サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(知識の偏り・詩作)

*銘々の人間が、個人的な興味を懐く対象というのは様々であり、同じ動物好きでも、犬好きや猫好きや鳥好きや熱帯魚好きなど、その愛情の矛先は多様な領域へ向かい得るものである。そういう関心の持ち方というか、精神的な志向性のようなものの偏り、特徴は、自分自身ではなかなか客観的に把握し辛いものである。誰でも、適切な自己評価を下すということに関しては、不得手であることが普通なのだ。

 私は草花の名前や、魚の名前を覚えることが苦手であり、なおかつその違いに関する知識が驚愕すべきレヴェルで乏しい。貧弱である。椿と言われても、その花の形を具体的に思い浮かべることが出来ない。魚も、見た目だけでは一向に区別がつけられない。最近になって漸く、少しずつ食卓に上る魚の種類が何となく分かるようになってきたが、そこに満腔の自信というようなものはない。単なるぼんやりとした当て推量である。

 私は動物を飼育した経験がなく、今後もその予定はない。そもそも、動物を飼育したり草木を育てて愛でたりしたいという欲望が、心の内側に存在しない。少しも湧出しない。それが良いとか悪いとか、具体的な答えを導き出したい訳ではなくて、単純にそのような状態なのだということが言いたいだけだ。恐らく私が一番関心を持っている対象は「人間」であり、その多種多様で奇怪な生態なのだろうと思う。大体、人間の子供を養っている立場で、犬猫にまで手を伸ばそうと企てるのは、物質的にも精神的にも随分と富裕な考え方である。私には、娘の世話だけで充分だ。

 

*最近、連続して過去に作った詩歌を投稿している。これと言って明確な理由がある訳でもない。だが時折、何かの拍子に、詩歌を書きたくなることがあり、そうなるとハードディスクの暗がりに埋もれた黴臭い遺物を、日向へ晒して虫干しでも試みたくなるのだ。そういう突発的な発作に襲われて、指が無造作に動いた次第である。

 だが、詩歌というのは、何とも掴みどころのない芸術の形式である。その歴史は、文字が生まれる以前にまで遡ることが出来ると言われるほど古く、しかも地理的な制約に囚われぬ世界的な普遍性を備えている。形式の多様性も抜群である。だが、その普遍性と多様性が却って「詩歌とは何か」という設問に対する適切な回答を困難なものに変えている。これは詩なのか、と問われても、私は詩だと思っていると、極めて相対的な答えしか返すことが出来ない。こんなものは詩じゃないと嘲られ、批判されても、それを論理的に覆せるという確固たる自信もない。「詩のようなもの」に過ぎないと、答えることは出来る。だが一方では、確固たる定義などというものを最も忌み嫌い、遠ざけるのが詩歌ではないのか、という気もする。そもそも「定義」という観念自体が、極端に散文的な価値観の産物である。例えば哲学という分野は、或る意味では散文の究極的に精緻化された、純化された形態であると看做し得るが、哲学が如何に「定義」を重んじる世界であるかは、論を俟たない。だが私たちは別に、哲学的な思索の充分な蓄積を踏まえてから、口を開いて歌い出す訳ではないのである。