サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「醗酵的読書」の作法

 先日、カズオ・イシグロの「日の名残り」(ハヤカワepi文庫)を読了したので、次の作品に着手した。休日の昼間、妻と娘を連れて訪れた幕張新都心イオンモールに入っているスターバックスで、「キーライムクリーム&ヨーグルトフラペチーノ」という舌を咬みそうな名称のドリンクを啜りながら開いたのは、ウラジーミル・ナボコフの有名な小説「ロリータ」(新潮文庫)である。

 なかなか分厚い上に、劈頭から実に入り組んだ多義的な文章が蛇のようにのた打ち回る作品で、恐らく読了までには相当な時間を要するであろうと見込んでいる。だが、遅々として進まない読書というものの価値を、最近の私は肯定的に評価しようと考えている。飽きっぽく堪え性がなく、仕事や家庭の忙しさを理由に読書への真摯な集中を直ぐに諦めてしまう己の未熟の、体の良い言い訳を捏造しようという魂胆ではない。大体、そんな殊更な言い訳に、誰も関心など懐かないだろう。勝手にすればいいじゃないかという一言に尽きるような下らない話柄である。

 今春の一時期、一念発起して読書に集中しようと思い、ブログを書く時間を惜しんで、就寝前の時間を優先的に傾注していた。そうやって時間の配分を考え直すと、読了までの期間は歴然と短縮されたが、まるで感想文を書く為に次々とページを遽しく捲っているような気がして、これでは本末転倒ではないかという考えが抑えられなくなった。誰に要求された訳でもないのに、まるで早食い選手権のように浅ましく獲物を頬張って忙しなく咀嚼して、一体何の意味があるというのか。読書の価値が、冊数の競争に存する訳ではないことくらい、本当は弁えていた積りであったが、知らぬ間に脳味噌が混乱していたらしい。読みたい本は幾らでもあるのに、時間が足りない、何とか時間を捻出しなければ、百年生きたとしても全然時間が足りないじゃないか、という一見すると尤もらしい発想に囚われて、そういうアスリート的な読書の作法を採用することにしてみたのだが、最近は正反対の方針を採択しつつある。一気に読む、集中して読むのは誠に結構な遣り方だが、そうやって馬車馬のようにページを捲っていると、余りにも零れ落ちてしまうものの分量が増え過ぎてしまう。読み取った内容が精神の粘膜に定着する間もなく、新しい情報が上書きされてしまい、結果として記憶が不鮮明さの度合を増していってしまうのだ。だから、記憶が新鮮なうちに文章を認めようと試みても、生煮えの断片的な文言しか、頭の中に浮かび上がって来ない。そんな方法では長続きしないし、余り報われないなと考え、少しずつ読書の速度は従来の間延びしたリズムに復していき、現在に至る。

 私はいつでも前向きな考え方を持つ人間である。一応、世の中の陰惨な出来事に対する関心は決して乏しい方ではない。例えば夏場によくNHKなどで放映される戦争関連のドキュメンタリーなどには、いつも異様な関心を喚起されて、見入ってしまうのが通例である。その意味では、私は決して悲観的な考え方と無縁な人間ではない。だが、陰惨な現実を笑い飛ばすような強靭な楽観主義は、私の好むところである。時に不謹慎の謗りを免かれないとしても、私は成る可く、如何なる惨劇にも必ず喜劇的な側面が附随していることを意識しようと努めている。同じように、私は自分の頼りない変節にも必ず積極的な意義を見出すように決めているのだ。遅読は、効率性の観点から眺めるならば愚かしい怠慢の一例に過ぎないが、或る事物を深く理解しようと試みる場合には、有効な方策として認められ得る。

 私の考えでは、遅読の効能とは、読書を通じて得られた様々な認識やイメージの有機的な「醗酵」を齎す点に存する。尤も、これは未だ漠然とした仮説の萌芽のようなものに過ぎない理路なので、敷衍するうちに矛盾して、悲惨な倒壊に帰結するかも知れないが、どうかその点は御容赦願いたい。

 私に限らず、世俗の人々は皆、課せられた種々の社会的役割を全うすることに人生の活力の過半を収奪されている。特別な社会的地位を持たずとも、十人並みの定職を持ち、妻子を抱えて曲がりなりにも一家の大黒柱的な役目を仰せ付かっている立場であれば、普通に暮らしている積りでも時間は泡沫のように瞬く間に消え去っていく。そういう状況の中で、世界には古今東西夥しい数の書物があり、古典的価値が広く承認されているものだけを拾い集めても、その総数は厖大な水準に達するだろう。従って私たちの人生は、総てを読み尽くすには余りにも短く、儚い幻であるという結論が、自ずと導き出されることになる。

 そして漸く手に取り、鞄に忍ばせた一冊の書物を読み通すにも、相応の時間を捻出せねばならず、分かり易く内容の薄い書物ならば直ぐに読み終わるとしても、内容の充実した書物であるならば、読了に至るまでの時間は多めに見積もらなければならない。通勤時間、休憩時間、就寝前のひと時などを細切れに充当して、少しずつ亀のようにページを捲っていくのが、一般的な読書家の典型的な姿ではないだろうか。しかも、そういう細切れの読書作法では、なかなか書物の世界に没頭するということが困難になる。多かれ少なかれ、読書というのは眼前の現実から意識を引き剥がして、見知らぬ異界へ移行する営みである訳だから、細切れの読書というものは猶更、非効率な方法であるということになる。電化製品が、起動する際に最も多くの電力を消耗すると言われるのと、同種の理窟が成り立つ訳である。

 その意味では、纏まった時間を確保して集中的に読書へ充てるのが最も能率的で合理的な施策ということになる訳だが、読書は数をこなすことが重要な営為ではない。その一冊から、どれだけ重要な叡智を汲み上げられるかということが、読書家の実存においては最も中核的な問題なのである。だからこそ、再読や精読といった観念が存在しているのだ。

