サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

詩作 「CERTAIN」

時間が流れ

季節が巡り

落ち葉のように記憶は積もり

絆はさまざまな場面で

伸び縮みを繰り返す

古い歌が聴こえれば

急に私たちは過去へ連れ去られる

時計の針が

逆行を始める

眩しかった風景が眼裏に

美しい彩色で再現される

 

何の役にも立たないはずの

過ぎ去った日々の記憶が

私を束の間の

ものうい快楽へ突き落とす

かつて身近だった声が

今は他人のようにそらぞらしい

あらゆる建築は廃墟へ向かう

あらゆる生命が予定された死を懼れるように

 

あなたは冷たいから嫌いだ(あなたはいつでも冷静だから好き)

あなたは子供がいるから嫌いだ(あなたは苦労を知っているから好き)

あなたは理窟を重んじるから嫌いだ(あなたは知性があるから好き)

あなたは気が短いから嫌いだ(あなたは戦うことを知っているから好き)

あなたは無神経だから嫌いだ(あなたは個性的だから好き)

あなたは自己中心的だから嫌いだ(あなたは自分の気持ちに素直だから好き)

あなたは

もう必要じゃなくなったから嫌いだ(あたしがあなたを必要とするときだけそばにいてよ)

 

消せない怨みを

鞄のなかに閉じこめたり

靴箱の隅に隠したり

あらゆる手立てを尽くして

不死鳥のような過去に抵抗する

恋心は海岸の白く清らかな砂で作られています

どんなに弱々しい波でも

砂の城を突き崩すのは簡単なことだ

数え上げられた理由はかつて

あなたが私に惹きつけられた理由の

変奏ではないのですか

当然の疑問を

タバコの空箱のように

利き手で握りつぶして

夜道に捨てました

 

時間が流れ

季節が巡り

飛行機から降りるように

あなたは瞬間的に気持ちを切り替えた

乗り換えることは罪ではなく

目的地へ到達するための

必要な選択です

自己正当化の言葉

乗り換えることが愛に対する忠誠であるならば

その柔らかな唇を

蝋で封じてしまいたい

 

孤独をおそれる弱いこころが

互いを結わえつける透明な磁力だった

その瞬間だけを切り取れば

愛はいつでも美しく純白

けれど別の角度から眺めてみれば

私欲と不信が複雑に入り乱れて

大理石のような模様を描いている

ただ愛した日々の清々しい記憶だけが残る

その記憶に一銭の価値もないことを

痛切に知りながら

 

生きるほどに

思い出ばかり増えていくけれど

確かなものは

何ひとつ残らないね

指の隙間から

こぼれる砂に喩えられるような

この切々たる寂寥を

人類は何万年も引きずっている

ロープが擦り切れそうになっても

積み荷の重さは変わらない

 

確かなものを求めているんだ

絶対に変わらない

永遠の絆

せめて死ぬまで続く

有期の永遠でもかまわない

色褪せない笑顔を見つめていたい

古いアルバムを溝へ捨てる

懐かしい映画の半券をシュレッダーにかける

あなたの欠点を考えられるかぎり思い出して

執念深くツイートする

永遠という言葉をとりあえず馬鹿にする

シニカルであることを己の美学に採用する

だけど本当は

そんな不毛な砂漠で

陽射しに身を焼かれていたくはないのだ

埋められない寂寥に

劣化したプルトニウムを注ぐようなことはしたくない

確かなものは何も残らないけれど

いずれまた

心は誰かに惹かれていく

誰かの笑顔に

誰かの優しさに

歯車に絡まった私の心

愛別離苦の流転の渦中(南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

Cahier(育てる者の責務)

*今期の新入社員が、今月一杯で他の店舗へ異動していく。後任の補充はない。四月に来年度の新入社員たちが配属されてくるまで、堪え忍びなさいという会社からの暗黙の御達しである。毎年の慣行なので、今更狼狽しようとは思わないが、そうした無理な人事異動の背景に、相次ぐ社員の退職という事情が介在しているのだから、否が応でも暗澹たる気分が募ってくる。

