サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「書く」という営為は、一様ではない

 チェコに生まれ、後にフランスへ亡命したミラン・クンデラは、「小説の技法」(岩波文庫)という極めて刺激的な文学論の集成に収められた「六十九語」という興味深いエッセイの中で、小説家と呼ばれる人種の厳密な定義を試みている。この定義はそのまま、クンデラの非常に意識的で明敏な文学的価値観の本質へ通じていると言えるだろう。

 私はサルトルの短いエッセー「書くとは何か」を再読する。彼は一度として小説、小説家という言葉を使わず、散文作家についてしか語っていない。正しい区別と言うべきだ。

 作家は独創的な思想と模倣しがたい声をもち、(小説をふくむ)どんな形式でも役立てることができる。作家が書くものはすべて、彼の思考の刻印を残し、彼の声によって伝えられる以上は、彼の作品の一部になる。ルソー、ゲーテシャトーブリアン、ジッド、カミュ、マルロー。

 小説家はみずからの思想を重視しない。彼は手探りで実存の未知の側面を明らかにしようとする探索者なのだ。彼はおのれの声ではなく、彼が追求する形式に心を奪われるのであり、みずからの夢の要請に応える形式のみが彼の作品の一部になる。フィールディング、スターン、フローベールプルースト、フォークナー、セリーヌ

 作家は彼の時代、国民の精神的な地図、思想史の地図にみずからの名前を登録する。

 ある小説の価値を把握できる唯一のコンテクストは、小説の歴史というコンテクストである。小説家はセルバンテス以外の誰にも釈明する必要はないのだ。

 この私的な定義が普遍的な妥当性を備えているのか否か、私には判定する能力がない。だが、こうした緻密で神経質な定義に固執するクンデラの思考に、単なる呆れ顔を向けただけで踵を返すのは少しも魅惑的な選択ではない。彼は、このような微妙な定義を明示することによって、何を語ろうとしているのだろうか?

 小説家は自分自身の思想や実存には関心を示さない。そもそも小説が根底的にフィクションであるという事実は、小説が常に小説家自身とは異なる「他人の顔」(©安部公房)によって物語られるという原理的な宿命を内包している。つまり、小説を書き綴るとき、小説家は不可避的に「他人の顔」を被って様々な出来事に就いて言葉を費やさなければならないのだ。そのとき、敢えて自らの生身の声で語ろうとするならば、小説はその固有性を喪失することを強いられるだろう。

 小説家は自分自身への関心を上回るほどに、他人への興味が強い生き物なのだろうか。小説家ではない私には、よく分からないけれど、確かに自分とは異質な存在への強烈な関心を持続させない限り、架空の人物が動き回る形のない異界の悲喜交々を、悉く紙上へ書き表すなどという酔狂に囚われ続けることは困難であろう。存在しない他人への持続的な関心、それは小説家が小説を書き続ける為に要求する最も基礎的な条件であるに違いない。

 その意味では、私は自分という存在そのものに関心が強いのかも知れない。存在しない他人の一挙手一投足を頭の中に思い浮かべて、適切な表現を研ぎ出すことに、濫れるような情熱を持つことが困難な性格であることは、恐らく確かな事実である。私は私という人間の思想や価値観に愛着を持っており、他人の価値観に真剣な関心を寄せることは余り多くない。他人の価値観に真剣な関心を寄せることの苦手な人間が、架空の他人の行状に関して、豊饒な想像力を延々と作動させ続けるという荒業に適性を示し得る理由は存在しない。言い換えれば、小説家は他人の実存の内側に自分自身の人生に関わる重要な答えや真実を見出そうとする種族なのだ。

 私は過去に幾度も小説を書き、その一部は、このブログにも投稿している。だが、まともに小説を完成させられた経験は数えるほどしかなく、しかも私が生み出した架空の人々は存在感の稀薄な亡霊のようなものばかりだ。そこに血の通った生身の人間の息吹を感じ取ることは極めて困難である。そこに活き活きとした人間の実像が写し取られているとは到底言い難い。だが、私は書くという営為そのものには、常識的な水準以上の執着を懐いていると自負している。

 小説家とは、自分自身に就いて語ることが苦手な人種であると、クンデラは述べている。

 「芸術家はみずからが生きなかったと後世に信じさせるべきだ」とフローベールは言っている。モーパッサンはある有名作家双書にじぶんの肖像が掲げられるのに反対して、「ひとりの人間の私生活および姿は公衆のものではない」と言った。ヘルマン・ブロッホはじぶん自身、ムージルカフカについて、「私たち三人にはいずれも真の伝記はないのだ」と語った。これは彼らの人生には出来事が乏しいということではなく、特別に扱われたり、公衆の眼に曝されたり、伝記にされたりすべきものではないということなのだ。なぜ詩を書かないのですかと尋ねられたカレル・チャペックの答えは、「私はじぶんのことを語るのが嫌いだからだ」というものだった。真の小説家の特徴は、じぶんについて語るのが好きではないということである。

 クンデラの言い分を信用するならば、こんな風にブログを運営して自分の考えや記憶を誰にも頼まれていないのに公共的な領域へ開示している私のような人間が、小説を書くという営為に不適格な人間であることは、当初から明白であるということになるだろう。小説家は、自分自身に就いて語っているように見える体裁を選んだ場合でも、決して自分自身に就いては語らないのだ。寧ろ彼らは、自分自身さえも、一個の異質な他人として取り扱うことを厳格な流儀として採用しているのである。

 

小説の技法 (岩波文庫)

