サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

詩歌の断片性(「意味」と「無意味」の拮抗)

 どうもこんにちは、サラダ坊主です。

 突然ですが、皆さんは所謂「詩歌」というものを読んだり書いたりしたことはありますか?

 国語の授業で作らされたという方もいらっしゃるでしょうし、趣味として短歌や俳句を作って結社などで見せ合ったり、ネット上で交流したり、新聞や雑誌に投稿したりしているという方も少なくないでしょう。

 私も何度か詩のようなものを書いたことがありますが、詩の正しい定義や作法などは分かりません。ただ、見様見真似で書いただけですが、詩に限らず、芸術というのは何でも他人の作品の無作為な模倣から始まるものですから、教科書で学んでいないからそれは「詩」ではないと決めつけられる筋合もないと思いますので、自由に考えてみます。

 詩歌の最大の特徴は、それが「言葉の倹約」によって成り立っているということではないかと思います。「世界で最も短い文学」と称される俳句を鑑みれば明らかですが、詩歌というジャンルは描き出す対象や訴えようとする事柄の総てを、微に入り細を穿ち説明し尽くそうとはしません。それは言葉を用いた芸術でありながら、「語らないことの効果」や「沈黙による伝達」といった非言語的な表現性を備えています。時に詩歌の「音楽性」が取り沙汰されるのは、詩歌が本来内包している「非言語性」の反映ではないかと思います。

 総てを言葉によって表そうとする偏執的な野心はもとより「散文」の特質です。しかし散文は、それが何もかもを語り尽くそうとする誠実な野心によって、詩歌の有する独特の「ポエジー」を失います。無論、ポエジーを有することが優れた文章表現の条件という訳ではありません。ですが、古典的な日本文学などでは、このような「ポエジー」への執着こそ文学の本質として受け止められていたように思います。この「ポエジー」という曖昧模糊とした何か、詩歌を書いたり読んだりする営みの中で言語を通じて定着される不思議な「感興」の正体は、いったい何なのでしょうか。

 恐らくそれは「言葉にならないもの」であると思います。言い換えれば、容易には言葉にしがたい「何か」を表す為に、散文は「言葉」の質量を増殖させることで、詩歌は「言葉」の量を減らして沈黙の分量を増やすことで、目的を遂げようとしているのではないかと考えられるのです。詩歌固有のポエジーは、このような目的の下に、いわば鋳型のような形式で言葉を組み立てます。言葉にしがたいものの周辺に、それを指し示す微弱なシグナルのような言葉を並べることで、間接的に「それ」を表示しようとするのです。

 散文は寧ろ饒舌に言葉を並べ、増やし、組み合わせることで、もっと直截に「それ」を表示しようとします。そのときに失われる沈黙の神秘性が、散文から「ポエジー」を奪い去るのでしょう。優れた散文を読むことを通じて感受される「快楽」は、詩歌の「音楽性」とは根本的に異質です。「詩歌」は非言語的な「感受性」の領域に読者の魂を拉致しますが、「散文」はあくまでも読者の言語的な領野への架橋を目指し、理知的な領域へアクセスすることを企図しているのです。

 詩歌には分かち書きが必要だとか、詩歌は韻を踏むことで散文と区別されるという言い方は実に蒙昧であり、それは物事の表層だけを見凝めている浅薄な読者の便宜的な仕分けに過ぎません。本来、詩歌が分かち書きによって表現されたり、韻を踏んだりするのは「散文的なシンタックス」を免かれて、非言語的な領野へ抜け出る為のものです。それは理屈っぽさを忌み嫌います。詩歌には「説明責任」というものが求められません。散文的な思考の持ち主に、詩歌が無愛想で閉鎖的な言葉の「不可解な戯れ」に見えるのは、そこに「理屈っぽいものへの敵対」が常に備わっているからでしょう。

 詩歌の「断片性」は散文的な「連続性」を断ち切り、言語による支配を免かれる為の企みであるということが本稿の結論です。しかし、それって不思議な自家撞着ですね。言葉によって言葉を破壊しようなんて、余りに息苦しい営為のように感じられます。恐らく、詩人の眼には、言葉は「意味を伝える為の信号」のようには映っていないのでしょう。彼らは「言語」さえも非言語的な芸術の領域に所属させようとするのです。いわば、言語の「芸術化」ということですね。だとしたら、小説は何に属するのか。もちろん、詩のような小説があっても一向に構いませんが、本来的に小説は「具体的な何かを語る為のもの」です。

 こう考えてくると、詩歌と対比されるべきは「散文」ではなく「物語」ということになるのでしょう。詩歌が「意味」を免かれようとするとしたら、「物語」は常に「意味」へ向かって結実しようとする総体的な運動性を孕んでいますから。だから、「詩歌」はどこで終わっても構わないのに、「物語」にはきちんとした「ラストシーン」が求められるのです。

 例のごとく纏まりのない話になりました。午下がりの船橋サラダ坊主でした!