サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「神なき世界」と、条理の否定(死んだのは「ママン」ではなく「神」だったのだろうか?)

 アルベール・カミュの『異邦人』(新潮文庫)は、世界的にも日本国内においても非常に有名な小説だが、実際にどれくらいの数の人々が、あの決して長大でもない薄い一冊の小説を読み通して、その内容を熟読玩味しているのか、心許ないような気がする。あの有名な書き出し、つまり窪田啓作の翻訳によって日本語に置き換えられた冒頭の一節「きょう、ママンが死んだ」だけが、恐らくは切り取り易い断片として重宝され、不条理文学の傑作などという惹句と共に、世間に膾炙している訳だが、そこから先に一歩踏み込もうと試みる人々にとっては、カミュの明晰な文章とは裏腹にぼんやりと輪郭の定まらない「異邦人」の物語の道行は、意外に難解で、馴染み辛いものなのではないだろうか。

 だが、この有名な作品の内部に慎重に張り巡らされた物語の無造作な外貌は、決して作者が冷淡な性格だったからでも、物語の仕組みや構成に就いて無関心であったからでもなく、もともと作品の意図として明確に目指された様式だったのではないか? 語り手のムルソーは、一見すると無気力で冷淡で自堕落で、つまり社会的な規範や秩序に対する唾棄すべき無関心によって貫かれ、支配された人物のように感じられる。それは、確かにアルベール・カミュの文学的野心の産物であり、意図的に生み出され、強調された一つの世界観の表明なのだ。

 この小説に織り込まれたカミュの文学的な問題構成は、恐らく西欧社会に根深く染み込んでいるキリスト教的な価値体系への対立、或いは「抗争」という要素を、その核心に含んでいる。言い換えれば、カミュが捉えようとしたのは「キリスト教」が信奉する「一神教的な天蓋の支配」を否定するような価値観であり、「神なき世界」において、どのように倫理を樹立すれば良いのかという思想的な難問であったのだ。そして「神」を否定することは、そのまま「意味」を否定することに繋がるというのが、キリスト教に占有された西洋社会の原理的な特質なのである。

 彼の文学には頻繁に「不条理」というラベリングが施されるが、重要なのは、そうしたラベリングを覚え込むことではなく、その成立の経緯を綿密に探究することである。彼は何故「神なき世界」に就いて考えようとしたのか? そもそも、彼はこの小説に何故「異邦人」という名称を冠したのか? 少なくとも、この「異邦人」という名称が、キリスト教社会に対する無神論的倫理の対置を企図して考案されたものであることは、概ね確かな事実であろう。彼の根底には、キリスト教社会に固有の道徳や倫理、思想信条に対する不満や抵抗が存在する。そのような意識が形成された背景に、例えば植民地アルジェリアの輝かしく貧しい夏の太陽が関わっているのだと、一つの憶測を組み立てることは容易いが、私は評伝作者ではないので、それに就いては深入りも明言も避けたい。

 ムルソーが対峙するのは、キリスト教によって意味づけられた社会であり、世界である。彼を無気力で冷淡な罪人として裁くのも、キリスト教という価値観の体系である。物事を「天国と地獄」という超越的な「量刑」に基づいて解釈し、配置しようとする思想の形式、そこに彼は深刻で根源的な「欺瞞」を嗅ぎ取った。言い換えれば、彼は身も蓋もない真実を率直に見定める為に、不要な「一神教の天蓋」を払い除ける困難な作業に着手せねばならなかったのだ。そして、無神論的な構図の中で猶も「正しく生きる為の規矩」を地道に造り上げていくことに、彼は人生の大義を求めた。ムルソーが母親の死に無関心な素振りを示すのは、彼が無神論的な構図の中で「キリスト教社会」による「定義」を拒もうとしているからだ。「ママン」は偶然、死を迎えたのではない。「ママン」が死ぬことは、ムルソーの固有の人生においては、必要不可欠の前提であり、根本的な出発点だったのである。

異邦人 (新潮文庫)

異邦人 (新潮文庫)