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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

間もなく、春が来る

 何処の世界でも似たり寄ったりだろうが、三月から四月にかけての季節というのは、出会いと別れが目紛しく混じり合う時期で、何だか頭の中が遽しく煮え立つような心持がする。私の勤め先でも大幅な人事異動の辞令が日夜飛び交う頃合いで、一年間同じ店舗で一緒に働いてきた昨春入社の新人の女の子も、蛹を脱ぎ捨てるように他の店舗へ移っていった。春から新規に立ち上げる店舗の二番手として抜擢されたのである。水が合うのか、小売業の現場というのは特殊な世界であるにも拘らず、随分と活き活きと働いていた子であった。前向きに愉しんでいる所為か、色々な事柄を習得するのも順調で、新入社員とは思えぬ風格を垣間見させることも稀にはあった。

 アルバイトのスタッフも、大学四年生の古株たちは一斉に就職の為に離陸していった。その途端に、今では先輩たちの影に隠れて目立たなかった子たちが、不意に雪の下で眠っていた植物の群が目覚めるように、仕事の表舞台へ飛び出して来たように感じられるのは、鈍感な私の個人的な錯覚であろうか。

 遽しさに引き摺られるようにブログの更新が数日途切れていたが、別に誰が困る話でもなかろう。尤も、何にも考えずに仕事ばかりしている訳ではなく、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」の第二部を読むことに時間と労力を注いでいるのである。読み終えたら、また感想文を書きたいと考えている。

 村上春樹の小説は、文章そのものは極めて平明で、決して難解には見えない。時折挿入される奇矯な比喩も、慣れてしまえば驚かない。だが、それらの平明な文章を紡ぎ合わせて、総体的な地図のようなものを描こうと試みると、途端に焦点が合わなくなり、難解という印象が膨れ上がるのだから不思議だ。尤も、小説は主題に回収されるべきものではないという保坂和志的な価値観に依拠するならば、それは小説の欠点ではなく、寧ろ本領であると看做すべきだろう。

 村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」を読み終えたら、何を読もうかと頭の片隅で考えながら、新潮文庫のページを繰っている。前に読みかけて途中で放置してしまったオルハン・パムクの「雪」にしようか、いやいや三島由紀夫の「午後の曳航」にしようか、或いは先日、幕張のくまざわ書店で手に取ったボルヘスの「伝奇集」も気になる、などと、候補を挙げ始めれば切りがないが、人生の時間は有限であり、私の知力も有限であるから、何処まで妄想が現実に転化し得るかは、一向に分明ではない。元気に生きている積りでも、どんな不運な星回りに強いられて貴重な命を失うか、それは地上の誰にも判断の下せない究極の難問である。死ぬ時に後悔するような生き方は御免蒙る。だから、限られた時間の中で、私たちは遣れることを着実に熟していかなければならないのだ。

 本を読む、それは気が向いたときにだけ取り組めばいいだけの、ささやかな趣味に過ぎないが、人生が有限であり、知力が有限であるという厳粛な事実、そして世界に存在する書物の無限にも等しい夥しさに眼を配るならば、そのような悠長な考え方に甘んじている訳にもいかない。積極的にページを捲ることで、生きている間に、限界まで自分の世界を広げておかなければならない。死期を迎えてから悔やむのでは遅いのだ。人生は有限であり、書物は無限である。私は成る可く無限の境涯に近付いた上で死にたい。