サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「決断」に就いて

 決断することは常に難しく、多くの危険を孕んでいるものだ。決断するとき、私たちは綿密な熟考を経ている場合もあるし、単なる素朴な思い付きだけを足掛かりに選んでいる場合もあるが、何れにせよ、決断が困難であることには変わりがない。綿密な検討を積み重ねた上で下した結論だからと言って、成功するとは限らない。同様に、軽率な思い付きが想像もしなかった幸福な結末を呼び込む事例も、枚挙に遑がない。

 決断が困難であるのは、それが予期された結末を呼び込まない虞を絶えず孕んでいるからである。見込み通りに物事が運ぶことは稀有な現象であり、往々にして私たちの理想と計画は、私たちを取り囲む身も蓋もない現実によって裏切られるものである。そうした不安が足枷となって、決断力が鈍磨するという事態は巷間に有り触れている。けれど、私たちは一つの端的な真理に就いて、理解を深めなければならない。つまり、あらゆる決断が「不確定性」を含むことは避けられない、という素朴な真理を正しく冷静に理解しなければならないのだ。

 決断力を高める為には、如何なる結果が生じても、自分が選んだ途ならば悔やむことはないという「覚悟」を固めることが必要である。そうした覚悟が容易く固められるのならば、何も苦労はしないし、思い悩むこともないと、人は言うかも知れない。確かに、如何なる結果が生じても受け容れる覚悟を持つということは、決して簡単な話ではない。だが、そもそも「簡単な話」ばかりを望んで安逸を貪ろうとする態度が、人生においては「諸悪の根源」なのである。

 生きることは常に苛酷であり、私たちの期待と願望は日課のように裏切られ、破綻を強いられるものだ。そうした現実にすっかり幻滅してしまい、こんな辛い境遇に陥るくらいならば何も選ばない方がマシだと思うのも、無理からぬ成り行きである。けれど、そうした絶望が私たちの存在と精神を救済する見込みは極めて小さい。

 決断力を高めるという言い方自体に、誤解を招く「隙」があるのかも知れない。否応なしに、私たちは常に、刻一刻と「決断」を迫られている存在である。何も選ばないという選択さえも、否応なしに一つの「決断」として何らかの具体的な現実を喚起してしまう。先ず、そうした事実を精確に認識することから始めなければならない。私たちは時に、自分自身の決断力を疑う余りに、他人の意見に縋ろうとする。親や上司や友人や恋人や、或いは先賢の遺した偉大な書物の一行に縋って、選択の根拠を求めようとする。それ自体は、別に罪でも悪でもないが、その結果として得られた現実に対する不満を、自ら根拠に選んだ「他人の意見」に叩きつけるのは立派な欺瞞であり、懶惰な罪悪である。その意見に従うことを決めたのが「自分自身」であるならば、その意見を提示した他人が悪逆の徒であったとしても、裁決は「共犯」にしかならない。選ばれたものの罪は同時に、選んだ者の罪でもあるのだ。

 自分の決断には自分自身で責任を負うしかない。他人を責めても、己の決断が正当化されることはない。例えば、若しも車に撥ねられて死んでしまったら、幾ら運転手を糾弾しても、二度と自分が甦ることはないのである。重要なのは他人を糾弾することではなく、自分自身が「より良い生」を営むことであろう。ならば、日頃から如何に車に撥ねられないように注意深く行動するか、それを生きている間に確りと考えておいた方が賢明であるに決まっている。

「卑屈」に就いて

 自分で自分の人生に責任を持つことを拒むと、人間は必ず「卑屈」になるか、或いは「虚勢」を張るようになる。自分で自分を信頼することが出来ないという精神的状態は、自分の人生に自分自身の判断で責任を取ろうとせず、総てを外在的事象の結果として捉えようとする他律的な姿勢の所産である。

 そういうことを、偶々昨日考えた。これは分かり切った問題であると同時に、実践の次元においては必ずしも容易であるとは言い難い問題である。日々の習慣の蓄積が、総てを決定してしまっていると言い換えてもいい。自信を持つことは、地道な習慣の産物であり、日々の思索の累積の効果である。逆に言えば、自信を持たないという態度も、日々の思索と習慣の綜合的な結果である。問題は、その循環を如何に切り替えていくか、という点に存する。