 その一冊から、如何に重要な個人的叡智を抽出し得るかという観点から眺めるならば、遅読には充分な効用があると私は経験的に考えている。少しずつ読むことで、私たちは一層長く、その書物が内包している「世界」の特異な諸相に触れ続けることになる。その「世界」と付き合っている時間が長ければ長いほど、その「世界」に含まれている様々な成分はより深く、私たちの精神の中核に浸透し、葉脈を広げていく。

 次々に読み終えるということは、次々に別の「異界」へ遽しく飛び移っていくということであり、そこには認識の「熟成」や「深化」の為に必要な、充分な「時間」が欠如している。集中的に、その世界に没頭したのだとしても、限られた時間の中で、何処まで深く潜れるかと改めて顧みれば、心許ない感想が浮かんでくるのは必然的な成り行きではないだろうか。勿論、時間を費やせば、その分だけ「理解」が深まるなどと、賢しらな理窟を述べ立てたい訳ではない。だが、長い時間の経過の涯に初めて見出される世界というものが存在することは、一つの厳粛な事実ではないだろうか。哲学者マルティン・ハイデガーの著作の訳語として案出された「時熟」という言葉があるが(どうやら九鬼周造の発明らしい)、その本来の意味から外れることを承知の上で用いれば、読書における理解には必ず「時熟」というものが必要である。重要なのは、その世界との「情事」を如何に長く持続するか、という点に存している。

 読書における理解が「時熟」を要するという考え方は、必ずしも世人の賛同を得られるとは思われない。現代社会が絶えず「効率」を重視して組織されていることは周知の事実であるし、実際にも私自身、仕事においては「如何に時間を節約して、効率的に振舞うか」ということを絶えず念頭に据えて働いている。そういう風潮が文学の世界に波及した結果として、例えば「速読」といった観念に対する尤もらしい称讃が跋扈するようになったのだろう。

 だが、読書というものはページを開いて、印刷された文字を追い掛けて読み進めている時間の中だけに存在するのではない。作家の保坂和志は、読書は「読んでいる時間が総てだ」という趣旨の発言を繰り返しているが、そう言いながらも彼自身、ページを閉じている間に、色々なことを書物の世界から触発されて、思索を深めているように見える。読んでいる間だけが、読書の時間ではないという考え方は、読書が「時熟」を要するという命題の、言い換えられた表現である。読み取った内容を咀嚼したり、そこから喚起された妄想や追憶の深淵に耽溺してみたり、遡って読み返してみたり、数ページ飛ばして筋書きの行方に何となく見当をつけてみたりするのも、悉く「読書」という時間の一環である。そうやって行きつ戻りつしながら、複合的に立ち上がっていく「異界」の諸相を味わうことが、読書の本来的な醍醐味であり、その為には断続的な「遅読」という作法にも、重要な意義が認められ得るのである。

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

 
ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

 

 

一つの道を信じるということ カズオ・イシグロ「日の名残り」に就いて

 1989年度のブッカー賞の栄冠に輝いた、カズオ・イシグロの『日の名残り』(ハヤカワepi文庫)を読み終えたので、ここに感想を認めておくことにする。

 久々に、とても上質で滑らかな、大変「美しい小説」を読んだという手応えを感じることが出来た。作品が扱っている主題や領域は、それほど大仰なものではないし、物語の構造も、回想を中心としている為に、驚くべき仕掛や絡繰とは無縁である。だが、これほど滑らかな口調と繊細な言葉で精緻に織り上げられてしまえば、どんな物語であろうと呑み込むのは容易く、またその余韻も嫋々たるものとなるに違いない。英語を解さない私に精確な裁定を下す能力も権威も宿っていないが、恐らく土屋政雄氏の丁寧に練り上げられた上質な訳文も、こうした感想を齎す大切な要因として働いているのだろうと思われる。

 戦間期の古き良きイギリスを回顧する、感傷的な小説というラベリングは、この優れた作品に与えられるべき適切な要約とは言い難いだろう。確かにこの小説は、イギリスの名家に仕えた有能な執事の回想録という結構を備えているし、追憶という営みに不可避的に附随する感傷的なニュアンスを豊富に含んでいることも、率直に認めなければならない。だが、古き良きイギリスの面影を甦らせることが、この「日の名残り」という小説の本質であり、最大の美点であるという具合に考えるのは、浅薄な理解ではないかと思う。それが読者の関心を喚起する重要なポイントであることは確かだが、それはいわば入口に過ぎず、沿道に広がる美しい景観のようなものである。

 執事のスティーブンスは、自らの職業に気高い矜りを懐き、嘗ての主人であったダーリントン卿に対する深甚な敬愛と尊崇の感情を今も頑なに保ち続けている。だが、彼の執事としての美しい経歴と人生は、様々な事実から眼差しを背けることによって維持されてきたと評することが可能である。例えばミス・ケントンから寄せられた仄かな恋心、或いは対独協力者として戦時中は危険な橋を渡り、ナチズムの破綻した後は、その社会的な名声と地位を完膚なきまでに剥奪されたダーリントン卿の敗残の客観的な姿、そういったものに対する、半ば意図的な鈍感さ(職業的な良心が齎した鈍感さ、と言い換えるべきだろうか)が、彼の執事としての有能さを支える条件の一部として作用しているのである。自分の職業と、その達成に対するスティーブンスの揺るぎない自尊心は、真実に対する虚心坦懐の認識力を犠牲にすることによって獲得された財産である。

 ミス・ケントンはしばらく私の言ったことを考えているふうでしたが、やがてこんなことを言いました。

「いま、ふと思ったのですけれど、あなたはご自分に満足しきっておられるのでしょうね、ミスター・スティーブンス。だって、執事の頂点を極めておられるし、ご自分の領域に属する事柄にはすべて目を届かせておられるし……。あと、この世で何をお望みかしら。私には想像ができませんわ」(『日の名残り』ハヤカワepi文庫 p.245)

