サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

死者と記憶 大岡昇平「野火」に関する読書メモ 3

 前回の記事の続きを書く。

 比島の女を殺した後、私がその罪の原因と考えた兇器を棄てて以来、私が進んで銃を把ったのは、その時が始めてであった。そして人食い人種永松を殺した後、なお私が銃を棄てていなかったところを見ると、私はその忘却の期間、それを持ち続けていたと見做すことが出来る。私は依然として神の怒りを代行しようと思っていたのであろうか。

 いや、神は何者でもない。神は我々が信じてやらなければ存在し得ないほど弱い存在である。私がそう錯覚していたかどうかの問題だ。

 「見られている」という感覚の叙述が一見すると即座に招来しそうな「神」の観念は、ここでは極めて冷淡に振り払われている。恐らく「私」にとって「神」の観念はそれほど重要なものではない。だとしたら、彼は何に「見られている」のだろうか。そして「見られている」とき、彼は何故「任意」の世界への移行を遂げるのだろうか。

 これは端的に言って、私にとっては非常な難問である。だが、様々な可能性について断片的な仮説の構築を試みることは不可能ではない。例えば次のような記述を見てみよう。

 人は死ねば意識がなくなると思っている。それは間違いだ。死んでもすべては無にはならない。それを彼等にいわねばならぬ。叫ぶ。

「生きてるぞ」

 しかし声は私の耳にすら届かない。声はなくとも、死者は生きている。個人の死というものはない。死は普遍的な事件である。死んだ後も、我々はいつも目覚めていねばならぬ。日々に決断しなければならぬ。これを全人類に知らさねばならぬ、しかしもう遅い。

 ここに「野火」が紛れもない「戦争文学」の範疇に属する作品であることの証左を見出すのは、安易な文学的思考に過ぎないだろうか。だが、これが「私」にとって切実な感慨であり独白であることは確かである。死によって総てが虚無へと解消されることへの抵抗が、こうして露骨に表出されているのは、彼が敗兵としてレイテ島を彷徨した極限の体験が忘れ難い傷痕として魂に刻まれているからであろう。或いは、このように言い換えられないだろうか。彼を見ているのは、レイテ島の山野を埋め尽くす夥しい数の「死者」たちであると。

 無論、これが強引な曲解と誤読に満ちた謬見である可能性は決して小さくない。だが、彷徨する敗兵である「私」を見凝めているのが「神」であると解釈するには、この作品に織り込まれている「十字架への信仰」は余りに断片的であり過ぎる。本当に「私」が「神」という超越的な観念との関係性を追究しているのだとすれば、もっと「信仰」に関する明瞭な記述が作中に配置されていい筈である。だが、既に引用した通り、彼は「神」の観念を人工的なものとして斥けるだけの背教的な性格を備えているのだ。

 私はこれがみんな無意味なたわ言にすぎないのを知っている。不本意ながらこの世へ帰って来て以来、私の生活はすべて任意のものとなった。戦争へ行くまで、私の生活は個人的必要によって、少なくとも私にとっては必然であった。それが一度戦場で権力の恣意に曝されて以来、すべてが偶然となった。生還も偶然であった。その結果たる現在の私の生活もみな偶然である。今私の目の前にある木製の椅子を、私は全然見ることが出来なかったかも知れないのである。

 この述懐は、いわば「私」における「意志の破壊」を示している。戦場で味わった極限の経験を通じて破綻させられた「私」の「自我」は、生きることと死ぬことが過度に近接した世界を潜り抜けたために、奇妙な失調を来している。彼は生きることに対して具体的な「意味」や「目的」を見出すことが出来ない。何故なら、それらは総て「偶然」の産物であって、彼自身の主体的な「意志」や「願望」によって創成されたものではないからである。彼は世界の構造に対して極めて受動的な姿勢を選択することを、殆ど宿命のように義務付けられている。「権力の恣意」によって齎された、その異様な変貌は、彼の眼に「必然」という観念が映じることを根源的に阻害しているのだ。

 だが、それは単に政治的な「権力の恣意」だけを由来とはしていない。彼が「見られている」という感覚と「任意」の感覚との間に相関性を見出すのは、彼を見ているものが夥しい数の「死者」であるからだ。無意味な惨死を遂げた無数の同胞たちの残像が、彼の精神から主体的な意志を剥奪している。彼が生き残ったのは「偶然」の結果に過ぎず、そこに具体的な「意味」など存在しない。彼が「神」という超越的な観念、言い換えれば、あらゆる出来事に「意味」や「目的」を下賜する特異点としての「神」を、実にそっけなく冷笑的に退けるのは、「神」という観念への執拗な言及にもかかわらず、彼が少しも「神」を信じていないからである。つまり、彼にとって「神」という名の下に紡がれ構造化される「必然」は、戦場に蔓延する度し難い「偶然」の強大な暴力の前では余りに頼りなく脆弱な観念に過ぎないのだ。「野火」において描き出される世界は、悲劇的なほどに無意味な「偶然」の連鎖によって構成されている。その苛酷な境涯を潜り抜けた後では、生きることに「必然」を見出す奇妙な信憑など、何の役にも立たないだろう。彼が生き延びたという事実に、天上的な意味はない。その行く手に広がっているのは、索漠たる「偶然」の曠野である。彼の考えること、彼の行なうこと、彼の信じることに、最終的な結論や根拠が備わることは最早、有り得ないのだ。

 その背後に、数え切れないほど多くの同胞の「無意味な死」が介在していることは、確かな事実であるように見える。「私」だけが選択的に「有意義な生」を歩むことなど出来ない。そのような観念を信じるためには、戦場の経験が齎した打撃が余りに深刻過ぎるのだ。だが、これが適切で妥当な読解であると言い張る自信はない。「野火」を優れた「戦争文学」として無邪気に称揚するには、私自身、余りにも「戦争」に関して無知であり過ぎるのである。

 

野火 (新潮文庫)

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