サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

自由とは一つの残酷な「刑罰」に過ぎない 安部公房「砂の女」をめぐって

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 いよいよ年末も押し迫ってまいりました今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。正月休み、特に遣ることもなくて暇だという方もいらっしゃるかもしれませんね。そんな方々の慰みの一助となるべく、今日は小説の御紹介に努めようかと存じます。

 本日取り上げるのは、安部公房の代表作「砂の女」です。

 この小説、二十か国語以上に翻訳されて海外にも熱心な読者を有する作品で、映画化もされています。実際に読んでみると、安部公房一流の実に理知的でありながら私たちの感覚を巧みに刺激するような驚嘆すべき再現力を備えた文体に搦め捕られて、不思議とぐんぐん読み進めてしまうような仕上がりになっています。安部氏のその他の代表的な小説、例えば「他人の顔」や「箱男」などと比較しても読み心地は滑らかで分かり易く、安部公房という作家の提示した独特の世界へ足を踏み入れる第一歩として相応しい、文学の素人にも開かれた作品だと言えるのではないでしょうか。

 書評というのは世の中に腐るほど濫れ返っているもので、しかも多忙を極める現代日本の騒々しい機構に組み込まれた私たちは、実際の作品に当たることなく、書評や紹介記事を通読しただけでその作品の内容や魅力を何となく理解したような錯覚に陥りがちなものです。しかし作品というのは簡潔な要約や「大意の抜粋」だけで味わえるほど簡便なものではなく、医者へ通うのが面倒だから駅前のドラッグストアで市販の風邪薬を買って帰るというような安易な怠慢さで、所謂「文学作品」というものに挑みかかったような気分になるのは実に勿体なく、また無意味な態度であると言えるでしょう。大体、学校の勉強みたいにその「要約」だけで文学を味わった気になるなんて本当に無意味な教養主義的態度と言うべきであり、そういう手軽さで何でも愉しんだ積りに陥るのは、享楽に対する怠慢です。

 とはいえ、クリック一つで画面上の無限の情報を延々とザッピングし続ける私たちの現代的な生存の様態が「長い小説をじっくりと耽読する」という近代的な習慣とは相容れない態度であることも紛れもない事実です。もっと遡って言えば、それこそ修道院で写本が行われていたような時代と、活版印刷の発明以降の時代とを比較してみても、書かれた文字を読むという営為に対する私たちの「態度」は決定的な変容を経験している筈です。丹念に綴られた高価な写本を読み解くのと、画面に次々と現れては消費される多彩な情報をスクロールするのとでは、物事に対する「向き合い方」の水準に巨大な格差が生じることは確実です。

 余談に逸れてしまいましたが、この「砂の女」という作品は煎じ詰めれば「自由」という問題を扱っていると言えます。無論、こんな風に簡明なラベルを貼るだけで一つの作品の全貌を理解したような気になるのは不実な態度でしかないのですが、一つの切り口として、「自由」という漠然とした定義のタームを用いるのも、趣味的な読者の他愛ない手慰みとしては許されるべきものでしょう。

 筋書きは読んで頂くに越したことはないので省きますが、登場する主人公の男は飛砂に埋もれた集落の家に閉じ込められ、村の女と奇妙な同居生活を強いられることになります。彼は幾度も「穴」からの脱出を図るのですが、村人によって阻止され、「砂の女」との同棲を強いられ続けるのです。しかしそのラストシーンにおいて、彼は外界へ通じる縄梯子が放置されていることに気づくにもかかわらず、敢えて自らの意志に基づいて、外界への脱出を拒みます。彼は脱出の手段などまた明日にでも考えればいいと嘯くのですが、その自己正当化を示す独白に、私たち読者は寒気を覚えるのです。言い換えれば、彼が「自由」を求めないほどに牙を抜かれてしまった、その「去勢」の感覚に恐ろしい自己欺瞞と邪悪な支配の残響を感じる訳です。

 「砂の女」という作品は、実に精細なディティールに富んでいて、それを端的な要約に纏め上げてしまうのは本来適切な態度ではないのですが、敢えて「自由」という観念=理念に絡めて論じてみたいと思います。「砂の女」の仁木順平は不本意な形で「砂」の牢獄に囚われることによって切実な「自由」への希求を募らせる訳ですが、にもかかわらず、長い苦闘の末に漸く天啓のように授かった脱出のチャンスを自ら見捨ててしまいます。この奇妙な反転は、彼が与えられた環境に結果的に「適応」してしまったことによって、憧れていた「自由」の価値が減退してしまったことの表れですが、それまで求めていた自由が、いざ手に入るとなった段階において急激にその価値を衰弱させてしまうという逆説は、一体何を意味しているのでしょうか。

 そもそも「自由」という概念は、何者によっても支配されず、自分自身をその根拠としてあらゆる行動や意思決定を進めるということですが、それは言い換えれば絶対的な「根拠」を欠くということであり、いかなる外部的な基準や尺度にも依存することが許されないということです。物事の決断を総て「自由」に行えば、その決断の結果として開示される様々な悲喜劇は総て、私自身の「責任」として引き取らねばならないものとなります。この苛酷さは言い換えれば「答え」を自らの責任の下に決定しなければならないということ、何が正解であるかを事前に開示されず、事後においても開示されぬまま、その根源的な宙吊りの状態の中で、自分自身の決断において、正解を選び取らねばならないということに付き纏う孤独な「苛酷さ」です。