 皮肉な調子を含みながらも、仄かな誘惑の意図を感じさせる、このミス・ケントンの多義的な科白に対しても、スティーブンスは全く的外れな返答で報いてしまう。無論、彼の発言の内容は、彼の旺盛で強靭な職業的良心の観点から眺めるならば、頗る正当で穏健なものであると言えるだろう。だが、彼の関心は余りにも「執事」という職業に絞られ過ぎていて、「執事」という衣裳を片時も脱ぎ捨てたくないという異様な社会的良心が、彼の視野を酷く狭隘なものに捻じ曲げてしまっているように感じられる。そのことの是非を、一律の基準で判定してしまうのは酷薄な態度であるが、少なくともそうした態度には、ミス・ケントンが迂遠な言葉で指摘した通り、過剰な自己満足に付き纏う傲岸な閉鎖性が浸潤しているように思われる。

 無論、この「日の名残り」という小説の美しさと、そこに漂う落ち着いた哀しみは、スティーブンスが己の過去の華々しい経歴と溶け合った、閉鎖的な自己満足の鎧を束の間、脱ぎ捨てる為のプロセスによって醸成されている現象である。ただ、その自己省察は決して悪趣味で急進的なセンセーショナリズムによって構成されている訳ではない。彼の自己省察は極めて慎重且つ緩慢な物腰で徐々に深められていき、一つ一つの記憶の断片が、屋敷の戸棚に納められた高価な銀器のように丁寧に磨き上げられ、往年の輝きを取り戻していく。そうした丁寧な所作、まさに熟練の執事を思わせる典雅な「回想」の積み重ねが、少しずつ真実の在処を暴き出していくことになる。尤も、スティーブンスは苦い自己省察を薬のように嚥下しても、大袈裟に取り乱すことはない。その抑制された哀しみが、この作品を徹頭徹尾、誠実な美しさで装飾しているのである。

ダーリントン卿は悪い方ではありませんでした。さよう、悪い方ではありませんでした。それに、お亡くなりになる間際には、ご自分が過ちをおかしたと、少なくともそう言うことがおできになりました。卿は勇気のある方でした。人生で一つの道を選ばれました。それは過てる道でございましたが、しかし、卿はそれをご自分の意思でお選びになったのです。少なくとも、選ぶことをなさいました。しかし、私は……私はそれだけのこともしておりません。私は選ばずに、信じたのです。私は卿の賢明な判断を信じました。卿にお仕えした何十年という間、私は自分が価値あることをしていると信じていただけなのです。自分の意思で過ちをおかしたとさえ言えません。そんな私のどこに品格などがございましょうか?」(『日の名残り』ハヤカワepi文庫 p.350)

 この文章は「日の名残り」という作品が捉えている、深甚且つ素朴な人間学省察の最も重要な核心を剔抉している。彼の最大の後悔は、自分の決断で何かを選んだことの過ちに起因するのではなく、そもそも自分の意志で明確な「選択」を行なわずに過ごしてきたという苦々しい省察に由来している。モスクムの村人たちの言葉を借りるならば、敢えて「強い意見」を持つということを自らに禁じてきたスティーブンスは、ダーリントン卿を諌めることも出来ず、ミス・ケントンの仄かな慕情に報いることも出来ずに、老境に達してしまった。その後悔の遣る瀬ない深さと痛ましさを、カズオ・イシグロは極めて寛容な口調で描き出している。終幕に際して、スティーブンスが執事としての自己否定に嵌まり込む代わりに、新たな主人ファラディの為にジョークの練習に励もうと思い立つ件は、静謐な哀傷の沼に溺れて死んでいく人間の脆弱さではなく、敢えて立ち上がり、与えられた運命に身を挺していこうとする人間の勇敢さを、穏やかな文体で表現している。

 私の敬愛する作家の坂口安吾は「不良少年とキリスト」という有名なエッセイの中で、太宰治の文業に就いて砕けた口調で論じながら、次のように述べている。

 芥川にしても、太宰にしても、彼らの小説は、心理通、人間通の作品で、思想性は殆どない。
 虚無というものは、思想ではないのである。人間そのものに附属した生理的な精神内容で、思想というものは、もっとバカな、オッチョコチョイなものだ。キリストは、思想でなく、人間そのものである。
 人間性(虚無は人間性の附属品だ)は永遠不変のものであり、人間一般のものであるが、個人というものは、五十年しか生きられない人間で、その点で、唯一の特別な人間であり、人間一般と違う。思想とは、この個人に属するもので、だから、生き、又、亡びるものである。だから、元来、オッチョコチョイなのである。(註・青空文庫より転載)

 恐らくカズオ・イシグロが年老いた執事スティーブンスの姿を通じて描き出そうとしたものも、煎じ詰めれば「何も選択しなかったという後悔」と、それに附随する様々な感情であり、従って「人間そのものに附属した生理的な精神内容」であったと言うことが出来る。そうした根源的な事実そのものに着目して、丁寧に運ばれた筆遣いが、この「日の名残り」という作品に類例のない気品と抒情を与えている。年齢を重ねる毎に一層、この作品を読むことの滋味は、甚だしく深まって感じられることであろうと思う。

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

 

Cahier(小売業渡世・心筋梗塞)

*六日連続の勤務が今日で終わり、漸く人心地がついている。六日連続くらいで大袈裟に騒ぎ立てる積りもないが、立ちっ放しの仕事なので、躰の節々が何となく重たくなってくる。特に「通し」と言われる、朝から晩までのシフトで入る日が続くと、睡眠時間の確保にも難儀するので余計に辛い。昨日は閉店の鐘と共に、部下に発注などの残った業務を任せて早めに帰宅した。それでも家に着いたのは午後九時過ぎだから、公務員的なワークスタイルを営んでいる人から眺めれば、少しも早くないということになるかも知れない。

