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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

今更ながら、達者な語り口 太宰治「津軽」

 太宰治の「津軽」という半ば随筆めいた小説、いや、そもそも随筆とか小説といった区分が問題にならぬような領域で書かれた散文体の作品を、遅れ馳せながら、生まれて初めて通読した。昨日の午後、幕張新都心の蔦谷書店で買い求めて、つい先ほど読み終えた。元々そんなに長い作品ではないが、色々と日用の雑事に紛れながらの通読なので、読み耽ったと表現して差し支えないのではなかろうか。

 太宰治という作家は、虚実の境目が曖昧な人で、例えば「津軽」にしても体裁としては全くの自伝的なエッセイ、果たしてわざわざ「小説」とカテゴライズする必要があるのか、正直に言って分からない。例えばミラン・クンデラのように、所謂「小説」という文学的様式の定義に関して異様な厳格さを持ち込む人の眼には、太宰治の書き方というか、作家としての姿勢は頗る不真面目、不徹底と映じるのかも知れない。だが、その理窟で行くならば、クンデラは小説をあくまでも「ヨーロッパ的精神」と不可分の芸術的様式として位置付けている訳で、彼の考える小説と、昭和十年代の日本人の作家が考える小説と、双方が見事に合致するなど、最初から起こり得ない奇蹟であると言わねばならないだろう。

 彼の文章はとにかく吸い込まれるように滑らかだが、それは普遍的な滑らかさであるというよりも、日本語としての滑らかさに限定されるべき性質のものだろう。無論、外国語を解さない私が、太宰の翻訳可能性の深浅など論じてみたところで無益の極致なのだが、何と言うか、彼の文章を読んでいるときの私の感覚は、異物感とは明らかに遠く隔たっている。蕎麦か饂飩でも啜るように、言葉がつるつると喉越し良く、胃の腑へ駈け下って行くのである。これは彼の文学が、少なくとも「津軽」という作品に関しては、余りにも日本的な要素によって搦め捕られていることを意味するだろうし、或いは彼の文学が、例えばクンデラの唱導するような「小説の精神」とは全く無縁の領域で形成されていることをも、意味するかも知れない。

 小説という形式を、近代という社会的な理念と結び付けて語ろうとするクンデラ的な考え方は、別に彼の独創でも専売特許でもなく、例えば柄谷行人などは明らかに「小説」と「近代」を連結させた上で、色々な批評的エッセイを書いている。その意味では、私などは「近代」とは何かという問題に、どんな答えを返せばいいのか、皆目見当もつかないような体たらくなのだから、みっともない。けれど、太宰治の「津軽」を読むとき、私はクンデラの「存在の耐えられない軽さ」を読むときのような、退屈と倦怠を堪える努力に心血を注がなくても済むのである。それは単に、食べ慣れない異国の料理を恐る恐る口に運ぶより、味噌汁と白米のごはんを頬張る方が落ち着くという程度の、文化的な習熟度の問題に過ぎないのだろうか?

 

津軽 (新潮文庫)

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