サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主風土記 「仙台・松島・塩釜」 其の三

 仙台旅行二日目の目的地は、日本三景の一つ、松島であった。

 早起きしてホテルのビュッフェで朝食を取り、小雨の降り頻る街路を、仙台駅へ向かって歩いた。月曜日で、ホテルの前を行き交う人々は、休暇気分の暢気な我々とは異なり、足早に職場へ急いでいるように見えた。

 松島海岸駅まで、JR仙石線に揺られて移動する予定であったが、仙台駅に到着したタイミングが悪くて、次の電車まで間が空いてしまった。仕方なく時間を潰す為に、新設されて間もないエスパル仙台東館の土産物売り場を物色した後、手近な改札を通って仙石線のホームを目指すことにした。

 ところが、仙石線のホームは想像以上に地下深くに埋没しており、しかも途中でエレベーターのない箇所があった為に、我々は娘とベビーカーを別個に抱え上げて、エスカレーターを下らなければならなかった。東京駅の総武線ホーム並みに暗闇の奥底へ秘められた仙石線の乗り場の遠さに恨み言を吐き掛けながら、我々は四両編成の電車が到着するのを待ち受けた。

 仙石線の車両は、乗客がボタンを押してドアを開閉するタイプのもので、東京や千葉で見掛けることは滅多にない。私の知る限り、同様の設備は、かつて草津温泉を訪れるときに利用した群馬のJR吾妻線でしか見たことがない。冬場、寒冷になり易い地域ゆえの特別な措置なのだろうか。いや、疎覚えだが、京都を訪れたときに、自分で開閉するタイプの車両に乗り込んだことがあったような気もする。宇治へ向かう快速列車だったろうか。ネットで調べてみると、それらしき情報を探り当てたので、私の記憶は恐らく正しいと思われる。

 仙台から松島海岸まで、概ね四十分ほどの距離であった。ホームまで辿り着いてから初めて、私は仙石線の「石」の字が「石巻」を意味するものであることに気付いた。京成電鉄が「東京」と「成田」を結び、阪神電車が「大阪」と「神戸」を繋ぎ合わせるのと同様の理窟に基づいた命名である。恥ずかしながら、私はこれまで「石巻」と「花巻」の区別さえ、まともに理解することが出来ていなかった。世の中には、余りにも私の知らないことが多過ぎて、しかも私の脳味噌の容量は余りに小さいのだ。

 仙石線の車窓から眺める沿線の風景は、総武線や常磐線の車窓から眺める風景に近似していた。繁華な都心部から、郊外の住宅地へ向かって徐々に色調を変化させていく街衢の風景は、千葉でも宮城でも大差のない眺望であり、こうした都市の同心円的な「濃淡」の移り変わりは、現代日本の全体を覆い尽くす基本的な構造なのだろうと思われた。幅の広い国道や県道が動脈のように大地の上を這い回り、各種の巨大なチェーンストアが、遠くからでも直ぐに見分けられるサイズの看板や外観を備えて、ハンドルを握り締めた顧客たちの眼差しを奪おうと躍起になっている。

 松島海岸駅は、幅の狭いホームと、古びた雰囲気を漂わせる、典型的な田舎の小駅であった。本塩釜駅と比べれば、その貧相な造作は一層、明瞭に看取されるだろう。ホームの面積が狭く、エレベーターの整備を期待する余地もない。苦労して駅舎の外まで辿り着くと、車の影もない静かなロータリーが眼前に現れた。

 同じ列車に乗り込んでいた他の観光客たちは、もたつく我々家族を尻目に、さっさと遊覧船の案内所を経由して、何処かへ姿を消してしまった。事前に組み立てた明確な計画に基づいて、きびきびと行動しておられるのだろう。限られた時間を有効に活用する為の算段を立てておくのは、旅人の重要な心得である。しかし我々には、穴子を食うということ以外に、明確な目標がない。しかも、肝心の穴子を食う店さえ決めていない。ガイドブックに記載された幾つかの店が、漠然と脳内候補に挙がっているだけの曖昧な状態である。

 とりあえず我々は遊覧船に乗り込む前に、穴子を食らうことに決めた。ガイドブックの中から妻が選び出した店に向かい、二十食限定とメニューに謳われた穴子の定食を注文する。幸いにして店内は比較的空いており、目当ての穴子も品切れしておらず、しかも子連れには有難い座敷の席へ通された。幸運である。