 昨秋、転職を思い立って彼是と悩んだり行動したりしていた頃は、そういう生活に嫌気が差していた。我々の業界は、世間が休みを謳歌している時こそ、我武者羅に働かねばならない因果な渡世である。二十歳の時から十年と少し、ずっと同じ業界に脳天まで浸り続けて、そういう生活に不満や嫌悪を覚えることがあるのは、止むを得ない仕儀であろう。無論、公務員にも仕事の苦労や悩みは数え切れぬほどあるだろうし、世の中にしんどくない仕事など一つもないと言うことは出来る。だが、こうやって小売業の現場で働き続けてきて、絶えず数字に尻を叩かれて、自らの生業の特殊性みたいなものを意識すると、正月や盆にゆっくり休めるのなら結構な話じゃないかと、詮無い愚痴の一つも零したくなるのは人情である。

 そうした束の間の迷いというか、漠然とした憤懣のようなものが昨秋、殊更に迫り上がった背景には、やはり「数字」という魔物が深く関与していたに違いない。小売業の現場に立ち、陣頭指揮を執って掲げられた目標=予算に向かって奮闘する日々は、常に悪魔のような「数字」との格闘の連続である。尤も、これは決して小売業に限った話ではないし、売上という指標でなくとも、何らかの成績を表す「数字」に縛られ、追い立てられるのは、何処の業種でも職種でも変わらぬ資本主義の宿命であると言えるだろう。何もかもが収益確保のビジネスとして再編成されてしまう時代において、如何なる「数字」とも無縁でいられる人は皆無に等しい筈である。

 だが、一概に「数字」と言っても、その性質が多様であることは確かな事実で、評価の基準となる期間も様々である。不動産の営業と食品の小売では、同じ「売上」であっても、その性質は随分異なる。我々の属する世界では、一分ごとに刻々と売上が積み重なり、一時間ごとに前年の実績との差異が明示される。一日の営業を終えるごとに、その日の勝敗が残酷なまでに明示される。殆どアスリートの世界に等しい構造が横たわっているのである。結果が直ぐに開示されるという意味では、分かり易い達成感を味わえるという利点もあるが、逆に言えば一分単位での緊張を絶えず強いられるということでもある。しかも、我々はずっと立ちっ放しで、着席した状態での商談というものを、少なくとも店頭で経験することは有り得ない。絶えず動き回っているし、絶えず声を出している。毎日、数百人の顧客と束の間の逢瀬を重ね続ける。その精神的負荷も、慣れない間は苛酷に感じられるだろう。更に言えば、我々の書き入れ時は概ね夕刻であり、世間一般の人々が仕事を終えて家路を急ぐときや、家でのんびりと夕飯を食べているときに、忙しさは最高潮を迎える。仕事が終わる時間も遅い。百貨店配属の私は未だ恵まれている方で、二十一時くらいには退勤出来るが、エキナカ(駅の改札内にある商業施設の俗称)の店舗であれば、閉店の段階で既に二十三時という場合もある。そこから閉店業務を済ませて帰宅すれば、確実に日付を跨ぐことになる。飲食業の場合はもっと悲惨で、百貨店のレストランでも物販部門よりは確実に閉店が遅いし、居酒屋やファミレスならば二十四時間営業も有り得る。コンビニの利便性の恩恵に浴している私が言えた義理ではないが、二十四時間営業というのは人間の精神を深く毀損する暴力的なシステムである。非人間的であると言い換えてもいい。時間で区切られるアルバイトなら未だ恵まれている。仮にその店舗の責任者であるならば、二十四時間ずっと、自分が責任を負うべきシステムが駆動し続けるということになる。その客観的で素朴な事実が、人間の精神に及ぼす負の影響の夥しさは計り知れない。

 だが、私は何も不満ばかりを持っている訳ではなく、同時に矜りも併せ持っている。サービス業は余り人気のない業種であるが、我々の存在を捨象して、現代の生活を物語ることは出来ない。その意味では、立派な仕事である。また、絶えず結果と向き合い続けるアスリート的な労務条件も、私の矜りと歓びを構成する重要なファクターである。チームとして、様々な立場や来歴を持つ人々(高校生から定年再雇用者に至るまで、小売のアルバイトの「生物多様性」は図抜けている)と力を合わせて共通の目標に立ち向かい、色々な感情を分かち合える職場というのは、業種によっては有り得ない代物ではないだろうか。

 

*今日、新入社員の女の子の父親が心筋梗塞で倒れ、即入院、即手術という危険な状況を迎えた。その子は休憩中に母親からの連絡で父親の危機を知り、ショックの余り泣き出したようだ。彼女と一緒に休憩へ出た別の社員が事情を報せに売場へ戻ってきた。直ぐに帰らせるように指示を出すと、やがて本人が亡霊のような表情で、両眼を紅く泣き腫らした状態で現れた。御客様の前なので、直ぐにバックヤードへ連れて行き、事情を確認した。本人は突然の事態に気が動転していて、涙を堪えるだけで必死の様子だった。特段、持病がある訳でもなく、本当に急な出来事であったらしい。とりあえず、母親に電話するように命じ、病院の名前と住所を確認させ、手近な紙片に書き留めた。制服から私服に着替え終わった彼女をタクシープールへ案内し、現金を持っていないと言うので千円札に崩した一万円を貸してやり、タクシーの運転手に病院の住所を書いたメモを渡した。

 夜、電話を掛けて状況を確認したときには、彼女の声は随分落ち着きを取り戻していた。手術は済んだが、未だ予断を許さない状況で、父親は集中治療室から出られないらしい。発見が早く、昏睡状態にも陥っていないことが、せめてもの慰めである。