小説の技法 (岩波文庫)

 

 

経験的現実の解体 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(第2部 予言する鳥編)

 村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編』(新潮文庫)を読み終えた。

 読後の印象としては、長い物語が漸く具体的に、本格的に動き出したという感じである。一巻を通じて緻密に、慎重に、丁寧に整えられていった物語の基盤が、語り手の妻であるクミコの失踪という不吉な事件によって、強制的な転調を迫られ、いよいよ受動的な立場から脱け出さねばならなくなった、というのが私の個人的な要約である。

 「第一部 泥棒かささぎ編」の感想文でも述べた通り、村上春樹の作り出す主人公は概ね受動的な姿勢を示し、積極的な意図や計画に基づいて主体的な行動に踏み切るということが稀である。どちらかと言えば一歩現実から引き下がり、個人的で私的な領域の平和を何よりも優先する構えを維持し、物語の流れに対して批評的で客観的な関係を保とうと試みるのが、村上春樹的な主体の持つ典型的なメンタリティである。

 だが、少なくともこの物語において、村上春樹的なメンタリティは根本的な変更を強いられているように見える。その直接的な原因は無論、妻であるクミコの唐突な失踪という、いわば外在的な「強いられた出来事」によって齎されており、その意味では、彼は未だ主体的な意志の積極的な所有者であるとは言い難い。しかし、妻の失踪という予期せぬ悲劇(夫の境遇と立場から事態の構図を眺めれば、これほど悲劇的な現実は他に考えられないだろう)に見舞われた彼は漸く、自分自身の根源的な実存の様態に懐疑を向けることになる。当然のことながら、自分自身の実存の様態に満足して、そこに安んじている人間が、何らかの物語の主役として、事態を牽引していくということは有り得ない。あるがままの現実を肯定しているのならば、何故、敢えて物語という不可解な構造に挺身する必要があるだろうか? 何の問題もなく、現状の追認だけで然したる不都合も生じない境遇ならば、物語という装置を導入する義務はない。何故なら、物語という装置は必ず人を今、この瞬間に佇んでいる場所から、異質な時空へ連れ去ることを自らの使命として背負っているものだからだ。

 自足、それ自体に倫理的な罪科を担わせるのは余りに酷薄な措置であろう。だが、その自足が知らぬ間に他人の心へ不穏な陰翳を投影しているとしたら、或いはその自足が誰かの「飢渇」の上に辛うじて成り立っているのだとしたら、そのような事態は暗黙裡に、物語の駆動を待望していると看做すことが出来る。そして語り手の「僕」は、つまり岡田亨は、それまでの安定した個人的な領域から、血腥く暴力的な世界へ踏み出していくことになる。彼はそれまでの安定した個人的な領域が隠蔽し、黙殺していたものとの直面を命じられる。

 その第一歩として彼が選択した具体的な行動が、近所の空き家の庭に穿たれた「涸れた井戸」の中へ入ることであったというのは、如何にも奇妙な話のように聞こえる。それが事態を解決する為の最も建設的で合理的な選択であるとは到底考えられないからだ。しかし、そうした常識的な解釈に依拠して「僕」の行動の無意味な性質を指弾しても、読解は進捗しない。必要なのは、涸れた古井戸の底へ閉じ籠もって時間を過ごすことの「意味」を捉える為に思索の工夫を凝らすことである。端的に言えば、彼は誰にも邪魔されることのない孤絶した空間の奥底で、失踪した妻との思い出を改めて綿密に回想することに「井戸の中の時間」を充てている。だが、井戸における経験の含意は、それだけには限られない。

 でもいくら努力しても、僕の肉体は、水の流れにさらわれていく砂のように、少しずつその密度と重さをなくしていった。まるで僕の中で無言の熾烈な綱引きのようなことが行われていて、僕の意識が少しずつ僕の肉体を自分の領域に引きずり込みつつあるようだった。この暗闇が本来のバランスを大きく乱しているのだ。肉体などというものは結局のところ、意識を中に収めるために用意された、ただのかりそめの殻に過ぎないのではないか、と僕はふと思った。その肉体を合成している染色体の記号が並べかえられてしまえば、僕は今度は前とはまったく違った肉体に入ることになるのだろう。「意識の娼婦」と加納クレタは言った。僕は今ではその言葉をすんなりと受け入れられるようになっていた。僕らは意識で交わり、現実の中に射精することだってできる。本当に深い暗闇の中ではいろんな奇妙なことが可能になる。(『ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編』新潮文庫 pp.135-136)

 このような「解体」の表現は「ねじまき鳥クロニクル」という小説においては幾度も執拗に頻出する。一般的に信じられている経験的な現実の秩序が危うく揺らぎ、壊れ、砕けて、根本的な変質を遂げてしまうこと、そのような奇妙な「体感」が繰り返し語られる。その表現の反復は何を指し示しているのだろうか? 意識と肉体の比重が乱れ、均衡が崩れてしまうということ、言い換えればそのような変質を得る為に「井戸」の暗闇へ侵入すること、それが物語の投じる課題への有効な対策として機能し得ること、これらの奇妙で難解な諸条件は、この「ねじまき鳥クロニクル」という小説世界の根本的な原理を構成しているように見える。

 「本当に深い暗闇の中ではいろんな奇妙なことが可能になる」という一文は、この井戸の奥底の暗闇が、或る象徴的な機能=役割を担った領域であることを暗示している。「いろんな奇妙なこと」を可能にする為に、岡田亨は「涸れた井戸」の奥底へ自ら足を踏み入れたのだ。だが、それは一体、どのような建設的企図を孕んでいるのか?

