サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「草枕」と「真鶴」

 昨日から、夏目漱石の「草枕」(岩波文庫)を読み始めた。古めかしい措辞や単語を正しく理解する為に幾度も註釈のページと本文とを往復しているので、読む速度はなかなか上がらないが、急ぐ理由も特に見当たらないので構わない。

 小説というものに、正しく普遍的な形式を求めるのは筋違いの欲望である。小説というのはそもそも、厳格な規範によっては縛られることのない自由自在な、雑駁なジャンルであり、それは詩歌や戯曲における古典主義的な端正さと正面から対立している。

 まだ中ほどまでしか読み進んでいないのだが、読みながら私は川上弘美の「真鶴」を思い返していた。夫に失踪され、子供と一緒に世知辛い現し世へ取り残された「私」が、彼岸と此岸との曖昧な間を、いわば幽冥界を彷徨する物語で、漱石の「草枕」同様、現実と非現実との境目を曖昧に掻き消し、濁らせるような筆致が両者に共通しているように感じられたのだ。

 現世と常世との境界線を霞ませること、異界を求めること、それは或る意味では不健全な欲望の形であるが、時にはそういう危険な欲望に身を委ねることで、崩れかかった均衡を正常な状態へ回帰させようと企てるのも、人間の生得的な衝動であると言えよう。それにしても、漱石の文体の自由闊達さ、融通無碍の該博振りは恐るべき強度に達している。多種多様な出自を持つ単語を自在に織り込み、縒り合せながら、その文章は常に緊密なリズムと鋭利な切れ味を失っていない。しかも、明治という激動の時代に活躍した文豪だけあって、その文章の隅々に、新しく勃興しつつある世界と、旧来の世界から継承されてきた厖大な語彙の富との間に生じる、もどかしいような格闘が幾つも幾つも垣間見える。漱石の文章は、それ自体が本格的な「言語」の挑戦である。彼が行なったのは、新時代の日本語による文章の創造であり、だからこそ随所に顕れる措辞の揺らぎや歪みが、読む側の脳味噌を荒々しく刺激するのである。漱石ほど偉大な作家は滅多に存在しない。