 こういう事態は、誰にでも起こり得る。私の父親は、彼女の父親よりも十歳くらい年嵩で、高血圧の薬を処方されている。同じような悲劇の報せがいつ何時、私の携帯電話を揺さ振らないとも限らない。他愛のない日常の随所に、思わぬ不幸と惨事が忌まわしい大口を開いて待ち構えているという現世の真理は、日々テレビやネットを賑わせる大小様々の「事件」の報道によっても立証されている。そう考えると、やはり、この類の出来事に対して「我関せず」の冷淡な振舞いで関わるのは正しい行ないではないと思う。勿論、病気に対して有効で具体的な方策を示せるのは医者だけであり、家族でさえ、附き添う以上のことは患者に何もしてやれないのが世間の通例である。第三者が差出口を叩くのは破廉恥な振舞いであるだろう。だが、相手の話に耳を傾けて、きちんと相槌を打ってやるだけでも、身軽になっていく何かが確かに存在しているのではないか。それは私自身の過去の経験を顧みても、即座に断言し得る人生の「要諦」である。苦悩は、ただ共有されるだけで、圧倒的にその重量を軽減されるものである。その共有が、苦悩を解決する建設的な効果を持つことは実に稀だが、つまり「共有」そのものに現実を変革する為の力など少しも備わっていないことが普通であるが、それでも「共有」の精神的価値を侮るべきではない。苦悩と二人きりで互いを見凝め合うのは、人間の精神にとって最も危険な「暴挙」の一つである。

サラダ坊主風土記 「仙台・松島・塩釜」 其の六

 「塩竈すし哲」本店は、本塩釜の駅に程近いビルの中に入っていて、三階まで客席があり、我々は二階の座敷へ通された。回転寿司ではないので、幼児を連れて入れるのか不安であった。実際、一階のカウンター席は鈴生りの客で、板前が三人ばかり忙しそうに働いていた。子連れでも入れるかと訊ねると、年配の板前が「二階へどうぞ」と答えた。

 一番奥まった卓子に陣取り、娘の機嫌をイオンタウンで購入したパンで保ちながら、我々は「すし哲物語」と銘打たれた最上級の握りのセットを食べた。恐らく二度と立ち寄る機会はないだろうから、どうせなら一番旨いものを食べておきたいということで、我々夫婦の意見は一致したのである。

 私は寿司を好んで食べるが、魚以外の海産物、例えば海老、蟹、烏賊、貝類、魚卵などは悉く苦手である。だが、折角の機会なので、勇気を奮い起こして平らげることにした。どれも旨い。旨いが、いかんせん高い。その高さに見合う旨さなのかどうか、御世辞にも鋭敏とは言い難い舌の持ち主なので、確信を持つことが出来ない。

 デザートに出された桃のシャーベットを頬張り始めた辺りで、俄かに娘の機嫌が下り坂に傾き始めた。泣き叫び始めると、もう手が付けられない。一歳五か月ともなれば、張り上げる泣き声は劇しく、鼓膜を劈くように響き渡る。抱え上げて、混み合った座敷を脱出し、廊下へ出た後も一向に泣き止む様子を見せず、見兼ねた若い女性店員が寿司の形をした飴を持って、宥めに来てくれた。それでもすっかり猛り狂っているので、飴玉に見向きもしない。勘定を妻に任せて、私は娘を抱えたまま、一足先に表へ逃げ出した。

 細かい雨が降り出していた。松島は晴れていたのに、塩釜は先刻から糠雨が断続的に舞っている。塩竈神社も見物しておきたかったが、そろそろ仙台に戻って土産物を買わなければ、午後四時半の新幹線に間に合わなくなる。優先席に娘を挟んで座り、電車に揺られるうちに知らず知らず転寝していた。旅行で疲れるというのは贅沢な不満である。電車を降りた後、向かいに座っていた老齢の女性が、娘を乗せたベビーカーを押す妻に話し掛けてきた。座席に陣取って大人しく一人遊びして、特に騒ぎ立てもしなかったことを褒めてくれたらしい。

 仙台駅へ着いた後も、エスパル仙台東館のタリーズの硝子戸越しに、見知らぬ老夫婦に娘は機嫌良く手を振っていた。老夫婦もニコニコして、娘に向かって手を振り返してくれた。こういう和やかな局面を作り出せるのは、幼子の特権である。

 仙台駅の土産物売り場で物色をし、職場に持っていく為の、ずんだ餡を用いたサブレを購入した。勘定の際に、数年来使い続けてきた小銭入れが見当たらないことに気付いた。市川から柏の店舗へ移動するときに、部下だった社員が餞別にくれたアクアスキュータムの黒い小銭入れである。タリーズで水出しコーヒーを買ったときに忘れたのかと思い、慌てて引き返したが、考えてみれば、そのときの支払いはスイカで済ませたので、小銭入れには触れていない。最後に小銭を使ったのは何時だろうと記憶を辿って、思い至ったのは松島の瑞巌寺の近くにあった菓匠三全の店舗であった。「萩の月」をバラで三個ほど買ったのである。今更、松島に取って返す時間はない。そもそも、そこに確実に置き忘れたという自信もない。贈り主には申し訳ないが、これも運命と思って諦めた。

 土産物の購入や娘のおむつ替えなどに時間を費やすうちに、時計の針はあっという間に四時を回った。大急ぎで新幹線のホームへ上がり、ぐずる娘を抱えてデッキで子守唄を歌ってやった。疲れていたのか、直ぐに眠りに落ちた。

 新幹線は猛烈な速力で我々を仙台から拉し去り、東京駅まで送り届けた。火曜日の夕刻で、総武線快速の下り列車が暴力的なほどの混雑に襲われていることは十中八九、確実であった。津田沼まで三十分、そこから更に各駅停車に乗り換える手間を考えると、間違いなく機嫌が悪くなるであろう娘を連れて混み合った列車に乗り込むのは、頗る億劫な挑戦に思われた。そこで海浜幕張からタクシーに乗って帰るという経路を思いつき、長々と通路を歩いて京葉線のホームへ向かった。幸いにして優先席が空いていたので、娘と共にそこへ陣取り、彼女の機嫌を窺いながら、何とか最後の旅程を乗り越えた。

