サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「夏と女とチェリーの私と」 6

「足首を捻挫したって聞きました。肋骨にも罅が入ったと」
「それは大して重要な問題じゃないわ」
 怖々と切り出した私の言葉に向けられた先輩の突き放すような態度は、私の当惑と混乱を益々募らせた。重要な問題ではないと態々断る背景に、重要な問題は別個に存在するという含意が伴われていることは、既に明白な事実であった。彼女の繃帯に就いて問い訊ねることは紛れもなく危険な博打であったし、私は盆暗を自覚する腰抜けであったから、その危険な境界線を跨ぎ越すことへの覚悟は一向に生まれてこなかった。
「眼が潰れたのよ、あたし」
 重苦しい宣告のような、その簡潔な告白が、時の流れを堰き止めたように感じられた。普段の穏やかで可憐な紗環子先輩の雰囲気は欠片も残っていない。極めて静謐に、然し世界に対する純然たる悪意の塊のような口調で、彼女は私に特別な真実を語って聞かせようとしていた。
「本当は誰にも知られたくないの。だけど、見ちゃったんだから、仕方ないわ」
 冷ややかな陰気さが、薄い水色の病衣を纏った彼女の総身から、じわじわと治りの悪い傷口のように滲出を続けていた。どうやって、その噎せ返るような禍々しい気配に抗えばいいのかも分からぬまま、私は凍りついた背筋を伸ばし切って、彼女の繃帯に覆われた陰惨な姿を凝視した。
「ねえ、どういう気持ちだと思う?」
 何もかも奪われてしまったような絶望の滴が、彼女の掠れた声に朝露のように細かく列なってくっついていた。何もかも、そうだ、彼女の見える世界は半分に削り取られ、何より、その容貌には深刻な傷痕が穿たれているだろう。地獄の扉が開き、黒々とした焔が蛇のように捩れながら踊っている風景が、脳裡を占めた。咄嗟に安部公房の「他人の顔」という小説のことが、海馬の泥濘から引き摺り出されるように無意識から意識へ通じる階段を駆け上がった。大学の図書館で数ページ読んだだけで投げ出してしまったが、確か顔にケロイドを負ってしまった男が、精巧な仮面を纏う話ではなかったか。無論、そんな連想をこの場で迂闊に口に出す訳にはいかなかった。そもそも、雑談に興じることが出来るような空気ではなく、私は勝手な思い込みに衝き動かされるように病院へ駆け付けた自分の愚かさを、無言で呪うことしか出来なかった。
「分かりません」
「分からないでしょうね。だったら、何故来たの」
 声変わりした鴉のように邪悪な声音が聞こえた。紗環子先輩の生き残った隻眼は、無力な私を甚振るように見咎めていた。そこまで自分が責められる理由が分からず、当惑は既に煮詰められた恐懼へと相転移していた。何故来たの。考えてみれば、それは浅ましい下心に操られ、馬鹿げた劣情を滾らせたことの結果に過ぎない。何故来たの。私は貴方の美しい顔を眺めて、怪我を負って弱っていると聞いた貴方の精神の隙間に潜り込もうとして、卑しい感情を高ぶらせて、仕事さえ碌に身も入れずに慌てて馳せ参じたに過ぎない。振り返ってみれば、そのような自分の情念の蠢きが呪わしく、忌まわしかった。一体、どういう可能性を愚かにも信じ込んでいたのだろう。此れが要するに、童貞の限界なのだ。人と深く触れ合い、背負い切れぬものを溜息交じりに分かち合い、そうして深く御互いの存在の泥濘まで錨に掴まって降りていく、そういう甘美な紐帯の世界へ踏み込むことの許されない、哀れな私の宿命なのだ。
 いや、それは哀れさだろうか? 私は情け無いだけで、つまりは単純に惨めで無様なだけで、顔に怪我を負い、片目の光を永久に失った不幸な女性の上辺だけの幻影に、蝶のように舞い踊っていただけだ。彼女の不幸は、私にとっては未知の世界へ通じる扉を押し開く為の得難い「鍵」であると思われていた。過完熟チェリーの袋小路に追い込まれた己の腐臭漂う孤独から、その夥しい寂寥から逃れる為に縋りついた、一つの貴重なチャンスだった。童貞であり、女性との間にsteadyな関係を築き上げる力も資格も持たない私にとって、彼女や、その社会人の彼氏が暮らす世界は、殿上人の宮殿にも似ていた。それは私の醜い指先が断じて届くことのない、切り離された高度な領域であり、或る意味では「宇宙」にも等しい特異な時空であった。私が懸命に爪先立って、その果てしない高みへ身を乗り出して、その世界で営まれる種々の崇高な幸福の有様を、詳さに確かめようと試みたとしても、十中八九、そんな目論見は彼らの硬い靴底に踏み躙られてしまう。此処はお前の為に創られた場所ではないという呪いと忿怒に満ちた声が、私の唯でさえ塵のような勇気を根こそぎ吹き飛ばしてしまう。けれど、彼らが持ち前の「気高さ」と「逞しさ」を投げ捨てて、ピアニッシモの領野へ舞い降りてくる瞬間というものがある。それが私にとっては、紗環子先輩の巻き込まれたバイク事故であり、彼女が不幸にも担ぎ込まれた平板な病室の清潔な匂いなのだ。弱っている彼女、傷ついた彼女、本来的な輝きと栄誉を束の間衰えさせてしまった彼女の姿は、私との距離を奇蹟的に縮めたように思われるのだった。たとえ、それが愚かな錯覚であったとしても、愚かさには愚かさに固有の哲理というものが備わっているのだから、批判したって仕方ない。