 年末年始の繁忙期を終えて、成人の日の三連休も過ぎ去れば、世間の消費は一挙に冷え込み、我々小売業の現場には閑古鳥が飛び交い始める。そうは言っても、如何なる状況であろうと千円でも多くの日銭を拾い集めねばならない我々にとっては、何も変わらぬ日常が続いているとも言い得る訳であり、従って社員を一人抜かれて何の補充もないというのは、やはり実際的な問題として負担である。

 本当なら、部下の異動を言い渡されたときに、もっと反駁してやるべきだったかも知れない。直属の上司は、売り場の現況も理解している訳だから、切実に訴えれば、もう一度、上長に掛け合って、期日を延ばすくらいの交渉は成り立ったかも知れない。

 だが、それが店長として、器の小さい判断だという想いを、私はどうしても禁じ得なかった。どういう事情で人が辞めていくのかは知らない。辞める理由は、個人の事情に紐付いているのだから、一概には総括出来ない。そして、会社全体の人員配置の最適化を考えるならば、自分の受け持っている店舗の人員状況の過不足だけを考慮して、上の采配に難癖をつけるのは聊か我儘な振舞いであると言えるだろう。

 もう一つ胸底を過ったのは、異動を言い渡された社員を、人員の不足を理由に現在の環境に縛り付けようとするのは、彼女の未来や成長を損なう振舞いなのではないか、という考えである。彼女は現在の環境に馴染んでいて、しかも多くのことを学んで、自分の血肉に変えてきた。このまま、無闇に慣れ親しんだ環境に安住していても、退屈して、場合によっては堕落するだけではないか。ならば、新しい環境で、もう一度冷水を浴びるような心持で、色々なことを学ぶべきではないか。共に働いてきた仲間と離れ離れになることは確かに淋しい。だが、訣別の寂寥を懼れる者に成長は望めないことも、地上の真理である。別れるときは辛い。だが、別れて成長した後は、もう淋しさは感じない。それは過去を忘却することとは違う。総てを自分の糧に置き換えられるということだ。淋しさを乗り越えられない人間は未来永劫、幸福な過去に縛られ続けることによって腐敗していく。

 だが、彼女がこれから向かおうとしている店舗は、余り内部の状況が良好ではないらしい。そういう噂は売り場の空気や、経営上の様々な数値的指標に滲み出る。或いは店長の顔つきに顕れる。店舗という一個の組織が日々の運営に躓いて腐敗するのは大概、内部の働く者同士の間で、信頼関係が構築されていないときである。そして、店内の信頼関係の構築の失敗は、往々にして店長の力量不足に起因する。色々な立場の人間と適切な仕方で関係を持ち、その距離を調整し、スタッフ相互の力関係や個性のバランスを見定めながら、最も有効な指揮系統と規律を探し、工夫を重ねる。これは組織の長としては当然の心掛であり、重要な職務である。だが、そうした技倆を合理的に、組織的に教育する制度が、私の勤め先に存在しているとは言い難い。そもそも、そうした技倆はかなり複雑精妙なもので、実際に現場を踏み、苦い経験を山盛りに積み重ねて、そこから種々の智慧を抽出していかない限りは、自分の力にはならないものである。すっきりとした教科書を読むような仕方では決して学び得ない厄介な側面が、たっぷりと含まれている。組織と人間を纏め上げるのは、単なる技術ではない。そこには種々の人間的美徳のみならず、もっと綜合的な「思想」や「哲学」が介在していなければならないのである。単なる物体のように、人間の思い通りに、或いは手順の通りに操れば動いてくれるというものだけが、技術的な判断によって解決される。だが人間は物質ではなく、隷属的な存在ではなく、銘々が主体的な魂を持っている。その素朴な事実をきちんと考えていないから、様々な不都合や軋轢が生じるのである。

 だが、兎に角私にとっては、新入社員の身を守ることだけが総てである。店長の力量に対する疑問符が、店内の信頼関係を怪しくしているらしいことは漠然と耳に挟んでいたので、私は新入社員に「スタッフの信頼を全部君が攫ってしまえばいい」と告げた。共通の標的が存在するとき、人間の同盟的関係は極めて強固なものになる。