 海浜幕張駅で拾ったタクシーの運転手は、寡黙な短髪の大男で、車中にはココナッツの香りが濃密に漂っていた。ダッシュボードの周辺も、豹柄の毛皮のようなもので覆われている。愛想も雰囲気も、宮城で出逢った中年の運転手とは、雲泥の差である。彼の運転で我々は家の近くまで送り届けられ、二泊三日の仙台旅行は終幕を告げた。明日の仕事に備え、私は早々に仕度を済ませて眠りに落ちた。

サラダ坊主風土記 「仙台・松島・塩釜」 其の五

 円通院を見学した後、日暮れが迫ってきたので、我々はベビーカーを押し、トランクを引き摺って、海岸沿いの遊歩道を通って宿へ向かうことにした。途中、福浦島へ渡る朱塗りの大橋の入口を掠めた。妻に折角だから渡ろうかと誘われたが、疲れていたので取り止めた。曇り空が仄かに茜色の輝きを透かして見せるような時刻であった。

 二日目の宿は、松島湾を望む海辺の土地に築かれた、東南アジア風の意匠を備えた「海風土」(うぶど)というホテルであった。盆休みの過ぎ去った平日であったから、ホテルのロビーは静まり返って全く人影が見当たらない。こういう静かなホテルというのは素晴らしい。客が入らず、部屋が稼働しないのは、経営する側としては困った話だろうが、客にとっては紛れもない理想郷だ。

 如何にもアジアンリゾートの雰囲気を連想させる為の仕立てと思しき、作務衣のような制服を纏った中年の男性が、椅子に座って背の低い卓子の前に陣取り、フロント業務に従事していた。此方も向かい合って椅子に座る。今まで、フロントで椅子に腰掛けて宿帳の記入を行なった経験はなく、新鮮な気分であった。

 通された部屋は、貸切の露天風呂が併設された和室で、前日泊まったワシントンホテルの三倍くらいの面積があった。寝間と居間が籐で編んだようなデザインの引き戸で仕切られていて、それぞれが立派な広さを誇っている。空調の効き目も抜群で、露天風呂からは松島湾の海原と島影が見渡せる。思わず、気分を高揚させて、少し躁いでしまった。

 日暮れ時の海辺は、生憎の曇り空で、美しい夕陽を拝むことは出来なかったが、家族三人で浸かる露天風呂は至福の体験であった。幼い娘も湯舟の中を歩き回って上機嫌である。太陽は瞬く間に沈み、闇が辺りを覆った。天候に恵まれなかったことだけが、重ね重ね残念であった。

 夕食は、レストランで取った。新鮮な魚介類を用いた、典雅な和食のコースである。娘が機嫌を損ねて喚き立てるのが難儀だったが、これもまた幸福な時間であった。思わず浮かれて、松島ビールというのを一本頼んでしまった。地元で造った黒ビールである。あっさりして呑み易い。尤も、私はビールの味を解するほどの経験知を持っていない。

 食事を終え、私は独り、屋上の露天風呂へ出掛けた。毎日15時から深夜までが男性、日の出から10時までが女性という交代制の浴場である。明日にはチェックアウトするので、今夜を逃がせば二度と入浴する機会は巡って来ない。そう考えて勇んで出掛けた。

 だが、いかんせん悪天候で、霧が掛かったような夜空には星ひとつ見当たらない。私以外に客はおらず、実質的に貸切の状態であったのは良かったが、浴場の面積はそれほど広くない。何より洗い場が一つしかないのは驚いた。少し混み合えば、直ちに厖大な待ち時間が発生する。そういう訳で、幾分失望しながら早々に湯を上がった。

 夜は娘を寝かしつけるうちに、日中の疲労が祟って早々と眠りに落ちてしまった。一階のロビーで色とりどりの浴衣や、簡便な作務衣などの貸し出しをやっていて、妻は作務衣を借りていた。その姿は、旅館の従業員のようだった。浴衣より作務衣の方が気楽らしい。

 翌日、漸く松島に晴れ間が戻ってきた。小雨と曇天の繰り返しの間は、気温も低く、過ごし易かったが、一旦陽が射し始めると俄かに蒸し暑く、息苦しく感じられる。十一時の遊覧船に乗って塩釜へ移動する為、我々は十時前にはホテルを出た。表の玄関のところで、ホテルの従業員の方が家族三人の写真を撮って下さった。陽射しが眩しい所為か、娘は顰めっ面で映っていた。

 遊覧船の出航を待つ間に、海岸に沿って走る県道の土産物屋で、自家用に南部鉄器の風鈴を買った。フクロウの親子を象った飾りがついていて、揺すると軽やかな、優しく涼しげな音が響く。ぴんと張り詰めた弓の顫えのような音色である。

 瑞巌寺の参道へ向かう途中の売店で、妻は念願の牡蠣を頼み、私は再び「ずんだシェイク」を飲み乾した。宮城県は、牡蠣の名産地である。松島湾の沖合にも、牡蠣の養殖場が点在している。妻は生牡蠣と焼き牡蠣の食べ比べを行ない、感無量の様子であった。牡蠣の味わいの感想を訊ねると、懇切丁寧に説明してくれたが、生憎、私は牡蠣が苦手なので、共感出来なかった。

 塩釜へ向かう遊覧船は、松島湾を周遊する船に比べると、圧倒的に客の数が少なかった。座席に腰掛けて、窓を開け放つと、ひんやりとした潮風が流れ込んできた。今回も娘は折悪しく寝入ってしまった。孫が六人いるという女性の添乗員が、マイクを使って手慣れた様子で観光案内を始めた。彼女の本業は、船に積み込まれた土産物の売り子であるらしく、塩釜の港が近付くと、客席を回って売り込みを始めた。

 塩釜は、松島よりも栄えている様子であった。この辺りの中心地は松島ではなく、塩釜のようだ。JRの駅舎も、松島海岸より本塩釜の方が立派である。港には大きな旅客ターミナルがあり、そこから海辺の道を歩いて、歩道橋を辿っていくと、イオンタウン塩釜に辿り着いた。幕張のイオンモールに比べると、随分こじんまりしている。イトーヨーカドー幕張店くらいの規模である。一階の食品売り場で娘の為にパンを買い、駅舎の向こう側にある寿司屋へ向かった。「塩竈すし哲」という、地元では知られた寿司屋で、そこの握り寿司を賞味することが、我々の塩竈訪問の目的であった。

