サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

批評は常に出遅れている(無論、それは罪ではない)

 批評というものは、必ず何らかの対象の存在を必要とする。あらゆる批評的言説は常に、批評を受ける対象の現前を要請する。それは意識が常に「何かに就いての意識」であることに似通った消息である。

 だが一方で、批評もまた自立した作品として存在することが可能であるという言説も、この国では随分昔から罷り通ってきた。その嚆矢として、小林秀雄の登場を挙げる論者は少なくない。良くも悪くも、小林秀雄は日本における近代的な批評文の立役者という華々しい肩書を背負っている。その毀誉褒貶は著しく劇しい。彼の著作が広範且つ圧倒的な影響力を誇ったことは歴史的な事実である。しかし、その著作の非論理性が、批評というジャンルの性質を甚しく歪め、改悪したという指摘は今日、相応の説得力を備えていると認められている。

 批評が自立した作品であるという言説の意図は奈辺に存在するのだろうか。それを問う為には先ず「作品」という観念の定義を明らかにしておく必要がある。「作品」という観念と切り離し難いのは恐らく「自立性」という要素であろう。端的に言って「作品」とは「それ自体で独立して存在し、機能し得る装置=体系」であり、理論的には、それは時代や環境に由来する制約を超越した「普遍的装置」であると信じられている。少なくとも「そうであるべきだ」と看做されている。

 だが、批評が絶えず「何かに就いての言説」として事後的に形成される営為であるならば、それは所謂「作品」のような自立性を持ち得ないのではないか。時代や環境による制約以前に、批評は先ず「作品」によって拘束され、宿命的に呪縛されている。

 批評は必ず何らかの「先行する対象」に就いて記述されなければならない。それは批評が事物の「価値」や「構造」を考究する言説の形式である限り、避けることの出来ない根源的な「掟」である。その不可避的な「事後性」の要件が、批評的な言説を弄する人々の精神に或る不穏な傷口を開いてきた。如何に下らぬ作品が相手の場合でも、それが「作品」である以上は、批評的な言説に対する「先行者」としての優位を維持してしまうという現実に、犀利な論者たちは忸怩たる想いを抱懐してきたのである。その「不快」が、一部の人々に批評的言説の「立身出世」を目指す欲望を宿らせた。拭い難い「事後性」という宿命への精神的な反発が、批評もまた「作品」であるという雄々しい声明の公表に踏み切らせたのである。それは批評を「芸術」の範疇に繰り入れる作業だが、私は敢えて、そのような方針は危険であり、矛盾していると言いたい。自らを「芸術」や「作品」として自立させようとする批評的言説は、その声高な宣言によって批評としての柔軟な本質を抛棄することになる。言い換えれば、批評が「作品」を僭称するのは、批評の自裁に他ならないのである。

 批評は主体性や自立性を持つことが出来ない。それは根源的な「受動性」によって占有されている。批評は常に先行する他者に就いて語るのであり、自らの存在を積極的に物語ることが出来ない。この素朴な原理を敢えて忘却しない限り、批評の作品化という矛盾した犯罪を実行に移すことは不可能である。批評が作品化するということは、批評性の抛棄に他ならない。無論、芸術作品が何らかの批評性を含んだ形で存在することは出来る。しかし、如何なる芸術作品も、それが単なる批評の手段でしかないということは有り得ない。

 作品の自立性は、それが如何なる「意味」とも無関係に存在する根源的な領域として形成されている為に生じる性質である。一方の批評は絶えず「意味」を探し求めることに汲々としている。「意味」の結実を望まない批評は、批評として成立し得ない。これは単純明快な事実である。何故なら、あらゆる事象の「意味」を問い詰めずにはいられない面倒臭さが、批評の特質であり、誇るべき本懐であるからだ。

 批評が作品を目指すとき、必然的に批評は明確な「意味」の探究と絶縁しなければならない。その観点から眺めるならば、批評による「作品」の僭称は批評性の棄却であるという結論に至る。