 僕は暗闇の中で両手の十本の指先をきちんと合わせた。親指は親指に、人さし指は人さし指に。僕の右手の指は左手の指の存在を確認し、僕の左手の指は右手の指の存在を確認した。それからゆっくりと深呼吸をした。意識について考えるのはもうやめよう。もっと現実的なことを考えよう。肉体が属している現実の世界について考えよう。そのために僕はここにやってきた。現実について考えるために。現実について考えるには、現実からなるべく遠く離れた方がいいように僕には思えたのだ。たとえば深い井戸の底のような場所に。「下に下りたいときには、いちばん深い井戸の底に下りればいい」と本田さんは言った。壁にもたれかかったまま、僕は黴臭い空気をゆっくりと吸い込んだ。(『ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編』新潮文庫 p.136)

 「現実について考えるには、現実からなるべく遠く離れた方がいい」という見解の是非に就いては断定を避けたいと私は思う。この物語における「井戸の経験」は、物事の総体を把握する為には遠くから俯瞰した方が良いなどという次元の単純な解釈とは相容れないように感じられるからだ。

 「井戸の経験」を通じて、彼は記憶の深淵に遡行し、自分が何処で何を間違えたのか、何処で潮目が変わったのか、それを探究することに労力を費やした。その結果として、一つの手懸りに逢着する。

 たぶんあの時から何かが変わり始めたんだ、僕はふと思った。間違いない。あの時を境として僕のまわりで流れが確かな変化を見せ始めたのだ。今になって考えてみれば、あの堕胎手術は僕ら二人にとって、非常に重要な意味を持つ出来事だったのだ。でもその時には、僕はその重要性がうまく認識できなかった。僕は堕胎という行為そのものにあまりにも強くとらわれすぎていた。でも本当に大事なことは、もっと別のところにあったのかもしれない。(『ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編』新潮文庫 p.382)

 無論、これは堕胎を巡る些細な心の擦れ違いが、知らぬ間に重大な亀裂へ繋がっていたという、凡庸な筋立ての一環ではない。それほどに単純な話ならば、これほど入り組んだ物語の展開を組み上げるのは、単に冗長な手続きでしかないだろう。重要なのは、クミコが「僕に言えない何か」を昔から抱えていたということ、その何かが失踪の起点であるということに存している。

 第二部の終盤、岡田亨は区営プールで「井戸」の幻想に包まれ、そこで一つの真実に到達する。何故、それが真実と判定されるのか、その論理的な根拠が示される訳ではない。だが、それを真実と判定しない限り、私たち読者は「ねじまき鳥クロニクル」という小説を支配する根本的な原理に手を触れることが出来ない。

 それから何かがさっと裏返るみたいに、僕はすべてを理解する。何もかもが一瞬のうちに白日のもとにさらけ出される。その光の下ではものごとはあまりにも鮮明であり、簡潔だった。僕は短く息をのみ、ゆっくりとそれを吐き出す。吐き出す息はまるで焼けた石のように固く、熱い。間違いない。あの女はクミコだったのだ。どうしてこれまでそれに気がつかなかったのだろう。僕は水の中で激しく頭を振った。考えればわかりきったことじゃないか。まったくわかりきったことだ。クミコはあの奇妙な部屋の中から僕に向けて、死に物狂いでそのたったひとつのメッセージを送りつづけていたのだ。「私の名前をみつけてちょうだい」と。(『ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編』新潮文庫 p.425)

 この重要な「発見」が「井戸」の幻想を通じて齎されたことは注目に値する。この「井戸」が私たちの暮らす経験的な現実の秩序を解体するものであることは歴然としているように思われる。そこでは経験的な現実と幻想的な「真実」との境界線が融解している。そして村上春樹が紡ぎ出す物語の目的は、経験的な事実を説明することには存しない。彼が捉えようとしているのは、もっと象徴的で、暗示的で、不可解な機構のようなものだ。それは分析的な言葉では捉え難い、不透明な輪郭と性質を備えている。彼はその曖昧な語法を駆使して、一体何を把握しようと試みているのだろうか?

 彼の目的がクミコを取り戻すことにあるのは明白な事実である。だが、クミコが失踪した理由は極めて観念的な表現を通じて語られており、私たちはそれが如何なる経験的事実を指し示しているのか、明瞭に理解することを事実上、禁じられている。

 私とあなたのあいだには、そもそもの最初から何かとても親密で微妙なものがありました。でもそれももう今は失われてしまいました。その神話のような機械のかみ合わせは既に損なわれてしまったのです。私がそれを損なってしまったのです。正確に言えば、私にそれを損なわせる何かがそこにあったのです。私はそのことをとても残念に思います。誰もが同じような機会に恵まれるわけではないのですから。そしてこのような結果をもたらしたものの存在を、私は強く憎みます。どれほど私がそのようなものを強く憎んでいるか、あなたにはわからないでしょう。私はそれが正確に何であるのかを知りたいと思います。私はそれをどうしても知らなくてはならないと思うのです。そしてその根のようなものを探って、それを処断し、罰しなくてはならないと思うのです。(『ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編』新潮文庫 pp.232-233)