 この孤独な境涯は、例えばキリスト教という巨大な「物語」が骨の髄まで染み込み、あらゆる価値判断のベースとなっている西欧社会において、或いは絶対王政や貴族的な封建制による抑圧の下で、次第に獲得されてきた生存の様式であり、それが近代的な「自我」の覚醒と発達を招いた訳ですが、この独特の「現代的孤独」は、総ての人間にとって歓待されるべき理想的な考え方であるとは言えません。一般に「自由」という理念は何かキラキラとした、光り輝くような絶対的善性の塊であるかのように受け取られていますが、実際にはもっと索漠とした孤立的なものです。言い換えれば「自由」という境涯は何物にも依存することが許されない苛烈な立場を指すのであり、そのような「自由」からの逃走を試みる人々が纏まった規模で出現したとしても何ら奇異な事態ではありません。

 誰かに支配されるということ、或る窮屈な思想や価値観に支配されるということ、それは確かに個人の実存に対して深刻な負荷を与えますが、若しも支配されることが一般的な意味での「利益」を齎すのだとすれば、支配されることは個人の幸福と背反せず、寧ろ相互的な利益に繋がるとさえ言い得ます。飼い慣らされること、いわば「家畜の幸福」が常に「自由の幸福」よりも劣った境涯であるなどと指弾する権利は誰にもありません。だとしたら、敢えて「自由」を選び続ける孤独な格闘の意志は、幸福という概念に結びつくものではなく、もっと生理的な志向性の問題であるとも言えるのです。

 「砂の女」では、家を腐らせ、衣服の隙間に忍び入る流動的な魔物としての「砂」の影響力と存在感が執拗に描写されています。しかし、集落に暮らす人々はその魔物のような飛砂の支配から只管に逃れようとするのではなく、寧ろ未来永劫に終わることのない「砂掻き」の作業を通じて、「砂」との共存を維持しようと努めています。本当に「自由」だけが「幸福」への回路であるならば、このような「砂」との共存へ向けた報われぬ努力は唾棄すべきものでしかありません。にもかかわらず、最終的に囚われた男が物語の終極で選択するのは「砂」との共存であり、自由を得ることへの曖昧な拒絶です。安部公房はいつも一つの科学的な実験のように、或る特殊な設定の下での人間存在の変容と行動を詳さに再現してみせるのですが、この作品で演じられた「自由」を巡る一つの思弁的な実験において、自由というものの価値は皮肉なほどに切り下げられ、何ら輝かしい理念ではなくなってしまいます。

 鳥のように、飛び立ちたいと願う自由もあれば、巣ごもって、誰からも邪魔されまいと願う自由もある。飛砂におそわれ、埋もれていく、ある貧しい海辺の村にとらえられた一人の男が、村の女と、砂掻きの仕事から、いかにして脱出をなしえたか――色も、匂いもない、砂との闘いを通じて、その二つの自由の関係を追求してみたのが、この作品である。砂を舐めてみなければ、おそらく希望の味も分るまい。 

  作者による自註のようなこの言葉は、いわば「適応」を「脱出」の一つのバリエーションと読み替える皮肉に満ちています。常に脱出を望むことだけが「自由」の形態ではない、誰かに支配され、いわば「自由を奪われること」を望むようなタイプの自由も有り得るのだと、安部氏は言いたいのでしょうか。ここまで話が進むと、果たして「自由の価値」とは何なのか、ということが疑念の対象となり始めます。「自由」とは何らかの外在的な規範からの解放を意味するものではなく、支配からの脱却ですらありません。重要なのは「総てが自己責任である」という呪詛のような定義であり、言い換えれば「自由」とはいかなる選択にも責任を肩代わりしてくれる便利な存在(例えば「神」)は存在し得ないという苦々しい認識に対して与えられたレッテルなのです。キリストは人類の原罪を背負って十字架にかかりましたが、実際には「罪」は肩代わりされることのない刺青のようなものであり、いかなる懺悔も告解も免罪を齎すことはありません。

 言い換えれば、「自由」とは「赦しの欠如」ということであり、どんな歪んだ選択さえも「現実化」されてしまう過酷な境涯を指す理念なのではないでしょうか。だとしたら、私たちは素朴な意味で「自由の大切さ」を称揚することなど出来ないでしょう。誰も庇護してくれず、守ってくれず、救済してくれない絶対的な「孤独」の渦中において、相対的な「正解」を追い求めていくことが、サルトル的な実存主義の究明した「自由の実相」なのです。

 例えばイスラム原理主義の過激な勃興も、そうした「絶対的自由」に対する堪え難さを根源的な原動力として蔓延しているのではないでしょうか。総てを「自由」の名の下に捉える過激な自己責任論は、決して追い詰められた個人の「幸福」には結びつかないのです。支配されることを、拘束されることを寧ろ望むという一見すると「退嬰的な欲望」は、安易な自由主義の称揚に対する鉄槌として作用するでしょう。

 脇道に逸れたまま帰ってこないような紹介文となってしまいました。まずは「砂の女」を御一読下さい。新潮文庫に収録されてますので、気軽に手に入る筈です。

 以上、サラダ坊主でした!

砂の女 (新潮文庫)

砂の女 (新潮文庫)