 穴子は柔らかく、美味であった。だが、十年近く前に広島の宮島で食べた穴子は、もっと美味であったような気がする。無論、古びた記憶が美化されるのは世の中の摂理である。だから本当のところは分からない。兎も角、無事に「松島で穴子を食う」という我々の掲げた唯一の使命が無事に達成されたのだから、何の不満もない。会計を終えて店を出ると、玄関の前に空席待ちの列が出来上がっていた。やはり、昼食というのはタイミングが総てである。僅かな判断の差が、こういう不毛な待ち時間を生み出す訳だ。

 満腹した我々は、遊覧船の発着場へ向かった。切符売り場に併設された、クーラーの効いたレストハウスで、用便を済ませたりジュースを飲んだり莨を吸ったりしながら、我々は松島湾を周遊する一番人気の遊覧船が桟橋へ現れるのを待った。月曜日であるにも拘らず、遊覧船を待つ観光客の姿は、桟橋を埋め尽くすほどに多かった。出航の定刻が近付き、荷物を抱えて桟橋の行列に加わると、直ぐに後ろへ待ち人が列なって団子が出来た。日本三景の盛名、誠に畏るべしである。

「サラダ坊主日記」開設二周年記念の辞

 毎年八月二十五日は、この「サラダ坊主日記」というブログの誕生日である。

saladboze.hatenablog.com

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 本日を以て、私の運営する零細ブログ「サラダ坊主日記」は開設二周年の節目を迎えた。二年間、あっという間に経過したという月並みな感慨を書き記すのも芸のない話だが、無芸である自分を殊更に隠蔽しても、それで報われる訳ではない。実際、光陰矢のごとしという感じだ。それ以上でも以下でもない。

 二年の間に、色々な出来事が私の人生を襲い、通り抜け、或いは踏み止まっている。娘の出生が最大の記念碑的事件だが、それ以外にも大小様々の「経験」が、私の日常に爪痕を刻んでいる。その一つ一つを悉く記憶している訳にはいかないが、何もかも流されるままに忘却するのは勿体ないという気もする。結局、文章を書いて世間の眼差しに晒すということは、自分という人間の「生きた証」を遺すことに他ならない。そういう健気な自己顕示欲が、私という退屈な凡人にも抜き難く宿っているのだ。そうやって何かを、つまり人生の些細な断片の数々を文字という形式で、世界に向かって刻印したところで、何が起こるというものでもない。煎じ詰めれば、自己満足に過ぎない。だが、その小さな自己満足の累積が、私の日常を彩る重要な習慣にまで育ったことは、紛れもない事実なのだ。

 書くこと、それ自体はとても矮小な営みで、何の建設的な効果も齎さない、砂掻きのように虚しい仕事であるかも知れない。大袈裟な言葉で、その崇高な効能を殊更に称揚しても、その虚しさが根本的に解消されることはない。だが、このようなペシミズムが、書くことの価値を破壊すると考えるのは、幾分偏狭な見方である。矮小な営為、報われない砂掻き、そうしたレッテルの向こう側には、何と言えばいいのか、見知らぬ誰かに何かが「伝わる」という驚くべき奇蹟が、稀に待ち構えていることがあるのだ。実際、このブログには、自分勝手な尺度で綴られた文章しか投稿されていないにも拘らず、見知らぬ人々に読まれ、場合によっては好意的な評価を受けることさえある。これは信じ難い奇蹟に他ならない。そういう束の間の奇蹟の光が、書き続けることの「理由」の一つになる訳だ。

 何が言いたいのか、何時にも況して不明瞭な記事となってしまったが、何卒御容赦願いたい。今後とも「サラダ坊主日記」を宜しく御願い申し上げます。

サラダ坊主風土記 「仙台・松島・塩釜」 其の二

 仙台市地下鉄東西線大町西公園駅」までの道程は、有り触れた住宅街であった。少なくとも、千葉からの旅行者がわざわざ徒歩で徘徊する必要のある地域ではなかった。だが、そういう無意味な散策にも、旅行の醍醐味というものは潜んでいるというのが、私の予てからの持論である。尤も、その醍醐味が潜んだままに終わる事例も決して珍しくないことを、一応は附言しておかねばなるまい。

 地下鉄東西線の駅舎は真新しく、設備も整っていた。例えるなら、つくばエクスプレスの駅舎のような感じだ。調べてみると、2015年の暮れの開業ということで、真新しく感じられるのも至極当然の話である。つくばエクスプレスよりも遥かに新しい電車である。

