サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

厳粛なユーモア(大岡昇平をめぐって)

 以前にも、このブログで取り上げた大岡昇平の「野火」という小説は、真面目くさって読んだならば紛れもない凄絶な戦争文学であり、そこには神の光すら射し込んでいるが、冷静に文字を追っていくと、どこか不真面目というか、突き放したような自意識の屈折が感じられることもある。語られる内容の壮絶さは、現代の平均的な日本人にとっては殆ど絵空事としか思えないような次元に達している。だが、語り手はその悲惨な実相を殊更に悲劇的に謳い上げようとはしていない。無論、そこに燃え上がるような不条理への怒りが根付いていることは確かであろうし、そのような「戦場」へ彼を送り込んだ日本という国家と社会への批判的な視線は、エピローグの件でも明瞭に語られている。だが、この作品を単なる政治批判や、戦争の悲劇に関する慨嘆の集積へと縮減してしまうのは、誠実な読者に相応しい振る舞いとは言い難い。

 戦争の現実が、生半可な「人間性」を解体してしまうような苛烈さに貫かれていることは、作中のカニバリズムを巡る描写を見ても明らかで、その悲惨さが語り手の精神疾患を惹起するほどの強度に達していたという解釈も、容易に成り立ち得るだろう。だが、それでも作者の奇妙に明晰な意識が、苛酷な戦場の現実に向けられるときに生じる奇妙なユーモアは、「野火」という作品の端々に小さく顔を覗かせている。例えば六番目の断章「夜」で描かれる兵士の他愛ない会話は、その余りに無内容な応酬ゆえに、素っ頓狂な諧謔のようなものを漂わせていないだろうか? 彼らの庶民的で弛緩した会話の我慢強い描写に、作者の意図的な筆遣いを見出すのは単なる思い込みに過ぎないだろうか。作者の実体験と、描き出される「私」の言葉との間に直接的な聯関を見出すのは野暮の骨頂であろうが、少なくとも私は「野火」に籠められた大岡昇平の異様な執念を感じずにはいられない。

 明晰さに対する常軌を逸した固執が、却って陰惨なユーモアに繋がるのは、単なる結果論に過ぎないのだろうか。作者は決して「戦争」の真実を安易なセンチメンタリズムには還元しないものの、だからと言って「戦争」を一つの巨大な「冗談」のようなものとして捉えているのでもない。作者にとっては、「従軍」という経験が、否が応でも悲惨な世界の「実相」に触れる機会を形作ったに違いないのだ。その動かし難い凄絶な「実相」を語るときに、作者が示した強靭なリアリズムへの意識は、生半可な感傷や慨嘆を揮発させてしまったのだろう。最早、それらは容易く名前を与えることも出来ない、膨大で超越的な「事実」である。そこに様々な解釈を加えても、孤独な敗兵の立場に視点を置く限り、そうした観念的な裁断が意義を失うことは確実である。

 短いが、今日はこれで擱筆する。