 そうやって頭の中で言い訳を重ねるうちにも、先輩の消え残った隻眼に宿る冷たい光は、刻々とその強い艶を増していくように感じられた。貴方は何故来たの、その突き詰めるような問い掛けに、私は卑怯にも、誠実に答えようと努力しなかった。その卑しさが見透かされていることを、まるで片目を失ったことが却って見えないものを正しく精密に見通す力を彼女に与えてしまったかのように、彼女がそれを生々しい実感として捉えていることを、病室の貧しいパイプ椅子に腰掛けた私は、悟らずにはいられなかった。
「誰にも来て欲しくなかったの。帰ってくれる?」
 罪状を告発するような、抑制された怒りを滲ませる口調で、立ち竦み口籠る私に向かって、先輩は最後通牒を突き付けた。そうなれば、双手を挙げて降参する以外に取るべき途はない。私は徐に立ち上がり、悔しさを咬み殺して、最後に何か気の利いた科白の一つでも遺して去らなければ、本当に単なる敗残で終わってしまうと焦った。だが、その焦りこそ、まさしく過完熟チェリーに相応しい精神的な脆さの反映であった。私は立ち上がったまま、彼女の高潔な怒りに対して事実上、奴隷のように膝を屈していた。焦ったところで、しくじった後に慌ててその巨大なマイナスを清算しようと試みたところで、事態が綺麗さっぱり反対の方向へ逆転することなど有り得ない。それを知らない訳ではなかったし、心の奥底では確かに気付いてさえいたのだが、それでも精神の身勝手な奔流に逆らって有効な制御を行き届かせるのは困難な取り組みであった。私は度し難い愚かさの泥濘に沈み込んで、今にも窒息しかねないほどの狭隘な空間に堂々と閉じ込められていたのであった。
 病院を出て、空を見上げる頃には早くも西日は消えかかっていた。無駄な一日が又も終わろうとしている、という砂を咬むような感慨が胸郭の内側に殷々と残響していた。302号室の窓がどれなのか、見捨てられたような気分で立ち竦む往来の舗道から確かめるのも億劫なほどに、私の無様な個人的憔悴は深かった。緑色の車体のタクシーが、迎車のランプを燈して、立ち尽くす私の傍らを火箭の如く鮮やかに走り抜けていった。一体、何をする為に、慌てふためいて此処まで辿り着いたのだろうという尤もな疑問が脳裡を突き上げ、惨めな気分を一層強めた。繃帯を顔に巻き付けて、日頃の明るい微笑を跡形もなく吹き消してしまった紗環子先輩の風貌はまるで別人のようで、そこに過去の痕跡を読み取るのは不可能に近かった。彼女は決定的な負傷によって異界の扉を押し開けてしまったように見える。それは不幸な事故などという紋切り型の形容では到底間に合わない深淵の始まりに思われた。此れから、彼女はどうやって生きていくのか? 余計な御世話だとは心得ていても、そのような問いが頭の片隅で明滅するのを抑えようもなかった。
 家に帰る気にはなれなかった。がらんとした独り暮らしのアパートへ舞い戻れば、却って掻き立てられた思念が私の脳髄に幾つも野太い五寸釘を打ち込んで手酷く苦しめるに違いない。繃帯の白い陰翳が眼裏へ油のように染み込み、拭っても拭っても消えてくれない。私はどうすればよいのか? 何もかも失われた追憶として遠ざけ、闇の懐へ投げ込んで素知らぬ顔を決め込んでいればよいのか? それは確かに一つの安楽な途であるに違いない。だが、そうやって割り切れるという確信は遂に持てなかった。ふらふらと歩いて、私は京都駅の北側まで半ば無意識に流れ着き、スターバックスの近くの喫煙所で濛々と莨を吹かした。遣る瀬ない感情が渦を巻き、浮かび上がる言葉を次々に銜え込んで枯れさせた。浮かび上がる言葉、それらは無責任な思索の残骸に過ぎなかった。どんな言葉も分析も、容易く空回りを始めるに違いないという確信だけが、私にとっては信頼に値する確実な認識であった。あの繃帯の裏側に隠された絶対的な傷痍の意味を、誰が使い慣れた言葉で暴けるというのだろうか。あの白い薄い布の向こうに滲む濃密な血の凝縮を、この肉眼に映すのは恐ろしい犯罪であるように感じられた。
 それでも勇気を振り絞って莨火を揉み消した私の靴は、先輩がバイクに撥ねられたという辺りへ動いていった。半ば導かれるようにスターバックスの正面へ出てみたが、烏丸通の見飽きた喧噪には普段と異質な部分が一つも見当たらず、日暮れを過ぎても蒸し暑い盆地の熱気は未だ冷めていなかった。そこには特殊な事故の残り香が一片も澱んでおらず、賑やかな雰囲気に呑まれて直ぐに総てが踏み均されてしまうように思えた。その残酷な日常性に異議を唱えるのは僭越な振舞いだ。私は黙って黄昏の風を浴び、群青色の空を仰ぎ、消えてしまった痕跡の欠片を見失い続けた。繃帯の幻影は、そのときも確かに私の網膜を、二つともマグネシウムで焼いたように目映さの懐へ叩き込み続けていた。