 一つ隣の「国際センター駅」で下車し、そこから徒歩で仙台城跡を目指すことにした。歩いて十五分くらいの距離ということで、すっかり油断してしまった訳だ。ところが、小雨の降り頻る中、雨傘を片手に持ってベビーカーを押しながら、青葉山の坂道を登る辛苦は、瑞鳳殿の比ではなかった。しかも悲惨なことに、坂道の途中に幾つか石段があり、スロープが整備されていない為に、娘を乗せたベビーカーを抱え上げて登らなければならず、その疲労たるや尋常なものではなかった。狭い山道だから、スロープが整備されていないことを恨むのも筋違いではあるし、そもそもベビーカーを押して登攀を企てる奇特な変人が来訪することへの備えと気構えを、青葉城の管理者に要求するのも詮無い話であろう。悪天候であることは分かり切っているのに、苛酷な急坂を、乳母車を押しながらじりじりと登ってくる、坊主頭の男。一歩間違えば、間抜けなテロリストである。

 城跡まで辿り着くと、本丸会館の売店で「萩の月」を買い食いし、一休みしてから、伊達政宗の騎馬姿の銅像を見物に行った。折角だから写真を撮ってもらおうと妻が言い出し、誰か適切な人物はいないかと思案していたら、不意に背後から声を掛けられた。振り返ると、所謂「カメラクルー」と呼ばれる三人組が、強張った作り笑いを浮かべて此方を見凝めていた。東日本放送という耳慣れないテレビ局の取材スタッフだという。女性のリポーターが、状況を素早く察して「写真撮りましょうか」と言ってくれたので、我々は厚かましく好意に甘えることにした。撮影を終えると、その代わりに取材を申し込まれたので、断る訳にもいかず、彼女の話に耳を傾けた。何でも、宮城県がタレントの壇蜜を起用して作成した観光PR動画が、300万ダウンロードという素晴らしい成果を上げたのだが、その内容に性的な連想を誘発する描写が織り込まれているということで、毀誉褒貶が分かれているらしい。それに就いて一般人としての意見を、つまり「街の人の声」を求められた訳だが、生憎、我々はそんな騒動を耳にしたことがなかったので、会話はなかなか咬み合わなかった。リポーターの方が自分のスマホで、その動画を再生して見せてくれたのだが、確かに分かり易く性的な妄想を喚起しようとする内容になっていて、不快感を覚える人も現れるだろうという感想を持った。だが、それ以上の感想は何もない。宮城県内では侃々諤々の議論が湧き起こる性質のトピックなのかも知れないが、千葉県民の我々には特別な関心を惹かれることのない話題である。とりあえず適当なコメントを捻り出して、喋る度にカメラのレンズを見凝めて微笑んでみたのだが、なかなか先方の期待に添うようなコメントを生み出せず、やがて済崩しに打ち切られた。果たして、私のコメントは放映されたのだろうか。若しも放映されていたら、それは千葉市民の栄誉と尊厳を著しく損なう結果となったに違いない。何しろ、娘の愛車であるベビーカーのフロントには、真っ赤なチーバくんの縫いぐるみが誇らしげに掲げられているのである(彼女は時々、気が向くと、チーバくんの可愛らしい鼻を鋭い前歯で咀嚼している)。

 写真を撮り終えると、疲れ果てた我々はタクシーで仙台駅へ戻ることに決めた。我々が引き当てた宮城訛りの男性運転手は非常に物腰の柔らかな、優しい性格の方で、駅前のロータリーで下車して別れるときに娘が手を振ると、声を立てて笑い、非常に歓んでおられた。うちの娘は最近、知らない人に向かって愛想を振り撒くことを覚え、御年寄りを中心に非常に可愛がられている。両親ともに接客業で飯を食ってきた人間であるから、その血が早くも彼女の小さな体躯の中で芽吹いたのかも知れない。何れにせよ、愛嬌は人間の貴重な財産である。

 一日目の夜は、仙台駅から程近い、仙台ワシントンホテルに投宿した。二日目は松島の、もう少し値の張る宿屋を予約したので、初日は成る可く安いところにしたかったのだ。案内された部屋は、絵に描いたようなビジネスホテルの一室であった。安っぽい訳ではないが、機能性しかない。別段、それで不満がある訳でもない。

 荷物を置いてから、夕飯の調達に出掛けた。牛タンを食べたいというのが我々夫婦の共通認識であったが、騒ぎ立てる粗野な一歳児の娘を連れて、ファミレス以外の飲食店に入るのは勇気の要る企てである。彼女の御機嫌を窺いながら、牛タンに舌鼓を打つには、我々は余りにも疲れ過ぎていた。理想と現実の折衷案として、エスパル仙台本館の地下にある「伊達の牛たん本舗」の売店で二千円の「芯たん弁当」を購入し、ホテルに持ち帰って食した。大変美味であった。娘を寝かしつけた後、我々夫婦は「しくじり先生」を見ながら、晩酌をして眠った。

