「断片化」としての小説(カフカの「中断」、メルヴィルの「集積」) 2
前回の記事の続きを書く。
「ロゴスの単一性」を重要な特質として帯びる「物語」=「ロマンティシズム」の堅牢な秩序に対して、様々な手段を駆使して叛逆と簒奪を試み、単一的なロゴスの彼方に「世界の本質的な多様性」を見出そうとするのが、小説的なリアリズムの本義である。
小説的なリアリズムの技巧的な側面は様々だが、それらの多様な方法論の目指す理念的な極北は「断片化」の一語に尽きると、私は考えている。単一的なロゴスを覆す為に、例えば学術的な論文を書いたり、機智に富んだ諷刺的な詩歌を綴ったりするのではなく、飽く迄も「物語的なもの」を擬装するのが「小説的な狡智」であるのならば、その策動は「物語の内部」で実行に移されねばならない。それが「物語を断片化する」ということの意味である。
ロマンティシズムは、或る単一な視座=意図による専制の下に、物語が構成され、進められていくことを不可避的に要請する。そうやって一切の出来事を或る単一的な「理念」の下に拘束し、支配するのである。小説的リアリズムは、そうした専制を覆す為に様々な方法を選択するが、カフカの場合には「中断」という身も蓋もない方法が、その小説的な企図の中核を構成しているように思われる。
カフカの文章は少しも突飛なものではないし、そこに観念的な眩惑のようなものを見出すことも出来ない。彼の筆致は飽く迄も簡潔で、素朴な写実性の規矩に黙って服従しているように見える。つまり、その作品が読者に齎す印象の特異性を、彼の文章の特殊性に求めることは認められないのである。
カフカが長篇小説の「完結」を成し遂げられずに死んだという客観的な事実は、私たちに或る示唆を与えている。「失踪者」「審判」「城」の中絶は、フランツ・カフカという作家の用いた固有の技法に内在する「方針」によって招来された、不可避的な事態であったのではないか。無論、死者に真実を訊ねることは不可能であるから、こうした仮説に最終的な正当性を認めることは、傲慢な越権に過ぎないだろう。だが、一つの興味深い仮説であることは、少なくとも私個人にとっては確かな主観的事実である。彼の長篇小説が未完に終わったという事実は、単なる偶然の所産ではなく、作家自身の内在的な姿勢によって意図的に選び取られた「現実」である。このように考えたとき、彼の遺した作品が何れも「未完」であるかのような外貌を備えているという事実は、重要な意義を帯び始める。
カフカの小説を読んでいると、一体「この作品は何を言いたいのか」という疑問が生まれる。別に作品の主題を暴き出したい訳ではなくとも、端的に一つの「物語」として眺めたときに「一体、何なんだ、これは」と言いたくなるような仕上がりのものばかりである。これは特定の作品に限った特徴ではなく、充分にカフカの「作風」と呼び得る次元で、その作品の群れに通底している要素である。彼の小説は「こういう話です」という明快な要約を峻拒する特異性を身に纏っている。言い換えれば、それがカフカにおける「小説性」なのである。そして、彼が独自の「小説性」を確保する為に駆使している技法が、物語の唐突な「中断」なのだ。彼は敢えて「物語」に強制的な中断を命じることで、「物語」が単一的なロゴスによって包摂される事態の到来を阻止している。
物語が単一的なロゴスによって包摂される以前の段階で、物語の記述を強制的に終了させてしまうことで、如何なる文学的効果が生じるのか? 端的に言えば、その強制的な「中断」が一つの纏まった物語を、その分量の長短に関わらず「断片」に変えてしまうのである。物語の総体に、何らかの統一的且つ包括的な「意味」の天蓋が覆い被さることを回避する為に、カフカは不可解な「中断」の手続きを導入する。彼の短篇が不透明な「夢想」の感触を孕むのも、遺された三つの長篇小説が悉く「未完」のまま放置されているのも、こうしたカフカの戦略的な意図の帰結であると捉えれば、それなりに納得が行くのではないだろうか。
無論、物語を強制的に「中断」させることだけが、物語の「断片化」という小説的戦略の選び得る唯一の方法だという訳ではない。物語を支配する単一的なロゴスに対する異議の申し立ては、様々な方法によって行われ得るし、その方法の多様性が文学の「豊饒」を齎す重要な根拠なのである。
例えば、上述したような「断片化」の技法の体現者として、私が直ちに想起するのは、十九世紀のアメリカが生み出した作家ハーマン・メルヴィルである。彼の代表作である著名な長篇小説「白鯨」は、一見するとモービィ・ディックに片脚をもぎ取られたエイハブ船長の復讐劇という風に要約することが可能であるように思われるが、その要約が実際には「白鯨」という作品の本質的な独創性を殆ど何も説明していないことは、その読者にとっては明瞭な事実である。エイハブ船長の「復讐」という怨念は飽く迄も「白鯨」の物語を構成する「骨格」のようなものであり、重要なのは、その「骨格」に纏いついている夥しい量の「贅肉」の方であろう。メルヴィルは、捕鯨業に関する該博な(トリヴィアルなものも含めて)知識を縦横無尽に駆使して、この作品を構成している。そのとき、作品の内部に導入される無数の「鯨」に関する記述は、物語を構成する上で、必ずしも有機的な結合を実現しているとは言えない。寧ろ、有体に言ってしまえば、この「白鯨」という長大な小説は、素朴な意味で有機的に織り成された単一の物語ではなく、「鯨」に関する記述のユニークなパッチワークであり、雑駁な「断片」の集積された形態なのである。
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