サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(悲劇と日常・事実と思想・類型と独創)

三島由紀夫の「金閣寺」(新潮文庫)の再読を終えて一箇月足らずだが、未だに鮮明な印象の断片が頭の中を通り過ぎていく。幾らでも書くべきことは残っているように思うが、何処から切り込むべきか、どういう筋道で侵入すべきか、巧く纏められない。その纏まらない思考を、垂れ流すようにパソコンの画面へ刻みつけておく。

 「金閣寺」は、三島由紀夫という一個の人物の観念的な自叙伝のようなものではないかと思う。生い立ちや事件や行為は総て架空の人物に託されているが、その精神的な履歴に関しては、三島由紀夫という人物の内なる心情を明瞭に再現しているように感じられる。無論、証拠はない。曖昧な傍証を曖昧に混ぜ合わせて譫言を吐いているだけである。

 つくづく感じるのは、三島にとって「敗戦」という経験、或いは「戦争」という不確かな悪夢が齎した影響の大きさである。「金閣寺」に限らず、様々な作品に「敗戦」の齎した衝撃と「戦争」の陰翳に怯えながら憧れていた時代の奇怪な情熱が、錦糸のように織り込まれている。彼にとって「戦争」は「破局の到来」を暗示する重要な理念であった。遅かれ早かれ「破局」が決まり切った日常生活の秩序を粉砕してくれるだろうという予兆の中で生きるという終末論的思想は、彼の精神の中核を構成する基礎的な信憑である。

 もう一つの重要な指標は、不可能なものに対する深甚な憧憬である。「金閣寺」という作品自体が、いわば「到達することの不可能なものへ到達したい」という願望の遷移を描き出す為に綴られていると看做しても過言ではない。この願望は恐らく、前述した終末論的思想と絡み合っている。到達することの不可能なものへ到達したいという厄介な希求と、破局に憧れることで実存の重力から解き放たれようとする精神的作法は、根源的な部分で相互に通じ合っているのではないかと思う。換言すれば「到達不能なものへ到達する為には、破滅する以外に途はない」という奇怪な命題が、若しかすると成立するのではないか?

 到達することが不可能なものに憧れるという心情は、誰にでも経験のあることだろう。欲しいものが何もかも手に入るとは限らないのが、世の常である。だが三島に関して言えば、彼の不可能なものへのプラトニックな希求は、欲しいものが手に入らない状態に置かれているという偶然的な状況と関係しているのではない。寧ろ彼は、不可能なものを好んで、その不可能性自体に魅せられている。到達が不可能であるという事態が、彼の欲望を刺激し、教唆するのである。

 不可能性そのものに魅惑されること、そして「滅亡」や「破局」に惹かれること。これらの精神的特性は、彼の日常生活に対する嫌悪と表裏一体である。換言すれば、彼は「悲劇」というものに憧れて、そこに最大の充足を見出しているのだ。不可能性も破滅も、一般的な感受性にとっては忌避すべき事件である。しかし彼の欲望は「悲劇」にこそ誘惑されていた。平穏な日常の度し難い退屈さには、彼の欲望は聊かも充足を覚えなかった。無論、彼はそのような感受性の牢獄から脱却する為に、金閣寺に火を放ったのである。けれども、その根源的な感性の噴出は生涯、彼の胸底を去らなかったのではないかと思われる。夭折に憧れることも、割腹自殺を選ぶことも、同根の問題である。

*時々自分は「事実」というものに然したる関心を有していないのではないかと考えることがある。こうしてブログを開設し、様々な文章を公開しているが、所謂「行動の記録」みたいなものは滅多に書かない。「サラダ坊主風土記」と銘打って綴った記事には端的な「行動の記録」が残されているのだが、事実の経緯や構造を、時系列に従って淡々と書き記すのは、私にとって退屈で、砂を咬むような営為である。単なる事実の記録に何の価値があるだろうと冷笑したくなってしまう。それよりも私は、自分の思考の経路を追跡することに強い関心を持っている。事実よりも、思考されたもの、想像されたものの方が重要な意義を有していると信じているのだろう。それが何故なのかは分からない。この世界には事実しか存在しないという無味乾燥な思想に同意する気持ちが起こらないのは、私の精神が未成熟なロマンティシズムを払拭していないことの証明だろうか?

 そうした感性と関連しているのか、私は写真を撮ることに殆ど関心がない。妻が撮影した幼い愛娘の写真を、仕事や通勤の合間に携帯の画面で眺めて酔い痴れることはあるが、自分でシャッターを切ろうとは思わない。事実の記録が、長い歳月を経た後で特権的な光輝を放ち、甘美な郷愁を煽り立てるであろうことは、私も理解しない訳ではない。それでも、事実の記録に重要な価値を見出そうとは思わない。そのとき自分が何を感じ、何を考えたのか、ということの方が遥かに重要な問題であると思っている。事実そのものより、その事実から抽出された感情や思考や信条の方が大切だと思っている。同じ事実に直面しても、そこから何を汲み取るのか、それは人の個性に応じて千変万化するものである。誰にとっても共通する事実は退屈だ。それを退屈だと厭う感受性が幼稚である懸念は微かに有しているが、本気で向き合う意志も余りない。

*先日、三島由紀夫の「美徳のよろめき」(新潮文庫)を読んで考えた。作中で描かれている男女の不倫の生態を眺めながら、試しにそれを自分自身の人生に照合してみる。不倫に限らず、結婚でも何でも構わないが、愛情というものは直ぐに、人間関係の枠組みや秩序に凭れ掛かるものだ。自分たちは固有の関係性を生きている積りであっても、その関係は何万年も持続してきた類型の模倣と反復に過ぎない。つまり、何らかの役柄を演じているに過ぎない。それが導入であり、潤滑油である分には構わないだろう。だが、人間同士が本当の意味で相手の総てを理解し、受容する為には、何処かでそうした役柄と台本を擲つ覚悟が必要になるだろう。役柄、仮面、衣裳、それらの外面的な要素を摘出した上で、相手の美徳も悪徳も総て引っ括めて受け容れるとき、両者の関係は初めて独創性を纏うことになる。そのとき、彼らの関係に世上の通俗的な一般論は適用されなくなる。あらゆる世間的な規範を、両者の独特な紐帯が超越してしまうからである。愛するとは、相手との関係を類型的な枠組みから脱却させることである。そこまで辿り着かないのであれば、不倫であろうと婚姻であろうと、その関係は表層的な遊戯の範疇から逃れられない。