 批評が作品であるならば、批評を批評することも可能であるという理窟が成り立つ。だが本来、批評を批評するくらいならば、共通の対象に就いて自分の言葉で別の批評を著せば済む話ではないか。批評の批評は必然的に「論争」を惹起する。論争そのものの意義を云々する積りはない。ただ私は、それは単なる袋小路の招来にしか繋がらないのではないかという疑念を禁じ得ない。例えば以前、私が書いた「ブギーポップ・ミッシング ペパーミントの魔術師」(電撃文庫)という書物に関する批評(殊更に「批評」と呼べるほど改まったものではないが)に対して、批判的なコメントが寄せられたことがあった。そのこと自体は別に構わないが、そこで程度の低い論争を演じるよりも、自分なりの批評を書いた方が遙かに有意義で、建設的ではないかと思う。「批評」の批評は不毛且つ空虚である。結局、批評は他者の批評と優劣を競い合う為に書かれるのではなく、飽く迄も「作品」との個人的な対話として織り成されるものであるからだ。

 

サラダ坊主風土記 「両国」

 先日、妻と二人で久々に外出した。幼い娘は、義母が一日預かって面倒を見てくれた。有難いことである。そういう協力がなければ、小さな子供を抱えた夫婦が二人きりで外出する機会を得ることは、とても難しい。

 そういう貴重な機会であるのに、事前に綿密な計画を立てる訳でもなく、私たちは行き当たりばったりに家を出た。息苦しいほどに劇しい夏の光が燦然と降り掛かる午前十時の街並だ。京成電車の線路に沿って歩きながら、ベビーカーを押さずに歩く感覚に少し戸惑う。何だか、普段と異なる世界を歩いているような気分に陥るのは、それだけ私が育児に慣れてきたということの証拠だろうか。

 両国へ行こうと思い立った契機は、早くも忘れてしまった。ただ以前から、江戸東京博物館https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/)に行ってみたいと、漠然たる野望を胸の内に宿していたことは事実である。何となく「和風っぽいもの」に心惹かれてしまうのは、老化の徴候であろうか。何しろ私は、二十歳の時に初対面の人から「三十くらいですか」と尋ねられたり、十八歳の時にバイト先の青果店の店長から「君は若さがないよね」と言われたり、年上の上司から年上だと勘違いされたりしてきた経歴の持ち主であるから、三十一歳にして「江戸の風情」に関心を覚えるほど老化が亢進している可能性は大いにある。妻は余り気乗りしない様子であった。だが、際立った代案が二人の頭に思い浮かぶ前に、総武線の各駅停車は両国駅へ到着してしまった。

 生まれて初めて降り立った両国駅は、如何にも相撲の本場を思わせる空気に満ちていた。興行があるとき以外は封鎖されていると思しき階段がホームにあり、船橋法典駅中山競馬場の恩恵で生きているように、両国駅も大相撲の余沢で生きているのだろうと思われた。

 偶には奮発して鰻でも食べようかという話を往きの車中で交わしていたのだが、調べた店は駅の反対側のビルにあるらしく、バクダッドを思わせる苛烈な炎天下を歩き回るのは気が進まない私たちは、駅に併設された飲食店街の中に昼餉の候補を求めた。ちなみに私も妻もバクダッドを訪れたことはない。私に関して言えば、齢三十を越して、未だに一度も国境線を越えたことのない、筋金入りのドメスティック野郎である。その度し難い保守性が、駅の反対側にある鰻屋さんまでの旅程さえも、躊躇わせたのである。

 結局、私たちはあっという間に方針を転換して、天麩羅を食べた。目の前で職人が揚げてくれるタイプの店である。私は上等な天麩羅屋に入った経験がないので、職人の一挙手一投足が関心を惹いた。三人の中高年男性、どちらかと言えば高年の男性が三人、無駄口も叩かず、黙々とフライヤーと格闘している。色々なところに小麦粉の白い痕がついている。三人とも、老獪な政治家のような顔立ちである。一日中、引っ切り無しにフライヤーへ揚げ種を抛り込んだり、金属の菜箸を操ったりしているのだから、とても暑くて大変だろう。しかも、絶えず手許を客に観察される職場環境なのだ。これはなかなか気疲れする境遇である。その夥しい視線の圧力に堪え忍ぶ為だろうか、三人とも老獪な政治家のような顔つきであるのは。あれは恐らく、世間の批判に対抗する為の仮面であろう。

