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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主風土記 「丸の内」

サラダ坊主風土記

 今日は弟の結婚式に出席してきた。丸の内の、皇居の近くにある瀟洒なホテルで盛大に挙行された華燭の典は、天候にも恵まれ、新郎新婦の晴れやかな門出に相応しい一日であったように思う。

 我が家には一歳に満たぬ幼い娘が一人あり、妻は親族ゆえに留袖の着付けに時間を割かねばならぬ立場であったから、母が気を利かせて、前泊出来るように会場のホテルへ部屋を抑えてくれていた。私は休みを取って、プレミアムフライデーの丸の内を家族三人で歩き、夕暮れの前には投宿して荷物を解いた。

 誰の匙加減で奮発してくれたのか、私たちの部屋は広々として見晴らしの良い空間で、バルコニーからは東京タワーを含む都心の煌びやかな夜景を眺めることも出来た。翌日の朝食も素晴らしく美味で、結婚披露宴の御馳走を数時間後に控えているにも拘らず、無闇に貪婪な食欲を発揮してしまい、胃袋が張り裂けそうに悲鳴を上げた。

 式の合間に喫煙所へ忍んでタバコを吸っていたら、後から別の客が入ってきた。顔を見ると、先ほど式場で祝辞を述べていた新郎側の主賓である。名前を思い出して、此方から挨拶すると、向こうも私が新郎の兄であることを認識していたらしく、和やかに返事をしてくれた。弟の仕事振りを訊ねると、彼は「真面目ですね。真面目過ぎるくらいです」と言って笑った。

 披露宴会場の受付に飾られていた寄せ書きにも、弟の生真面目な性格を指摘するような科白が目立っていた。「半分死んだ魚の眼」という言葉もあって、随分と手荒い揶揄だなと苦笑しながら、腑に落ちる部分もあった。確かに弟の眼には、以前から余り光が感じられない。別に弟が精神を病んでいるという訳ではない。仕事も順調らしいし、新婦との仲も睦まじい様子だし、何も不自由なことはない、恵まれた境遇である。新郎らしく晴れやかな笑顔を見せる場面も度々あったから、別に何か殊更に心配しなければならない訳ではない。ただ、そう言えば、あいつは何時から、あんな風に光の稀薄な眼つきをしていただろうと、思ったのだ。

 私と弟は歳が二つ違うだけで、幼い頃は何時も一緒に遊んでいた。二歳年長であるに過ぎないのに、底意地が悪く、狡猾な性格でもあった私は、弟に対して兄としての強権を存分に行使した。若しも弟が北朝鮮の指導者であったならば、私はとっくに殺されていたに違いない。

 思春期を迎えてから、私たちは無闇に仲が悪くなった。とはいえ、弟が殊更に何かを仕掛けてくる訳でも、挑発してくる訳でもなく、専ら私が遣り場のない苛立ちを、弟に叩きつけていただけだった。弟も成長するに連れて、昔のように言いなりにはならないから、それが余計に癪に触ったのだろうか。北朝鮮の指導者に相応しいのは、私の方であった。

 防ぎ切れなかったキューバ危機の如く、一度、激発した私は殴り合いの喧嘩を仕掛けて、弟の顔に膝蹴りを見舞い、失神させたことがある。母親が叫びながら揉み合う私たちの躰にしがみつき、仲裁に入った。私は父親から理詰めの説教を受けた。益々、私たちは疎遠になった。

 二十歳になる前に、私は最初の結婚をした。子供を授かってしまったので、慌てて籍を入れることになった。周囲から祝福されることのない婚姻であった。私は二十歳の誕生日を迎える頃に実家を離れて、妊娠した妻と、その連れ子である当時九歳の娘と一緒に暮らすようになった。弟は未だ学生で、実家に暮らしていた。偶に実家へ子供たちを連れて遊びに行っても、弟は自室に引っ込んで滅多に顔を出さなかった。その頃にはもう、小さい頃とは随分異質な顔立ちになっていた。なかなか厳しい眼つきであった。

 一度、実家で大きな法事があり、親族一同が集まって八柱霊園に程近い料理屋で、会食が開かれたことがあった。食後、酔っ払って顔を真っ赤に染めた私が、店の表でベンチに腰掛けてタバコを吸っていると、弟が姿を見せて、珍しく言葉を交わした。「お前は頑張ってると思う」と弟は言った。そろそろ就職活動の時期だったのではないだろうか。「別に大して頑張ってねえよ」という意味合いの言葉を、私は返したような気がする。

 二十五歳の夏に私は離婚した。何故、離婚を許すのだと、弟が怒っていた、という話を後に母から聞かされた。離婚して、私が息子たちと別居するようになった後も、弟は私の知らないところで、息子にお年玉をあげていた。弟なりに、兄貴の我儘で片親になった小さい子供を、不憫に思ってくれたのだろうか。詳しく聞いたことはないし、詳しく聞けることでもない。

 私が再婚した頃には、弟も随分と角が取れてきた様子で、年始の挨拶で実家を訪ねたときだったと思うが、私の現在の妻に和やかに話し掛けてくれた。馴染み易いように気遣ったのだろうか。弟は、家の中では余り陽気な男ではなかったが、仕事も営業であるし、昔から外では快活に振舞っているらしいという話を、母親から聞かされたこともあった。

 余り浮いた話も聞かない弟で、母親によれば、週末の余暇を奪われるのが嫌で恋人と別れたことがあるという。生来、淋しがり屋で、独りで生きることが苦手な兄貴とは異なり、弟は休みの日に独りで河川敷を走って汗を流すことに充実感を覚えるような、奇妙に自立したところがあった。それは自立であると同時に、閉塞であったのかも知れない。いつ結婚するのだろうと、漠然と考えていたが、周囲の反対を押し切って二十歳で結婚した揚句、数年後に堪えかねて家庭を破綻させた兄貴の姿を見て、慎重な方針を固めたのかも知れない。

 私は昔から随分と狡猾なこともしたし、我儘を押し通して親に迷惑を掛けながらも平然と胡坐を掻いているような生き方を選んできた。母の日にも花束一つ贈ったことがない兄貴とは対蹠的に、弟は必ず毎年、両親を食事へ招待しているそうだ。昔から、そういう男だったかなと、不思議に思いつつ、同じ家に生まれながら、兄弟でも随分と異なる生き方を選んだものだと思う。或いは、兄貴である私が余りに親不孝なエゴイストの方針を革めようとしないものだから、埋め合わせるように、両親を愛そうと努めてくれたのだろうか。

 だが、兎に角、二人が幸福な門出を迎えられたことは喜ばしい限りである。もう少し、我儘に生きていく力を、つまり自分の想いに忠実であるような生き方を、素晴らしい新婦の愛情を通じて学んでくれたらいいのではないかと、不肖の兄は御節介ながら、考えたりもした。