 「着任したら、先ずはボスが誰なのかを突き止めろ。そして、そいつの考え方、価値観、不満に思っていることを探り当てろ。それを速やかに解決しろ。そうやってボスの信頼を掴み取れ。そこが抑えられたら、君に対する信頼は、水が高いところから低いところに流れて行くように、重力に従って末端まで行き渡る」

 こんな教育は如何にも血腥い。だが、新入社員が潰れないように配慮してやるのは、私の使命である。それでは、先方の店長に対して惨い仕打ちではないかと思われるかも知れない。だが、人の上に立つ人間には、有能である責任がある。無能ならば降りるしかない。それだけである。

「サラダ坊主日記」新年の御挨拶(2018年)

 新年明けまして、おめでとうございます。毎度御馴染み、サラダ坊主でございます。今年も何卒宜しく御願い申し上げます。

 年末から続いた連勤が漸く終わり、娑婆の空気を吸うように売場から解き放たれて、今日は昼過ぎまで眠っていた。クリスマスと年末年始の、遽しく異様な空気、殺伐として、尚且つ浮き立つような、あの独自の空気が消え去ったと思うと、何より安堵するが、一方では一抹の寂寥も覚える。

 大晦日の夜、閉店を間近に迎えた刻限、疲れ果てた躰を引き摺って、百貨店の従業員休憩室で茫然と莨を吸っていたら、携帯が鳴った。売場に応援に入っていた上司からの連絡だった。休憩室にいると伝えると、そっちに往きますという返事で、その段階で何事かの予兆を嗅ぎ取る程度には、私は現在の仕事に慣れていた。

 案の定、今期配属された新入社員の異動辞令の内示であった。何処かで待ち受けていた話ではあったが、実際に決定事項として聞かされると、複雑な感慨であった。彼女は新入社員らしからぬ落ち着きの持ち主で、勉強熱心でもあり、此度の繁忙期でも、課せられた責務にしっかりと応えていた。その意味では将来有望の人材である。だから、次の環境に進んで新たな経験を積み、更に視野を広げていける機会を与えられたということは、上司として、彼女の為に慶賀すべきことである。

 だが、一年弱の期間、一緒に働いてきた仲間が職場を去るのはやはり、心情としては辛いことである。出会いと別れは、何処の会社でも頻繁に繰り返されている事態であろうが、我々のような店舗社員は特に、渡り鳥の如く定期的に店を変わる。だから、こうした離別の経験には慣れ切っていると言えば慣れ切っている。それでも、特に自分が迎え入れた新入社員が去っていくのは、特に強烈な寂寥を齎す経験である。

 他方、私の代行者であり、彼女にとっては先輩に当たる二番手の部下社員は、此度の繁忙期、実に冴えない働き方であった。新入社員や、或いはアルバイトのスタッフたちが、与えられた役割と責務を全うする為に死力を尽くしている傍らで、彼女は店長の代行者という地位と権限を持ちながら、少しもその立場を活かすことなく、単なる一介の販売員として終始していた。そうした働き方に、私は憤怒を禁じ得なかった。彼女は責任を課せられる立場でありながら、その責任に対して不誠実な取り組み方をして、しかも、そういう自分の怠慢を直視していないのだ。新入社員がクリスマスと年末の予約管理という重責に懸命に取り組んでいるにも拘らず、新入社員のメンターに任じられた彼女は全く何の教育も指導も、進捗の管理さえもしなかった。所謂「丸投げ」という奴である。それで何か問題が起きても、彼女は新入社員に総ての責任を被せただろう。部下の失敗は自分の失敗であるという基礎的な考え方さえ、彼女は学んでいなかったのである。私は劇しい怒りを覚えた。良くも悪くも、部下に対して「無関心」であることは、上司として最大の罪悪である。褒めることも叱ることも中途半端にしか遣らない上司や先輩の下で、新人たちは働く意欲を削がれ、社会の迷宮に投げ込まれていくのだ。