 食事を終えると、私たちは目当ての江戸東京博物館へ向かった。その通り道にバーベキューを行なう会場があり、狭苦しいスペースに犇めき合って家族や友人同士の集団が肉を焼き、酒を呷っている。そこから放出される煙の量が厖大で、駅前のところまで押し寄せるのだ。暇を持て余した寿司屋の兄さん二人が、今日は一段と煙が酷いねと頷き合っていた。こんな炎天下で、濛々たる煙、しかも肉を焼いた煙を浴び続けて、アルコールまで摂取したら、肉体はボロボロに劣化するのではなかろうか。私は心配になったが、こういう心配を懐くこと自体が既に、私の内なる老化の動かぬ証拠であろう。

 江戸東京博物館は、驚嘆すべき巨大な建物であった。余りに広くて、一体誰の差し金でこんな巨大な博物館が作られたのか、慎太郎の肝煎りだろうかと、要らぬ憶測が膨らんでしまう。入館料を惜しんで特別展の方は節約し、常設展だけを見物することにしたので、一人600円であった。安い。これで巨大な図体を養っていけるのか、設備投資は回収出来るのか、再び要らぬ憶測が鎌首を擡げる。カロリーの浪費である。

 生温い空調の館内は、壮観であった。実物大の日本橋(半分だけ)、実物大の歌舞伎小屋が再現され、彼方此方にジオラマやレプリカが鎮座して、江戸の風情を来場者に実感させるべく袖を捲り上げている。気乗りしていなかった妻も、徐々にテンションが上がっていく。大名行列の駕籠に平民の分際で試乗し、座り心地を確認している。私が妻に「クーラーはついているのか」と愚問を投げ掛けると、傍にいた見知らぬ高年の男性がふふんと鼻で笑った。

 そうして館内を歩き回っていると、何処からか三味線の音色が聞こえてきた。力強い拍手喝采の騒めきが時折入り混じる。どうやら津軽三味線の演奏を遣っているらしい。妻は両親が津軽の人なので、津軽の文化に愛着を持っている。惹き寄せられるように、私たちは演奏に聞き入った。三味線は弦楽器だと思っていたが、マイクで拡大された音の中に、バチで三味線を叩く荒々しい音が混じるのを聞いて、打楽器としての要素も強いのだと独り合点した。そのような趣旨のことを、演者の男性も説明していた。荒々しく、血が騒ぐような音楽である。元々、津軽三味線は新潟の瞽女などと同じく、視覚障害者が生計を立てる為に営んだ門付の芸能として発達してきたものだそうで、そういう意味では貧しい黒人の奴隷たちが生み出したアメリカのブルース音楽にも通じる、一種の「魂」の音楽とも言えるだろう。差別され、虐げられた人々が生きる為に作り出した芸術である。世間では、金を稼ぐ為に音楽を奏したり小説を書いたりすることを「商業主義」と呼んで批判する事例が多く見られるが、例えば津軽三味線の奏者たちが置かれていた境遇を思えば、彼らの門付を「商業主義」という言葉で断罪することが如何に無力で能天気な批判であるか、直ぐに分かるだろう。

 別に私は商業主義の肩を持ちたくて、こんなことを書く訳ではない。ぎりぎりの生活を強いられた者に対して「金儲けは罪だ」などと説いたら、どんな修羅場が演じられるだろうかと、妄想を逞しくしただけである。

ラッダイトの断末魔(Singularityの問題)

 人工知能artificial intelligenceAI)の急激な発達に伴い、様々な労働の現場において、機械が人間の代役を務めるようになるだろうという予測が、昨今の世間を賑わせている。代表的な事例としては、米グーグルによる自動運転技術の積極的な開発が筆頭に挙げられるだろう。自動運転技術の実用化が、将来的にはタクシーやトラックの運転手たちを永久的な失業へ追い込むだろうという観測には、抗い難い説得力が備わっている。人工知能が人間の労働に及ぼす影響の範囲は非常に多岐に渡ると推測されており、特に事務処理的な仕事に関しては概ね、人間よりもAIの方が適役であると、現時点においても既に信じられている。

