サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(ラピュタ・宮崎駿・自然・人間)

*仕事を終えて十時過ぎに帰宅し、テレビの電源を入れると、金曜ロードショーで「天空の城ラピュタ」を放映しているところだった。

 金曜ロードショーで、スタジオジブリのアニメ映画の再放送に出喰わすことは、少しも珍しい話ではない。子供の頃、母親がVHSのテープにダビングした様々なジブリ作品を、腐るほど眺めて育った私にとって、テレビ画面に映し出される一つ一つのシーンは、懐かしいとすら感じないほどに記憶の表面へ色濃く刻み込まれている。にも拘らず、一旦見始めると視線を外せなくなるのは何故だろう。宮崎駿監督作品の卓越したクオリティの為せる業であろうか。

 宮崎駿という稀代のアニメーション監督の華々しい経歴を改めて顧みると、そこに二つの重要な主題が脈打っていることに気付かされる。一つは「自然と人間との相剋」であり、もう一つは「子供(特に少女)の成長」である。「自然と人間との相剋」或いは「テクノロジーの暴走」という主題が「ナウシカ」「ラピュタ」「もののけ姫」の系譜に通じているとするならば、もう一つの重要な主題である「子供(特に少女)の成長」に関しては「となりのトトロ」「魔女の宅急便」「千と千尋の神隠し」の系譜を計え上げることが出来る。

 例えば「ラピュタ」において、天空に浮かぶ巨大な城塞は、極めて高度な文明と科学技術によって構築された「人工」の極致である。その驚嘆すべきテクノロジーの神秘的な水準の高さは、地上に暮らす人々の想像を遙かに超越する次元に達している。

 悪役であるムスカ大佐は、太古の昔に滅亡したラピュタのテクノロジーを復活させ、地上を支配するという野蛮な夢想に駆り立てられている。彼の歪んだ情熱を、核兵器の威力に固執する北朝鮮金王朝に擬えることも不可能ではない。無論、そうした情熱は、固有名を備えた具体的な個人の特性に限られた話ではなく、そもそも「テクノロジー」に対する人類の根源的な野心に他ならない。

 こうした「テクノロジーへの欲望」が齎す種々の災禍という問題に就いて、宮崎駿という人物が一貫して強烈な倫理的関心を燃やし続けてきたことは、「風の谷のナウシカ」から「もののけ姫」に至るアニメーション監督としての経歴を徴すれば明らかである。極めて高度に発達した文明が何らかの理由で自壊作用を惹起し、無惨に滅び去った後の世界、というのは「ナウシカ」においても「ラピュタ」においても共通して登場する舞台設定であり、そこに「核戦争の時代」の宿命的な影響を読み取ることは必ずしも曲解であるとは言い難いだろう。宮崎駿のキャリアの集大成に位置付けられる傑作「もののけ姫」においても、踏鞴場を統括するエボシ御前は、製鉄技術という人工的な技能によって一つの集落を作り上げ、神々の暮らす森林と対峙している。その製鉄技術が環境を破壊し、森に住まう神々の瞋恚を購い、強烈な緊張状態を生み出すのである。「テクノロジーに対する欲望」が齎す種々の災禍に関する宮崎氏の倫理的意識は、極めて尖鋭である。

 しかし、そうした側面だけを強調して、宮崎駿という作家の本質を解き明かした積りになるのは、余りに偏頗な捉え方である。例えば監督自身が繰り返し「モラトリアム映画だ」と批判的な言及を行なっている「紅の豚」には、サン=テグジュペリの世界を連想させる古き良き「飛行艇時代」へのノスタルジックな感傷が横溢している。或いは「風立ちぬ」において描き出される堀越二郎(「零戦」の設計者)の姿には、紛れもない「テクノロジー」への強烈な欲望が噎せ返るほど浸潤している。言い換えれば、宮崎駿という人物の内側には「テクノロジーに対する強烈な欲望」が歴然と息衝いているのであり、監督の戦闘機に対する奇怪な偏愛を無視して、これらの作品に関する批評を試みるのは片手落ちである。

 テクノロジーに対する欲望と、それが尖鋭化した涯に齎される深刻で不可逆的な災禍に対する倫理的な苦悶は、宮崎氏の精神を苛む無限の循環として存在しているように感じられる。特に近代以降の科学技術の爆発的な発展は、テクノロジーが人間の制御を引き千切って暴走するという不穏で絶望的なイメージを、歴史の様々な局面において現実化してきた。その極点に存在するのが「核兵器」の凄まじい災厄である。ヒロシマナガサキ以降の時代に生きる人類にとって、テクノロジーの暴走という事態は常に悩ましい苦痛を齎す元凶として作用している。

 古来、自然の脅威は「人智を超えたもの」として扱われ、畏怖の念を以て眺められ、崇められてきた。しかし近代以降、自然のみならず「テクノロジー」もまた「人智を超えたもの」として振舞うようになった。人間の作り出した文明が人間自身を滅ぼし得るという皮肉な現象は、明らかに「近代」の特質であり、更に言えば「近代」に固有の宿痾である。だが、幾ら交通事故の死人が出ようとも、自動車そのものの廃絶という議論が声高に叫ばれることのないように、如何なる惨禍を齎し得るとしても、こうした「近代」の宿痾から逃れる為の退行が、国際的な意志として積極的に選択される見込みは乏しい。「人智を超えたもの」としてのテクノロジーと文明を棄却して、近代以前のプリミティブな世界へ回帰しようとする素朴な主張は、ロマンティックな美しさを湛えているとは雖も、現実的な有効性を持ち得ないだろう。

 「となりのトトロ」に描き出された里山の風景の美しさを単純に嘆賞するだけでは、宮崎氏の追究する課題の本質に触れたことにはならない。テクノロジーが「素朴な創意工夫」の次元に、言い換えれば「丁寧な手仕事」の次元に留まっていた牧歌的な時代を懐かしんでも、テクノロジーの暴走という近代的な「悪夢」の問題を解決することには繋がらない。「紅の豚」を「モラトリアム映画」として自己批判する宮崎氏の口吻には、そうした苦渋が滲んでいるように思われる。

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