  間宮中尉も、加納クレタも、そしてクミコも、共に「自分」の崩壊という危殆に直面し、苦しめられている。彼らは経験的な事実が解体してしまった後の、不可解な曠野の中で生きることを余儀無くされている。何が彼らの「自分」を崩壊させたのか? 加納クレタに関して言えば、それは綿谷昇との奇怪な性交であり、間宮中尉の場合には、それは満州の井戸で味わった強烈な陽光の経験である。そこに何らかの共通項を見出すことは可能だろうか? 間宮中尉は人生の「核」を光に焼かれて失い、加納クレタは綿谷昇との性交を通じて、自分というものの流失を経験した。こうした「個人的なもの」の崩壊と破綻は、一体何を意味しているのか? 率直に言って、今の私には未だ、その答えを導き出す力が備わっていない。

ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編 (新潮文庫)

 

間もなく、春が来る

 何処の世界でも似たり寄ったりだろうが、三月から四月にかけての季節というのは、出会いと別れが目紛しく混じり合う時期で、何だか頭の中が遽しく煮え立つような心持がする。私の勤め先でも大幅な人事異動の辞令が日夜飛び交う頃合いで、一年間同じ店舗で一緒に働いてきた昨春入社の新人の女の子も、蛹を脱ぎ捨てるように他の店舗へ移っていった。春から新規に立ち上げる店舗の二番手として抜擢されたのである。水が合うのか、小売業の現場というのは特殊な世界であるにも拘らず、随分と活き活きと働いていた子であった。前向きに愉しんでいる所為か、色々な事柄を習得するのも順調で、新入社員とは思えぬ風格を垣間見させることも稀にはあった。

 アルバイトのスタッフも、大学四年生の古株たちは一斉に就職の為に離陸していった。その途端に、今では先輩たちの影に隠れて目立たなかった子たちが、不意に雪の下で眠っていた植物の群が目覚めるように、仕事の表舞台へ飛び出して来たように感じられるのは、鈍感な私の個人的な錯覚であろうか。

 遽しさに引き摺られるようにブログの更新が数日途切れていたが、別に誰が困る話でもなかろう。尤も、何にも考えずに仕事ばかりしている訳ではなく、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」の第二部を読むことに時間と労力を注いでいるのである。読み終えたら、また感想文を書きたいと考えている。

 村上春樹の小説は、文章そのものは極めて平明で、決して難解には見えない。時折挿入される奇矯な比喩も、慣れてしまえば驚かない。だが、それらの平明な文章を紡ぎ合わせて、総体的な地図のようなものを描こうと試みると、途端に焦点が合わなくなり、難解という印象が膨れ上がるのだから不思議だ。尤も、小説は主題に回収されるべきものではないという保坂和志的な価値観に依拠するならば、それは小説の欠点ではなく、寧ろ本領であると看做すべきだろう。

 村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」を読み終えたら、何を読もうかと頭の片隅で考えながら、新潮文庫のページを繰っている。前に読みかけて途中で放置してしまったオルハン・パムクの「雪」にしようか、いやいや三島由紀夫の「午後の曳航」にしようか、或いは先日、幕張のくまざわ書店で手に取ったボルヘスの「伝奇集」も気になる、などと、候補を挙げ始めれば切りがないが、人生の時間は有限であり、私の知力も有限であるから、何処まで妄想が現実に転化し得るかは、一向に分明ではない。元気に生きている積りでも、どんな不運な星回りに強いられて貴重な命を失うか、それは地上の誰にも判断の下せない究極の難問である。死ぬ時に後悔するような生き方は御免蒙る。だから、限られた時間の中で、私たちは遣れることを着実に熟していかなければならないのだ。

 本を読む、それは気が向いたときにだけ取り組めばいいだけの、ささやかな趣味に過ぎないが、人生が有限であり、知力が有限であるという厳粛な事実、そして世界に存在する書物の無限にも等しい夥しさに眼を配るならば、そのような悠長な考え方に甘んじている訳にもいかない。積極的にページを捲ることで、生きている間に、限界まで自分の世界を広げておかなければならない。死期を迎えてから悔やむのでは遅いのだ。人生は有限であり、書物は無限である。私は成る可く無限の境涯に近付いた上で死にたい。

日常性を蝕むもの 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(第1部 泥棒かささぎ編)

 村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」という長篇小説の第一巻「泥棒かささぎ編」を読了したので、感想の断片を書き留めておく。

 尤も、この「泥棒かささぎ編」を通読したのは、今回が初めてではない。遡ること十数年前、私が未だ中学三年生だった頃の、高校進学直前の春休みに、誰もいない家で炬燵に浸かりながら、夢中になって貪るように読み終えたのが最初の邂逅であった。松戸駅前の良文堂書店で、分厚いハードカバーの「泥棒かささぎ編」に何故か心を惹かれ、大枚を叩いて購入したのである。いや、或いは中学二年生の終わり、大阪府枚方市から千葉県松戸市へ引っ越して来たばかりの、束の間の平穏な早春の日であったろうか。どちらでも構わないが、兎に角、それが村上春樹の作品との、最初の本格的な接触であったのだ。

 夢中になって読み終えたくせに、私は続きの二冊を読まないまま、今日まで過ごしてきた。奇妙と言えば奇妙だが、別に続きを読まねばならない義理もないと考えることも可能である。未だ作品の全篇を通読した訳ではないので、断片的な感想文となることを御了承願いたい。

