読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「自信を持つこと」に就いて

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 昨春から約一年間、一緒に働いてきた部下の女性社員が今月で異動になり、後任の女性社員が配属されてきて、三日間の引き継ぎ期間に入っています。

 新たに着任した彼女の働きぶりを見ていて、最も強く感じたのは、根本的な「自信」の欠如です。前任の社員が自信と活気に満ち濫れた優秀な女性である為に、知らず知らず比較してしまい、どうしても際立って頼りなく見えてしまうのかも知れませんが、自信を持ち難いタイプであることは、本人も認めていました。

 自信を持つということは、確かに簡単なことではありませんが、結局は「習慣」の産物であることも確かで、生まれ持った遺伝子の配列に自信の有無が書き込まれている訳ではないと、私は思っています。そもそも「自信」という言葉の定義自体が、非常に多義的で議論を呼ぶものですが、差し当たり私は「自信」という言葉を「自分の意見を肯定すること」として捉えています。

 世の中には、自分の手持ちの知識や経験や判断力では対処し難い事象というものが山積しています。学校の教科書に書き込まれているような、様々な先人の探究と検証を経て鍛え抜かれたパブリックな定説とは違って、それらの生身の「問題」には、絶対的で普遍的な正解というものが附属していません。そういうとき、私たちの思索と決断と行動は多かれ少なかれ「博打」の要素を含むことになります。正解を持たない問題、或いは状況に応じて幾らでも正解が変化していくような性質の問題に対して、私たちが下す判断は常に相対的で個別的なものです。それは、この世界における「実存」の基本的な様態であり、決して特殊な事象ではないのですが、世の中には、そうした「実存的決断」に対する恐怖や不安を根強く抱え込んでいる人々が数多く存在しています。

 自分の知らないところに「正解」が存在する、という強固な信憑に囚われた人々は、絶えず外在的な「正解」を追い求めることに労力の過半を費やしながら生きています。確かに、最終的な「正解」は自分の能力を超えたところに存在することが殆どです。けれど、生きることが常に「正解を選択すること」ではないという常識的な意見が、そのような探究に付き纏う過重な精神的消耗を緩和するのが通例でしょう。

 しかし「生きることは、常に正解を選択することではない」という常識的な命題を肯定出来ない人々が、この世界には実在します。彼らは唯一神を信じる敬虔なキリスト教徒であるとは限らないのですが、自分以外の絶対的な審級に対する盲従を好みます。例えば、その対象は「両親」であったり「上司」であったり「教科書」であったり「前例」であったりします。何れの場合にも共通して言えることは、それが「他人」であるということです。

 「正解は外部に存在する」という信憑に余りにも強く囚われてしまった人は、絶えず「自分の意見」よりも「他人の意見」を優先する思考の様式に取り込まれてしまいます。こうした思索の形態が「自分自身の意見に対する肯定や信頼」の意識を徐々に減殺していくであろうことは、歴然としています。「自分の頭で考える」ことの重要性は、こうした思索の形態を選択し続けている限り、決して本当の意味では体得することの出来ない「真理」です。「正解」を選ばなければならない、という窮屈な価値観に囚われた不幸な人々は、その為に何時でも「自分の意見の疑わしさ」を吟味しなければならないという緊張に呑み込まれてしまい、そこからの脱出を図って「盲目的な臣従」へと飛躍してしまうのです。

 「正解」は外部から与えられるものではなく、常に自分の頭を濾過した上で把握しなければならない、というのが実存的な真理であると私は思います。それは他人の意見に耳を傾けない、という「狷介さ」の肯定とは異なります。自分の頭で吟味していない「意見」を丸呑みするのは不誠実であり、無意味であるということを理解すべきであると、私は言いたいのです。

 どれほど正しい意見であっても、それが自分の「頭」を通じて消化され、自分自身の意見として作り変えられない限り、それは単なる「他者の答え」に過ぎません。私たちは「他者の答え」に隷従して生きる限り、決して自分自身を愛することも、自らの人生に「責任を取る」ことも出来ないのです。言い換えれば「自信を持つ」ということは即ち「自分の人生に対する責任を、他人に背負わせない」ということです。その覚悟を固めない状態で幾ら頭脳を使役し、知性と感性を全力で稼働させても、納得のいく「答え」に到達することは不可能です。

 往々にして「自信」の欠如は「責任」の欠如であり、「責任」の欠如は即ち「自由」の欠如です。「責任」に対する異常な怯えは、様々な個人史的過程、つまり自分の意見を持つことを認められないような状態での成長=生活によって培われるのではないかと思います。幼い子供は誰しも叱責を嫌いますが、叱責に立ち向かう勇気は「生きる勇気」と同義です。反抗期を持たない子供が、正常な成長を遂げることは難しいと、私は思います。

 叱られないこと、失敗しないこと、誤った選択を行なうこと、それを過度に忌避する精神的傾向は、必ず人格を委縮させ、覇気を奪い去り、未来に対する建設的な展望を阻害します。たとえ失敗であったとしても、自分が選択した途ならば後悔はしない、というのが人間の健全な態度であると私は信じています。他人に自分の判断の責任を委ねるような生き方は、不毛な自己弁護の科白を生み出すだけで、結果的には如何なる利益も生み出さないのです。「反省」は有意義な理性的態度ですが、「後悔」は不毛な感情的態度であるに過ぎません。「自分の人生に対する責任は自分で負う」と決意することが、大人になることの本義であり、甘美な幼少期の郷愁から遠ざかる為の唯一の方途なのです。