 卑屈であることは、防衛的に振舞うということである。それは自分自身の人生に関連する諸問題の決定権を他人に委ねることで、自分自身に課せられる責任を解除しようとする構造を備えている。他人の意見に対して忠実に振舞うという態度は、言い換えれば他人の下した判断や認識や行動に、自分自身の実存の根拠を求めようとする態度は、結局は「自分が責められたくない」「自分が悪いと思いたくない」という恐怖の反映である。如何なる結果も甘んじて受け容れ、今後の行動に活かしていくという実際的な合理性が、そうした防衛的実存においては不可避的に欠落してしまう。総ての問題が「自分は悪くない」という現実の証明に向かって集約されてしまう。それが単なる「自分の正当性に関する言明」として構成されているのならば、未だ救いはある。しかし「卑屈」の症状が深刻化すると「自分は悪くない」という明確な言論を行なうことさえ、一種の「禁忌」として避けられるようになる。そのとき、人間は予め自分で自分を裁き、批判することによって、他者からの批判を凍結しようと試みる。「自分の欠点は総て理解している」という仕方で身構えることによって、他者からの批判を悉く無効化し、その威力を減殺しようと企てる訳だ。

 こうした考え方、つまり「他者からの批判を先取りすることによって、他者からの批判を無効化する」という姿勢は、あらゆる対話と議論の本質的な拒絶であり、実際的な合理性の否認である。卑屈な人間は、表向きは他者の意見に絶えず熱心に耳を傾けているように見えるが、それは他者の意見を正しく理解する為ではなく、己の免罪の論拠を探し求める為の身振りに過ぎない。他者の意見を根拠に据えない限り、彼らは何らかの纏まった意見を明示的に語ることさえ出来ないのだ。

 絶えず他人を批判し、攻撃し続けることで、己の正当性を確保しようと試みるドナルド・トランプ的な独裁性と比較したとき、卑屈な人間は全く対蹠的な存在であるように感じられるが、それは表層的な結果の差異に過ぎない。卑屈な人間は常に他人の意見を傾聴しているように振舞いながらも、結局は根源的な次元において、他人の意見を頑迷に峻拒し続けている。彼らは「自分の意見」を明示することに関して深刻で絶望的な不安を懐いており、どうしても自分の意見を明示しなければならない局面に立たされた場合には必ず「他人の意見」を借用し、代用する。その為の材料として「他人の意見」を蒐集することに奇妙な情熱を燃やすのである。だが、それは「他人の意見」を「他人の意見」として客観的に把握し、理解する為の行動ではない。寧ろ彼らは「他人の意見」を「自分の意見」と混同し、両者の境界線を曖昧に融解させることで、自分自身の存在を秘匿しようと試みているのだ。その目的は無論、自分自身が「傷つくこと」を絶対的に回避することに存する。

 だが、卑屈な人間が他者から求められたり、受け容れられたりすることはあっても、他者からの「尊敬」を得ることは限りなく不可能に近い。自分自身の人生に責任を取らず、借り物の意見で武装して、あらゆる負傷を忌避し続ける人間に、敬意を懐き得る要素は一つも存在しない。卑屈であることは、何物も生み出さずに自己の「保存」だけに留意し続けるという姿勢を指しており、従って彼らは「他者」に対する本質的な貢献に就いて、甚だしく無関心なのである。卑屈に振舞うことは寧ろ、他者の存在に対する「敬意」の欠如であり、エゴイズムの複雑に捻じ曲がった形態である。それが表向きは如何に他者に対する従順さに満ちていたとしても、本質的には「卑屈であること」は「他者の拒絶」であり「自己の温存」を意味しているのだ。

「独裁者」に就いて

 最近、米国のドナルド・トランプ大統領は、ロシアとの「不適切な関係」を取り沙汰されて、四方八方から攻撃を受けている。ロシアのラブロフ外相に同盟国(イスラエル)から入手した機密情報を流したということで、国内の情報機関からも敵視されているらしい。東西冷戦時代の宿敵であったロシアとの癒着が事実であるとすれば、アメリカの国益を死守することを目的とする情報機関(CIAやFBI)の人々が激昂するのは自然な成り行きであろう。

