サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 三 商館長モラドール氏の不吉な呼び出し

 コスター商会の本店で三年間、書記官として書類仕事の基礎中の基礎、初歩中の初歩から学び抜いた私は軈て能力を認められ、スファーナレア州の州都ジャルーアの支店への転属を命じられた。鷲鼻の商館長から部屋に呼ばれて、異動の内容を告げられた瞬間の私の心臓の爆発的な高鳴りを、誰かに生々しい実感として理解してもらうのは困難であるかも知れない。既に述べた通り、幼少期の私は腰の軽い精悍なトラダック伯父さんから幾度も、アリヤール河の河口に位置する繁華な港町ジャルーアの壮麗で興味深い噂話を、二つの耳の穴に注ぎ込まれて育ったのだ。商館員という、故郷の父親からすれば「堅気とは言えねえ」商売に進んだのも、元を糺せばトラダック伯父さんの彩り豊かな土産話が発端であったとも言い得るのだ。
 コスター商会のジャルーア商館の厳めしい建物の威容を前に、旅行用の行李を携えた十五年前の私は胴震いのようなものを感じていた。ユジェットの本店で耳にした、ジャルーアの商館長モラドール氏に関する様々な風聞は否応なしに、孤独な旅路の寂寥に蝕まれた私の精神へ緊張を強いた。そもそも、港町という風土自体が私という個人の辞書には登録されていないものであって、新鮮な刺激は感動的な歓びを齎すと共に、疲弊の原因にもなっていた。
 思い返せば早いもので、それから十五年間の月日が流れたのだ。そしてバレマン暦三六五年五月三日、今から概ね六年前の爽快に晴れ渡った初夏の或る昼休みの時間に、商館長のモラドール氏から前触れのない呼び出しを受けたとき、実に不吉な予感を胸の内に滾らせて、私は館長室の艶やかな黒檀の扉を躊躇いがちに押し開けたのであった。
 ユジェット時代に聞かされた話では、モラドール氏は四十代半ばの肥満した男性で、豊かな口髭には早くも白いものが混じり始めており、温厚な物腰だが非常な大食漢且つ呑んだくれで、仕事に対しては細かいところまで眼を光らせる厳格な管理者であるとのことだった。余り饒舌な性格ではなく、無言のうちに鋭い知性を馬車馬の如く虐使して、部下たちの業務上の様々な欠陥を発見する手練。直接、何かを言ってくることはないが、眼を着けた部下の上司に迂遠な言い方で彼是と注意を与える。書記官であれば、帳簿の計算の間違いや伝票の処理の手順に対する不満、もっと細かいことを言えばインクの滲みや掠れ、判子の印影の僅かな滲みや揺らぎさえも見逃さず、遠回しに文句を言ってくるとのことで、悪しざまに罵られない分、却って商館員たちは戦々恐々たる態度で仕事に臨まねばならないらしかった。
 ラーヘル商会の新米時代にローソク商館長(無論、彼にも「カルラド・ヘイネンス」という立派な姓名が備わっていることは附言しておかねばなるまい)から、雷撃のような叱声を四六時中浴びせられても落ち込まず、涼しい顔で陽気に下積みの苦労に堪えていた私にとって、怒鳴られたり罵られたり嘲られたりということは然程苦になることでもなかった。然し日頃は黙って温厚な顔つきで仕事に励み、商館の事務室や廊下を歩き回っている巨体のモラドール氏から、実に迂遠な経路を辿って届けられる指摘の細かさには流石に辟易せざるを得なかった。
 さて、黒檀の扉を押し開けて怖々(おずおず)と館長室へ足を踏み入れた私の視線の先で、懸案の商館長閣下は脂ぎった肉牛のような巨体を高価な革張りの椅子へ埋めたまま、窓の景色を眺めて葉巻を吹かしておられた。仮面を張りつけたような顔つきからは、彼の本音を巧く引っ張り出すのは難しい。黙って微笑とも言えないほど微かな微笑を浮かべて部下や取引先に接するのが彼の習性であり、従って一応は寡黙で温厚な紳士という印象を受けるのだが、肚の底では何を企んでいるか知れたものではないというのが商館員たちの間で広く共有されている評判であった。
「そこに掛けたまえ、ルヘラン君」
 古株の多い商会の中では相変わらず下っ端の部類に属する私は普段、上司からも同僚からも「パドマ」と名前で呼び捨てられることに慣れていたので、改まって一番の上役から「ルヘラン君」と慇懃に呼び掛けられるのは、それだけで既に気味の悪い経験であった。無論、言われた通りに緊張で強張った棒のような手足を人形の如く操って、勧められた天鵞絨の長椅子へ腰掛けた私は、窓の向こうに広がるジャルーア東壱号埠頭(ひがしいちごうふとう)の長閑な光景から逸らされた商館長閣下の曇り空のような瞳と、真っ向から対面することとなった。
「君とこうして、改まって顔を合わせるのは久し振りのことだな」
 淡々とした口調で語り始めたモラドール氏の顔を、私は草食の珍獣でも眺めるような気分で見凝め返した。
「この商館へ赴任してからどれくらい経つかね」
「おおよそ十年目になります、商館長殿」
堅苦しい物言いは止したまえ」
 やんわりとしているが有無を言わさぬ警告に、私は直ちに従ってみせた。
「無論です、モラドールさん。決して親しみを感じていない訳ではありません」
「急に馴れ馴れしいな。まあ、いいだろう」
 商館長閣下は葉巻を灰皿の縁へ立て掛けて、両手の指先を揉み合わせた。
「実は君の能力と人柄を見込んで頼みたいことがある」
「頼み事ですか。私に?」
「そうだ。君のことを私は信用している積りだ、ルヘラン君」
 弛んだ瞼の下で窮屈そうに身を縮めている灰色の瞳は、穏やかな口調とは裏腹に少しも笑っていなかった。