サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

光と影の叙事詩 「ファイナルファンタジーⅦ」 1 「映画的なもの」への志向性

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 世の中には、様々な芸術的ジャンルというものがあります。

 小説、詩歌、映画、演劇、舞踏、音楽、絵画、彫刻、その他、計え上げれば実にキリがありません。これらのジャンルはそれぞれ、独自の歴史的経緯を経て、現在のような様式に到達し、今後も時代や環境の変化に応じて、興隆と衰退を繰り返していくものと考えられます。

 そこには必ず、メディアの変化という現象が関与しています。たとえば小説の隆盛は、活版印刷の発明および発達と切り離すことが出来ませんし、映画という芸術は映写機とスクリーンという技術的達成の上に築かれています。音楽は絶えず楽器の進化と歩調を合わせていますし、録音機器の発明以降、そこで生じた技術的変化が音楽という芸術の性質の変化に影響を及ぼしたことは確実です。

 その中で、比較的歴史の浅いジャンルとして所謂「ビデオゲーム」が挙げられます。これはコンピューターの発達によって成立したジャンルであり、コンピューターの発達とともに質的な変遷を遂げています。

 ゲームを芸術と呼ぶのが適切かどうかという議論は措きましょう。最も気軽な意味で、人間の心に訴えかけるものとして、或いは端的に「娯楽」として、まずは定義しておきたいと思います。どんなに高尚な芸術も、最初は単純な「娯楽」の手段として出発したであろうことを、私は信じるからです。

 ビデオゲームもまた、時代の要請に応じて変化を重ねてきました。その過程で生まれた重要なジャンル内ジャンルとして「RPG」というものがあります。これはロールプレイングゲームの略称であり、もともとはテーブルゲームの一種として考案されたもののコンピューターへの移植の産物です。

 ゲームというのは元来、特定の規則に基づいて勝敗を競い合う遊戯のことですが、それがコンピューターの領域と融合することによって、ゲームという概念は爆発的な膨張と発展を成し遂げてきました。テーブルゲームとしてのRPGには物理的な制約がどうしても加わりますが、コンピューターを使えば、そこに様々な要素を付け加えていくことが可能になります。音楽や映像を付加することも出来ますし、様々なデバイスを用いてプレイヤーの操作性に革命的な変化を刻み込むことも出来ます。

 RPGは何より、「物語」というものの恩恵を滋養として成長してきたジャンルです。本来、「ゲーム」と「ドラマ」との間には何の関係もありませんが、両者を接合することでRPGは発展を遂げ、そこにコンピューターの力が加わることで更なる飛躍が齎された訳です。

 ゲームには必ずプレイヤーがおり、プレイヤーには必ず「ロール」が与えられます。要はゲーム遂行上の「役割」というものです。例えば「ドラゴンクエスト」シリーズにおいては、プレイヤーは「勇者」という役割を割り当てられます(一定の段階へ至るまでは「勇者」としてパブリックに承認されている訳ではありませんが)。その役割に基づいてゲームを進めていく訳ですが、RPGにおいては単なる役割ではなく、何らかの「キャラクター」に扮することが一般的です。「勇者」という記号ではなく、一定のリアリティとオリジナリティを備えた人格として、物語の推移を辿っていくことが、所謂「RPG」における基本的かつ一般的なフォーマットなのです。

 この「キャラクター」に対する考え方が、「ドラゴンクエスト」と「ファイナルファンタジー」においては若干異なるように思われます。「ドラゴンクエスト」のプレイヤーキャラクターは、原則として自ら発語することがなく、あくまでもプレイヤーとの「主観的同一化」に特化した形で描き出されます。

 一方の「ファイナルファンタジー」では、主人公の個性はプレイヤーとの同一化を目的として構成されていません。同シリーズがしばしば「映画的」であると評される一因は、プレイヤーとプレイヤーキャラクターとの明確な「異質性」にあると言えるでしょう。言い換えれば「観客」であることを強いられる訳です。

 「ファイナルファンタジー」シリーズは映画的な臨場感への執着がかなり明確に見られる作品群であり、物語も非常に複雑かつ重厚、映像のクオリティへの熱意も大きく、主題歌を導入するなど、ゲーム性よりもストーリー性を重視しているように見受けられます。もちろん、RPGというジャンルは多かれ少なかれ「ストーリー性」を重視するのが普通ですので、これは「FF」に限った話ではないのですが、それでも「映画的なもの」に対する憧れの強さは図抜けています(それは「テイルズ」シリーズのアニメーション志向とも異質です)。

 もう一つ「FFシリーズ」において重要な特質は「SF志向」です。ドラゴンクエストがあくまでも中世ヨーロッパ風の「剣と魔法の物語」を世界観の基軸に据えるのとは対照的に、恐らくは「FFⅥ」が一つのターニングポイントであったと言い得ると思いますが、早くから「魔法と機械の融合」という世界観を打ち出しており、後には「FFX」において、ヨーロッパからアジアンテイストへのシフトチェンジにも着手しています。

 こうした世界観の多様性、一作ごとにがらりと作風を変えてくるチャレンジングな開発陣の姿勢は、ファイナルファンタジーシリーズに多くの成功と失敗をもたらしてきました。強烈な「ストーリー性志向」はしばしば、壮大過ぎる物語の空転と不可解な結末を生み、強烈な「映像志向」はゲーム性を損なうほどの「ムービー」の導入、ゲーム性と無関係なグラフィックの精度向上へと帰結しました。「SF志向」も行き過ぎれば難解な世界観を作り出すことになり、そういった意味では「ドラゴンクエスト」の古き良きRPG性、その間口の広さと敷居の低さには敵わない部分があります。

 言い換えれば「FF」は「大人のRPG」であることを目指してきたのだと思います。「ドラゴンクエスト」があくまでも「少年少女のための物語」であるとするなら、「ファイナルファンタジー」は「青年のための物語」です。グラフィックの面でも、DQはアニメ的な「デフォルメ」を貫くのに対し、FFは映画的な「リアリズム」を追求しています。

 さてさて、本題に入る前に随分な字数となってしまいました。続きはまた今度。

 以上、サラダ坊主でした!