 私は彼女を呼び出し、彼女の甘えや言い逃れを撲滅する為に、厳しい言葉を用いた。元々、色々な店舗で余り役に立たずに盥回しや飼い殺しにあってきた子である。こういうタイプの人間には固有の特徴がある。第一に、直ぐに謝罪するが、具体的な改善はしない。第二に、同じ過失を永遠に繰り返し続ける。第三に、無能であるにも拘らず、プライドが高い。端的に言ってしまえば、彼らは「ダメな自分」を愛しているのである。本当の意味での「自己否定」をしない。自己否定のポーズを示して、怒っている上司の眼を欺こうとするだけである。彼らは、このままの自分ではいけないと言いながら、本気で自分を変えようとは考えない。それは彼らの「甘さ」であり、依存的な性質の産物である。

 世の中には、ありのままの自分を肯定することを奨励するような言説が氾濫している。その精神衛生上の効用を否定する積りはないが、自分の愚かさをそのまま肯定して悦に入っている姿は、人間として醜悪である。人間は気高く、美しくあるべきではないか。愚かな自分を愛して、それで一体、何になるというのだ。

年の瀬雑感 2017

 今年もぐんぐんと暮れていく。始まる前は果てしない地獄の回廊に思われたクリスマス商戦も、過ぎ去ってみれば一瞬の閃光のように儚い記憶である。昨年は金土日の三連休、今年は25日が平日ということで、売上の推移には変動があった。尤も、カレンダーの変わらない年は存在しない訳だから、そういう変動は例年の慣習であり、一喜一憂には値しない平凡な事柄である。

 毎日始発の京成電車に揺られ、夜明け前の街へ漕ぎ出していく。寒さに身を竦め、首の周りに妻から貰った黒いネックウォーマーを巻きつけて厳重に武装し、眠い眼と重たい躰を相棒に、職場までの道程を急ぐ。肉屋もケーキ屋も、この季節は命懸けの戦場暮らしだ。早朝から凄まじい物量の荷物が、薄暗い百貨店の館内へ担ぎ込まれ、積み上げられていく。

 クリスマスは、一般的には家族や友人と共に分かち合う、豊かで寛いだ時間であろうと思う。実際、そうでなければ、こんなに小売の現場が繁忙を極める筈もないのだ。そして、私たちにとっては(つまり、私の所属する世界では)、クリスマスは紛れもない「戦争」の季節である。「地獄の季節」と言い換えても差し支えない。一瞬の油断が致命的な惨事に発展しかねない。僅かな判断の遅れが、幾何級数的に問題を増幅させる。そういう戦場の指揮官として、緊迫した舵取りを担うことは、無論、強烈な疲弊を齎すが、それと隣り合わせの高揚の快楽も忘れ難い。結局、私は、年末の戦場の光景を愛しているのだ。そして明日から、いよいよ大詰めの戦闘が幕を開ける次第である。今にも硝煙の香りが鼻を衝きそうな、そういう刻限である。

「破滅」に対する抵当権 三島由紀夫「青の時代」

 三島由紀夫の『青の時代』(新潮文庫)を読了したので、断片的な感想をばら撒いておく。

 1948年に巷間を騒がせた所謂「光クラブ事件」(東大生による闇金融の起業と、その摘発)を題材に据えて紡がれた、この愉快な小説は(「愉快」という言葉の定義を捻じ曲げるような言い方だが、私は確かにこの作品から「小説的な愉快さ」を感じ取ったのである)、物々しい警句や箴言の類を細胞のように鏤められているとはいえ、決して過剰に辛気臭い悲劇的な身形を誂えている訳ではない。此処には「仮面の告白」において露わに示されているような自意識の独白がない。いや、厳密に言えば、それに類する観念的な措辞は作家の宿命の如く随所に織り込まれているのだが、現実に発生した事件に取材している所為か、総てが語り手の自意識の内部に閉じ込められた世界のように感じられる「仮面の告白」よりも、散文的な活力において優れているように思われたのだ。川崎誠が高利貸としてとんとん拍子に伸し上がっていく様子を描く作家の筆鋒には、早くも一定の文学的「成熟」が認められる。最後の一行に幼少期の記憶との儚い「符合」の描写を紛れ込ませて、あっさりと擱筆する技巧など、如何にも見え透いているが、不覚にも私は感銘を受けてしまった。

