サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

海外文学の異郷性

 「異郷性」という言葉は、恐らく世間一般に流通している日本語の辞書の中には記載されていない単語である。何故なら、私がこの文章を著すに当たって適当に拵えた造語であるからだ。造語と呼べるほど画期的な意味の豊かさを備えている訳ではないが、一般的な言葉でないことに変わりはない。そして一般的に用いられることのない単語を態々捏造して衆目に晒すのは、私が今から語ろうとする内容に関して、少しでも明瞭な視界を確保する為である。

 世の中には、所謂「ファンタジー」というレッテルで区分され、呼称されるような性格の文学作品が数多存在している。それらは私たちが実際に所属している社会的な現実から切り離された、架空の設定と要素によって構成されている。ドラゴンが火を噴き、剣と魔法が物語の中で重要な役割を担う中世ヨーロッパ風のファンタジーは固より、高度に、或いは異質な方式で発展を遂げた科学的なテクノロジーをベースに構築されたSF的な諸作品も、私たちの日常的な現実と隔絶した一つの世界を創出している。それらは非現実的であることによって「ファンタジー」という特殊な区分を開拓している訳だが、そのような非現実的空想の破壊的な効果に頼らずとも、私たちは自分たちの所属する、有り触れた、卑近な世界の実相から解放されることが可能である。要するに私たちは、自国語で綴られた自国の社会的環境を舞台に据えた小説のページを閉じて、異国の作家によって書き綴られた異郷の文学に手を伸ばすだけで、荒唐無稽な空想の所産に依存せずに、ファンタジーの領域へ接近し、足を踏み入れることが可能なのである。

 日本語を操り、平均的な日本人としての生活に大した疑問も懐かず埋没している限りは、私たちにとって眼前で展開される凡庸な現実は何ら革命的な発見に寄与するものではない。無論、日本人であるからと言って、日本という国家が抱え込んでいる様々な事象の総てを凡庸な認識として自堕落に受け止めることが妥当な態度だと申し上げている訳ではない。私たちは余りにも無知であり、命は常に有限であり、日本という狭隘な島国に限ってみても、そこで生起する現象の総てを完全な形で認識的に網羅することは事実上、不可能である。私たちの視野は、私たち自身がそのように考え、信じ込んでいる次元を遥かに飛び越えるほど狭窄しており、真新しく衝撃的な出来事に直に接したときでさえ、過去から累積された諸々の認識に束縛されることで、その事象の画期的な斬新さを見落としてしまう虞もあるのが実情だ。

 にもかかわらず、そのような偏見による汚染から逃れる為の合理的な手段は、身近な領域に確保されているとは言い難い。私たちは分かり易く際立った「違い」しか「違い」として感受することの出来ない、随分と粗忽で鈍感な認識の機構を駆使して、物事に対処していることが多いのである。だからこそ、私たちは容易に見落としてしまいがちなのだ。荒唐無稽な空想に彩られた歴然たるファンタジーの外貌を有した作品に固執せずとも、私たちの知らない世界、私たちが詳さに観察した経験のない世界は総て、その外見が如何なるものであろうと、充分に「ファンタジー」としての衝撃力を保ち得るのだという単純な事実を。

 以前、朝日新聞の記事を読んでいたとき、恐らくはパレスチナで暮らす少年に就いて書かれていたと思うのだが、その少年に授けられた異国の名前、その生活の内実が日本に暮らす私の日常的な現実から遠く隔てられていること、それらの要素を直ちに了解して、私は此れも一つの「ファンタジー」ではないかと、双眸を洗われるような気持ちで考えたことがあった。そのパレスチナの少年が属している世界の成り立ち、そこで生起している様々な出来事の形は、私にとっては殆ど荒唐無稽な妄想と同じ程度に「疎遠なもの」でありながら、それは紛れもない客観的な報道によって報告された現代の「事実」なのである。このような働きは、海外の特派員が書き送った新聞記事に限らず、異国の作家たちが異国の人々の生涯を題材に書いた様々なスタイルの小説に関しても、同じように指摘し得る現象であろう。例えばミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」は、ほんの数十年前に東欧で発生した政治的=歴史的な事件を背景に据えて、チェコ人の男女の恋愛模様を描いている。それは現代の日本に暮らす私たちのライフスタイルと、それほど大きく隔たった世界を描いている訳ではないが、にも拘らず、そこには明瞭な異郷性が存在している。或いはもっと分かり易い例を挙げれば、ハーマン・メルヴィルの「白鯨」は、異郷性の要素がもっと露骨に具現化され、表象されている。単に取り扱われている題材が、私たちの日常に馴染の薄いものであるということが、その異郷性の由来の総てではない。そのような題材を物語るに当たって採用された独特の放埓な饒舌体に織り込まれている視線の角度、語り口の背後に想定される知識や経験の性質(例えば聖書の記述を織り込むこと)、それらの特質の総てが、平均的な日本人の生存の様式とは全く異質な世界の顕現を指し示しているのである。確かに総ての小説は、それが日本語で綴られていようといまいと、フィクションである限り、読者にとっては何らかの「異質な経験」を齎すものだ。だが、日本語の読者を想定して日本語で綴られた作品の多くは、平均的な日本人という一つの観念的なイメージに余りにも根深く準拠している為に、どんな荒唐無稽な出来事を物語ろうとも、結局は「既知の地平」に読書という経験の総体を回収してしまう懸念がある。その意味で、所謂「海外文学」と呼ばれるものの多様で巨大な異郷性は、私たちの文学的な悪習に対する解毒剤の任務を果たすものとなるだろう。