サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

グローバリズムとコミュニズム

 先々週くらいから、乾石智子の「魔道師の月」(創元推理文庫)を読むことに飽きて、居間に積み上げたまま店晒しにしていた「共産主義者宣言」(平凡社ライブラリー)を鞄に入れて持ち歩き始めた。

 私は共産主義という思想の意味を少しも理解していない。私の父親が学生だった頃には、共産主義の思想に取り憑かれた熱狂的な学生たちが「革命」を志向して暴力的な闘争に明け暮れていたと聞く。父親は如何なる党派にも属さない平凡な若者であったらしいが、それでも周りの勢いに呑み込まれて警察官に石を投げ、全力疾走で現場から逃げ出したそうだ(私が子供だった頃の父の口癖は「君子危うきに近寄らず」と「君子豹変す」の二つであった)。

 今日では、少なくとも現代の日本社会においては、「共産主義者宣言」の全篇に亘って頻出する「ブルジョア」や「プロレタリア」といった横文字の単語は既に旬の過ぎ去った死語に等しい待遇を受けているように見える。「階級闘争」という厳めしい表現も、時代錯誤の不毛な観念のように受け止められているのではないだろうか。無論、安倍内閣による所謂「安保法制」の強行採決に反対して、多くの学生たちがデモに繰り出した日々は今も記憶に新しいが、そうした活動が具体的な成果に結実することはなく、当時の熱気も哀しいほど無惨に退潮してしまった。考えてみれば、これは奇怪な現象ではないだろうか? 「一億総中流」の時代が終焉を迎え、小泉内閣による過激な規制緩和の大合唱を経て、刻々と強まり続ける自由主義の圧力と「自己責任論」の普及によって、私たちの暮らす社会が「格差の拡大」を生き続けていることは最早、自明の理である。夫の稼ぎだけで家計は支えられ、妻は専業主婦となって家事と育児に勤しみ、郊外に持ち家を建てて、還暦を迎えたら年金生活に入る、というロールモデルは社会の「典型」であることを止め、大多数の若者にとっては「見果てぬ夢」に様変わりしつつある。これは社会が「階級化」されていることの紛れもない証左ではないのか? 非正規雇用の割合は拡大の一途を辿り、人々の平均的な所得額は下降を続け、未婚率は上昇し、生まれる子供の数は減少を強いられている。生活保護受給世帯の数は絶えず最高記録を更新し続けているし、年金の受給開始年齢は果てしなく繰り上げられていく見込みだ。ほんの数十年前まで、私の父母の世代が現役であった頃まで、当たり前のように信じられていた社会的秩序の形態は、良くも悪くも耐用年数の超過を露わに示している。にも拘らず、階級闘争という言葉の古色蒼然たる響きが人々の大きな関心を集めることはなく、誰も革命が可能であるとは信じず、不透明な居心地の悪さが募っていくばかりである。社会の変革、国家の変革が必要であることは、多くの人々が承認する一般的な事実であろう。しかし、誰もが変革の絶望的な困難に尻込みして、政治的な改革よりも個人的な改革の方に救済の可能性を、希望の萌芽を見出そうとしている。

 とはいえ、そういう現代社会の雄々しい変革を志して、私は「共産主義者宣言」を手に取った訳ではなかった。結局は、単なる知的な関心に過ぎない。そして私が平凡社の版を選んだのは、中学三年生の頃から愛読してきた批評家の柄谷行人が巻末に解説を附していたからであった。

 そもそも、私がカール・マルクスの名を知ったのは、柄谷行人の著作に触れたことが直接的な契機であった。彼は幾度も、自らの厖大な著述の中で、マルクスという思想家の偉大な重要性と画期性に就いて言及している。新進気鋭の文芸批評家として出発した柄谷氏が、更に自らの思想的な領域を押し広げ、文学に留まらず政治や社会、哲学といった広範な分野へ進出していった背景に、ドイツの哲学者カントと並んで、マルクスの齎した決定的な衝撃と濃密な影響が介在していたことは、多くの読者にとっては既に周知の事実であろう。