 良くも悪くも、作品は作者の内的な論理を映し出す鏡の役割を担うことが多い。尚且つ三島由紀夫という作家において、その傾向は殊更に露骨であるような印象を受ける。所謂「私小説」とは異質な作風であっても、作家が自己の問題を作品の内部に力強く投入していることは明らかであり、この「青の時代」という作品に関しても、彼が「光クラブ事件」の顛末に触発され、その具体的な事実を枠組みとして採用しながらも、飽く迄も現実の事件に対する関心より、己の内在的な問題を追究する手立てとして、現実の事件を利用することに重点を置いていると思われるのは、単なる私の偏見の所産という訳ではないだろう。

 主人公に抜擢された川崎誠という人物の一風変わった哲学、或いは処世訓のようなものの変遷を辿ることが、この「青の時代」という作品を味わい愉しむ上での一般的な「正道」であると言える。それに関連して、例えば次のような一節は、作者の重んじる主題の在処を間接的に示していると看做し得るのではないかと思う。

 誠はあらゆるものの上に、或る単調なしぶとい具体性、昨日は今日に似、今日は明日に似ているところの具体性、誠が今まで一度として持つことを肯んじなかった具体性の匂いをかぐのであった。街はこの具体性に充満し、ふてぶてしく輝やき、それ以外のあらゆるものに抽象の極印を押しつけてふんぞり返っているように思われた。(『青の時代』新潮文庫 p.195)

 こうした「日常性」への抜き難い軽蔑は、三島由紀夫という作家においては、殆ど宿命的な構図であったと考えて差し支えない。これは「金閣寺」において「仏教的な時間」が批判の対象に据えられたことの先駆的な表現であるが、それは「青の時代」が「金閣寺」の先駆的な形態であったという仮説を導き出す素地として機能し得るものである。現実の事件に取材しながら、それを自己の内在的な論理の「象徴」として巧みに換骨奪胎するのが、三島の作家的な才能の本領であったと言える。彼は現実に強いられて作品を書くのではなく、飽く迄も作品を書く為に雑駁な現実を挽肉に変えてしまうような、強烈な抽象性の持ち主だったのである。

 しかし軽蔑したいという欲望は、精神の肉慾のようなものなんです。精神は肉体を生むことができないから、獲得の欲望の代りに殺戮の欲望をもつようになるんです。(『青の時代』新潮文庫 p.200)

 「日常性」との和解の不可能性、これが三島の根源的な欲望の前提的な条件であることは、例えば「仮面の告白」を読めば直ちに了解される事実であろう。「日常性」に対する敵意は、彼自身の存在が「日常性」の側から明確に峻拒されているという現実への苦痛から派生し、培養された感情である。軽蔑という感情は、そのような「日常性」に対する復讐の感情との間に、密接な共謀の関係性を締結している。それは明暗の両面を備えた精神的形態であり、詐欺紛いの高利貸に手を染め、金詰りを起こしたら服毒自殺すればいいと考える誠の冷淡な合理性は、一見すると「日常性」に対する傲岸な蔑視の賜物のように感じられるが、裏返して言えば、それは誠が「日常性」の有する「単調なしぶとい具体性」に極めて根深い恐懼を懐き続けていたことの反動的な証明であると看做し得るのである。

 易は一体共産党を出たのかしら、それとも同じ党の中の女の子とよろしくやっているというわけかな、と誠は考えた。どこにどうしていようと彼は同じなのだ、易は易であって、そして嫉ましいことに、易は易であるままに他の万人でもありうるのだ。誠はさらにこう考えた。とすれば、彼の存在と、彼の同質の存在との境目には、僕のような障壁はないにちがいない、支配したり、理解されまいと拒んだり、征服したり、非人間的な努力をしたりしなくても、彼の存在は、一種の薄い膜質のようなものの助けを借りて、地上のあらゆる存在と黙契を結び、やがては灝気にまで同化するにちがいない。確かに人間の存在の意味には、存在の意識によって存在を亡ぼし、存在の無意識あるいは無意味によって存在の使命を果す一種の摂理が働らいているにちがいない。(『青の時代』新潮文庫 pp.220-221)

