機械的な猛烈さを否定するものでもない。同じ歴史的情況が再び到来したら、彼はやはりアメリカの愛国者として、日本人を機銃で射殺する職務に精励するだろう。そのとき、女や子供に対する道徳的な憐憫の感情さえも揮発してしまうだろう。それは確かに罪だが、個人的な罪である以前に、いわば人類の「原罪」であると言える。重要なのは、戦争という異常な現象そのものに、人間の文明的な側面を瓦解させる宿命的な力が備わっているという真実を理解することだ。「戦争は制御可能である」という傲慢な過信が、あらゆる戦争の惨禍と遺恨を作り出す、致命的な元凶なのである。金さんもトランプさんも、そろそろ頭を冷やすべきだ。