サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「夏と女とチェリーの私と」 10

 長谷川が退職してから、予備校の内部では知らぬ間に水道管の継ぎ目が地中深くで不意に破れるように、何処からか紗環子先輩との後ろ暗い噂が無数の背鰭や尾鰭を伴って流れるようになった。それなりに年齢の進んだ冴えない男が俄かに職業を鞍替えするのは、世間の常識に照らしてみても確かに不自然な話であったし、況してや私や柏木の勤める予備校は手狭な所帯であるから、長谷川の退職は充分に大きな事件として受け止められたのだ。そこから種々の揣摩臆測が盛大に紡ぎ出され始めるのも止むを得ない成り行きであろう。誰だって退屈な日常に一服の莨のような刺激、即ち醜聞を欲するものだと、私は一端の大人にでも成り上がった積りで密かに結論付けたが、内心は決して穏やかではなかった。良くも悪くも、紗環子先輩の身を襲った度外れの災害(それは確かに人生における災害と呼ぶほかない)に対する複雑な感慨を禁じ得なかったからだ。彼女は余りにも不幸であった。汚らわしい中年の男(そのように断言し得るのは私が若く、穢れようにも穢れる術を持たない腐りかけのチェリーボーイであったからだが)とつまらぬ情事を営んだ為に周囲の同情を掠れさせ、剰え交通事故によって失明し、美しい顔面に深刻な傷痍を帯びてしまった彼女の人生の急展開は、彼女に一方ならぬ憧憬を懐いていた私の精神にとっては他人事ではなかった。それは黒々とした運命の墜落であり、絶望と憎悪の交響曲であり、端的に言って哀れな末路であった。一命を取り留めた先輩が、あの煉獄のように近寄り難い病室のベッドからどのようにして脱却し、失われた光の埋め合わせの為に数多の困難な努力を試み、軈て新しい世界の方角へ靴紐を結び直して出立し得るのか、その厖大な積み重ねを想像するだけで、私は堪え難い妄想的な嘔気に囚われた。此れから彼女の人生には一片の希望もない。彼女が此れまで積み上げ、築き上げてきた、それなりに祝福に値する生涯の成績は粉微塵に打ち砕かれ、何の意味も持たない無言の残骸へ堕落してしまった。もう、彼女には、その掌にはどんな輝きも握られていない。
 二十一の誕生日を迎えたのを契機に、最早然したる未練も覚えなくなっていた予備校の職業を辞することにした。いや、辞するなどと大袈裟な言い回しを用いるのは単なる下っ端の使い走りに過ぎない私の分際では僭越であり、糞生意気というものだろう。先輩の一件以来、私はそれまで切実に抱き締め、熟成させてきたセックスへの憧れを衰微させていた。一見美しく華やかに見える女性も、その着飾った清潔な表面の裏側には底知れぬ煉獄を湿っぽく閃かせ、滾らせているものなのだと悟ったからである。いや、単純に精神を圧し折られ、男根を殴りつけられたのだとも言い得る。チェリーのまま、私は半永久的な戦闘不能の状態に陥り、身動きすら取れなくなった。老成の実際の空虚、それは私にとって永遠の監獄であった。そこから逃れようにも、汚濁に満ちた世界の醜さは噎せ返るほど堪え難い。使用される前から萎えてしまった私の股間の小人、或いは千切れかかったゴムホースは、御役御免の宿命の中でひっそりと齢を重ね、寿命の尽きた陰毛を幾度も家のフローリングへ枯葉のように舞い散らせ続けるのだろう。
 予備校を辞し、学業も投げ出した宙吊りの私は、長谷川の弛んだ臀部を追い掛ける訳でもあるまいが、実家のある金沢へ帰還することに決めた。柏木を筆頭に、束の間の大学生活で知り合った友人たちがささやかな送宴をチェーン展開している安めの居酒屋で開いてくれて、私は自分の躰が不可解にも透き通っていくような、今まで経験したことのない虚脱を味わっていた。薄弱なアルコールの中に、自分の魂の片鱗が溶け込んでいくような感覚さえあった。私は私の青春を卒えようとしている。無論、青春などというものが実際にこの私の躰の内側に存在したのだとしたら、という仮定付きだが。
 私が講師を辞めるときは、随分迷った。何故、辞めなければならないのか。私は京都にいる間に手頃な女の股座を押し開いて、童貞を捨てようと思ったのだが、それは「愉楽」というものへの憧れ、その甘美で大人めいた成熟の境地に対する漠然とした憧れであった。講師という生活を続けて、そのチャンスを狙い続けることも出来た筈だ。紗環子先輩が不幸の泥濘に嵌まり込んで手を握ることさえ出来なくなったとしても、それだけで彼女の魅力を否定する必要はない筈だ。私はそう思ったので、愉楽への憧れなどと言うけれども、結局は己の面子を重んじる矮小な名誉慾というものが邪魔をして、私はそういう自分の臆病さを嘆いたものであった。私は一向希望に燃えていなかった。私の憧れは「童貞を捨てる」という形態の上にあったので、そして内心は童貞を捨てることが不安であり、誰しも経験する成熟の階梯を辿っていない自覚と不安、悔恨と絶望を既に感じ続けていたのである。
 京都駅から北陸地方へ向かう特急列車に乗り込んで発車のベルを待ちながら、私は黙って混み合うホームの雑多な観光客の群れをサバンナの動物でも眺めるように漫然と見凝めていた。私という人間は、此れで一旦打ち切りだ。脱け殻になった躰を引き摺って、敗軍の将のような心で、私は北へ落ち延びる。もう直ぐ夏が遣ってくる。金沢の市街地は、嘸かし酷暑であろう。