 誠の高潔な「軽蔑」の感情には、演劇的な「英雄主義」の歌声が反響している。「理解されること」への潔癖な反発も「他人を支配すること」への過度な執着も、煎じ詰めれば、日常性に対する絶望と、それが齎した明晰で合理的な「英雄主義」の産物なのである。他人に理解されることを忌み嫌うという心情は、異常な自負心の作用を考慮に入れなければ理解し難い。本来ならば、彼は理解されることを望んでいるだろう。しかし、他人からの理解を喜んで受け容れてしまえば、彼が長い年月を費やして構築してきた独自のヒロイズムは根底から瓦解してしまう。

 日常性に同意しないということは、社会的な共同性に同意しないことと論理的に等価である。三島由紀夫的なメンタリティは、日常性を「唾棄すべきもの」として定義するヒロイズムを信奉することによって、己の精神的な安定を確保する。尤も、三島がそうしたヒロイズムを単純に肯定している訳ではないことに、読者は適切な注意を払うべきであろう。彼が川崎誠の虚無的な敗北を描き出すことに文学的な労力を費やしたという事実を徴する限り、その中心的な主題が「ヒロイズムの克服」という方向性を含んでいることは確かである。ただ「青の時代」の段階では、作者は飽く迄も「亜砒酸」による自殺という「退路」を確保し続ける男の虚無的なヒロイズムを、如何にして脱却すればいいのか、その方途を発見出来ずにいるように見える。言い換えれば、予定された「滅亡」を担保に借金を拵えて生き延びていくような、終末論的な「金融」の詐術の魅惑に、作者は相変わらず囚われたままのように感じられるのである。「涅槃」に対する欲望を、所謂「人生」を営む為の電源として活用する堅牢な論理は、それほど入念に鍛造されているという訳だ。

青の時代 (新潮文庫)

青の時代 (新潮文庫)

 

Cahier(往く年の挽歌)

*十二月も折り返しを過ぎて、師走の風は益々靴音を高鳴らせている。

 もう直ぐ年に一度のクリスマスが到来する。地獄のような繁忙期、夜明け前から起き出して、寒風の吹き荒ぶ暗い路地を歩いて、そこだけ目映く見える静謐な京成電車へ乗り込んで、職場へ赴く空恐ろしい日々が、間もなく始まろうとしている。予感だけで、頭が痛くなりそうだ。

 だが、始まってしまえば、あっという間に終わってしまうだろう。どんなことも、それを待ち受けている時間が最も長く、重苦しく感じられるものである。過ぎ去ってしまえば、あらゆる記憶が一瞬の断片の連なりと化して、具体的な細部だけが砂塵のように切れ切れに思い返されるばかりで、現実味さえも瞬く間に薄らいでいく。それが生きることを多少なりとも堪え易いものに変えているのだと、前向きに開き直って思い込むことも不可能ではないだろう。そうやって、恐怖や絶望や悲嘆の時刻を稀釈して、忘却の深淵へ追い遣る健全な機能がまともに成り立ってくれない限り、生きることは時に厖大な記憶の重量に押し潰され、扼殺されることに似通ってしまう。少しでも荷物は軽くするに越したことはないし、全速力で走って逃げ切るには、聊か人生は長過ぎるようだ。

 余り小難しい理窟を捻りたい心境ではない。遽しい日々の狭間で、吐息の如く零れ落ちる言葉の破片を、手遊びのように留めておきたいと思うだけだ。年が明けて、仕事が落ち着けば、もう少し書きたいことも増えるだろうし、それを煮詰める気力も幾らか取り戻せるだろう。心地良い疲労を味わうことだけを愉しみにして、もう一踏ん張り、走り続けるしかない。

Cahier(成長・記憶・苦痛・恥辱)

*最近、改めて「成長」ということに就いて考えることが増えた。

 このように書き出すと、何となく典型的な自己啓発系の記事だと思い込まれてしまうかも知れないが、例えば「成長のための具体的で明確な方法論10箇条」みたいなことは、残念ながら書けないし、書こうとも思わない。物事の一般的な「解」を探究してみることが無益だとは思わないが、成長に関する一般的な法則を書き連ねたからと言って、それが実際の個別的な人生に直ちに「効く」ことは稀である。人間は皆、遺伝子レヴェルで眺めれば殆ど同じ組成で出来上っているというのに、同じ理屈が万人に妥当することは皆無に等しい。これは如何なる絡繰の仕業なのだろうか?

