サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「夏と女とチェリーの私と」 9

 思わず振り上げた拳を間抜けな顔で眺める長谷川の腑抜けじみた態度が猶更、気に食わなかった。己の犯した罪悪の重大さを少しも理解していない愚か者の醜さが、そのときの長谷川の総身から放射能の如く濫れ出ていた。そのことが、消え残った私の薄弱な理性に更なる負荷を課し、躊躇いを衝動の領分へ捻じ曲げて押し流した。私は私の苛立ちに怯える余裕さえ持たなかったし、本当に邪悪なものが何なのかを悟ろうと意識することさえ無意識に避けていた。暴力的なものの気配が濃密に立ち現れて、私たちの他には暇を持て余して特別な用事もない酒好きの無骨な老爺がいるだけの静かで閑寂な居酒屋の空間を、瞬く間に席捲してしまった。喉の奥が火焙りに処されたかのように荒々しく燃え立ち、胃袋が踏み潰された水風船のように頼りなく歪み、草薙紗環子という不幸な女性の過ぎ去った日々の面影が眼裏で明滅した。私は深く強く怒り、凍えるような吐息を規則的に垂れ流していた。振り上げた拳を、実際に振り下ろすまでの束の間の逡巡だけが、私にとっては生々しい記憶の映像であった。そして硬く握り締めた右の拳が虚空を引き裂いて長谷川の脂ぎった頬へ食い込み、派手な音が鳴って安物の御猪口が床の上で爆ぜた瞬間、それまで俎板と見凝め合う以外に何の人間的な関心も示そうとしなかったカウンターの向こうの店主の顔が、茫然と歪められて私の野蛮な行動に視線を捻じ込んだ。
「てめえ、何しやがる」
 予想外の攻撃に驚いた長谷川の心情の揺らぎが、そのまま直截に声となって私の鼓膜へ届いた。鼓膜の顫えはそのまま幾分か私の眠ってしまった理性に対する覚醒剤の役目を担ったが、それだけでは量が足りず、走り騒ぎ始めた私の内的な夜叉を押し留めるには至らなかった。野蛮なものが腸を煮沸しているのが、露骨な実感として迫り上がってくる。何か具体的な言葉を発して罵ろうと思ったが、どんな弁明も必要としない私の野蛮な正義は、尤もらしい罵詈雑言を捻り出すことに対して消極的であった。理論立てて誰かを罵倒するのは下品な振舞いで、それは正義の崇高な側面を忽ち致命的な仕方で毀損してしまうだろう。正義の崇高な側面? いや、そんな言い方自体がそもそも下劣で驕慢に過ぎる。私は唯、純粋に主観的な不快の劇しさの中で相手を悶えさせようと蹶起しただけだ。殴られた長谷川の惨めな狼狽と、それらの一連の光景を凝視し続ける柏木、店主、老爺の沈黙が、とても沈黙とは思えないほどの騒々しさで折り重なり、警笛のように互いに響き合っていた。
 その無言の警笛を確かに両方の鼓膜で受け止めながら、それを黙殺しても一向に差し支えないという不遜な自信が、そのときの私の胸底には威風堂々と漲っていた。何も恥じることはない、何故なら私の憤怒には正当な根拠があり、長谷川の犯した罪には淫猥と不道徳の二つの陰翳が明白に刻み込まれているからだ。彼女が不幸な事故に襲われて顔を負傷し、決して癒えることのない失明という被害を残酷な署名のように書き記されてしまった背景には確実に、長谷川の穢れた選択と判断が関わっていた。だが、一体何故、そんな奇怪な成り行きに二人の関係が行き着いてしまったのだろうか。汚らわしいという言葉以外に修飾の手段さえも思い浮かばない彼らの背徳的な癒着は、何故この世界に形作られ、産み落とされたのか。
 然し、疑問は疑問として成熟する時間を与えられぬまま、激高した私は徐々に殴られたことへの屈辱を募らせて険相を露わにし始めた長谷川を眼差しで圧することに、持てる力の過半を費やした。迫り上がる憎悪が、私の勇気を支えるたった一つの強力な根拠であった。
「あんたは、あの人とやったのか」
「何を興奮してやがるんだ、青二才」
 当惑を忍ばせた瞳に精一杯の敵意と悪意を溜め込んで、長谷川は邪悪な形に唇を歪めた。
「質問に答えろ」
「やったさ。何か文句でもあるのか」
「あんたにとっちゃ、年の離れた部下だろう。娘みたいなもんだろう」
「だったら、やっちゃいけねえとでも言うのかよ」
 野獣が腹を空かせて唸るように、長谷川は黄ばんだ前歯を剥き出して私の糾弾を無遠慮にせせら笑った。その侮辱的な調子が密かに傷つけられ損なわれていた私の霊魂に著しく不快な擦過傷を走らせた。息が詰まるような苛立ちと嫌悪、磨き上げられたナイフのような澄明な敵意、それらが一挙に連なり繋がり合って私の存在を、その内側から抉るように突き上げた。何もかもうんざりだと思わずにいられなかった。どいつもこいつも、自由に遊び呆けてやがるんだ。
「お前」