 「泥棒かささぎ編」は、長大な作品の導入部に当たる一冊であるから、複数の物語の流れは未だ互いに分岐し、並行したままの状態であり、それらの複数の挿話を包括的に纏め上げる綜合的な視座のようなものは未だ具体的な形では示されていない。語り手である「僕」(岡田亨)は、法律事務所を辞めて求職中の立場であり、家計の財源は妻のクミコの収入で暫定的に賄われている。彼は決して主体的に何かを求めて行動するタイプの人間としては描写されておらず、寧ろ物語の展開に対して、常に受動的な姿勢を有している。物語は、様々な見知らぬ人々から、しかも少なからず奇妙な経歴の持ち主たちから、語り手の「僕」が接触を受けるという形式で進んでいく。彼は主体的な意志に基づいて物語を駆動させる存在ではなく、飽く迄も外部から到来する様々な異形の意志に衝き動かされるという仕方で、物語の枢軸に位置し続けるのである。

 こうした語り手のメンタリティが、極めて村上春樹的な特徴を鮮明に備えていることは、一読すれば明らかである。多くの場合、彼の描き出す主人公たちは不可解な因縁や思いも寄らぬ成り行きに引き摺られ、巻き込まれるような形で、小説の世界に対する介入を強いられる。彼らは自分の意志を適用すべき範囲を常に慎重に制限し、他者の領域へ土足で、或いは独善的に侵入することに対して非常に禁欲的である。この特徴は同時に、彼自身が己の領分を土足で侵犯されることに対して非常に防衛的であるという事実と、明瞭な対照を形成している。

 法律事務所を辞めて、所謂「専業主夫」としての勤勉な生活を送り、次の仕事を探しつつも、今一つ就職の決断に踏み切れずにいる「僕」の人物造形が、こうした村上春樹的メンタリティと親和的な関係にあることは歴然としている。言い換えれば、村上春樹的な主人公たちは「外の世界」=「社会」に対する積極的な関与を望まないという根源的な性質を共通の「魂」として附与されているのである。淡々と家事を営み、穏やかな日常生活の反復に自足しようとする傾向、社会的事件よりも審美的な事象に重要な価値を見出そうとする傾向、公共性の領域よりも個体性の領域に実存の基盤を求めようとする傾向、これらの要素は村上春樹の造形する文学的宇宙の基礎的な原理であり、特質である。

 この特質に別の表現を与えるとするならば、それは「社会的なものに対する絶望」と呼べるだろう。社会的なもの、様々な不特定多数の人間の繋がりによって構成された巨大な体系、その外在的な権力の秩序に対する絶望と諦観と不信が、村上春樹的な世界の基調を成している。その意味で私が想起するのは坂口安吾である。彼は終戦直後の崩壊した社会の内側で最も輝かしい栄光を放った異才であり、個人として生きることの意義を極限まで倫理的に問い詰めた作家であった。彼らに共通しているのは、政治的な解決というものに価値を認めない、孤高の姿勢である。無論、それは時に極端な保守的見解と重なり合ってしまう虞を孕んでいるが、私は、彼らのそういうメンタリティに「潔癖な誠実さ」を感じずにはいられない。政治的な理念に呑み込まれた作家など、語義矛盾に等しいからだ。

 社会的なものに対する絶望の介在は、物語の主体的な生成を妨げる働きを有する。少なくとも私は、そのように仮説を立ててみたいと思っている。常に受動的で、個人的な日常生活の範疇に閉じ籠もっている人間が、積極的に大胆な物語の構築へ力を尽くすということは考えられない。だから、そのようなメンタリティの人間を主役の地位に据えながら、敢えて強引に物語を駆動させようと試みるならば、どうしても筋書きの変化を齎す要因は「外部から到来するもの」として措定されざるを得ない。

 語り手の「僕」は極めて単純な個人的生活を送っているだけの、平凡な人物として描き出されている。しかし、彼は徐々に不穏な訪問者たちの手で、それまでの平穏な日常への耽溺を妨げられるようになっていく。彼は誘われ、導かれるままに奇妙な人物との対話の機会を持ち、単調な孤独の閉域から逸脱することを強いられる。このような筋書きの構成は、一体どのような意味を持つのか? 端的に言って、それは「社会的なもの」の不可避性の証明であると看做すべきであろう。人間はどんなに孤立した、極めて個人的な静穏の日々の中に留まることを熱望したとしても、知らぬ間に忍び寄る外在的な影響力、社会的な関係性の網目から完全に自由であり続けることは出来ない。この簡明な真理を、この「ねじまき鳥クロニクル」は執拗なフーガのように繰り返し訴え、厳かに告示し続けているように見える。

 安閑たる日常が、全く予期せぬ仕方で、外来的な存在によって俄かに損なわれ、深刻な混乱の渦中へ導かれるという経験に、少しも心当たりのない者は珍しいだろう。現に私たちはたった数年前、あの未曽有の大震災と原発事故に遭遇した。もっと年月を遡っても、例えば阪神淡路大震災オウム真理教による化学テロ、アルカイダによる世界貿易センタービルへの特攻など、類似の事例は幾らでも掘り起こし、呼び覚ますことが可能である。個人の意志や感情とは全く無関係に、突発的に襲い掛かる暴力的な事件の力によって、個人の平穏な生活が蹂躙されるという経験は、個別の人間に限って押し寄せる例外的な惨劇ではなく、寧ろ人間という存在に附随する普遍的な宿命なのである。

 個人的な生活、その矜持と尊厳に決して生半可なものとは言い難い執着=愛着を示す頑固な作家である村上春樹が、そのような「突発的で暴力的な事態の到来」に敵意を持つのは自然な流れである。或いは、そのような外界からの暴力的な訪問者に直面したとき、人間はどのように振舞えばいいのか、という倫理的な課題に、彼が切実な関心を寄せるのは当然であると、言い直すべきかも知れない。ミラン・クンデラは、小説という文学的形式の孕む固有の役割を「想像的自我の実存的な検討」と呼んだ。その定義を踏まえれば、村上春樹の文学的な関心は「個人の平穏な日常を踏み躙る突発的な暴力と対面したとき、どのように立ち向かえばいいのか」という倫理的な主題を検討することに存すると言えるのではないだろうか。有名なエルサレム賞の受賞演説「壁と卵」を想起すれば、私が論じている事柄の性質は一層、鮮明になるだろう。彼は常に「壁と卵」の問題に異様な執着の持続を示してきたのだ。