 私は所謂「接客業」の世界で十年以上働いてきた人間である。対人的な技術が要求されるサービス業の分野は従来、AIによって置き換えることが困難な領域であると考えられてきたが、科学技術の発達は、そうした素朴な想定を覆す材料を日毎に増やしつつある。少なくとも、単純で形式的な案内や、レジスターの操作や商品の包装などの、そもそも機械的で自動的な性質を備えた接客業務の一部が、AIによって代替され得ることは以前から自明の事実である。ただ商品の代金を計算し、手提げ袋に入れ、単なる決まり文句として「ありがとうございました」と発声するだけの業務ならば、電気代以外に何も消費しない、無尽蔵の勤勉な労働者であるAIに万事委任したところで、特段の不都合は生じないだろう。

 実際、世の中に数多存在する「販売員」の中には、自動販売機以上の仕事を実行出来ない水準の人間が少なからず存在する。顧客の意向を察知することも出来ず、基本的な気配りも出来ず、人間らしい会話を交わすことさえ出来ない、ただ決まり切った仕事の手続きを遂行するだけで精一杯という販売員は、全く稀少な存在ではないのだ。一つ一つの手順や規則に籠められた「意義」や「目的」を考えてみることもないので、単純なミスを何度も繰り返したり、イレギュラーな事態に直面した途端、凍りついて機能を停止してしまったりする、残念な販売員たち。失敗すること自体を、咎めたいのではない。失敗は誰にでも起こり得る現象だ。問題は、そういう人間に限って失敗の「意味」を少しも顧みようとしない点に存する。失敗の意味や構造を振り返らずに、今まで通りの手順で業務に当たれば、同じ蹉跌が再演されることは火を見るより明らかである。彼らがAIに仕事を奪われて怨嗟の声を上げるのは筋違いであろう。自分に課せられた役割の意味、自分の労働の対価として支払われる賃金の意味を一度、客観的に分析してみるべきではないだろうか。これから私たちは、優秀なAIと労働力市場の取り分を奪い合わなければならない時代へ、本格的に突入することを運命付けられているのだ。何も考えず、工夫も改善も試みぬまま、単純労働の反復に埋没している限り、明るく希望に満ちた未来が約束されることは有り得ない。

 データの分析によって、或いは何らかの客観的な指標や基準の適切な運用によって、十全に解決され、処理される性質の作業は悉く、未来のAIの支配下に置かれている。既に定められた基準の適用や、過去の実績からの推測(いわば「前例主義」)は、人間よりもAIに任せた方が余程精密に捗るだろう。私たちが素朴な意味で「創造性」という言葉で指し示している領域に関しても、AIの能力を過小に評価していないか、改めて検討する必要がある。何れにせよ、具体的な目標に向かって、様々な要素を効率的に組み合わせ、推進していくというタイプの思考は、AIによる権限の簒奪を免かれない。効率化、合理化という作業ほど、AIの無際限な計算能力に相応しい業務は他に考えられないからである。言い換えれば、効率化や合理化といった方面に、百年後の人間が重要な主役として君臨する余地を見出すのは欺瞞であり、謬見である。

 幾らかSFめいた話になるが、AIの登場は、人間という種族の根源的定義を改めて明らかにする為の認識的な「砥石」のような現象である。「迅速且つ精確であること」という労働に纏わる重要な美徳は今後、人間的な価値の指標から除外されていくだろう。それは人間という存在の根源的定義が「迅速且つ精確」という要素を、AIの手で剥奪されることによって生じる認識的な「転回」である。「迅速且つ精確」という要素を究極まで追求するのならば、人間よりもAIを雇う方が圧倒的に合理的である。言い換えれば、人間による労働の価値は今後「迅速且つ精確」という要件を排除することによって初めて成立するようになるのだ。

 それでは、AI以降の人間的価値とは一体、如何なるものなのか? この問題に明晰な回答を与えるのは容易な業ではない。幾つかの断片的な推論を提示するのが、現在の私の能力的な限界値である。

