サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「根本的解決」というラディカルな教義

 仕事をしていても、或いは世間を騒然とさせる深刻で猟奇的な事件に関しても、この国の行く末を左右しかねない重大な社会的問題に関しても、問題を解決する場合には「抜本的な対策」という魔術めいた代物が要求されるのは、世の習いである。上っ面の部分だけを手直ししたところで無意味である、また直ぐに旧に復するのは眼に見えている、物事を解決することを志すならば必ず、問題の根本に外科医のメスを突き立てねばならない、という風な考え方は一見すると非常に合理的で正当な推論の列なりであるように感じられる。しかし、一見すると尤もらしく思われる抗い難い正論であっても、それが論理的な体系である以上は、何らかの盲点や抑圧されたポイントが存在するのではないかと疑心を起こすのが、健全な精神の働き、或いは心得と称すべきではないだろうか。

 物事は抜本的に解決することが可能であるという半ば宗教的な信憑は、世界を固定されたスタティックな存在として捉えることを前提的な手続きとして受け容れることで初めて成り立つ。スタティック(static)という形容詞はダイナミック(dynamic)の対義語で、この簡明な英単語の存在を私が初めて学んだのは確か柄谷行人の「意味という病」を繙いたときであった。そこでは一貫して、スタティックという単語は否定的な語句として用いられていたように記憶している。よく現場主義という言葉がビジネスの世界では振り翳されるが、現場と管理部門との間には何時でも、この「スタティック」と「ダイナミック」の乗り越え難い疎隔が横たわっている。現場というのは色々な出来事が絶えず「現在進行形」で生起する領域であり、そこでは「最終的な結果」という観念が実体的な現象として成立することは有り得ない。何故なら常に現場は流動的なダイナミズムの渦中として構造化されており、そこでは原理的に「終局」ということが成り立ち得ないからだ。そういう領域においては、正解ということは常に書き替えられ、更新されてしまうので、何らかの「完結」を期待することが許されない。強いて結果らしきものを求め得たとしても、それは便宜的な切断(認識論的な切断)によってのみ確保される観念的なフィクションであり、それを結果と看做すのは飽く迄も対象を「静止」させることでしかない。誰しも日常的に経験があるだろうが、特定の物事を入念に解析する為には対象を「固定」することが不可欠である。顕微鏡で植物の組成を観察するときに、態々対象を揺さ振ろうとは誰も思わない筈だ。

 管理する人間にとって、現場というのは本来的に扱い辛いものであり、己の統御に逆らうものとして定義されざるを得ない。管理する人間にとっては、管理すべき対象の複雑な変容や重層性は好ましいものではないのである。管理者は絶えず対象を計測可能な状態に繋ぎ留めておきたいと願うものであり、そういう人間にとって世界は総て「結果」の塊でしかない。結果だけを見て、そこから色々と尤もらしい理窟を拵えたり、包括的な展望を導き出したりするのは、それ自体が極めてスタティックな概念の操作に過ぎないのであり、そこでは現場の人間が常に直面し続けている「一寸先は闇」のダイナミズムが捨象されている。この捨象は物事を明晰に捉え、適切な定義を附与するのに欠かせない手続きなのだが、それは飽く迄も便宜的な手法でしかないことを忘却すべきではない。一連の物語を結末の地点から振り返って彼是と註釈を加えるのは、安楽椅子に腰掛けた暢気な探偵にのみ認められた麗しき特権である。現実の出来事の渦中に投げ込まれた人々に、そのような優雅な安逸、驕慢な批判を愉しむ余裕はない。現場主義者たちは、根本的解決などという便利なフィクションが具体的な有効性を持ち得ないことを皮膚感覚として弁えている。無論、それが皮膚感覚であるということは、置かれている環境が変われば直ちに失われてしまうような繊細な感受性の所産であるということを意味している。現場主義を標榜する管理者たちは、単に口さがない批評家であることを誇らしき勲章のように思い込む鈍感さに埋没しているだけである。実際の現場では、尤もらしい綺麗事では片付かない問題、不毛で唾棄すべき問題が次から次へと現れ、私たちはそれらの厄介な出来事を包括的に捉える力を持たない。現場では、視野は常に限定されており、数多の死角に思索の領分を制約されており、従って私たちは限られた情報だけを頼りに、限られた時間の中で暫定的な決断を積み重ねていくことしか出来ない。そのような不徹底な合理精神の描いた奇蹟が、包括的で総合的な展望を所有していると自負する驕慢な管理者たちの苛立ちを誘発するのは、確かに避け難い成り行きではあるだろう。根本的な解決が可能であるという発想は、問題の発生を一度きりに抑え込みたいという管理者特有の抽象的な欲望に根差している。それが不可能であるということは、現場の皮膚感覚にとっては真実であっても、総ての事象を見通し得る有能な管理者たちにとっては怠慢の結果でしかない。結果に固執し、過程よりも結果を重んじるべきだと声高に訴える人々は皆、現場の人々が絶えずダイナミックな「プロセス」の中で宙吊りの状態に堪えねばならないと考えていることの意味を、無闇に安く見積もろうとするものだ。その高慢な精神は、デジタルな数値に還元され、矮小化されてしまった事実だけを重要視しようとする臆病な習性に蝕まれている。だが、物事に根本的な解決など有り得ないし、その場凌ぎの対応、後追いの仕事を「不合理」であると痛罵したところで、世界の本質が動揺することはないだろう。私たちは常に予測し難い悲劇の中で盲目的に動き回ることを義務付けられている。根本的解決、ラディカルな変革という思想は、現場の連続性を、そのシームレスなプロセスを己の視野から除外することで生み出される悪魔的な信憑である。そして悪魔的な信憑は、人間の本来的な存在の条件を軽視している為に、様々な「不合理」を私たちの心身に強要する。そういう観念的な遊戯に振り回されて生きるのは願い下げである。スタティックな世界を信じることは、現に私たちが暮らしている流動的な世界の実相を峻拒することと同義なのである。