「歴史」は「未来」を証明する
古文書や絵巻物といった歴史的遺産には、当時の人々の暮らしや習俗、思想や信仰が断片的に刻みつけられている。それらの古びた世界の「常識」は、現代に暮らす私たちの信奉する凡庸な「常識」とは随分、隔たっているように見える。同じ土地に住み、同じ人類学的特徴を有する社会的集団に生まれながら、百年前、二百年前、或いは千年前の日本人と、今の日本人との間には、夥しい数の相違点が介在している。
だが、どれだけ多くの相違点を抱えていたとしても、古文書や絵巻物の中にその息吹を留めている古の人々の生活が、現代に暮らす私たちと無縁であるとは言えない。寧ろ、相違点と同じだけ多くの共通点や類似点が、長大な時間の隔たりを飛び越えて、彼らと私たちとを結び付けているのだ。そのように考えたとき、私は歴史の世界に一種の明るい希望のようなものを覚える。何故なら、私たちにとって未来は不確定な領域に過ぎないが、歴史の中の人々の未来は、明確に規定されているからだ。
私たちの暮らす現代の社会が、十年後、二十年後に決定的な破局を迎え、地上から跡形もなく消え去るということは大いに有り得る。しかし、例えば江戸時代の人々の姿を古い文献の中に辿るとき、私たちはそのような心配を覚える必要がない。彼らの銘々の運命とは無関係に、彼らにとっての未来の実在は既に立証されている。個人の生死に制限されることなく、彼らの未来は約束されているという事実は、一種の安心感を喚起するのだ。
時代小説や歴史小説が齎す、落ち着いた、或いは揺らぐことのない愉楽というのも、こうした「歴史」の性格に由来するのではないかと思う。考古学的な実証の精度が如何なる水準に達しているかはさておき、少なくとも或る何らかの事実が「確定した」ということそのものは、覆し得ない絶対性を帯びている。良くも悪くも覆しようのない事実に直面したとき、人は喜怒哀楽の揺るぎなき地盤を確保することになる。それは、親が子供を眺めるような感覚にも似ていて、どんな出来事も超越的な高みから、つまり時空の隔たりによって獲得された絶対的な優越性の次元から、彼是と認識したり判断したりすることが出来る訳である。実際に歴史上の或る一点に転生すれば、そのような安楽椅子探偵めいた優越性は直ちに失われ、所謂「歴史のロマン」など雲散霧消するに違いない。何故なら、そのとき「未来」は再び根本的な不確定性を取り戻し、私たちの存在から堅固な足場を奪い去るからだ。未来が曖昧で見通しが悪いとき、私たちは未来に対する倫理的な緊張感の渦中へ投げ込まれる。だが、安全な地点から顧みられた「歴史的な事実」には、そういう未来との危うい関係性が欠けている。整理され、透明化された条理の網目が、歴史的な過去の堅牢な事実性を支えているからだ。歴史的なものに対する抒情的な執着は、不透明な未来という息苦しい観念からの離脱を意味している。言い換えれば、そのとき私たちは、活動的な「現在」さえも「過去の最前線」として位置付け、把握しているのである。