サラダ坊主風土記 「仙台・松島・塩釜」 其の一

 昨晩、二泊三日の仙台旅行を終えて千葉へ帰ってきた。備忘録を認めておく。

 

 仙台は、数年前に訪れた金沢と似通った雰囲気のある土地だった。江戸時代、雄藩として栄えた城下町としての歴史を持ち(加賀藩前田家の金沢城仙台藩伊達家の青葉城)、文化的な成熟を遂げている点、往古の香りを漂わせる地名が今も残っている点(例えば金沢の香林坊、仙台の名掛丁)、その地方で屈指の繁華街(夜の街)を持っている点(金沢の片町、仙台の国分町)など、類似点は枚挙に遑がない。何れの都市も「コンパクトな京都」という趣を備えていると言ったら、住んでいる人たちに叱られるだろうか。

 一歳の娘を連れて、初めて二泊三日の旅行に出掛けるというのは、我々夫婦にとっては一つの立派な挑戦であり冒険であったが、それでも私たちは、仙台の名物を食らうことへの情熱を蔑ろにしなかった。仙台の厚切り牛タン、松島の穴子飯、塩釜の握り寿司、これらの名物を貪り食らうことに、我々は奇妙な使命感を燃え上がらせて、東京駅から「やまびこ」に搭乗したのである。名所旧跡の見物などは、我々にとっては余技に過ぎない。

 当日(日曜日)の朝、私は明け方五時に眼を覚ました。激務の疲れが消え残っていたが、六時には家を出て、幕張駅から総武線の各駅停車に乗り込んだ。津田沼で快速に乗り換え、東京駅へ辿り着く。駅弁は買わず、朝食代わりにグランスタのパン屋を利用した。朝の七時から開いているらしい。以前に神戸へ出張する際にも一人で利用したことのある店だ。私は現在、百貨店に入居するテナントの店長として働いているが、パン屋というのはとにかく、朝の早い仕事である。どんなに朝早く出勤しても、パン屋に先を越されなかった例がない。十時開店の商業施設でもそうなのだから、七時開店のパン屋というのは、どれほど殺伐としているのだろうか。製造担当のスタッフは、朝の顔を務めるニュースキャスターや、或いは漁師並みに早起きしているに違いない。

 東京から仙台までは、実に快適な旅路であった。新幹線に乗れば、二時間もかからずに仙台まで辿り着ける。問題は、天候であった。しとしとと細かい糠雨が陰湿な表情で我々の来仙を出迎えたのである。暫く右往左往した後、エスパル仙台本館(JRの運営する駅ビル)の地下フロアで親子丼を食らった。牛タンでもよかったのだが、牛タンは夕飯にしようという妻の提案があったのだ。娘は、通常の半分のサイズの親子丼を瞬く間に平らげてしまった。それでも足りないのか、随分と機嫌が悪くて困った。店の中で自分の子供の叫び声が響き渡るというのは、子連れの旅人にとって最も頻繁に襲い掛かる厄介な困難の一つである。

 親子丼を食らう前の館内散策のときに、我々は仙台らしいアイテムとして早速「ずんだシェイク」を賞味した。仙台銘菓「萩の月」で知られる「株式会社菓匠三全」の展開する「ずんだ茶寮」という店が、エスパル本館の地下に入っているのだ。京都の誇る「宇治抹茶」の、関東における有力な対抗馬であると言えようか。素直に美味であった。だが、私としては「宇治抹茶」に軍配を上げたい。「抹茶」の苦味が入り混じった「渋い甘さ」はやはり、一級品である。

 昼餉を終えて、私たちは観光客向けの循環バス「るーぷる仙台」に乗り込み、青葉山仙台城跡を目指した。一日乗車券を買って意気揚々と乗り込むところまではよかったが、車中は通勤ラッシュ並みに混み合っていて、一歳の喚き立てる娘と折り畳んだベビーカーとマザーズバッグと雨傘二本を抱えた我々には、いかにも不向きな乗り物であった。バスの運転手のマイクパフォーマンスが綾小路きみまろ的な諧謔に満ちていて、ずっと聞き惚れていたかったのだが、狭苦しい車内で不機嫌な娘を抱えたまま立ち続ける苦痛に堪えかね、我々は早々に瑞鳳殿仙台藩伊達政宗墓所)のバス停で下車することにした。