 少し極論めいて聞こえるかも知れないが(尤も、あらゆる考察は必然的に「極論であること」を志向するものだと、私は思う)、AIの普及は所謂「規律」の価値を大幅に切り下げるのではないだろうか。周知の通り、所定のプログラムに則って作動することを大原則に据えているAIは「規律の塊」である。従って、人間にとっては例外的な克己心を要求される分野(例えば「軍隊」や「役所」や「銀行」などが即座に思い浮かぶ)こそ、発達したAIによって真っ先に覇権を奪い去られる領域となるのではないか。例外的なストイシズムによって齎される「迅速且つ精確」の価値は、人間が背負うには余りにも過重な負担であり、理不尽な「召命」であるという考えが広まるのではないかという予感がする。そうなったとき、人間に求められるのは規律への忠実な従属ではなく、寧ろ対蹠的な「逸脱」の姿勢であろう。「規則」や「前例」が斬新な創発の宿敵であるという考え方は今日、少しも珍しいものではない。だが実際には、社会の様々な局面で否応なしに、こうした考え方は身も蓋もない「受難」を強いられている。「逸脱」や「違反」に対する社会的な抑圧の劇しさは、世代や思想を問わず、広範な領域に流通する現象である。そうした「創造性の受難」を克服する手蔓として、AIの普及を捉えてみるのも一興であろう。昔日のラッダイトの情熱を無軌道に再燃させるのは、聊か早計である。

批評と創造(或いは、その「融合」)

 考えることは、所謂「創造性」とは無縁なのだろうか。

 そんなことはない、寧ろ考えることこそ、真の創造性が成り立つ為には不可欠の条件なのだと、直ちに反駁してもらえるだろうか。だが、この問題は入り組んだ観念によって構成されていて、厳密に検討を始めると、明瞭な結論に到達することが極めて難しいという事実が程無く明るみに出ることになる。

 彼是と小難しく、抽象的な観念を操作したところで、真に重要で斬新な価値が創発されることはないという考え方は、少しも貴重なものではない。創造性という観念が如何なる具体的内容を有しているかという問題に深く介入することなく、こうした主題に就いて漠然たる思索を捏ね回すことの不毛は承知している積りだ。だが、創造性という観念の定義に固執し始めると忽ち、泥濘の深淵へ嵌まり込むことになるだろう。それは本稿の趣旨と目的に反する事態である。

 これは日本という社会の伝統的な性質なのかも知れないが、創造性という観念は「肉体的なもの」であると信じられているように思われる。それは「感覚的」と言い換えてもいいし、或いは「実践的」「経験的」という風に表現してもいい。何れにせよ「創造性」という観念が、机上で展開される蒼白い空理空論とは隔絶した領域で生起する現象であるという認識は共通している。そして、日本の伝統的な芸術観は、そうした「創造性」の生起が「言語化されない領域」に深く陥入しているという信憑を特権的に尊重している。

 禅宗の言葉を借りるならば「不立文字」と称すべき、この創造性を巡る消息は、創造性の代表格である「芸術」への批評的な解剖に対する禁圧として作用する。何かを創造することと、創造されたものに就いて論ずることの間には、決して乗り超えられることのない絶対的な隔壁が用意される。この致命的な断絶の良し悪しを厳密に判定することは避けておきたい。それは不毛な空理空論の源泉に他ならないからである。

 当然の前提に戻りたい。考えることは、或る漠然とした認識の束を明瞭な記号の体系に置き換えることである。そして批評は、その記号化の営為を専ら「言語」という社会的体系に依存して実行する。何かを批評することは、それを明晰な言語の行列に還元することだ。

 こうした言語化の作業が、芸術という領野においては軽蔑され易い地位に置かれていることは、歴然たる事実だと私は思う。そうした傾向は特に、音楽や絵画などの非言語的な芸術の領域において顕著である。だが、別の観点から眺めれば、非言語的な芸術と言語的な批評との断絶は、明確な棲み分けの成立として捉えることも出来る。問題が更に複雑さの度合を増すのは、小説や詩歌などの言語的芸術の領域においてである。そこでは、芸術的な営為と批評的な営為の境界線を画然と定義することが難しい。特に小説の場合、あらゆる言語的要素の包摂を自らの生命線として備えている為に、批評的営為との境界線は一層、曖昧である。