 自分の知力で理解出来る内容なのかどうか心許なかったし、己の移り気で忍耐力のない性分は弁えている積りであったから、どうせ直ぐに投げ出すことになるだろうと思いつつ、勇気を振り絞って挑みかかった「共産主義者宣言」はしかし、事前の想定に反して頗る読み易く、刺激に満ちた内容であった。

 端的に言って、この薄い書物は、階級闘争の歴史的な推移に関する概説と、そうした現状から導き出される可能的な「未来図」の素描と、これら二つの部分に大別される。そして、第二章の終盤で示される処方箋の楽観的な陳腐さには、私は率直に言って、首を傾げてしまった。「共産主義者宣言」という一冊の優れた書物は、社会の構造に関する犀利な分析においては稀有な価値を体現しているが、この書物が想い描く青写真は、現実味に乏しく、実践的な有効性を欠いているように感じられた。

 しかし、この書物に綴られている社会分析の成果は、1848年の公表から既に170年近い日月を閲した現在においても猶、その有効性を失っていないように見える。封建社会からブルジョア階級の成立に至る歴史的推移の適切な素描は、少しも古びていないし、旧時代の遺物として排斥するには余りに惜しい新鮮な省察によって支えられている。だが、マルクスが(エンゲルス?)「宣言」の中に盛り込んだ、或いは仄めかした未来図の精度は無数の疑問符に彩られていると言わざるを得ない。言い換えれば、彼は未来を語ることに性急であり過ぎたのではないだろうか? ブルジョア階級の勝利は、プロレタリア階級の暴力的な革命によって転覆されるという筋書きは、現代においては古めかしい御伽噺のように感じられる。寧ろ、ブルジョア社会の特質は、様々な技術の発達によって一層加速され、あらゆる「辺境」を貪婪に平らげることに今も血道を上げているのだ。インターネットに象徴される情報技術の異常な発展は、ブルジョア階級によって切り拓かれた資本主義経済の無慈悲な拡張を根底的に支持している。

 生産物の販路の絶えざる拡大という欲望にかりたてられて、ブルジョア階級は全地球を駆け回る。いたるところに巣を作り、いたるところを開拓し、いたるところで関係を結ばねばならない。

 ブルジョア階級は、世界市場の開拓を通して、あらゆる国々の生産と消費を国籍を超えたものとした。反動派の悲嘆を尻目に、ブルジョア階級は、産業の足元から民族的土台を切り崩していった。民族的な伝統産業は破壊され、なお日に日に破壊されている。それらの産業は新しい産業に駆逐され、この新たな産業の導入がすべての文明国民の死活問題となる。そうした産業はもはや国内産の原料ではなく、きわめて遠く離れた地域に産する原料を加工し、そしてその製品は、自国内においてばかりでなく、同時に世界のいたるところで消費される。国内の生産物で満足していた昔の欲望に代わって、遠く離れた国や風土の生産物によってしか満たされない新しい欲望が現れる。かつての地方的、一国的な自給自足と孤立に代わって、諸国民相互の全面的な交易、全面的な依存が現れる。(「共産主義者宣言」金塚貞文・訳)

 マルクスエンゲルスの言葉を借りるならば「国内の生産物で満足していた昔の欲望」を取り戻そうとしているのがドナルド・トランプ率いる合衆国であり、EU離脱に踏み切ったイギリスであると言い得るだろう。そうした「反動派の悲嘆」は、中東を席捲するイスラム過激派の熱狂的な民族主義にも通底している。それは確かにブルジョア階級の崩壊と自由主義体制の破綻を暗示する徴候のように見えるが、保守的な反動によって世界が新たな局面に足を踏み入れることは有り得ないに違いない。メキシコとの国境線に巨大な隔壁を築いたところで、グローバリズムの尖兵たるアメリカの経済が古き良き保護主義の監獄に逼塞し得るとは考え難いからだ。

 

共産主義者宣言 (平凡社ライブラリー)

共産主義者宣言 (平凡社ライブラリー)