 瑞鳳殿青葉山に列なる段丘の上にあり、底意地の悪い急坂と石段が我々を待ち受けていた。古びた史跡であるから、便利なスロープはなく、ベビーカーを抱えた我々は忽ち受難を強いられた。こういう名所旧跡は、幼児を伴った旅人の観光には不向きであることを改めて痛感させられた。しかし、だからと言って引き下がるのは余りに無念である。ベビーカーを石段の下にこっそり駐車して、双手を酷使して娘を抱きかかえ、我々は石段の先に横たわる政宗公の霊廟へ、命懸けの登攀を試みた。

 漸く辿り着いた霊廟は壮麗なものであったが、何しろ十キロを超える体重の獰猛な怪獣を抱えての登攀の為に息が上がり、汗が吹き出し、しかも疎らな雨が鬱陶しく降り続いている所為もあって、じっくり眺めようという気分にはなれなかった。再び急坂を降って、麓のバス停の辺りまで戻ってきたが、改めてるーぷるへ乗り込む気力は湧かず、私は嫌がる妻を引っ張って、徒歩で地下鉄東西線の「大町西公園駅」を目指すことを決断した。車を持たない私は、代わりになかなかの健脚の持ち主なのである。しかも我々三人には過去、千葉駅から幕張駅まで、ベビーカーを押して三時間の道程を踏破したという燦然たる実績がある。何も懼れることはないのである。

Cahier(カミュのヒロイズム・仙台旅行)

*先日、アルベール・カミュの「ペスト」を読んだ感想を記事に纏めて投稿したところ、以前から、そのブログを拝読させて頂いているid:filmreviewさんから、印象的なコメントを頂戴した。

 私はカミュの「ペスト」を、ヒロイズムに対する否定の身振りとして捉えて論じた。筋書き自体は、極めて容易に、息詰まる英雄譚として語ることの可能な物語だが、勇敢な医師と、ペストという不条理な「敵」との闘争の記録、という具合に「ペスト」を読み解くのは、贔屓目に見ても誤解なのではないか、というのが私の考えである。無論、小説に関する感想がどのようなものであっても、それを他人が「誤解」呼ばわりするのは筋違いであることくらい、私も理解している積りだ。だが、少なくとも「ペスト」という作品の随所に、英雄譚という物語の類型に対する否認の記述が織り込まれていることは、確かな事実であるように思われる。

 それに対して、filmreviewさんから頂戴したコメントを、下記に一部引用しておく。

 『ペスト』を読んだのはだいぶ前なので漠然とした記憶ではあるのですが、おっしゃる通り、不条理を人間の力で打ち負かすといった単純な英雄譚ではなかったと記憶しています。ただ、カミュは外的な不条理を描く一方で、自分ではいかんともしがたい自己自身のうちなる不条理みたいなものは描かないのだな、という印象をうけた記憶があります。彼の描く主人公は、不条理を直視し不条理を覆い隠す社会の欺瞞に反抗しはするのですが、自分自身に疑問の目を向けることがないというか。その意味で彼の描くものには、「不条理から目を背けずに対峙し続ける覚醒した自己」という意味での神話的・理想的な英雄主義のようなものが未だ残っているように思うのですが、いかがでしょうか。カフカと比べたときにカミュの観念性や理念性が際立つというのは、そこに関連しているのではと思います。

 カミュの作り出した主人公である医師ベルナール・リウーが、「自己自身のうちなる不条理」に関して盲目であったかどうかは、議論の分かれる点である。リウーが、どうにもならない現実に翻弄される一方で、どうにもならない内的な苦悩のようなものを全く意識せずにいたとは思えないし、自分自身の矛盾に全く眼を向けていなかったと断じることは難しい。

 だが、filmreviewさんの意見を踏まえて、改めて考え直してみると、確かにベルナール・リウーという人物の表象が、他の登場人物に比べて、極めて安定的で、首尾一貫していて、余りにもストイックであり過ぎるように感じられることに、私は気付かされた。その背景に、ベルナール・リウーが、アルジェリアの地方都市を俄かに襲ったペストの災禍に関する記録の書き手として設定されているという構造的な理由が関与していることは事実だとしても、それはリウーのストイシズムの原因であるというより、結果であると看做すべきだろう。ペストの災禍に巻き込まれて、オランに暮らす人々が悉く、それまでの生活の原理を歪められ、精神的な混乱に陥っていくのに対し、ベルナール・リウーは、或る意味では誰よりも責任の重い立場に置かれていながらも、己の倫理的な方針を少しも揺さ振られていないように見える。尤も、ペストの終息の後に届けられた妻の訃報が、リウーのストイシズム(それは無論、ヒロイックなものである)に対する皮肉な痛撃として描かれていると考えることは充分に可能である。しかし、それによって彼の人格がコペルニクス的な転回を遂げることはない。こういう言い方が適切であるかどうかは分からないが、リウーという人物の精神的本質は、この「ペスト」という作品を通じて、聊かも変容していないように見える。それは言い換えれば、この「ペスト」という作品が紡ぎ出された当初から、リウーに負託された作者の「結論」は確定しており、「ペスト」という一つの文学的経験は、その「結論」を揺さ振るものではなく、寧ろその正当性を立証する為の「手段」として位置付けられていた、ということである。このような考え方が、カミュに対して公平な態度であるかどうかは心許ないが、一つの見方としては成立し得るだろう。その意味では、filmreviewさんの仰る通り、カミュは「不条理から目を背けずに対峙し続ける覚醒した自己」という英雄的なアイデンティティを堅持していると言える。

