詩作 「そうやって少しずつ忘れていく」
そうやって
昨日が見えない場所へにじみながら消えていく
たとえばフロントグラスを覆う夕立
たとえば明け方のベランダから見える朝霧の市街地
たとえばタバコの煙の向こうの君の微笑
たとえば削除したアドレスの複雑なアルファベット
初めて口づけたときの戸惑いも
時間の涯で
不意に振り落されるだろう
僕たちは簡単に忘れてしまう生き物だ
古い写真は眩しい光のなかで少しずつ色褪せていく
心の温度がきわめて緩慢な速度で下がっていくように
巧みに重ね合わされた二つの情念の地図も
大陸が移動するように
徐々にかけはなれていく
そうやって
少しずつ僕たちは
かけがえのないものを忘れていく
たとえば君と最初に交わした言葉
たとえば眠れない夜に聞いた音楽の切なさ
たとえば初めて呑みすぎて戻したときの苦しさ
たとえば自分の居場所を見つけたときの幸福
忘れることは罪じゃない
忘れなければ支えられない日々もある
息苦しくて逃げ出した世界
こわくて触れられなかった世界
家出を考えて眠れなかったこともあれば
認められない結婚に痩せ細ったこともある
夜は常に暗い
どれほど華やかな光で闇を追い払おうとしても
忍び込むのだ
だから忘れようよ
少しずつ積み重ねるように
忘却の呪文を記憶の空に浮かべてみようよ
そうやって
必要ではなくなったものの名を数えあげてみる
たとえば両親の厳粛な意見
たとえば幼稚な恋人のヒステリー
たとえばプリント柄のティーシャツ
たとえばマジックテープのスニーカー
たとえば去年のカレンダー
たとえば甘いカクテル
たとえばお揃いのマグボトル
たとえば結婚の約束
たとえば就寝前の長電話
たとえば頻繁なメールのやりとり
たとえば映画館の会員カード
たとえば通いなれたホテルの電話番号
たとえば君の家までの電車の経路の記憶
たとえば誕生日にもらった厚手のコート
空白が幾何級数的に増大していく
夜明けまでの距離
僕たちは簡単に忘れられるだろう
生者必滅の物理法則が
僕たちの恋を壊れた彗星のように
生の彼方へ走らせる
凩の吹き荒れる家路について
僕は今夜最後のタバコに震える手で火を点ける