サラダ坊主風土記 「仙台・松島・塩釜」 其の四

 我々は遊覧船の後方にあるデッキに立って、燃油の香りと強い潮風に包まれながら、曇天の松島湾を周遊した。生憎、娘は桟橋で乗船時刻を待つ間に眠ってしまった。混み合った空間で甲高く泣き叫ばないでくれるのは良いことだが、肝心のタイミングで寝入ってしまうのは、娘の不運なところである。尤も、当人は未だ、己の不運を自覚していない。

 エンジンと風の音に遮られて、キャビンに流れる案内放送の音声は殆ど聞き取れなかった。湾内を航行する間、幾度もウミネコが船尾を追い掛けるように飛んできて、途中で横向きに逸れていく光景が眺められた。船の動きが、そういう気流の形を作り上げるのだろうか。その気流に、ウミネコが便乗しているのではないか。だから毎回、同じ軌跡を描いて登場し、同じ方向へ退場していくのだろう。

 それほど広い面積でもないのに、湾内には大小無数の小島が浮かんでいた。中には、島と呼んでいいのか躊躇われるほどに小さな、ただの岩礁のようなものも含まれていた。松島の名に恥じず、どの島にも概ね確実に松の木が繁っている。東日本大震災津波を被って立ち枯れたままの島もある。津波の痕跡は、今も彼方此方に消え残って、途方に暮れているように見える。

 私の勤め先は昔から、宮城県産の牡蠣をフライ用に仕入れている。震災が起きたときは、気仙沼の辺りも牡蠣の養殖場が潰滅的な被害を受けてしまって、納品が途絶えてしまった。止むを得ず広島県産の牡蠣を仕入れて急場を凌いだが、今ではだいぶ生産量も回復してきているようだ。

 湾内の周遊を終え、レストハウスに戻って一休みしてから、我々は海岸から程近い場所にある臨済宗妙心寺派の古刹「瑞巌寺」を見学しに行った。交通量の多い県道を渡って総門を潜り、土産物屋に挟まれた小径を往くと直ぐに拝観受付へ辿り着く。中に入ると、幅の広い敷石道(この言葉は、大江健三郎の小説から学んだ)が真直ぐに伸びていて、右手に背の高い杉の並木が続いていた。震災の時には、津波がこの参道の辺りまで押し寄せたらしく、塩害も随分あっただろうと推察された。前述した通り、湾内の島々に浮かぶ松の木にも、立ち枯れたままのものが今も残っていたくらいだから、杉だけが無事に済んだとは思えない。

 瑞巌寺は、古びた閑寂な寺院であった。親切な警備員の男性が、自分が見張っておいてあげるから、ベビーカーやトランクは入口の脇に置いていって構わないと声を掛けてくれた。砂利の敷かれた敷地を、娘の小さな手を曳いて歩き、靴を脱いで本堂へ上がった。ひんやりとした薄暗い廊下を、小さな娘は嬉しそうに歩き回る。変に慎重なところがあって、段差に差し掛かると不安げに立ち止まり、手を曳いてくれと態度で示してくる。

 寺院の板敷の床を歩くのは、気分のいい時間である。ただ外側から眺めるだけの寺社仏閣は面白みに欠ける。私が今も感慨深く思い出すのは、京都の東本願寺の御影堂である。巨大な板敷の床は薄暗く、涼やかで、夏の盛りに訪れた所為もあって一層、身も心も安らいだ。日頃の生活では嗅ぎ慣れない、木材や御香の匂いが漂い、靴を脱いで座り込むと、如何にも「非日常」という心持がした。「堂宇の中に入れる」というのは、重要な事柄である。それだけで古びた史跡に対する理解度が随分と違ってくるように思う。

 国宝である本堂の中には「室中孔雀の間」「仏間」「文王の間」「上段の間」「上々段の間」「羅漢の間」「墨絵の間」「菊の間」「松の間」「鷹の間」と銘打たれた複数の部屋があり、何れにも絢爛たる襖絵が飾られていた。別けても印象的だったのが、伊達政宗に殉じて自裁した侍たちの位牌が安置されている「羅漢の間」であった。こういう歴史的な「遺品」を目の当たりにすると、言葉として覚え込まれた知識が俄かに立体化され、具体的な輪郭を帯びて感じられる。本当に生身の人間がここで生きていたのだと思わされる。考えてみれば、当たり前の話でもあるし、同時に奇異な話でもある。この寺院は、単なる飾り物でも、観賞用の遺構でもなく、人間の生活と信仰の「現場」であったのだということが、感慨深く思われる。その寺院の廊下を数百年後、何も知らない幼い娘が、嬉しそうに歩き回っているのだ。

 瑞巌寺の後は、隣の円通院を訪れた。伊達光宗(伊達政宗の嫡孫であるらしい)の菩提寺である円通院は、豊かな苔と木々に覆われた静謐な聖域であった。入口の受付で、ベビーカーに乗った娘は、年配の僧侶たちに手を振って媚を売った。僧侶たちは嬉しそうに微笑み返し、娘に向かって声を掛けてくれた。いつから、こんなに愛想のいい子になったのだろう。

 庭園の奥まった場所には、崖を切り拓いて作ったと思われる空間に、複数の墓碑が佇んでいた。土砂崩れが起きたら、大変なことになるだろう。

Cahier(禅僧への憧憬・国宝「瑞巌寺」・金閣の俗臭)

*娘を寝かしつけて、夕飯の準備が整うのを待つ間、NHKの「日曜美術館」を漫然と眺めていた。番組の最後に流れる、全国の様々な展覧会の御報せの中に、「正受老人と白隠禅師」(飯山市美術館特別展)が混じっていて、眼を惹かれた。

