サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 五 「政情」という奇怪な地図

「君には弾薬を運んでもらう。尤も、君自身に荷物の揚げ降ろしを遣れと命じる気はない。弾薬の取扱に慣れた書記官など存在しないからね」
 モラドール商館長の意想外な発言に、私は思わず総身を凍らせた。弾薬? そんな積荷をコスター商会が引き受けたことなど、過去に類例のない話だ。そもそも、市井の商館員に国軍の所有物である筈の弾薬を積荷として預ける荷主が、この法治国家フェレーンに存在する訳がない。
「御言葉ですが、モラドールさん。いや、商館長」
 愈々抜き差しならない事態に巻き込まれ始めたことを鮮明に認識した上で、私はごくりと大きな音を立てて生唾を呑み込んだ。
「弾薬などという奇想天外な積荷が何処から降って湧いたと仰るんです? 国軍の弾薬庫から誰かが横流ししたとでも? そんな悪辣な取引に手を染めるような不良商会だとは思ってもみなかった」
「ちょっとちょっと、落ち着きたまえ、ルヘラン君」
 興奮と驚愕と恐懼が混じり合った濁流のような感情に前頭葉を吹き飛ばされて、拉げた蟹のように口の端から泡を吹き始めた私の見るも無残な醜態に眉を顰めて、モラドール氏は珍しく動揺した様子を示した。
「滅多なことを口走るもんじゃない。何処で誰が耳を欹てているか知れたものじゃないんだ」
「それは此方の科白でしょう、商館長。私は信じられません。ジャルーアへ赴任してから十年も経つというのに、今更信頼していた勤め先が『死の商人』どもの巣窟だったとは! 郷里の両親に何と申し開きすればよいのか、私には皆目見当も」
「落ち着けと言ってるだろう!」
 凄まじい怒鳴り声に鼓膜を打ん殴られた私は、木偶のような顔で反射的に口を噤んだ。弛んだ瞼の蔭に隠れた瞳は炯々たる鋭利な光を湛え、騒ぎ立てる部下を憎々しげに見据えていた。
「誰が犯罪の片棒を担げと命じた? 馬鹿げた妄想に舞い上がるのは止したまえ」
「然し、商館長閣下。盗品の売買に携わったことが官憲に露顕したら、我々は残らず縄目に掛けられることになります。落ち着いていられる訳がないじゃないですか」
「だから、勘違いするんじゃない」
 幾ら宥めようとしても耳を貸さずに喚き立てる私の醜態に、商館長は心底うんざりした様子で溜息を吐いた。後日、商館長はそのときの記憶を振り返って「秘書を呼んで棍棒を持って来させようかとも考えたが、密談中であったから死に物狂いで辛抱した」と、相変わらずの微笑とも言えない微笑を浮かべた難解な顔つきで語ったものだ。だが、私の側の言い分にも片耳ぐらいは貸してもらいたい。一体誰があんな複雑極まりない難儀な密命を、風采の上がらない書記官の端くれに任せようなどと思い立つだろうか。それまで私は、弁舌の不如意な三流外交員としてラーヘル商会を叩き出された後、昼間でも仄暗い事務室(経理が燈火の燃料代を無闇に倹約していたのだ)で終日、様々な紙質の書類と睨み合いながら指先を万年筆のインクと判子の朱肉で汚す退屈な毎日を暢気に遣り過ごしていたのだ。偉大なる商館長閣下の御命令とあらば、厠の塵紙の補充でも、表の往来の掃き掃除でも、猫の餌遣りでも、屋根の雨漏りの修繕でも何だって引き受けてみせる覚悟は出来ていたが、弾薬の運搬などという前代未聞の不穏な取引に召し出されようとは、一度も想像したことがなかったのである。国軍払い下げ(若しくは窃盗)の弾薬の横流しという私の不埒な妄想は結果的に愚かしい勘違いであったが、何れにせよ商館長の御下命の内容は白昼堂々と口外出来るような類の代物ではなかった。
「いいか、此れは国軍の放出品を不法に売り捌いて暴利を貪ろうという話ではない。そんな旨い話に乗っかって見す見す火傷を負うほど、私は見境のない商館員ではないぞ」
 珍しく人前で声を荒らげた商館長の剣幕に、舞い上がった私の脳味噌は冷水を浴びせられたように急速に萎びてしまった。落ち着いて考えてみれば、ラーヘル商会という巨大な資本にぶら下がり、政財界にも上得意の顧客を幾らか持っている我がコスター商会が、盗品の軍需物資を売り抜けて儲けようなどと剣呑な賭博に打って出なければならない理由は一つもない。
「さっきも話した通り、我が国の政府はダドリアの共和制移行に反対し、王党派の復権を支援しようとしている。だが、表立ってダドリアの紛争に介入する訳にはいかない事情がある」
「何でしょう」
「少しは頭を使ってみたらどうなんだね」
 商館長は私の頭の悪さ(今までは余り接する機会がなかったので幸運にも知られずに済んでいたのだが)に辟易したように、再び葉巻を銜えて長い時間を掛けて煙を吐き出した。
「我がフェレーン皇国は、ダドリアとの間に相互不可侵の協定を結んでいる。幾ら内乱が激化しつつあるとはいえ、協定を結んだ相手の庭先へ気軽に兵隊を派遣する訳にはいかん。特に軍部の支持を集めているコロディットは、フェレーンの軍隊が介入してくることを懸念している。共和主義者の革命派どもも同様だ。連中はフェレーンの出兵をダドリアへの内政干渉、或いは体裁だけ整えた侵略的行為だと騒ぎ立てている。そうやって牽制の論陣を張って、フェレーンの軍隊と摂政のフランタネルが手を結ぶのを妨げようという魂胆なのだ」
「要は、表立って軍事的な協力は出来ないと?」
「左様。国軍を動かせば、北方のレダイラスも黙っちゃいないだろう。どう考えたって、ダドリアの内紛は長引くに決まっている。一旦調停に乗り出せば、我が国も簡単には手を退けなくなる。国軍の主力が出払っている隙を衝いて、レダイラスの兵隊が北の国境を破れば、ダドリアの内乱どころの騒ぎでは済まされんのだ」