 こうした私的な仮説と拙劣な探究が、妥当な成果に結び付くかどうかは、全篇を通読した後に判断されるべき問題である。従って、本稿はこれで擱筆とする。

 

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

 

 

一歳児のための、記憶の里程標

 三月十五日に、娘が一歳の誕生日を迎えた。

saladboze.hatenablog.com

 上記の文章を、落ち着かない、ふわふわとした心境の中で一人、自宅の居間でパソコンに向かって打ち込んでから、一瀉千里に、一年間という歳月が流れ去った訳だ。そして生まれたばかりの、とても簡単に壊れてしまいそうに感じられる、人間よりも爬虫類を思わせる顔立ちであった娘は、大きな口を開けて猛然と離乳食を平らげる立派な一歳児に変貌を遂げた。感無量である。

 ミルクを存分に呑み、苺やバナナや蜜柑といった果実にも眼がない娘は順調に体重を増やし、逞しく育った両脚を操って自宅の二階へ通じる階段さえ、親の知らぬ間に登頂してしまうほどの活発な女の子へ無事に進化を遂げた。無論、未だ一歳だ。それは少しも到達点ではないし、人生の本格的な入り口に辿り着いた訳でもない。それでも、ここまで何とか大きな怪我もせず病気もせずに歩いて来れたことが、何よりも嬉しく、安心である。

 人間は容易く色々な出来事を忘却の彼方へ押し流してしまう生き物である。最近読んでいる村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」(新潮文庫)にも、語り手である「僕」が何らかの出来事に関して「思い出せない」と呟く場面が散見する。未だ読了していないので(何しろ文庫本三冊分の長大な分量の小説なのだから)纏まった感想を書くことは差し控えるが、この「思い出せない」という些細な忘却=記憶の「枯死」の累積が、或る時、俄かに巨大な災厄を齎すこともあるだろうと、私は改めて考えた。妻のクミコが「僕」に向かって、次のように述べる件は良くも悪くも印象的である。

「あなたは私と一緒に暮らしていても、本当は私のことなんかほとんど気にとめてもいなかったんじゃないの? あなたは自分のことだけを考えて生きていたのよ、きっと」と彼女は言った。

 私は今から約六年前に離別した前妻から「あなたは結局、子供が一番じゃなくて、自分が一番なんでしょう」と吐き捨てられたことがある。いや、吐き捨てられたという言い方には、不当な悪意が入り混じっているかも知れない。彼女は真剣な思索と真剣な憤懣の末に、私の行動や思想を革める目的で、そのように悲痛に訴えたのかも知れないのだ。だが、私は彼女の言い方が不満であった。そのように一方的な断定を投げつけられる筋合いはないし、私は子供のことを愛していたからだ。たとえ、その愛し方が先方の眼には物足りなく、誠意が欠けているように見えたとしても、私は私なりの考え方や信条に基づいて、子供を愛していたのだ。

 だが、今になってみれば、私の愛し方は未熟であったかも知れないと思う。二十歳の私が生まれたばかりの息子に接するときの愛情の形と、三十一歳の私が一歳の誕生日を迎えた娘に接するときの愛情の形には、少なからぬ相違点がある。恐らく十年前の私は今よりも遥かに未熟であったし、父親としての覚悟も、夫としての覚悟も、一個の人間としての覚悟も恥ずかしいほどに生温いものであった。たった十年では、変わらないものも多いに違いない。だが、十年の星霜を経て培われた新しい知見や経験が、十年前の不徳を埋め合わせるように、新しい交響曲を奏でるということも、この広大な地上では充分に起こり得るのだ。

 それは十年前の悔恨や無知や、そこから派生する大小様々の「罪悪」を償還するものではない。どんな出来事も、それが繰り返し反復されるように見えたとしても、それは長い歴史の中に滴り落ちた、代替の許されない単独の現象である運命からは、断じて逃れられない。だが、そうした厳粛な事実は却って、明るい展望を齎す契機ともなり得るのではないか。償うことが不可能であるからこそ、私たちは過去の悲劇を礎として、新しい未来を建築する力を獲得する。償えるのならば、償うしかあるまい。償えないからこそ、人間は新しい一歩を踏み締めることで、己の愚かさを鞭打ち、己の惰弱を刺殺するのだ。

視線の政治学 安部公房「他人の顔」に関する試論

 安部公房の「他人の顔」(新潮文庫)を、十余年越しに読み終えた。

 大学一年生の春に買い求めて途中で投げ出し、それきりずっと私の小さな書棚に埋没を続けていた一冊を、改めてきちんと通読することが出来たのは、ささやかな歓びである。折角の機会なので、拙いながらも個人的な論究を試みたいと思う。

 安部公房という作家が「見る=見られる」という人間相互の関係性に対して、極めて鋭敏で執拗な関心を有していたことは、彼の作品を繙けば直ちに了解される事柄であろう。「視線の政治学」などと気取った表題を掲げてみたのも、作家が「視線」というものに重要な意義を見出している事実に焦点を合わせたいと考えた為である。