 事実関係に就いては、私は何も判断する材料を持たないが、何れにせよトランプ大統領が国内のメディアに対して極めて露骨な敵意を剥き出しにしている現実(ロシアとの癒着疑惑を大っぴらに報道されることが気に食わないようだ)は、政権の遠からぬ末期を予測させる。大統領選挙におけるトランプの衝撃的な勝利の原因に就いては、様々な議論や憶測が今日まで囂しく飛び交ってきたが、そういう具体的な経緯が如何なるものであれ、トランプが一国の元首に相応しい人格の持ち主であるとは思えないという世間の素朴な感想の正しさは、いよいよ立証されつつあるように感じられる。

 無論、元首が隅から隅まで清廉潔白である必要はないし、デモクラシーに基づく政治と社会の運営を選び取った近代国家において、多少なりともポピュリズムの傾向が強まることは避けられない現象であろう。だが、大衆の支持を得た者が政治的な正当性を手に入れるという原則に対する尊重を忘れないとしても、ドナルド・トランプの政治的手法は、明らかに歴史的な理想と対立している。彼は近代社会が少しずつ積み上げてきた諸々の理想的な観念を土足で荒々しく踏み躙ることによって、合衆国の政治的絶頂に昇り詰めた。選挙に勝利した者が政治的な正当性を認められるというデモクラシーの原理は、ドナルド・トランプの下品な言論活動によって、その栄誉を明瞭に毀損された。彼は自らの方針や信条に反対する者を劇しく非難し、触れられたくない問題に容赦なく嘴を突き入れるメディアを中傷することに聊かの痛痒も覚えない人物である。だが、報道の自由言論の自由が、如何なる歴史的経緯を踏まえて形成されて来たのか、それを少しも考慮しないように見える彼の粗野な政治的手法は、厳しい詮議の対象に据えられるべきである。ドナルド・トランプが如何なる政治的信条を持とうと、確かにそれは本人の有する市民的自由の範疇に属する問題だが、彼が大統領であるという事実に就いて、過剰な意味づけを施す必要はない。これはデモクラシーの無惨な失錯の驚嘆すべき実例である。

 広義の政治が、清廉潔白な倫理的態度だけで成り立つものではないこと、それは誰しも自らの経験に照らし合わせて理解している。だが、ドナルド・トランプの問題点は、彼が清廉潔白な人間ではないという当然の事実に根差しているのではない。重要なことは、彼がアメリカという国家が今まで象徴してきた先鋭な理想主義を、決定的に破壊しているという点に存する。奇しくもロシアとの癒着が疑われている今、トランプを自由主義の国家に侵入した古臭いファシズムベクターとして定義することは、必ずしも荒唐無稽の暴論であるとは言い切れないだろう。無論、現代のロシアを全体主義国家と呼んで蔑むことは出来ないが、スターリンの時代の記憶を、完全なる過去の亡霊として忘却するのは、賢明な振舞いではない。

 移民やイスラム教徒に対する威圧的な差別、貿易赤字に関する強硬で独善的な憤怒、そうした見苦しい短所に加えて、彼の人格的未熟さを露骨に象徴しているのは、メディアに対する露骨な(無思慮な)嫌悪の表明である。彼はメディアに対する誹謗中傷を辞さないが、恐らく本人は自身に対するメディアからの誹謗中傷への、当然の報復を行なっているに過ぎないと考えているのだろう。或いは、控えめな反発を示しているに過ぎないと信じているかも知れない(定例会見の中止の意向を示すくらい、大したことではないと考えているのではないか)。だが、メディアに対する嫌悪が、自分にとって不都合な真実を報道しようと試みる人間に対する憎悪なのだとすれば、彼の怒りは余りにも幼稚で、自己中心的である。合衆国の大統領であるということは決して、絶対王政の君主であるということではない。彼は人民に委託されて政権運営を担っている公僕の長であるに過ぎない。

 ドナルド・トランプの様々な振舞いが、如何にも典型的な独裁者の風貌に相応しいものであることは明らかなのに、彼が米国の民衆の支持を集めて元首に推されたという事実は、本来ならば慨嘆すべき事態である。バラク・オバマの理想主義が政治的な実効性を発揮し得なかったのだとしても、その後釜にトランプを据えれば種々の社会的問題が解決すると信じ込むのは余りにも無思慮な反動の産物だろう。

