サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

虚栄心の構造 私たちは自分の本当の欲望を直視することがへたくそだ

 どうも御無沙汰しております、サラダ坊主です。

 クリスマス商戦に忙殺されて家に帰る暇もないくらいの有様で、ブログの更新も滞っておりました。一息ついたら今度は年末年始の商戦に突入します。成人式を過ぎるころには漸く激務も一区切りとなるので、なんとかそれまで歯を食い縛って頑張りたいと思います。

 さて、今日のテーマは「虚栄心」です。書いているうちに「虚栄心」から話が逸脱していくかも分かりませんが、とりあえずはそれを切り口として稿を起こそうと思います。

 先日、偶々坂口安吾の「不良少年とキリスト」というエッセイを読み返していました。太宰治玉川上水で心中したころに書かれたもので、安吾一流の独特のスタイルと思想を武器に、故人となった太宰の「才能の形態」について綴られていて、非常に刺激を受けます。坂口安吾のエッセイというのはどれも、直截で自由闊達な言葉で記されていて、措辞は多少古びていますが、散文の活きの良さみたいなものを存分に味わえるものが多く、またその形式は現代のブログにも通じるような自在さを備えています。ブログという一つのネットサービスが一般化した現代でなくとも、それこそ清少納言の「枕草子」の時代から、日本人はこういう随筆・随想をずっと書きつらねてきたわけで、そう考えると一見して現代に固有のメディアであるかのように感じられるブログの表現も、決してこの時代に特有の文化ではなく、古来の書き言葉の伝統を受け継いだものであることが分かります。

 この短い随筆の中で、坂口氏は太宰治が天賦の才能に恵まれていながら、現世的なファンに過剰に迎合することで虚弱を深めたこと、文学というものが本来的に「現世」ではなく「歴史」に向かって形作られるべきものであることを断片的な口調で語っています。これは結構重要なことで、例えばブログにしても、PV数とかブックマークとか、そういう短期的なレスポンスの上下に一喜一憂し過ぎることで、本当に書きたかったものを書けなくなったり、読者の反応に合わせるために窮屈な思いを強いられたり、といった現象の発生は珍しい話ではありません。誰しも孤独の深淵に埋没したいとは思わないのが人情ですし、自分の書いたものが何の評価も手応えも得られない状況に堪えるのは精神的に過酷な経験でしょう。けれど、そういった俗世の基準に振り回されることで、言葉を書き綴り何事かの意見を表明するということの「本義」が見失われてしまうのは、残念なことです。

 よく「マーケットイン」とか「プロダクトアウト」という言葉を耳にしますが、これも要は「読者への迎合」と同じ構造を孕んだ問題で、読者が求めるものと書き手が書きたいものとの齟齬をどのように取り扱うべきかということが主要な論点になっています。これは別に文学という分野に限られたテーマではなく、誰でも仕事を通じて直面する困難な選択ではないかと思います。自分が「いい」と思うものと他人が「いい」と思うものが合致しないのは当たり前の話で、人間というのは実に多種多様な考えや感覚的嗜好の下に動いていく生き物ですから、私にとっての「正義」が孤立してしまうのも本来ならば動ずるに値しない自然な現象です。しかし、坂口安吾風に言えば「虚弱」が、そのような「孤立」への忍耐力を衰微させ、受け手への迎合や阿諛追従に繋がってしまうのも世間では見慣れた光景であり、太宰に関して言えば、そのような迎合に傾斜してしまう彼の性来の「虚弱」が、その類稀な資質の全面的な開花を阻害する重大な支障となっていたというのが、坂口氏の個人的な見解である訳です。

 私も商売柄、取り扱っている商品の価値を「売れる」「売れない」の尺度で単純に推し量ってしまいがちなのですが、目先の売り上げという短期的な市場の反応を唯一無二の物差しとして何にでも当て嵌めてみせるのは視野狭窄の誹りを免かれない姿勢であると言えましょう。そうやって他人の反応や動向に関心を引き摺られていく限り、私たちは「自分が本当に望むもの」が何なのかを簡単に見失ってしまいます。こういう「虚栄心に引き摺られた結果としての盲目」というのは往々にして碌な結果を生み出しません。自分が本当は何を望んでいるのかということを明瞭に自覚し、把握するのは実に難しい作業であり、他人の顔色を窺って生きることが習い性になった人々にとっては、寧ろそのような「自分の本当の欲望の直視」は内なる禁忌と化していることさえ奇異ではないのです。選挙なんかを見ていても、物事の価値が「多数決」で決まるような時代と社会において、欲望の形態が「他人志向」的なものに変貌していくのは不可避の命運なのでしょう。ネットが発達して情報の共有や拡散が進めば進むほど、そのようなデモクラティックな欲望の形態が普遍化していくのも自明の理です。言い換えれば、私たちの暮らす時代は異様なほど「虚栄心」が膨張しかねない危険な水域に接しているということです。他者の反応や意見が物凄い勢いで氾濫し、転送されていく環境では、他人のリアクションに依拠して意思決定を行い、物事を処理するというマーケティング的な生き方が奨励されるのも止むを得ない成り行きなのです。

 恐らく坂口氏は、文学や思想といったものが本来、そのような「マーケティングリサーチ」的な営為とは正反対の孤独な道であることを、太宰治の自殺に事寄せて語りたかったのでしょう。それは文学が「世俗的な反応」ではなく「永遠性」を希求する営為であることを意味しています。或る意味、芸術至上主義とも受け取られかねない言種ですが、坂口氏の言いたいことは、そうやって孤立した閉域に呑み込まれてしまえ、ということではなく、短期的な「虚栄心」が齎す害毒の恐ろしさに警鐘を鳴らしているのだと思います。本来、文学というのは「個人的なもの」であり、それはマスコミ的な大衆性とは無縁の孤独な快楽なのです。そして、その個人的なものが、純粋に個人的なものとして発語されたからこそ、見ず知らずの赤の他人の琴線に触れ、時代も環境も異なる遠くの「他者」に受け止められるということに、文学の本懐は存するのです。もっと言えば、文字として綴られ、刻み込まれた言語は空間的距離も時間的疎隔も飛び越えて、或る抽象的な「遠さ」を乗り超えて伝わっていく意味の体系なのであり、従って「虚栄心」に満ちた阿諛追従を繰り返している限り、その言葉は「永遠」という理念に達することが出来ないのです。

 身近な距離に位置する生身の他者ではなく、時代も環境も、場合によっては「言語」さえも異なる他者に向けて投じられた「言葉」だからこそ、文学は普遍的な価値を担い得るし、文学が文学として存在する意義も保たれるのです。何千年も昔のギリシャ悲劇が未だに受け継がれ、愛好家を持つのも、シェイクスピアの芝居が今もイギリスの人々の心を揺さ振り続けているのも、それが文学的な「永遠の価値」を希求しているからです。無論、実際にはそれらは具体的な「観客」の需要に応えることを眼目として生み出され、練り直されてきたのでしょう。にもかかわらず、それらが時代を越えて愛され続けているのは決してマーケットインの徹底の成果などではありません。「観客」とは一体どこにいるのか、そして「この私」が本来訴えておきたいこと、伝えたいと望んでいることとは何なのか、それを見定める努力もなしに、短期的なレスポンスに引き摺られ、右往左往するようでは、「この私」が生きている意味などなくなってしまいます。

 要するに、自分が本当に望むことを基準にして物事は進めるべきではないかという御提案でした。基本は「自分の胸」に問い尋ねることだと、私は信じています。

 以上、船橋からサラダ坊主がお届けしました! また次回お会いしましょう。