 芸術と批評が明確に断絶している世界では、両者の相互的な往来は極めて難しい。絵画や音楽の価値を言葉によって語ることは、尋常ならざる労力を論者に対して要求する。幾ら言葉を費やしても、音楽の価値を明晰に語り尽くし、論じ尽くすことは出来ない。だから、余計に「不立文字」という御題目の説得力が高まるのである。

 そのこと自体の是非を、今は論じない。批評の不在が、芸術的創造に及ぼす影響を一概に判定し得るほど、私の知的能力は立派ではないからである。その代わりに、私が考えてみたいのは、文学という厄介な領域に関してである。何故なら、文学という領域においては「創造」と「批評」の境界線が原理的に脆弱である為に、両者の複雑な「混淆」が極めて頻繁に生起しているからだ。

 小説を書くことと、批評を書くこと、これらの質的な断絶は、非言語的芸術の分野におけるほど明瞭ではない。小説を書くことの内部には、批評的な文言を挿入する余地が無限に存在している。だからこそ、私たちは「小説を書く」という営為の定義に就いて、無用の誤解を抱え込む羽目に陥る。例えば、虚構の物語を言語によって表現することが、小説を書くことの目的だという、尤もらしい「虚構」が蔓延するのも、創造と批評の境目が曖昧に霞んでいることの結果であろう。虚構の物語を表現するに当たって「言語」を用いることが小説の要件であるという言説は、小説は物語に従属すべきであるという認識を暗黙裡に含んでいる。だが、物語は決して文学の専売特許ではない。物語という先行する理念を「言語」という媒体によって具現化することが小説の役割ならば、小説というジャンルの有する驚嘆すべき「雑食性」や「合金性」(奇妙な表現だが)は黙殺されることになる。小説は物語の「過不足のない言語的表現」ではない。仮にそうであるならば、世の中に存在する数多の奇妙な小説作品の「過不足」は一体、何を意味するのか? メルヴィルの「白鯨」が、或る一つの物語の「過不足のない言語的表現」であるならば、作中に挿入される夥しい「逸脱」と「膨張」には、如何なる芸術的価値が存するのか?

 小説は「物語の自意識」(©柄谷行人)であり、従ってそれは物語に関する様々な批評的考察を予め包摂している。言い換えれば、物語と批評のアマルガムこそ「小説」に課せられた根源的な特性なのである。それは「小説」が「言語」によって綴られるという特権的な性質を備えていることの結果であろう。だが、これらの認識は、考察の為の一つの前提条件に過ぎない。何故、物語と批評のアマルガムとしての「小説」が形成されたのか、という歴史的な問題が未だ、私の眼前には横たわっているのだ。

意味という病 (講談社文芸文庫)

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白鯨 上 (岩波文庫)

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白鯨 中 (岩波文庫)

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白鯨 下 (岩波文庫 赤 308-3)

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改憲ラディカリズムの葬送曲

 詳しいことは知らないが、先日、安倍総理が今秋の臨時国会において、憲法第九条を巡る改憲草案を提出すると明言し、物議を醸しているらしい。今年の憲法記念日にも、2020年度までに改憲を実現すると息巻いて、総理は世間を騒然とさせた。改憲に関する論議は戦後七十年間ずっと、この国の内側で盛んに渦巻き続けてきた訳だが、何故、安倍晋三という一人の男がこれほど性急に「改憲」の実現に血道を上げているのか、その情熱の在処は俄かに量り難いところがある。

 私は安倍総理の内面的な事情を知らない。その政治的情熱の由来も、理解していない。祖父である(祖父だったっけ?)岸信介の遺志を受け継いで、悲願成就に燃えているという情報に接した覚えもあるが、所詮は断片的な聞き齧りに過ぎない。