 美しい理想を語るだけで役に立たない元首が退くのは当然だと、米国の恵まれない白人たちは訴えるかも知れない。だが、ドナルド・トランプが元首として有能であると信じ得る根拠は見当たらない。成功した実業家が、成功した合衆国大統領に転身し得るとアナロジカルに考えるのは個人の自由だが、それは飽く迄も表層的な類推に過ぎない。そもそも、あれほど差別的で粗野な人物が、成功した実業家として認められているという事実自体が、私にとっては信じ難い話なのだ。そこにはアメリカという国家の特殊な「体質」が関与しているのだろうか。

「正論」に就いて

 「正論」は凶器のようなものである。無論、これは一種の極論に等しい命題だ。如何なる正しさとも無関係に、己の実存を歩み続けることは簡単ではない。如何なる正しさも肯わないままに、自分の人生を切り拓いたり、苛酷な試練に挑戦したりすることは不可能である。だが、そうした経験的事実を踏まえた上でも、私は「正論」が凶器であることを信じて疑わない。

 正しさの主張は、或いはその論理的な立証は、他者を屈服させる為の暴力的な装置として存在する。「正義」が人の数だけ存在することは既に広く知られた「真実」であるが、そうした原理原則に絶えず依拠しながら、日々の生活を営むことは酷く難しい。私たちは「主観」と「客観」の矛盾の中に投げ込まれている。自信を持って人生の行路を歩む為には、己の感じた主観的な事実に対する絶対的な肯定を貫かねばならない。しかし、自分の所持している「真理」が、結局は主観的な相対性の渦中に置かれていることを同時に認識していなければ、如何なる自信も不毛な「狂信」と見分けがつかなくなるだろう。この厄介な矛盾は、私たちの人生に植え付けられた、決して覆すことの許されない根源的な両義性である。

 「正論」を振り翳して相手の弱点を苛むこと、それは相手を打ち倒す為の手段としては非常に有効である。憎むべき相手を刺殺する為に、言葉の匕首を研ぎ澄ますことは、世間では少しも珍しくない類型的な行為である。だが、私たちは時に、そうした危険な凶器を慈しむべき相手に突き付けてしまう。それが如何なる稔りを齎すのか、充分な検討を加える手間を惜しんで、あたかも通り魔のように「正論」の切っ先をぎらりと燦めかせてしまうのだ。大抵の場合、その愚かしさを悟る頃には、既に不毛な流血が地面を濡らしてしまっている。

 自分の正しさを信じることは個人の勝手だ。しかし、自分の正しさを相手に承服させようとするのは、越権行為であると言える。自分の信じる正しさを、他人が共有してくれるかどうかは、完全に他人の裁量に委ねられた問題である。だが、私たちは直ぐに自分の信じる正しさの「普遍性」を希求してしまう生き物であるから、少し気を緩めただけで容易く慎重な自制心を失ってしまう。どう考えても正しい、非の打ち所のない推論の涯に辿り着いた答えを、他人が幼稚な理由で峻拒するとき、相手の愚かさを嗤笑せずに持ち堪えられる者は、本当の意味で優れた人間である。言い換えれば、それは他人が愚かである権利を承認するということであり、翻って己の愚かさを肯定することに等しい。正義という熱狂的な麻薬に手を染めるなと言いたい訳ではない。正しさが相対的な観念に過ぎないことを自覚すべきだという尤もらしい言説の有効性を、無条件に信頼している訳でもない。

 自分の正しさを信じるというのは、他人と比べて己が論理的な優越性を確保しているという事実を支持するものではない。論理的に眺めれば明らかに間違っていたとしても、私がこのように感じ、考えているという事実そのものは否定出来ない、という認識が、自分を信じるという精神的秩序の基礎的な原理であり、手続きである。まるで、デカルトのような口吻だ。森羅万象を疑うことは可能だが、森羅万象を疑っているという事実そのものは肯定するしかない。同じように、私が現に考えていることの内容の妥当性と、私がそのように考えているという事実そのものの妥当性は、同列に論じることが出来ない。私がどのような愚かしい考えや信仰に囚われているとしても、そのように囚われているという事実自体を否認してしまえば、如何なる前進も有り得ないのだ。先ず大前提として「私は、このように感じている」という経験的な事実から出発することを閑却してはならない。

