サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

反復と逸脱 大岡昇平「野火」に関する読書メモ 1

 最近、大岡昇平の「野火」を少しずつ嘗めるように読んでいる。読みながら、眼に留まったところについて覚書を認めておきたい。この数日、連続して記事を書きながら考えている「反復」という主題と関連する(関連させ得る)箇所を発見したので引用しておく。

 水は月光を映して、燻銀に光り、橋の下で、小さな渦をいくつも作っていた。渦は流水の気紛れに従って形を変え、消えては現われ、渦巻きながら流れて行き、また引き戻されるように、遡行して来た。

 私はその規則あり気な、繰り返す運動を眺め続けた。一人になってから、こういう繰り返しが、いつも私の関心の中心であったのを思い出した。それは自然の中にあるように、人生の中にもあるべきであった。

 昨夜からの私の行為は、この循環の中にはなかった。しかし結果は、一人の比島の女を殺すことで終った。あれは事故であったが、しかしもし事故が起ったのが、私がその循環からはずれたためだったとすると、やはり私の責任である。

 大岡の書きつけた「循環」という言葉を「反復」と読み替えるのは容易いことで、私は以前の記事でも同様の概念について漠然たる考察を重ねてきた。それは直接的には、中上健次の「枯木灘」において登場する「反復」のイメージと、坂口安吾の幾つかの随筆の中で取り上げられた「虚無」のイメージによって触発され、喚起された主題である。

 何かを繰り返すこと、或いは何かが繰り返し現れるということ、その複雑な「反復」の諸形態は、私たちの有する精神的機能に附随する形式であると言い得る。或る出来事が別の出来事の「反復」として受け取られるのは、それら二つの出来事が相互に完全な同一性を保ち合っているからではない。それは対象に依拠する問題ではなく、その対象を感受する人間的主体の側の問題、つまりは「認識」の問題である。

 或る類似した現象が繰り返し現れるとき、私たちはそれが過去の反復であり、回帰であると素朴に考える習慣を持っている。その堅固な習慣は、私たちの精神が「同一性」という認識の形態を予め附与されていることに由来するものである。或る二つの現象が「同じ」であると認識の上で定義されない限り、私たちは「同じもの」の「回帰」である「反復」という観念を獲得することが出来ないし、そうやって得られる「反復」の空間的な表象である「構造」の観念も同様に確保することが出来ない。

 或る出来事が「再帰」するという認識が、私たちに「繰り返し」という観念を授ける。そして、私たちに与えられた「反復」という観念が、空間的表象に置き換えられることによって「構造」という観念が発生する。つまり「構造」とは「反復」の累積した状態を指す認識的なフレームなのだ。そのフレームを通じて眺められるとき、私たちの送る日常的な「生」の光景は、多様な出来事の「反復」の奔流として映じることになる。「生きること」が「反復」と重ね合わせられるのは、このような「同一性」の観念からの重層的な「派生」に基づいているのである。

 しかし、私たちの「認識」が有限の情報によって構成されるものである限り、そのような「反復」が、生きることの総ての局面で完全に現前すると信じ込む訳にはいかない。「昨夜からの私の行為は、この循環の中にはなかった」という述懐は、まさしく「反復」の律動の唐突で不可避的な破綻を指し示すものである。何らかの避け難い成り行きで、私たちの日常性が信奉する「反復」のリズムは破られてしまう。それは、その特異な出来事が私たちの認識を更新するような「異質性」を孕んでいるからだろう。その異質性は、言い換えるならば「反復不能性」ということである。二度と繰り返すことの困難な出来事、絶対に書き替えられることがないと判断された出来事が、私たちの生の反復性に抵抗する夾雑物のような働きを担うのだ。

 そのような反復性の停止は、特に「死」を定められた存在にとっては親密な経験であると言えるかも知れない。「野火」の語り手は敗色濃厚なフィリピン戦線で、肺病を病んだために所属していた中隊から放逐された哀れな敗兵である。充分な食糧も持たず、適切な医療も受けられぬまま、絶対的な孤独の深淵に落ち込んで、危険な熱帯の密林を彷徨する「私」にとって、死ぬことは最早既定の事実である。言うまでもなく、死ぬことは「生」の絶対的な断絶である。言い換えれば、それは「生」に付き纏う根源的な反復の「断絶」だ。そのことの自覚が、人間の精神に特異な変容を強いる。「二度と繰り返されることがない」という認識は、普通であれば永続的な反復性に彩られていると看做される「生」の光景を徹底的に塗り替えてしまうのだ。

 もしその時私が考えたように、そういう当然なことに私が注意したのは、私が死を予感していたためであり、日常生活における一般の生活感情が、今行うことを無限に繰り返し得る可能性に根ざしているという仮定に、何等かの真実があるとすれば、私が現在行うことを前にやったことがあると感じるのは、それをもう一度行いたいという願望の倒錯したものではあるまいか。未来に繰り返す希望のない状態におかれた生命が、その可能性を過去に投射するのではあるまいか。

 「贋の追想」を巡って繰り広げられるこの省察には、人間の精神に宿っている「反復への欲望」の熱烈さと強靭さが明瞭に表現されている。私たちの意識は単に受動的な仕方で「反復」という観念を受け取るのではない。寧ろ「反復」とは人間の精神に内在する度し難い欲望の対象なのだ。それは時に記憶を混乱させるほどの劇しさで、私たちを衝き動かす主因として働く。そのような「反復」への強烈な欲望が、いかなる原因によって掻き立てられるものなのかは、今の私にとっては分明な問題ではない。

 

野火 (新潮文庫)

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