サラダ坊主日記

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「倦怠」の心理的解剖 三島由紀夫「美徳のよろめき」

 三島由紀夫の『美徳のよろめき』(新潮文庫)を読了したので、感想を書き留めておく。

 三島由紀夫という作家には「泰平無事」とか「日日是好日」といった長閑で安逸な境涯を指し示す言葉が余り似合わない。彼は「無事」よりも「有事」を愛する、些か破滅的な人物である。無論、人間の内面は多義的であるから、破滅を好む性向が彼の人格の過半を占めているなどと強弁する積りはない。けれども、彼の内部には本質的に「平穏無事な日常生活」のようなものを拒絶する心情が根深く宿っているように感じられてならない。退屈な日常、決まり切った秩序の無際限な反復、永遠的な性質、それらへの嫌悪と、破壊への欲望は、終末論的な「死」の秩序によって引き絞られ、人生を覆う灰白色の天蓋のようなものを形作っている。

 単純に言えば、この「美徳のよろめき」という作品は、男女の月並みな不倫関係の顛末を描いた小説である。筋書きだけを抽出すれば、それ以外に特筆すべき事柄もない。度重なる妊娠と堕胎の描写には聊か眉を顰めたくもなるが、典雅な文章で緩やかに綴られた不倫の光景は、凡庸と言えば凡庸である。この作品は発表当時、非常に人気を博したという話であるが、どういう理由で人々の支持を集めたのかは判然としない。二十一世紀初頭の日本でも不倫に纏わる愛憎を描いたドラマは非常に人気を博しているから、煎じ詰めれば禁断の世界への窃視症的な興味の賜物ということかも知れない。興味はあっても勇気が湧かず、罪悪感にも堪えられず、自ら踏み込むことを躊躇せずにいられない類の世界を、安全な場所から覗き込んで見物するのは、気分のいいものである。

 犀利な心理的描写と典雅な措辞は相変わらず行き届いて、安定した品質を保持している。私も余り難しいことは考えず、優雅な不倫小説だと素朴に思い込んで読み進めていたのだが、結末を過ぎてページを閉じた後、この作品の主眼は決して不倫そのものではなく、厳密には「生きることの根源的倦怠」或いは「日常生活の本質的倦怠」に就いて書くことに置かれているのではないかと考え直した。終幕の一行で「恋の終わり」の通俗的感傷を蹴飛ばすような乾いた嘲笑を閃かす辺り、作者には節子と土屋の禁じられた「悲恋」を哀惜する意志は毫も存在しないのではないかと思われる。彼は如何なる色恋沙汰も、それが剣呑な背徳に由来する耽美的な情熱に飾られていたとしても、所詮は類型的な人間関係の枠組みの一つに過ぎないと断じているのではないか。だからこそ、優雅な措辞を用いて隅々まで明瞭に、不倫の実相を可知的なものとして描き出すことが出来るのではないか。節子が破り捨てた手紙の文章に紅涙を絞るのは馬鹿げている。あの手紙に充満しているような類の感傷は、不倫という関係の枠組みが自動的に析出する類型的な情熱に過ぎない。背徳の齎す抑圧的な感情の屈折を、恋愛の想い出を輝かせる為の艶出しの釉薬として用いるのは聊か幼稚な所業であろう。若しも本当に相手を愛するのならば、背徳の香味を利用するのではなく、周囲に迷惑の掛からない範囲で、節度を保って沈着に誠実な慈愛を捧げるべきである。

 作者は決して不倫という背徳的な恋愛に身を捧げた男女の哀傷に共感しているのではない。読者がそのように通俗的な解釈を懐くのは銘々の勝手だが、作者の主要な関心は背徳的な恋愛の渦中に生起する情熱の美醜などではないだろう。彼は不倫という罪悪の小さな輝きさえも呑み込み、涼しい顔で踏み躙ってしまう日常性の恐るべき「倦怠」に就いて語っているのだ。生きることに潜在する根源的な「倦怠」の恐ろしさを語る為に作者は敢えて、不倫という小さな悪徳の輝きを逆用したのである。無論、それは砂金程度の儚い輝きを放出した揚句に虚しく潰えてしまう。作者は訣別の感傷に少しも与していない。彼にとっては不倫の瞬間的な悪徳などよりも、日常生活の孕んでいる「永い午後」の不変の虚無的性質の方が遥かに不吉なのである。「有事」の破滅的な性格を愛することの方が寧ろ、無味乾燥な「無事」の単調な安寧を愛することよりも容易いのだ。彼の世界観において、如何なる終焉も有り得ないという認識は、地獄的な啓示として鳴り響く。華々しい悲劇的な破局の到来を予期することで、己の実存を「倦怠」から救済するという彼の終末論的な精神療法は、例えば「愛の渇き」や「青の時代」や「金閣寺」といった作品にも、その波紋を色濃く投じている。けれども「美徳のよろめき」においては、かつて「愛の渇き」で描かれたような破滅の暴発は、主役の許へ到来しない。代わりに節子が味わうのは、思い詰めた涯の切迫した離別さえも虚無的な経験として押し流してしまう「倦怠」の度し難い執念深さである。つまり「破局」は有り得ないという退屈な絶望が、彼女の精神を占有してしまうのだ。それは如何にも敗戦後の風景に相応しい類の絶望の形式である。

美徳のよろめき (新潮文庫)

美徳のよろめき (新潮文庫)