 私が「自信」という言葉で呼びたいのは、こうした根源的事実の肯定である。私は幾らでも謬見を述べるだろうし、頻繁に視野狭窄にも陥るだろう。だが、そうした愚行を繰り返している自分自身の存在と精神を否認しようとは思わない。恐らく世の中に数多存在する「自信のない人々」は、自分が謬見を述べたり愚行を演じたりするという事実に、感情的若しくは道徳的な嫌悪を禁じ得ない人々なのだ。如何なる誤謬とも罪悪とも無縁でありたいという奇怪な道徳的高潔が、彼らの自尊心を度し難いほどに毀損している。それはキリスト教における「原罪」の観念を想起させる。自分たちは根本的な過ちを犯した存在であり、その罪から逃れることは絶対に出来ないという恐るべき理念が、人々の素朴な自己信頼を破壊するであろうことは眼に見えている。そして怯えた人々は「正しい人生」を手に入れることで、打ち砕かれた自己信頼の再建を目論むのである。それが「異常な廉潔」の温床であることは論を俟たない。

 如何なる邪悪な考えも、それを懐いているという事実を否定することで抹殺され得るものではない。寧ろ、そうした認識の否定は、否定された対象の異様な膨張を齎しかねない。正論に固執する人々は、自分が罪悪によって穢されているという事実に堪えかねて、罪悪を犯す人々を劇しく憎むようになる。だが、本来イエス・キリストは、そのような「異常な廉潔」に対する倫理的な抵抗を企図したのではなかっただろうか。私はキリスト教の歴史に就いて頗る無知な人間だが、姦淫の罪を犯した女に石を投げる人々に向かって「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」(「ヨハネによる福音書」)と言い放ったキリストの精神は、あらゆる「正論」の尋常ならざる暴力性に対する簡明な警告であるように思われる。

「コミュニケーション」に就いて

 現代は「コミュニケーション」という理念が異常に重視され、魔法の言葉として濫用される時代である。多くの人々が「コミュ力」(コミュニケーション力)の多寡を競い合い、自分は「コミュ障」(コミュニケーション障碍)であるという奇怪な卑下を用いて、不可解な予防線を張りたがる時代である。無論、コミュニケーションという事象そのものは太古の昔から私たち人類にとって根源的な機能、或いは習性として存続してきたものであり、決して近来の発明品ではない。然し、これほど頻繁に、極めて卑俗な観念として「コミュニケーション」という言葉が用いられるのは、現代的な事象であると看做して差し支えないのではないだろうか。

 良くも悪くも様々な技術の発達で、世界は随分と狭くなった。特にインターネットの爆発的な普及が、世界の狭隘化に拍車を掛けている。二十四時間、絶えず世界中の人々と何らかの関わりを持つことが可能であるという現実は、たった半世紀前でさえ考えられなかった異様な状況である。そうした通信技術の発達が歯止めを欠いたまま劇しく亢進し、最早人々は全くの純然たる孤独の内側に耽溺することすら許されない。ミラン・クンデラは、フランツ・カフカの文学の特質として「侵害された孤独」という表現を用いていたが、まさしくカフカの偉大なる洞察力は来るべき新世界の本質的な特徴を照らし出していたのだと、大袈裟に称讃してみるべきだろう。実際、私たちの本質的な苦悩の由来は「侵害された孤独」に存するのではないか。インターネットの普及、そして携帯電話の普及が、私たちを或る集団やシステムから切り離し、アトミックな個人としての形成を促した。固定電話から解放された私たちは同時に「家庭」という単位からも解放され、浮遊する自由な個人として生きているが、それは言い換えれば、個人があらゆる「隔壁」を喪失したということである。家族からの解放は確かに一種の「自由」の実現だが、その自由が結果として「剥き出しの個人」を産み落とし、そのナイーブな表面に直截な社会的影響を齎しているというのは、厄介な逆説である。

 剥き出しの個人として定義された私たちは、絶えず他者との「コミュニケーション」の成否に神経を尖らせることを強いられるようになった。家族のように親密な領域においては、例えば「言葉の使い方」や「表情」や「振舞い方」に意識的な洗練を求める必要性は小さい。彼是と冗長な説明を試みずとも、共有された時空(「場所」と「歴史」の共有)の堆積が、つまり親密な「文脈」が総てを事前に定義し、描写し、物語ってくれるからだ。親密な共同体に帰属することが、そのまま生きることの総てであった時代においては、コミュニケーションという観念が殊更に人々の念頭へ浮かび上がる必然性は極めて乏しかっただろう。しかし、アトミックな個人としての実存、そういう現代的実存の宿命に囚われた私たちは最早、そのような共同体の文脈に依存して万事を遺漏なく処理することなど許されないのだ。良くも悪くも私たちは「他人の沙漠」に暮らしているのであり、何も共有し難い相手とも努力して交流を持たねばならない因果な時代を生き延びねばならないのだ。