 改憲の焦点とされている日本国憲法第九条は、下記の通りである。

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 「戦力を保持しない」という憲法第九条の文言に忠実に従うのならば、従来の解釈の性質はさておき、自衛隊違憲であることは歴然としている。自衛隊違憲の状態から解き放つ為に、改憲を敢行するという判断は一見すると理窟に適っているように感じられるが、問題は、自衛隊違憲状態であるにも拘らず、その存在を安定的に維持されているという身も蓋もない事実の方だ。言い換えれば、少なくとも「戦力の不保持」という憲法の有名な規定は、戦後の日本社会においては全く履行されていないのである。

 憲法に「戦力の不保持」が明記されていても、自衛隊という強大な軍事的組織を国民の税金によって維持することが可能である戦後日本社会の現実を考慮するならば、自衛隊違憲という問題は、性急な改憲によって克服される必然性のない、曖昧な問題である。周知の通り安倍内閣は、集団的自衛権の容認を「憲法の解釈変更」という超法規的な措置によって実現させた政権である。そもそも憲法の規定を恣意的に解釈し得る権力を備えた政府が何故、態とらしく憲法への清廉潔白な従属を心掛けているかのように振舞い、改憲の必然性を声高に訴えるのか、その理路は判然としない。しかも安倍総理は今年の憲法記念日に発したメッセージで、自民党改憲草案とも一致しない「個人的な腹案」を公表するという性急な暴挙に出た。そこには、理路整然たる政治的計画が精緻に組み立てられているという印象が存在しない。単に安倍晋三という一個の政治家の異様な個人的情熱の炎上が感じられるばかりである。

 安倍晋三は、今まで誰も成し遂げることの出来なかった「改憲」という快挙(それが快挙であるかどうかという質的な判断は差し当たり棚上げしておこう)を実現した偉大な宰相として、歴史に名を刻みたいだけなのだ、という意地の悪い評価が、世間には流布しつつある。生憎、私はその真偽を厳格に判定する材料を有していないが、仮にそのような観測が事実であるとするならば、政治家の使命とは一体何なのだろうか。海の向こうでは愚昧で下品な大統領が、訳の分からぬ虚栄心に衝き動かされて、エゴイスティックな放言を繰り返している。恰かも自分が絶対的な独裁者であることを国際的に誇示しようと努力しているかのように。真実は何なのか、客観的な事実は何なのか、そうした現実的な諸問題は後景に追い遣られ、権力の絶巓への登攀に成功した人間の「プライド」だけが何よりも優先される。こうした現象が、人類の社会の「劣化」を如実に示す徴候であることは疑いを容れない。自己を正当化する為には、不都合な真実を悉く捻じ曲げ、相手の言い分を恣意的に曲解し、逃げ切れる限り逃げ切ろうと、恥知らずにも幼稚な虚言を弄し続ける。無論、こうした悪性の言動が、彼らだけに例外的に刻み込まれた、忌まわしい聖痕であるとは思わない。私も、自分に都合の悪い真実からは、成る可く眼を背けておきたいと考えてしまう、頽廃的な人間である。しかし、幾らなんでも現在の自民党政権の閣僚たちの人間的な頽廃は、露骨であり過ぎると思う。

 先日来、稲田朋美防衛相が東京都議選の応援演説で仕出かした失言の問題が、世間を騒がせているが、誰がどう考えても誤解の余地のない、歴然たる「失言」を行なっておきながら、飽く迄も「誤解を招いた」と言い張る稲田防衛相の「根性」には、悪寒を覚えざるを得ない。発言を撤回する以上は、きちんと謝罪すればいいのに、恰かも「誤解する方がおかしい」とでも言いたげな傲慢な口振りを貫き通す。マスコミの追及にも「誤解」という言葉を馬鹿の一つ覚えのように繰り返すばかりで、そこには微塵の誠意も存在しない。充分な年の功にも拘らず、彼女は謝罪するということの意味を理解していないのか。それとも、あの厚顔無恥の対応は、何らかの高度な政治的判断の賜物なのだろうか。恐らく、世間の人間は皆「馬鹿ばかり」だと思っているから、あのような馬鹿げた態度に出るのではないだろうか。全く舐められたものである。

 大事な都議選の最中に政治的オウンゴールを決めて、飼い主の安倍総理も内心では「糞っ垂れめ」と思っているのではないだろうか。私が安倍さんの立場なら、きっと歯咬みして、そう思うだろう。失敗の後始末にも失敗して、彼女は一体、何がしたいのだろうか?