 ベルナール・リウーという架空の人物を、作者と性急に同一視してしまうのは危険な判断かも知れないが、作品の構造を徴する限り、リウーに対するカミュの倫理的且つ実存的な負託は決して小さなものではないと思う。言い換えれば、ベルナール・リウーの英雄的なストイシズムは、アルベール・カミュという生身の人物が懐いていた倫理的な「理想」の形象なのではないか。その素朴な憧憬の念が、ヒロイズムの排斥という小説的な「狡智」の効き目を幾らか弱めていることは事実かも知れない。

 

*明日から二泊三日で、妻子を伴って仙台へ旅行する手筈になっている。最近、激務が続いていたので、骨休めと気分転換を兼ねて、見知らぬ土地の空気を吸いに行きたくなったのだ。

 千葉から仙台まで、新幹線で二時間弱の旅程、それほど遠く離れている訳でもないのに、今まで一度も足を踏み入れる機会に恵まれなかったのは、何故だろう。何故、不意に仙台へ行こうと思い立ったのだろう。こういうことは、改めて考えてみると不思議なように思えるが、単なる偶然に過ぎないことも分かっていて、要は「縁」の問題なのだと、気安く片付けてみるしかない。

 旅先に携えていく本は、カズオ・イシグロの「日の名残り」(ハヤカワepi文庫)である。別に仙台旅行と関わりがある訳ではない。カミュの「ペスト」や、ナボコフの「ロリータ」と共に、纏めてAmazonへ注文していた中の一冊である。数日前から読み始めたばかりだ。執事のスティーブンスが、イギリスの西部地方へ旅立つのと歩調を合わせて、明朝、私も日本の東北地方へ出発することにする。

ペスト (新潮文庫)

ペスト (新潮文庫)

 
日の名残り (ハヤカワepi文庫)

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

 

 

「不条理」の困難な形象 アルベール・カミュ「ペスト」に就いて

 先刻、アルベール・カミュの『ペスト』(新潮文庫)を読み終えた。

 この作品を単純なヒロイズムの物語であるとか、或いは「不条理」に対する戦いの物語であるとか、そういう風に総括するのは、一見すると尤もらしいけれども、きちんと読めば、寧ろこの作品がヒロイックな勇敢さというものの否定を含んでいることは明瞭である。確かにこの作品には世界の「不条理」というものの具体化された形象が随所に鏤められている。だが、訳者の宮崎嶺雄氏が巻末の解説で次のように述べている点に就いては、私は疑念を持った。

 『ペスト』はカミュの「不条理の哲学」が初めて十全の具象的表現をもちえたものとして、彼の作家生活に一段階を劃した最も重要な作品である。『異邦人』のムルソーの「自己への誠実」というモラルは、ほとんどまだ個人的な好尚の域を脱せず、行動者の規範としてよりも、むしろ否定的な面が強かった。『ペスト』において初めて連帯感の倫理が確立され、「不条理」との不断の戦いという、彼の思想の肯定的な面が力強く打ち出されたのである。(『ペスト』新潮文庫 pp.474-475)

 このような概括は必ずしも適切な要約であるとは言い難い。少なくともカミュにとって、世界の「不条理」は戦うべき相手ではない。彼は寧ろ「不条理」を蔽い隠す幾多の欺瞞的な物語(そこには当然のことながら、西洋社会に深く浸潤しているキリスト教の価値観も含まれているだろう)に対する「反抗」を倫理的な規範として重んじていたのではないか。従って「不条理」は格闘の対象ではなく、彼の繰り広げる凡ゆる思想と信条の出発点として定義されるべきである。また「異邦人」に就いても、ムルソーの人格と言動を「自己への誠実」という道徳的規矩に回収するのは不適当な措置であろう。自分に対して正直であること、それは確かな事実だが、重要なのは、そのような素朴な正直さを禁圧する社会に対する眼差しの方だ。つまり、社会は不条理を抑圧することによって、自らの存立の基盤を確保しているのである。