 だが、コミュニケーションの巧拙に関する種々の議論が、安定した共通の地盤の上に展開されているとは言い難い。コミュニケーションが「他人の沙漠」を生き抜く為の不可欠な手段として認知されている為に、却ってその本質が客観的に理解されていないという懸念が存在しているのだ。多くの人々は「他人と巧く付き合う方法」という次元で「コミュニケーション」を論じているが、それは単なる表層的な処世訓の亜種に過ぎない。本当に大切なことは、つまり「コミュニケーション」の礎石として理解されるべきことは「自己理解」であり、「自己との対話」である。この面倒で地味な過程を軽々しく踏み越えて一挙に「他者」へ迫ろうとする総ての方法論が、下らない蹉跌に苦しむことになるのは自明の理である。自分自身が何者なのか、それを充分に検討することもなく、そもそも「自分の意見」を確かめるという素朴な手続きさえも怠って、他者との表面的な共存共栄の実現に血の滲むような努力を捧げる生き方が、己の精神に及ぼす禍いに就いて、私たちは慎重な分析を惜しんではならない。コミュニケーションの目的は社会的な栄達でも、私利私欲の満足でもなく、この世界に関する真実を捉えることなのだ。愛想笑いや巧みな雑談の技術で、コミュニケーションの「上達」を成し得たと信じる愚かな謬見の懐で、私たちは絶えず悪足掻きを続けている。そうした危険な方針は「自己の喪失」を齎し、結果的に「他者の喪失」を惹起する羽目に陥るだろう。コミュニケーションは常に「真実」と手を繋いでいる。それは時に暴力的な仕方で「他者との訣別」さえも、哀れな私たちに強いるのである。

 

小説の技法 (岩波文庫)

小説の技法 (岩波文庫)

 

 

「悼むこと」に就いて

 余り具体的なことを書くと差し障りがあるので、詳細は省くが、今日、勤め先の店舗の固定電話に、常連の御客様(仮に「Sさん」としておこう)から、私宛てに電話が掛かってきた。

 最近、余り顔を見なかったので一頻り久闊を叙した後に、Sさんは今度の日曜日にオードブルを作ってもらうことは可能かと私に訊ねた。事前に予約してもらえれば、予算や食べる人数に応じて見繕いながら用意出来る旨を伝えると、Sさんは唐突に、母親が「旅に出てしまった」と言った。一瞬、発言の意図を掴みかねた後で、いつも一緒に買い物に来ていた老齢の女性の姿を眼裏に想い描き、母親が亡くなったという意味だと悟った。日曜日に焼き場へ行くので、その都合でオードブルが入用になったという訳だ。母も貴方のことを気に入っていたから、貴方の店で頼めるのならば頼もうかと思ったのだけれどと、Sさんは言った。私は咄嗟に何と答えればいいのか分からず、恥ずかしながら当惑してしまった。

 一通り事務的な遣り取りを終え、向こうが電話を切ろうとする気配を感じたところで、私は受話器に向かってSさんの名前を呼び、自分は不勉強で、こういうときに、どういう言葉を掛けて差し上げればいいのか分からないのですと告げた。するとSさんは穏やかな口調で、こういうときは「御力落としのないように」と言えばいいのよと教えてくれた。私が改めて「Sさま、どうか御力落としのないように」と告げると、Sさんは私の名前を呼び、「ありがとう」と咬み締めるように答えた。

 自分が未熟な人間であるということ、それは例えば、こういう局面での咄嗟の対応に表れるのだろうと、電話を切った後で静かに考えた。帰り道も、何かの拍子に昼間の一件を思い出し、誰かを「悼む」という経験が、或いは不幸に見舞われた人を「慰藉する」という経験が、自分には欠けているのだなと痛感した。

 勿論、身近な誰かを亡くすような経験は、少ない方がいいに決まっている。だが、私の両親も数年経てば七十の坂へ差し掛かるし、今は元気でも何がきっかけで躰を壊したり、堰を切るように三途の川を渡ってしまったりするか、それは誰にも予測し難い話だ。自分自身が齢を重ねていくほどに、知り合いの訃報の数は着実に増えていくだろうし、その度にどうにもならない悲哀と踵を接することになるだろう。私は未だ、自分の親が存在しない世界を経験したことがない。生まれてこの方、一度も親の不在を味わったことがない。考えてみれば、それは少しも当たり前の状態ではないのだ。