文学的形式の多様性(「スタイル」と「ジャンル」の問題)

 文学という抽象的で観念的な言葉によって指し示される形式は、果てしない多様性を備えている。例えば「詩歌」という大雑把なジャンルに限っても、日本固有の短歌・俳句から、中国における絶句や律詩などの漢詩、ヨーロッパのソネットやバラッドなど、その形式の多様性は無際限の広がりを孕んでいることが、直ちに看取される。

 だが、文学における様々な形式の差異が、銘々に固有の性質を備えているのだとしても、その根底に共通の「欲望」或いは「衝迫」のようなものを理念的に想定することは、決して理不尽な判断ではない。如何なる形式を選択するか、或いは特別に嗜好するかという問題は、個人の内的な必然性に基づいて千変万化するであろうが、その根底に横たわっている言語的表出への「欲望」の普遍性は、そうした形式の多様性とは無関係に、確固たる輪郭を有しているのではないだろうか。

 例えば、短歌や俳句といった詩歌の形式が、或る歴史的な経緯によって形成され、先賢の手で整備されたものであることは客観的な事実である。従って、短歌や俳句に対する表出の欲望が、人間の精神に内在する普遍的な情熱であると定義することは誤っている。それはアプリオリに存在する欲望ではなく、飽く迄も後天的に構築された欲望である筈だ。ただ、その個人の性格や思想に応じて、或る特定の形式との親和性が強調されているだけの話である。或る者は短歌を好み、或る者は俳句を好む。その両者の差異は、第三者から眺めれば些細な問題に過ぎないだろう。しかし、実際にそれらの表現に携わる人々にとっては、両者の差異は重大な意味を持っている。

 或る特定の形式に対する個人の親和性の度合は、その人間の存在論的な固有性に応じて異なる。これは文学に限らず、一般に経験的な事実として認められる真理である。或る人間の存在論的な固有性は、その人間が引き受けた存在の歴史的諸条件によって決定される。或る者が短歌を好み、歌人としての自己形成に執着を示すとすれば、そこには何らかの歴史的な経緯が介在しているのである。仮にその歴史的な経緯が異なれば、その人間が示す形式的親和性の対象も同時に変化するだろう。

 だが、根底に存在する原始的な欲望の性質は、如何なる形式に愛着を示すかという問題とは異質な次元において、或る普遍性を確立している。小説に対する親和性と、詩歌に対する親和性は、結果として現実における活動の表層に様々な差異性となって現れるだろうが、その根底に存在する欲望の性質は同一である。

 では、その欲望は何を目指しているのか? 言語的表出に対する欲望とは一体、何なのか? 或る者にとっては小説が最高の表現形式であり、他の者にとっては詩歌が最高の表現形式であると言い得るとき、その根底において躍動している奇怪な衝迫は、如何なる特性を示すのか? これは頗る難問である。言い換えれば、それは「書くことが齎す歓び」の正体に就いて考究するということである。私の曖昧な記憶によれば、作家の保坂和志はかつて「小説という文学的形式は、思考する為のメディアの一種である」という趣旨の発言を行なっていた。村上春樹も「小説でなければ切り拓き得ない思索の領野が存在する」という趣旨の発言を行なっていたように記憶している。此処に一つのヒントがあるのではないだろうか? (続きは、また後日)

街衢十句

一  春の雪 生まれ変わりは どの赤児

二  夕暮れに 燃え立つ祈り 金閣寺

三  淡墨の 空染み渡る 蝉の庭

四  記録から 貴女の名前 除かれる

五  殷々と 弔鐘の打つ 港町

六  鎹の 積りで生まれ 父なし子

七  親不知 抜き差しならぬ 血の因果

八  空騒ぎ 繰り返しつつ 三十路過ぎ

九  頬杖を ついた男に 蹴飛ばされ

十  夏色の 口紅を刷き 立眩み