 安部公房にとって「自己の喪失」という主題は、この「他人の顔」に限らず、様々な作品を通じて繰り返し取り上げられる重要な観念としての地位を有している。彼の作品に漲る諧謔も閉塞感も、この「自己の喪失」という奇怪な現象へ直向きに注がれる解剖学的な眼差しから分泌されている。何故、彼にとって「自己の喪失」という主題は重要な意義を担っているのか? それは安部公房という作家が「現代」という時代を捉えるに当たって、こうした「自己喪失」の問題を否が応でも意識せざるを得ない「核心」として重視していたことの表れである。

 語り手である男は、液体空気の爆発によって顔一面をケロイド瘢痕によって覆われるという不幸な事故の被害者である。彼は己の顔を幾度も「蛭の巣」と呼称し、他人の視線から己の暗部を庇う為に繃帯を巻いて生活している。ここで彼が陥る屈折した自意識の監獄は、私たちにとっても決して他人事ではない。彼は「顔」の有無によって人間の本質が左右されることなど有り得ないという勇敢な持論を表明するが、実際には「顔」の喪失によって自己解体の危機に追い込まれてしまう。「顔」は所詮「皮膚の一部」に過ぎないというシニックな価値観は、表層よりも深層を重視する近代的な価値観の末裔であるが、そうした価値観の興隆を嘲笑うのが「現代」という時代の先鋭な特質なのである。寧ろ私たちは加速度的に「表層」だけが特権的な価値を有する時代の潮流の渦中へ投げ込まれつつあるのだ。

 何故、私たちの暮らす社会は「表層」の特権性という理念に拝跪しているのか? それは私たち個人の「正体」が徐々に透明性を失いつつあるからだ。そうした変容は、私たちが「共同体」の成員であることから、バラバラに切り離された原子的な「個人」として存在することへ、生存の原理を書き換えつつあることの反映である。私たちは「個人」という単位で生きることを強いられ、且つ自ら選択しつつある。実存の限りない自由は、私たちの「素顔」が何であるのかという問いの答えを、歴史的な諸条件から隔絶させ、恣意的な選択の累積として規定する。だからこそ、私たちは事物の「表層」に対する鋭敏な感性を発達させることに惜しみない情熱を注がねばならないのである。

 一見すると、この「他人の顔」という小説の主題は、個人に刻み込まれた重要な徴としての「顔」の特権性を語り尽くすことに存するかのように思われるが、そうした理解は決して適切なものではない。「素顔」を「不完全な仮面」と呼ぶ「ぼく」の発想は、私たちの世界が「表層」によって支配されていることを明瞭に告発している。だからこそ、彼は「顔」を失うことによって自己の致命的な解体に追い込まれるのである。彼は精巧な「仮面」を作り出すことによって、自己の恢復を企てるが、そうやって生み出されたものは所詮「他人の顔」に過ぎない。それは自己の恢復とは全く異質な悲喜劇を形成することになる。「表層」だけが支配する世界で、仮面という欺瞞的な「表層」を手に入れることで、彼は「他人への通路」を甦らせようと試みるが、結局それは無惨な敗北に帰着する。何故、彼の企ては失敗しなければならなかったのか?

 でも、もう、仮面は戻ってきてくれません。あなたも、はじめは、仮面で自分を取り戻そうとしていたようですけど、でも、いつの間にやら、自分から逃げ出すための隠れ蓑としか考えなくなってしまいました。それでは、仮面ではなくて、べつな素顔と同じことではありませんか。

 妻からの手紙に記された、この酷薄な断罪の文章は、彼の敗因の在処を簡潔に指し示していると言えるだろう。自己回復の為に創造した精巧な「仮面」を被ることによって、彼が手に入れたのは「自分自身」ではなく「他人」としての「自分」であったのだ。つまり、彼は「表層」によって支配されるという時代の特質に紛れもなく屈服していたのである。「表層」を取り換えてしまえば、別の人間に生まれ変わることが出来るという「仮面」の悪魔的な魅力は、そもそも「自己」という観念が他愛のない幻想に過ぎないことを曝露している。

 「私」という人間の本質は、「私」という人間の「表層」によって規定されている。こうした考え方を否定していた筈の「ぼく」は、錯綜した仮面劇の世界に足を踏み入れ、結果的に「仮面」という完璧な「酩酊」の方法を発見し、その虜になってしまう。だが、そうした酩酊が完璧である為には、人間の存在論的な単独性の根拠が、その人間の「表層」だけに限定されている必要がある。「表層」さえ交換すれば、直ちに別人に生まれ変われるという奇怪な「酩酊」の現象は、人間の本質が「顔」という「表層」にしか基盤を置いていないことの傍証なのである。

 人工的に作り出された、誰でもない人間の顔としての「仮面」を装着することで、彼は自分自身の存在を維持したまま、別の「人間」として存在する権利を確保する。これは何を意味するのか? 言い換えれば、彼はケロイド瘢痕によって「素顔」を失ったのではなく、精巧な「仮面」を被ることによって「素顔」を失ったのである。蛭の巣を隠匿する為の繃帯の覆面でさえ、厳密には「ぼく」という個人の歴史的な存在と緊密に結び付いた「素顔」であったと看做すことが可能である。だが、精巧な「仮面」の魔力は、彼を完全な匿名性の鎧の中に封じ込める。完璧な「酩酊」とは即ち完璧な「匿名」の異称である。仮面を通じて、いわば「透明人間」となることで、彼は絶対的な権力を掌握することに成功するのだ。それは他人から「見られる」ことを免除され、一方的に「見る」だけの主体として自己定義することを意味する。

