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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

日常性を蝕むもの 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(第1部 泥棒かささぎ編)

 村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」という長篇小説の第一巻「泥棒かささぎ編」を読了したので、感想の断片を書き留めておく。

 尤も、この「泥棒かささぎ編」を通読したのは、今回が初めてではない。遡ること十数年前、私が未だ中学三年生だった頃の、高校進学直前の春休みに、誰もいない家で炬燵に浸かりながら、夢中になって貪るように読み終えたのが最初の邂逅であった。松戸駅前の良文堂書店で、分厚いハードカバーの「泥棒かささぎ編」に何故か心を惹かれ、大枚を叩いて購入したのである。いや、或いは中学二年生の終わり、大阪府枚方市から千葉県松戸市へ引っ越して来たばかりの、束の間の平穏な早春の日であったろうか。どちらでも構わないが、兎に角、それが村上春樹の作品との、最初の本格的な接触であったのだ。

 夢中になって読み終えたくせに、私は続きの二冊を読まないまま、今日まで過ごしてきた。奇妙と言えば奇妙だが、別に続きを読まねばならない義理もないと考えることも可能である。未だ作品の全篇を通読した訳ではないので、断片的な感想文となることを御了承願いたい。

 「泥棒かささぎ編」は、長大な作品の導入部に当たる一冊であるから、複数の物語の流れは未だ互いに分岐し、並行したままの状態であり、それらの複数の挿話を包括的に纏め上げる綜合的な視座のようなものは未だ具体的な形では示されていない。語り手である「僕」(岡田亨)は、法律事務所を辞めて求職中の立場であり、家計の財源は妻のクミコの収入で暫定的に賄われている。彼は決して主体的に何かを求めて行動するタイプの人間としては描写されておらず、寧ろ物語の展開に対して、常に受動的な姿勢を有している。物語は、様々な見知らぬ人々から、しかも少なからず奇妙な経歴の持ち主たちから、語り手の「僕」が接触を受けるという形式で進んでいく。彼は主体的な意志に基づいて物語を駆動させる存在ではなく、飽く迄も外部から到来する様々な異形の意志に衝き動かされるという仕方で、物語の枢軸に位置し続けるのである。

 こうした語り手のメンタリティが、極めて村上春樹的な特徴を鮮明に備えていることは、一読すれば明らかである。多くの場合、彼の描き出す主人公たちは不可解な因縁や思いも寄らぬ成り行きに引き摺られ、巻き込まれるような形で、小説の世界に対する介入を強いられる。彼らは自分の意志を適用すべき範囲を常に慎重に制限し、他者の領域へ土足で、或いは独善的に侵入することに対して非常に禁欲的である。この特徴は同時に、彼自身が己の領分を土足で侵犯されることに対して非常に防衛的であるという事実と、明瞭な対照を形成している。

 法律事務所を辞めて、所謂「専業主夫」としての勤勉な生活を送り、次の仕事を探しつつも、今一つ就職の決断に踏み切れずにいる「僕」の人物造形が、こうした村上春樹的メンタリティと親和的な関係にあることは歴然としている。言い換えれば、村上春樹的な主人公たちは「外の世界」=「社会」に対する積極的な関与を望まないという根源的な性質を共通の「魂」として附与されているのである。淡々と家事を営み、穏やかな日常生活の反復に自足しようとする傾向、社会的事件よりも審美的な事象に重要な価値を見出そうとする傾向、公共性の領域よりも個体性の領域に実存の基盤を求めようとする傾向、これらの要素は村上春樹の造形する文学的宇宙の基礎的な原理であり、特質である。