 乱れたワイシャツの襟許を掴んだ瞬間に、生温かい人間の肉体の手触りが指に伝わった。こいつは生きている、そう改めて痛感しながら、私は自分が何に対して猛り狂っているのか、その明確な答えを途端に見失いかけた。何に劇しく苛立ち、長谷川の醜悪さの如何なる側面に濁った唾を吐き掛けようとしているのか、咄嗟に分からなくなった。私は草薙紗環子という一人の不幸な女性にとって何物でもない。そのことは、実際に病院へ見舞いに訪れたときの彼女の冷淡な反応を思い返せば明瞭だ。彼女は私の見舞いを少しも有難がっていなかったし、寧ろ私に対する彼女の攻撃的な心情は剥き出しにされていた。その過剰な、或いは異常とも呼び得る攻撃性の源は奈辺にあったのか? 彼女の不幸な事故を慮り、心配し、その窮状を忖度した積りで駆け付けた私の浅ましい下心を、鋭利な直観によって見抜いていたのだろうか? だが、別の角度から問題の核心を捉えることも出来た。長谷川との忌まわしい情事によって、あの悲惨な災害が齎されたのだと、後ろ暗さから考え付いたのではないか、という仮説が、俄かに私の脳髄を領した。それは猶更、長谷川に対する私の残酷な心情を高ぶらせ、粗野な欲望を膨張させるような着想、或いは発見であった。
 冷静に考えてみよう。紗環子先輩には年齢的にも立場的にも申し分のない恋人がいて、男は彼女のことを確かな約定はないものの、許嫁のように捉えていたに違いない。あの素敵な笑顔と柔軟な知性に一旦魅せられた以上、他の女を将来の伴侶候補に計え上げようという気分にはなれないに決まっている。その紗環子先輩は、実際には予備校の穢れた上役と密かに情事の時間を持っていた。それは甘美な妄想の立ち入る余地がないほどに悪夢じみた、唾棄すべき事実である。その唾棄すべき領域に彼女が足を踏み入れた理由は定かではないが、何らかの事情に引き摺られ、禁断の扉を押し開いたことは疑いようのない事実である。その意味では、悪事を犯したのはあの汚らしい雲脂に塗れた教師の側だけではなく、二人の間の奇怪な合意が諸悪の根源であったということになる。ならば、因果応報の摂理は矢張り釈迦如来が寂滅して千年以上の月日が流れ去った今でも私たち人類の日常に等しく降り注いでいるということなのだろうか?
 そうやって考え始めた途端に猛烈な意気阻喪が私の胸倉を掴んで、心臓を抉り取るように押し寄せて来た。その抗い難い気力の喪失は、それまで私が無邪気に信じ込んでいた私憤の正当性を薄れさせ、混濁させてしまった。一体、俺は何に腹を立てているのだろう? 要するに悔しいだけじゃないか、自分の男性的な魅力があの薄汚れた中年男にすら及ばないという悲劇的な現実に打ちのめされ、固より脆弱な矜持を一層腐蝕させているに過ぎないじゃないか。私は疲れ果てた労働者の風貌で椅子に腰を落とし、唖然として私の薄暗い横顔を見凝め続ける柏木の暗愚な眼差しを鬱陶しく思いながら、眼前の酒杯に痩せた指先を這わせた。
「お前は、あの女のことが好きだったのか」
 長い沈黙を潜り抜けた後で、雨垂れのような声で長谷川が問い掛けてきた。それは紛れもなく図星の見解であったが、消え残ったプライドに喉笛を堰き止められたように、私は一言も答えられなかった。今更、惨めな矜りを奮い立たせ、唯でさえ傷つき易い己の心情に過保護な態度を貫こうとしても無益だと、理窟では心得ていたのだが、愚かな自意識は飽く迄も長谷川に対する虚栄心を保とうと努力し続けた。この男に俺は遣る瀬ない敗北を喫したのだ、この男は女に対する後ろめたさを、罪責の感情を懐ける程度には、男としての性的な成熟を遂げているのだ、という悲鳴のような認識が、脳幹の辺りを早鐘の如く乱暴に叩き続けた。
「だとしたら、悪いことをしたな。お前を呑みに誘うべきじゃなかった」
「別に、構わないさ」
 精一杯の強がり、見苦しいだけの虚勢が、そのときの私の存在の総てであった。何を言っても、この男が紗環子先輩と束の間の契りを結び、閨を共にしたことは動かし難い真実なのだ。その真実の光の前では、熟し過ぎて黒ずみ始めた櫻桃の私など、何の役にも立たない憐れむべき木偶に過ぎない。青梅のような瑞々しさを失いつつある、私の童貞というマイナスの属性。紗環子先輩は、この垢抜けない後輩が童貞であり、女の肌に触れる術さえ弁えない地蔵菩薩のようなロクデナシであることを御存知であろうか。女の鋭利な第六感で森羅万象を見通しておられるのだろうか。たとえ片目の光を失おうとも、観音菩薩の如き巨大な智慧の働きが曇ることなど有り得ない。彼女はその性来の優れた直観の力によって、チェリーボーイの見え透いた下心を密かに病室のベッドの上で嘲笑っておられるだろう。そう考えると、俄かに魂が竦むような気がした。
「だが、もうあの女は終わりだな。俺はもう、この街にはいたくない」
 身勝手な言い分を恥じらいもせずに口に出しながら、長谷川は芋焼酎の水割りを注文して、莨に火を点けた。大人の男だけに許された幸福な余裕というものだろうか。見た目は人並み以上の経年劣化を遂げていたとしても、成熟した雄の肉体からは何かしら名状し難い魅惑の成分のようなものが滲んでいるのかも知れず、それは男の肉体に惹きつけられる習慣を持たない私の曇った五感では嗅ぎ取れないオーラのようなものなのだろう。