 誰かが死ぬということ、それ自体はこの世界では有り触れた出来事で、戦争やテロリズム、事件や事故、病気や老衰など、様々な原因に荒々しく踏み躙られるように、人間の生命は容易く散ってしまう。だが、本来エゴイスティックな存在である人間は(私を筆頭に)遠い他人の死を生々しい事件として感受する力を有していない。けれども、あらゆる「死」には必ず「当事者」が附随しているものであり、そこには深甚な絶望や悲哀が必ず刻み込まれている。

 そうした「死」との付き合い方や「作法」に関する活きた知識も具体的な経験も、今の私には欠けている。それが三十一歳という年齢ゆえの「幸運」の賜物であることは事実だが、何れにせよ、その「幸運」が私の人間的「未熟」の温床であることは否定出来ない。「死」というものと半ば無関係に存在し、生きているという相対的な現実が、私という人間の軽薄な側面を形作る原因として働いている。それを具体的に革めることは出来ない。自ら「死」との関わりを望むのは、倫理的な意味で不健全であるからだ。だが、人間としての成熟を企てるのならば「死」との関わりは何れ、避けて通れぬ道程として私の行く手に立ち開かることになるだろう。

 死者に寄り添うこと、或いは遺族の哀しみを自分のことのように引き受けること、それが人間的な価値の重要な側面であることは論を俟たない。大事な存在を失った人に向けて投げ掛けるべき常套句の一つも弁えないようでは、幾ら馬齢を重ねたところで「餓鬼」のままである。それでは駄目だ、もっと学ばなければならない、もっと成長しなければならない、というのが、今日の私の「気付き」であり、反省点である。

「書評」に就いて

 私は最近、中上健次の分厚い長篇小説「地の果て 至上の時」(新潮文庫)を読んでいる。最初に購入して通勤の往復の電車で読み出し、途中で飽きて投げ出したのが二十代前半の頃だったと曖昧に記憶しているので、それから知らぬ間に随分と月日が過ぎてしまったことになる。

 相変わらず読み辛い、独特の屈折と転換に満ちた文章なのだが、最初に読んだときよりも随分と面白く感じられるのは、年の功という奴だろうか。物凄い筆圧で押し付けるように書かれた、凝縮した文体なので、読み進めるのにやたらと時間が要る。未だ物語の半分にも達していない。

 此処数箇月、もっと熱心に、集中して読書しよう、今まで恐れ戦いて敬遠してきた世界中の古典と呼ばれる書物にも挑んでみよう、確りと読書の時間を確保するように努めようと考えながら、実際にそのように行動してきた訳だが、そうやって日々を暮らすうちに徐々に溜まっていく「澱」のようなものの存在を、不図悟らずにいられない瞬間が、脳裏を掠めるときがある。「澱」と言っても、明瞭にその存在の中身や内訳を自覚している訳ではないのだが、ずっと読書に浸っているうちに少しずつ「現実」の感覚が削れて、麻痺していくように思われるのは、必ずしも気の迷いではないだろうと思う。或いは、ずっと水の中に潜って、日頃とは異なる風景の中に耽溺し続けるうちに、何だか息苦しくなって水面へ顔を突き出したくなるような感覚と、言い換えられるかも知れない。何れにせよ、余り好ましい徴候ではないという気がするのだ。

 こうした漠たる考えに一層鮮やかな輪郭を齎したのは、ショウペンハウエル(ショーペンハウアー)の「読書について」(岩波文庫)を読んだ影響かも知れない。多読を戒め、書くことを整理する前に書き出すことの愚かしさを論難する、ドイツの哲学者の機智に富んだ文章を読みながら、本を読むことに人生の目的を半ば委ねるような生き方が、果たして自分の望む生涯の姿であろうかと、改めて考え直す契機を授かった次第である。読書という営為を「他人の頭に考えてもらうこと」であると定義し、寝ても覚めても書物に齧りつく学者の生活を「精神的不具廃疾」の要因と、攻撃的に断言して憚らないショウペンハウエルの言説は、一から十まで直ちに頷いてよいものか判断に苦しむところだが、その言い分には真摯で清冽なものが含まれている。少なくとも尋常ならざる説得力が隅々に浸透していることは明白である。