 私には美術に関する知識も眼力も備わっていないので、展示される貴重な禅画や墨蹟の審美的な価値を理解することなど到底覚束ないし、そうした意欲も特に湧かない。私が注目を懐いたのは専ら「白隠禅師」という人名であった。中学生の頃、私は所謂「禅僧」と呼ばれる人々に仄かな、幼稚な憧れを懐いていたことがある。松戸市立図書館や千葉県立西部図書館で、鈴木大拙の著作や白隠禅師の「遠羅天釜」や「夜船閑話」を借りて読んだのも、その頃の懐かしい想い出である。尤も、詳細な註釈が附されていても、白隠禅師の書物を読みこなす能力はなく、主に親しんだのは鈴木大拙の書き綴った、様々な禅僧の逸話の方であった。

 禅僧には、所謂「仏教徒」の中でも、何処か異彩を放つようなところがある。伝えられる往時の逸話に刻み込まれた中国及び日本の禅僧たちの言行は常に破格で、異様で、常識の鎖を容易く食い千切ってしまうような、清々しい野蛮さがある。これは浄土真宗にも共通して言えることかも知れないが、禅僧というのは「日常の中の悟り」を重視する存在である。いや、私は素人なので、飽く迄も門外漢の思い込みに過ぎないことを予め断わっておく。だから、間違っている箇所は幾らでもあるだろうが、余り目くじらを立てないで頂きたい。

 そもそも宗教家というのは「聖職者」という言い方にも表れている通り、俗世間から逸脱した存在であることが原則である。俗人と何も変わらない生き方や考え方を持っているのならば、彼らの宗教性を鵜呑みにすることは難しくなる。得度がどうの、袈裟がどうの、戒律がどうのといった諸々の権威的な制度も、彼らの「聖性」を守る為の重要な手続きとして組み立てられたものであろう。

 だが、禅僧たちの言動は、そうした仏教の神聖なる権威主義を堂々と踏み躙ってしまうような、清冽で爽快な心意気をたっぷりと含んでいる。彼らには、くよくよと辛気臭い悩みを抱え込むような、鬱屈した気配がない。或いは、少なくとも解脱を得る以前は、そのような懊悩を大量に抱え込んでいたのだろうが、開悟して禅僧として立身した後は、常に融通無碍の闊達な境涯に遊んでいるように思われた。そういう姿が、当時の私の眼には非常に眩しく映った。思春期の盛りで、肥大した自意識を持て余し、何を遣っても満たされず、これからどうやって生きて行けばいいのか、その具体的な指針も得られずにいた当時の私は、典型的な若者の一人であった訳だが、そういう境遇に置かれた人間にとって、禅僧という一つの社会的類型は、とても神々しいものであるように感じられる場合があるのだ。彼らは悩みや不安や絶望と無縁で、自由自在に生きている。私もあんな風に、自由自在に生きてみたい。そういう憧憬が、鬱屈した精神に夥しい刺激を注入していたのである。

 思えば、幼い思い込みに過ぎなかった。一旦悟りを開けば何が起きても、もう絶対に安心、というほど、現世は甘くない。「安心立命」という言葉のように、如何なる出来事に逢着しても動揺せず、平穏無事に暮らしていきたいという当時の私の願望は、余りに大それた祈りであった。そもそも、仏道修行の実相に関する具体的な知識もなく、ただ断片的な知識を掻き集めて、手前勝手な妄想を膨らませて、恋焦がれていたに過ぎないのだ。中学三年生の進路相談の季節に、私は思い余って父母に「出家したい」などと世迷言を告げて、困惑させた。だが、それは単なる遁走の形態の一種でしかなかった。私が坂口安吾の「風と光と二十の私と」に深い愛着を覚えるのは、そこに書き込まれた若き日の安吾の姿に、自分自身の十代の頃の心性と相通じるものを感じるからである。何もかも捨て去ろうとするヤケクソの情熱に就いて語る、安吾の静謐な筆致に、私は三十一歳になった今も、懐かしい共感のようなものを見出す。

 「不立文字」とか「教外別伝」とか「脚下照顧」とか、元来中国で育まれた禅宗の風儀には、この手の四字熟語が横溢していて、それが余計に禅僧の闊達な魅力に彩りを添えているような気がする。どちらかと言えば、日本という風土には真宗の教えの方が適しているのではないか、などと、これも門外漢の戯言に過ぎないが、不意に思い浮かんだので書き留めておく。鈴木大拙の著作にも書き込まれている真宗の「妙好人」の挿話など、如何にも日本的な現実に馴染んだ、柔軟で閑雅な味わいが備わっているように感じられる。

 

*そう言えば、仙台旅行の際に訪れた松島町の国宝「瑞巌寺」という古刹は、臨済宗妙心寺派の寺院であった。海岸沿いの繁華な車道から直ぐに石敷きの参道へ通じていて、門前には下世話な土産物屋も看板を掲げているのだが、敷地へ入ると独特の枯淡の風格が肌に迫る。禅寺というのは、強力な精神安定剤の効能を有している。以前、金沢へ旅行した際に、序でに訪れた福井の永平寺曹洞宗大本山)にも、独特の凛冽たる空気が張り詰めていた。そういう静謐な感覚は、例えば京都の金閣寺や、千葉の成田山新勝寺には余り息衝いていない。特に金閣寺の頽廃は凄まじい。外国人観光客の対応に慣れ切って、売店のおばちゃんさえも粗笨な英語を使いこなす、あの俗気に塗れた寺院には、宗教的な節度が欠けている。在るのはただ、身も蓋もない資本主義の論理だけである。別に三島由紀夫の「金閣寺」の影響で、そのような俗臭を殊更に論っているのではない。実際、観光客の対応に疲弊した様子の、やけに事務的な態度の僧侶を目の当たりにしたときの名状し難い失望は、今も私の脳裡の一隅にこびりついているのである。

風と光と二十の私と (講談社文芸文庫)

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風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇 (岩波文庫)

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金閣寺 (新潮文庫)

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