 世界が「不条理」であるということ、それは言い換えれば、無神論的な構図を受け容れるということであり、超越的な救済の物語を導入せずに、どうやって世界の不条理な艱難を乗り越えていくべきか、ということが、カミュの思想と倫理の根幹に位置している。しかし、それは不条理を人間の努力によって「克服」する為の企てではない。「不条理」という世界の本質は如何なる人間的努力によっても解決されない。もっと言えば、どんな困難に関しても、絶対的且つ最終的な解決は有り得ないのだ。物語の終幕で、語り手の医師ベルナール・リウーは、終息したペストが何れ再び甦るであろうことを冷静に暗示するが、これは「不条理との戦い」などという心地良い御題目が根本的な謬見であることを毅然たる態度で告げているのだと、解釈することが可能である。ペストが蔓延した街で、勇敢な医師とその同胞の献身的な努力によって、多くの犠牲の涯に、最終的な救済が獲得される、といった娯楽大作的な要約は、まさしく「ペスト」という作品の最も悪質な曲解に他ならない。ペストの終息は、誰にも分からぬ理由で、飽く迄も偶然の一環であるかのように、俄かに訪れるのである。

 カステルの血清は、急に、それまでは得られないでいた成功を、何度も連続的に経験するようになった。医師たちのとる処置の一つ一つが、以前にはなんの結果ももたらさなかったのに、にわかに確実に効果をあげるように見えだした。(『ペスト』新潮文庫 p.398)

 カミュは明らかに、医師たちの献身的な努力と、病魔の駆逐という事態との合理的な相関性を否定している。尚且つ、注意深く読めば、作中におけるリウーの職業的な努力が一貫して、ペストの抑圧と克服に役立っていないことは明白である。言い換えれば、ペストというものは徹頭徹尾、人間にとって「不条理」な存在であり、その「不条理」に対する人間たちの苦闘はずっと、無益な空転に終始しているのだ。こうした考え方は、俗流のヒロイズムに対する最も暗鬱な排撃であり、しかもカミュは、こうした暗鬱な排撃を手放すことに倫理的な「頽廃」を見出していたのである。パヌルー神父の最初の熱烈な説教に見られるような神学的救済のイデオロギー、その独特な、屈折したヒロイズムさえも、カミュの眼には唾棄すべき瞞着の形式として映じたであろう。神学的な救済は、絶対的な「不条理」の畏怖すべき胴体に、頭と尾を取り付ける為の「手術」のようなものであるからだ。

 明快なヒロイズムの物語としての体裁を排除する為に、カミュが慎重な筆致で綴られた「手記」という形式を採用したのは、当然の措置であると言い得る。一見すると、余計な観念的饒舌と思われる説明的な文章も、本筋から遠ざかるような挿話の数々も、総ては事態の推移を、勇壮なヒロイズムの幻想から切り離す為の「処方」であった訳だ。詳細な心理的省察の数々も、この物語が「疫病との戦い」という明快な図式によって要約されるべき性質のものではないことを証言する為に導入されたのであろうと思われる。尤も、カミュが「不条理」を表現する為に駆使する文学的技法は、例えばフランツ・カフカの「悪夢」の感触に比べると、随分と抽象的な観念を豊富に含み過ぎているような気もするが、それは性格、或いは作風の違いということになるのだろうか。

ペスト (新潮文庫)

ペスト (新潮文庫)

 

Cahier(七十二回目の終戦記念日・「記録」の重要性・米国の年老いた戦闘機乗り)

*昨日は七十二回目の終戦記念日ということで、先の大戦に関連する報道番組が数多くテレビの画面に映し出されていた。夜にはNHKの総合テレビで「本土空襲」と銘打ち、太平洋戦争において米軍が展開した、日本に対する本土空襲の実態を解明するドキュメンタリーが放映されていた。