 無論、読書の効用を全面的に否定する意思は、現在の私には備わっていないし、ショウペンハウエルも無闇な多読を批判しているだけで、良書を読むことには確実な価値を見出している。少しずつ時間を割いて、仕事や私生活の合間に、中上健次の書き遺した南紀の異様な物語を読み進めていくのは、決して無益な経験ではない。ただ現在の私は、読書感想文だけでこのブログを埋め尽くすことに就いては、懐疑的な考えを持ち始めている。一冊の本を読み、その内容に関して雑多な文章を書き散らすことが、個人的な思索に対する生産性を全く持ち得ないなどと、極論を吐く積りはない。書くことが読むことと切り離し難い、緊密で根源的な関係を有していることは、明白な事実である。けれども、私は専ら本を読むことから、個人的な思索の燃料や養分を汲み上げようとする姿勢が、果たして建設的なものかどうか疑わしく思っている。本当に大事なことは、つまり「生きる」ことの本義は、自分自身の意見を作り上げることであり、その材料として書物に刻み込まれた先人の偉大なる「叡智」の片鱗を流用することは、決して罪悪ではないと思うが、意見を汲み出す「水源」が常に「他人の言葉の凝集された形」であるというのは、幾分、不健全であるようにも思う。ショウペンハウエルの執拗な説教が、そうした疑念を私の胸底に芽生えさせたのであろう。

 そう考え出したら今更、大上段に振り翳した竹刀を振り下ろすように、わざわざ気持ちを入れ替えて「本の虫」になろうと企てるのは随分と滑稽な、或いは窮屈な判断であるように、自分の心が感じ始めたのだ。確かに本を読むことには様々な「愉悦」も「利得」も付帯しているが、だからと言って、その道を専一に歩もうと覚悟を固める義理はない。世の中には凄まじい量の書物を読破して、その感想文を認めている猛者たちが数多く存在しているが、そういう人たちの後塵を拝しているのが癪だ、などと考え始めるのは実に馬鹿げた話であろう。熱心に本を読み続けて、そこから触発された幾つかの「些末な考え」を後生大事に抱き締めて、尤もらしい「書評」のような文章に纏めて公表したところで、一体何になるのだろうか。ショウペンハウエルが「多読」を戒めるのは、それが「再読」や「精読」の障碍として作用してしまうことを懸念した為であろう。実際、一冊の優れた書物から汲み上げることの出来る「思索」の振幅と奥行きは、たった一回分のブログ記事に収まるほど痩せ衰えた、貧弱な代物ではない筈だ。

 このブログには、幾つも「書評」に類する記事を投稿しているが、沢山の書物を読み、それに就いての文章を著そうとする不自然な衝動が、私の下らぬ虚栄心と結び付いていることに、反省の眼差しを向けない訳にはいかない。その証拠に、私は読んだばかりの書物に就いて、その中身の記憶が薄れないうちにと、慌てふためきながらキーボードを乱暴に叩いているのだ。そういう軽薄な営為の堆積の涯に、一体如何なる人間的価値が形成されると言うのだろうか? 本当に大切なことは、自分が心を惹かれた数行の文章の為に、長い時間を費やして己の思索を磨き上げ、深めていくことではないだろうか?

 無論、一冊の書物も読まずに己の考えを深めることは出来ないだろうし、書物から多くの智慧を学び得るという人間の習性は貴重な財産であるには違いない。だが、世の中に蔓延する多くの「書評」が、生きていく上でどれほどの価値を持ち得るのか、疑わしいということも一つの真実ではないかと思う。本を読み、そこから導き出された感想の断片を書き殴る、それだけで私たちが有益な(「実用的である」という意味ではない)思索の体系や秩序に到達することが出来ると信じるのは、幼稚な考えである。一行の文章に「真理」を宿らせる為には、私たち自身の実際の「生活」や「経験」に就いて、充分に思索を練り上げることが肝要である筈だ。人は読む為に生きるのではなく、生きる為に読むのである。ショウペンハウエルが「学者の生活」を嘲笑したのは、彼らが「読む為に生きている」ように見えたからではないだろうか。人間にとっては、生きることが総てであると、確か坂口安吾も書き遺していたではないか。

 

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)