 この特質に別の表現を与えるとするならば、それは「社会的なものに対する絶望」と呼べるだろう。社会的なもの、様々な不特定多数の人間の繋がりによって構成された巨大な体系、その外在的な権力の秩序に対する絶望と諦観と不信が、村上春樹的な世界の基調を成している。その意味で私が想起するのは坂口安吾である。彼は終戦直後の崩壊した社会の内側で最も輝かしい栄光を放った異才であり、個人として生きることの意義を極限まで倫理的に問い詰めた作家であった。彼らに共通しているのは、政治的な解決というものに価値を認めない、孤高の姿勢である。無論、それは時に極端な保守的見解と重なり合ってしまう虞を孕んでいるが、私は、彼らのそういうメンタリティに「潔癖な誠実さ」を感じずにはいられない。政治的な理念に呑み込まれた作家など、語義矛盾に等しいからだ。

 社会的なものに対する絶望の介在は、物語の主体的な生成を妨げる働きを有する。少なくとも私は、そのように仮説を立ててみたいと思っている。常に受動的で、個人的な日常生活の範疇に閉じ籠もっている人間が、積極的に大胆な物語の構築へ力を尽くすということは考えられない。だから、そのようなメンタリティの人間を主役の地位に据えながら、敢えて強引に物語を駆動させようと試みるならば、どうしても筋書きの変化を齎す要因は「外部から到来するもの」として措定されざるを得ない。

 語り手の「僕」は極めて単純な個人的生活を送っているだけの、平凡な人物として描き出されている。しかし、彼は徐々に不穏な訪問者たちの手で、それまでの平穏な日常への耽溺を妨げられるようになっていく。彼は誘われ、導かれるままに奇妙な人物との対話の機会を持ち、単調な孤独の閉域から逸脱することを強いられる。このような筋書きの構成は、一体どのような意味を持つのか? 端的に言って、それは「社会的なもの」の不可避性の証明であると看做すべきであろう。人間はどんなに孤立した、極めて個人的な静穏の日々の中に留まることを熱望したとしても、知らぬ間に忍び寄る外在的な影響力、社会的な関係性の網目から完全に自由であり続けることは出来ない。この簡明な真理を、この「ねじまき鳥クロニクル」は執拗なフーガのように繰り返し訴え、厳かに告示し続けているように見える。

 安閑たる日常が、全く予期せぬ仕方で、外来的な存在によって俄かに損なわれ、深刻な混乱の渦中へ導かれるという経験に、少しも心当たりのない者は珍しいだろう。現に私たちはたった数年前、あの未曽有の大震災と原発事故に遭遇した。もっと年月を遡っても、例えば阪神淡路大震災オウム真理教による化学テロ、アルカイダによる世界貿易センタービルへの特攻など、類似の事例は幾らでも掘り起こし、呼び覚ますことが可能である。個人の意志や感情とは全く無関係に、突発的に襲い掛かる暴力的な事件の力によって、個人の平穏な生活が蹂躙されるという経験は、個別の人間に限って押し寄せる例外的な惨劇ではなく、寧ろ人間という存在に附随する普遍的な宿命なのである。

 個人的な生活、その矜持と尊厳に決して生半可なものとは言い難い執着=愛着を示す頑固な作家である村上春樹が、そのような「突発的で暴力的な事態の到来」に敵意を持つのは自然な流れである。或いは、そのような外界からの暴力的な訪問者に直面したとき、人間はどのように振舞えばいいのか、という倫理的な課題に、彼が切実な関心を寄せるのは当然であると、言い直すべきかも知れない。ミラン・クンデラは、小説という文学的形式の孕む固有の役割を「想像的自我の実存的な検討」と呼んだ。その定義を踏まえれば、村上春樹の文学的な関心は「個人の平穏な日常を踏み躙る突発的な暴力と対面したとき、どのように立ち向かえばいいのか」という倫理的な主題を検討することに存すると言えるのではないだろうか。有名なエルサレム賞の受賞演説「壁と卵」を想起すれば、私が論じている事柄の性質は一層、鮮明になるだろう。彼は常に「壁と卵」の問題に異様な執着の持続を示してきたのだ。

 こうした私的な仮説と拙劣な探究が、妥当な成果に結び付くかどうかは、全篇を通読した後に判断されるべき問題である。従って、本稿はこれで擱筆とする。

 

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)