サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

短詩愚見

 最近、下手糞な俳句を捻り出して恥知らずにも投稿している関係で「短詩型文学」というジャンルに就いて、漠然と考えることがあった。

 頗る大雑把な前提であることは承知の上で書くが、散文と詩歌とを隔てる一つの重要な分水嶺は、恐らく「理窟を語るかどうか」であり、もっと言えば「意味を説明するものであるかどうか」という点に存するのではないかと個人的に思っている。

 散文の基本的な機能は(散文詩などを持ち出すと話が混線し始めるので、一旦捨象しておきたい)「意味」に就いて詳細に語ることである。物事の「意味」を一義的に確定することが、散文に課せられた重大な使命であることは、実際に種々の散文を徴してみれば直ぐに歴然とする経験的事実であろう。明確な「意味」に向かって結実しようとする散文の使命は、多義的な曖昧さを抹殺することに存する。

 一方の詩歌は、寧ろ多義的なイメージ、特定の「意味」に回収されない、拡散的且つ重層的なイメージの構築に、その目的を置いている。或る単一の論理的な体系によって隈無く照らし出され、その全貌を明らかにするようなイメージは、その時点で「詩想」を名乗る資格を喪失している。様々な断片的で複合的な要素を、単一の簡明な論理的秩序へ向かって整理し、引き絞っていく作業が散文の執筆であるならば、詩歌の目的はそれとは対蹠的に、単一の論理的な体系からの逸脱と解放を目指す営為であると、定義してみたい(無論、こうした詩歌の論理を散文的な枠組みの中で達成しようと試みることが、狭義の「小説」の目的であるという考え方を受け容れることも不可能ではないが、それは脇道へ逸れることになるので、差し当たり触れずに済ませる)。

 日本の伝統的な短詩型文学と言えば、誰しも即座に「短歌」と「俳句」を思い浮かべるだろう。両者の形式的な相違点は、その字数(音数)の違いに由来している。短歌は三十一文字、俳句は僅々十七文字で構成される、極めて簡潔な文学的様式である。その「短さ」は、散文的な論理から眺めれば何れも大差のない「短さ」であるように感じられるが、それは飽く迄も散文的な見解であり、詩歌の次元に立脚すれば、両者の僅かな字数(音数)の差異は、重大で決定的な意義を含んでいる。

 実際に手を動かし、頭の中身を掻き回して、短歌や俳句を作ってみれば、直ぐに得心の行く話ではないかと思う。随分と昔、もう十年くらい前に、私は一時期、熱心に短歌を作っていた。パソコンの画面に向かって、思いつくままに言葉を並べるだけの、拙劣な手遊びに過ぎなかったが、小説を書くのとは違って、幾らでも楽々と吟ずることが出来た。そのときは、俳句という形式では余りに字数が少なくて、巧く想いを盛り込めない気がして、短歌ばかりを吟じていたのだが、この肉体的な感想はそれなりの根拠を持って、当時の私の意識を捉えていたのだ。短歌という三十一文字の短詩型文学は、作り手の「想い」や「考え」を織り込むことが出来る様式である。だが、俳句という十七文字の短詩型文学には、そうした個人の「内面」が忍び入る余地はない。内面を物語る為には、俳句という器は余りにも小作りである。感情が濫れる前に、歌声が途絶えてしまうような短さなのだ。無論、この場合の「内面」とは「意味」そのものである。

 俳句という器に、内面とは限らずとも、明確な「意味」を盛り込もうとすると、途端に最悪の出来栄えとなる傾向がある。短歌ならば許容される抒情性も、俳句においては単なる厭らしい「穢れ」として読者の眼に映じるのだ。賢しらな「濁り」と言い換えてもいい。

 一読して明瞭な「意味」が刻印されているものは、分かり易いが詩歌としては落第であろう。それは一瞬に了解されてしまう明晰さによって、如何なる詩的な衝撃力とも疎遠な境涯に置かれてしまっているからだ。詩歌が芸術的な価値を持つのは、それが散文的な明晰さの正義に反して、束の間、見知らぬ「異界」を読者に垣間見させるからである。一つの明瞭な意味、多くの人々によって堂々と公認された意味、それを覆すところに詩歌の本懐がある。短歌が新たな「内面」の発見に伴う衝撃力を発揮する一方、俳句は「意味」の断絶の瞬間に読者の認識を誘い込み、従来の認識の構造を震撼させる。内面を構築しないこと、明瞭な意味に帰結しないこと、それが俳句の本懐ではないかというのが、私の極めて主観的な仮説である。