 ケロイド瘢痕と、それを隠す為の繃帯の覆面は、暴力的なまでに「見られる」ことを強いられる、極めて苛酷な境涯の象徴である。彼は精巧な仮面を被ることで、当初は平凡な自己の恢復に努めたが、それは「仮面」の本質を見誤った判断であったと言えるだろう。仮面は本質的に「他人の顔」であると同時に「誰でもない人間の顔」でもあるのだ。幾ら他人から凝視されたとしても、それは「ぼく」ではなく「仮面」の方である。この奇妙な自己分裂が、彼に「純粋な見者」としての法外な権力を授けるのだ。

他人の顔 (新潮文庫)

他人の顔 (新潮文庫)

 

 

ただ、そこにある道を往くばかり

 ミラン・クンデラの「小説の技法」(岩波文庫)を読み終え、次の書物として安部公房の「他人の顔」(新潮文庫)を読み始めた。通読には未だ時間が要るので、内容に関する覚書などは差し控えておくが、滅法面白い。十年以上前、大学に進んだばかりの生温かい春の季節に、下高井戸駅啓文堂書店だったか、或いは新宿の紀伊国屋書店で購入したと思しき、ページの上端に茶色の紙魚が浮いた手許の一冊は、最初に読み始めたときには、その陰鬱な空気に堪えかねて少しも前に進めなかったことを、漠然と記憶している。

 年齢を重ねれば感覚的な嗜好にも少なからず変化が生じるのは自然な現象であり、寧ろ十年経っても一向に趣味や感受性の内訳が固定したままでは、人間として危機的な状況に瀕していると言わざるを得ないのではないだろうか。十代の終わりから三十代の初頭にかけての十年間は良くも悪くも甚しい変容が、人々の身辺に降り掛かり易い季節である。否が応でも、子供の頃の青臭い蛹を脱ぎ捨てて、蛆虫の立場から逃れ出て、空を羽撃けるように懸命に練習するのが二十代の青年に課せられた気詰まりで苛酷な使命であることは、一般論として疑いようがない。

 そのとき、その瞬間には気付かない些末な変化であっても、改めて半生を(三十一歳の男が「半生」を叙するなど馬鹿げた話だ)振り返ってみると、少なからぬ変異が幾度も自分の魂を洗っていたことに不意に想到するのだから、不思議なものだ。昨日の自分と今日の自分との間に差異を発見することは困難な作業だが、十年前の漠然と霞み始めた己の面影と比較すれば、色々と奇妙な乖離に眼を啓かされることになる。

 四月から来期の新入社員が、私の管轄している店舗にも配属されてくる。その女の子は短大卒なので弱冠二十歳である。そして凡そ十年前、私が最初の結婚相手に選んだ年上の女性は、当時九歳の娘を連れていた。離婚して以来、その子とは一度も逢っていない。厳密には一度だけ、松戸の街中で邂逅したらしいのだが、私は気付かなかった。

 春から配属される新入社員と、恐らくは二度と会うこともないだろうと思われる義理の娘が、同じ年に千葉県で生まれ、成人式を迎えたという客観的な事実は、別に奇遇でも何でもない。単に私が齢を重ねたという生理的な事実を暗黙裡に傍証しているに過ぎない。

 入社したばかりの頃、配属先の店舗で働いている学生のアルバイトたちは皆、一つか二つ年上で、況してや主力のフリーターや主婦などは無論、私より遥かに成熟した、世慣れた人々であった。上司も同僚も悉く私より年長で、そういう感覚が未だに染み込んでいる所為か、徐々に後輩社員の数が増えつつある現実に、精神の構造が巧く馴染んでいかないような感覚がある。毎年のように新入社員を迎え入れ、その度に一つずつ年齢の開きが大きくなっていく。未だ三十歳だとも言えるし、もう三十歳だとも言える、この中途半端な年齢の自分自身が、何処か赤の他人のように遠く感じられることもある。知らぬ間に随分と、出発点から遥かに隔たった地点まで、彷徨する序でに流れ着いてしまったような、塩水に浸った南洋の流木のような心境が、私の魂に薄絹を被せている。時間の感覚が狂っていく。自己定義は何時までも十代の頃と余り変わらぬような気がしても、肉体は着実に劣化していき、精神の方も無論、我知らず硬変の症状を示しつつあるのだ。

 間もなく一歳の誕生日を迎える娘を持ち、住宅ローンを背負って粉骨砕身、いやそれほど生真面目でも情熱的でもないが、課せられた責務に少しでも見合うように働きたいという願望だけは忘れずに常時携えて、日々を過ごしている以上、もう自分を若者として定義するのは、深刻な誤謬であると悟らねばならないのだろう。その境目は単純に客観的な数値としての年齢に基づいて、截然と区切られるものではなく、個人によって隔たりの大きい、曖昧な線引きであることに留意すべきだ。何かを背負い込み、責任を負ったときから、つまり自分の人生が「自分だけのものではない」という明瞭な倫理的感情に捕縛された瞬間から、私たちは「無謀な若者」としての自己定義と絶縁しなければならない。「自分の所有物としての自分」という奇妙な命題は、他人との間に強靭な紐帯を締結したとき、根源的な破綻の危機に瀕する。無論、それを「危機」と捉えるかどうかは、個人の裁量に委ねられている。だが私は、今更「無責任な自由」に憧憬を捧げようとは思えない。それが「老化の徴候」であることに同意するのは不快ではない。ただ、そこにある道を往くばかりである。