サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

異様な饒舌と「逸脱」への熱量 ハーマン・メルヴィル「白鯨」に関する読書メモ 1

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 アメリカの作家ハーマン・メルヴィルの有名な長篇小説「白鯨」(岩波文庫・八木敏雄訳)の上巻を読み終えたので、感想の断片を書き遺しておきたいと思います。実は昨年の春にも、この「白鯨」という難攻不落の叙事詩に挑戦して無惨にも挫折したという経緯があり、今回はエイハブ船長と同じく「復讐」ということになります。

 この小説は、モービィ・ディックという渾名で呼ばれる獰猛な白鯨と、その白鯨に片脚を咬み砕かれて義足の身となった執念深いエイハブ船長との対決を、語り手であるイシュメールの見聞を通じて描き出すという体裁に覆われています。しかし、一読すれば明らかなように、作者のメルヴィルは決して物語の単線的な構成や描写に、職人的な精巧な手腕を発揮しようとは考えていません。彼は白鯨とエイハブの死闘の物語を成る可く簡明に、活き活きと描写して、丁寧に包装された贈り物のように読者の手許へ届けようなどと、如何にも職業的な殊勝さや誠実さに基づいて、ペンを走らせたりタイプライターをガタガタと言わせたりしようとは思っていないのです。

 彼の文章は洗練や省略とは無縁であり、一つ一つの言葉を、記述されるべき対象への忠実な召使として使役することに熱烈な関心を寄せることがありません。彼はそもそも、一般的な小説の体裁や不文律のようなものにさえ、余り良心的な態度を示してはいないのです。過不足のない情景描写、過不足のない人物表現、過不足のない筋書きの構成と展開、こういったものは、メルヴィルにとっては重要な理念ではなかったように感じられます。若しも彼が精密な小説を書くことに血道を上げる技巧的な作家であったとしたならば、こんな途方もない破格の作品を仕上げることは有り得なかったでしょう。

 だとしたら、彼は一体如何なる意図に基づいて、こんな奇妙な書き方を選んだのでしょうか? 或いは「奇妙な書き方」だと感じるのは私の側の偏見に過ぎず、この作品が執筆された当時のアメリカ社会では、こういう書き方は少しも破格の流儀ではなかったのでしょうか? いや、そんなことはない、当時も「白鯨」は破格の、或いは異様な作品として受け止められていたのではないでしょうか。生前のメルヴィルが、今日のような「伝説の文豪」的待遇とは無縁であったことは、広く知られた事実です。少なくとも、この「白鯨」という小説は、読者の関心や喜怒哀楽に成る可く直接的に訴え掛けようとする商業的な方針とは相容れない性質を多量に含んでいます。

 端的に言って、彼の文章の特徴は「冗長であること」の一語に尽きるかと思います。大袈裟な措辞、持って回った比喩、勿体振った冗談、本線からの甚しい逸脱、こうした要素がメルヴィルの書き遺した文章には色濃く浸透しています。無論、こうした類の文章を愉しむ読者が地上に皆無であるとは言いませんし、寧ろ決して少なくない数の人間が後世、彼の文章に愛着を示すようになったからこそ、今ではメルヴィルの「白鯨」はアメリカ文学の古典的傑作として認められている訳です。しかし、これがあらゆる階層、あらゆる職業や門地、あらゆる文化的背景に属する人々の精神に等しく結び付き得る作品であると看做すには、強引な弁論術の技巧が要求されることになるでしょう。

 言い換えれば、メルヴィルの「白鯨」は、そこにどれだけ多くの粗野な冗談や猥褻な表現を含んでいたとしても、商業的な観点から眺めれば全く大衆的ではなく、幅広い立場の読者の関心を惹起するものではないということです。寧ろ描き出される対象は徹頭徹尾「捕鯨」を巡る種々のトリヴィアルな情報に概ね限定されており、多くの読者にとって、それは「特殊な異郷」の文物に過ぎません。つまり、幅広い立場の人々の「共感」を勝ち得る為には、題材が偏っている上に、語り口も余りに熱狂的で、素直に受け容れ難い雰囲気を身に帯びているのです。

 けれど、そうした「白鯨」の性質は商業的な失錯であったとしても、直ちに芸術的な瑕疵であるとは言えません。メルヴィルの異様な饒舌さと、物語からの「逸脱」に対する並外れた「熱量」は、まさしく小説的な叡智の賜物であると言えます。脱線すること、様々な角度から眺めること、物語の直線的な起承転結を否定すること、これらの天邪鬼めいた要素は総て、所謂「小説」の本領を構成するものです。言い換えれば、小説において私たちが味わい、愉しむべきは、記述されるべき内容としての「物語」そのものではなく、飽く迄もその「物語」を紡ぎ出す上での表現や構成の「新奇さ」なのです。無論、そうした認識が直ちに「主題」の無能な役回りを認めるような態度へ発展する訳ではありません。「白鯨」という小説が「捕鯨」という題材や、エイハブという人物の特異な造形と無関係に存立し、その芸術的価値を発揮しているなどと強弁する積りもありません。

 重要なのは、小説というものは本来、常に「奇妙」であるべきだということです。「白鯨」の奇妙さはそのまま「白鯨」が優れた小説であることの証です。いや、こういう言い方は不適切の謗りを免かれないでしょう。そもそも「小説」の価値は技巧的な優劣という尺度によっては推し量り難いものだからです。「白鯨」が客観的に優れた文学作品であるという認定は、この小説に固有の「価値」とは無関係な査定であると言えます。小説の読解は常に、その作品に固有の「新奇性」を賞味する為の審美的な経験です。そして「白鯨」という小説は「捕鯨」という特殊な世界を敢えて「神話的な世界」のように仰々しく飾り立て、詳細で情熱的な解説を施すという「新奇性」を発揮することで、単なる娯楽性を遙かに飛び越えた「奇怪な経験」を、読者である私たちに齎してくれるのです。

 

白鯨 上 (岩波文庫)

白鯨 上 (岩波文庫)