 身も蓋もない言い方になるが、私が殊更に「成長」という観念に関心を惹かれる背景には、加齢という現実が影響しているのではないかと思う。自分がもう若くない、少なくとも若さを失いつつあるという感覚は、様々な要素の複合した結果として齎されている。

 今の会社に入ったとき、私は未だ二十歳の小僧であった。最初に配属された店舗では、学生のアルバイトから仕事を習ったものだが、その学生さえ年上であった。当然のことながら、上司も年上、取引先も年上、パートの御姉様方も皆年上、という状況に絶えず埋没する日々を過ごしていた。二十三歳の時に初めて新入社員を部下として抱えたのだが、彼は私と同い年であった。店長と新入社員が同い年というのは、冷静に考えてみると不可解な事態である。

 だが、今の配属先では、部下の社員は六歳、今期配属の新入社員に至っては十一歳も年下である。取引先の社員にも、同年代の人がいる。随分と景色が変わったものである。

 そうやって年老いていく自分を間接的に理解する。自分はもうそれほど若くなく、無限の可塑性や、幾ら失敗しても構わないくらいの未来の余白は、徐々に翳りを帯びつつある。だからこそ、私は真剣に考えずにはいられない。齢を重ねたのならば、相応の成長を遂げる必要があるだろう。そうでなければ、まさしく「馬齢を重ねた」ことになってしまうではないか。

 無論、私は無益な絶望に溺れて善がっている訳ではない。自分がこの十二年間、全く成長しなかったと悲嘆に暮れている訳でもない。十二年前と比べれば、私は別人のように変わった。知らぬ間に、こんなにも遠い場所まで流れ着いてしまったのか、という心境である。何が変わったのか、その一つ一つを計え上げようとしても、多岐に渡っていて、適切に表現出来る気がしない。ただ、十二年前には知らなかった多くの事柄に就いて、私は様々な出来事や、様々な人から、色々な省察を学んだと思っている。その学習は時に劇しく鋭い痛みを伴っていたり、絶望的な恥辱に塗れていたりもした。振り返れば、自分は如何に愚かだったのかと、歯咬みしたくなることもある。

 私はもう若者ではない、若者のようには生きられないという感覚は、必ずしも苦痛に満ちた認識ではない。反動のように、再び若者らしく生きようと試みる性急な態度に、価値を認めようとは思わない。意識や自我が如何なる自己規定を信じ込もうと、降り積もる時間の重量と、その影響を等閑に付すことは出来ないのだ。それは新たな自己欺瞞に雪崩れ込むことでしかなく、自己欺瞞によって維持される精神的な快活さは、いわば阿片のようなものである。

 若者ではなくなりつつある自分の価値に就いて考えるとき、自ずと「成長」という観念が脳裡に浮かび上がるのは、それが若者の特権的な無謀さの代償であるからだろう。要するに、成熟した大人にならなければならない、という倫理的な意識が、今の私の精神を根底から捕捉しようとしているのだ。無論、それは十二年前からずっと懐き続けてきた内的な要請でもある。二十歳で結婚し、父親となったときから、私はずっと「成熟しなければならない」という宿命的な要請と闘い続けてきた。闘うというのは、成熟を拒否するという意味ではない。文字通り、私は父親として、或いは社会人として、命懸けで「成熟」を求め続けてきた。それは紆余曲折を経て、現在の私という人格に流れ着いている。果たして積年の「野望」は達成されたのだろうか? いや、未だだ。そう正直に答えるしかない。私はもっと成長しなければならない。私は未だに「青二才」の尻尾を完全には断ち切れないでいる。

 年齢に相応しい成熟を求めようとする欲望が、保守的な狭隘さを意味するのならば、それは単なる老衰の徴候に過ぎない。恐らく、私はもっと精神的な何かを求めているのだろう。肉体は極めて儚く脆弱に滅び去る。精神も何れは滅び去るだろうが、その速度は肉体ほど迅速ではない。磨き得る限り、己の精神を磨いていきたい。それは「世界」に就いて学ぶということだ。