 その中で、当時の日本やアメリカが国内向けに流していた「国威発揚」「戦意高揚」の為のプロパガンダ的なテレビ報道の一部が取り上げられていた。アメリカは「皆さん、今日はジャップを殺しましたか?」という何とも衝撃的で悪魔的なメッセージを国民に向かって流し、日本は米国の主要な爆撃機であったB-29の墜落現場の映像を流しつつ、勇ましいアナウンサーの音声を流している。映し出される文字のフォントさえも無闇に武張っていて、到底文明人の気風というものは感じられない。何と言えばいいのか、どちらの国も「戦争に勝つ」という至上命題に囚われて精神的に追い込まれ、所謂「人間らしい生活」から随分と遠ざかっているように見える。それらの映像から、昨今の北朝鮮の国営放送に見出されるような、異様に武張った精神性を連想することは至極容易い。言い換えれば、北朝鮮の国営放送が漂わせている異様な空気は、北朝鮮という国家及び人民に固有の特性ではなく、恐らくは「戦時下」という条件が不可避的に醸成するものなのであって、一旦「戦時下」の状態に置かれてしまえば、人間は誰でも、あのような好戦的な「頽廃」の渦中に墜落してしまうものなのだろう。つまり、そういう「戦時下」の精神性は、あらゆる人間的な文明の精華を無造作に踏み躙り、呑み込んでしまう、抗い難い暴力性を孕んでいるのだ。

 スポーツなどの勝負事と同じで、所謂「戦争」は、それを実行に移した以上は、絶対に勝利を収めなければ意味がない。勝てないのならば、最初から手を出さない方がマシである。こうした「勝たなければ意味がない」という「戦時下の精神性」は、個人の倫理的な信条などによって覆し得るほど生易しいものではない。つまり、一旦始まれば、あらゆる手立てを尽くして、勝利を得る為に奮迅するしかないというのが「戦争」の根源的な特質なのであり、中途半端なタイミングで、随意に切り上げるということは不可能なのだ。だからこそ、戦争という巨大な国家的事業に就いては、極力「開戦を回避する」ということが肝要である。開戦してしまえば、それは個人や政府の思惑とは無関係に、半ば自動的に膨張し、戦線を拡大し続ける「システム」であるからだ。

 

北朝鮮とアメリカの政治的関係が悪化の一途を辿っている。彼らは、七十二年前に終わった悲惨な戦争の記憶など、何処かに投げ捨ててしまったかのように、好戦的な言辞を弄し、互いに醜悪な威嚇合戦を繰り広げている。太平洋戦争も、朝鮮戦争も、ヴェトナム戦争も、終結以来百年も経たぬうちから、早くも歴史の風化という嘆かわしい事態に直面し始めている。そもそも、人生八十年と考えるならば、やはり歴史的教訓を生々しい実感を通じて受け継ぐことが可能であるのは、八十年くらいのものなのだろう。そこから先は、当事者と呼ばれる人々の物理的な退場が始まってしまう。そうなれば、問われるのは「記録」と「想像力」の蓄積ということになる。だが、想像力というのは使い方を誤れば容易く堕落する「諸刃の剣」であるから、先ずは「記録」ということが重視されねばならない。安倍内閣は森友・加計問題において「記録の廃棄」ということを無闇に強調したが、本来は「記録の廃棄」というのは人類の歴史に対する犯罪なのである。不要なものは処分したと言うが、何が不要であり、何が重要であるかという判断には必ず権力者の独善的な「恣意」が介入する。記録というのは、取捨選択を排除し、絶えず「包括的」な営為として形成されるべきものである。例えば大岡昇平の「レイテ戦記」などは、そうした「記録」の超越的な力に対する謙虚な奉仕の形ではなかっただろうか。

 

*前述した「本土空襲」のドキュメンタリーで、NHKのインタビューに答えたアメリカの戦闘機乗りの姿がとても印象的だった。彼は戦時中、B-29を護衛する戦闘機部隊のパイロットだった。彼は日本兵を憎み、地上に機銃掃射を仕掛けて、無数の忌まわしい「敵」を撃ち殺すことに興奮さえも覚えていたという。無論、それは「死」と隣接した、まさに「戦時下の精神」が生み出した特殊で奇態な興奮であっただろう。

 戦後数十年が経ち、彼は日本を訪れ、そこで見知らぬ子供から親しげな「ピースサイン」を向けられたという。そのとき、彼は初めて「ジャップ(Jap)」が単なる「標的」ではなく「人間」であったことを生々しく理解した。日本の空を見上げると、B-29が自分に向かって爆弾を落としに来るような錯覚に囚われたという。この挿話は、単純な「回心」の神話に還元されるべきではないし、七十余年前に日本人と米国人が互いに懐いていた「憎しみ」の機械的な猛烈さを否定するものでもない。同じ歴史的情況が再び到来したら、彼はやはりアメリカの愛国者として、日本人を機銃で射殺する職務に精励するだろう。そのとき、女や子供に対する道徳的な憐憫の感情さえも揮発してしまうだろう。それは確かに罪だが、個人的な罪である以前に、いわば人類の「原罪」であると言える。重要なのは、戦争という異常な現象そのものに、人間の文明的な側面を瓦解させる宿命的な力が備わっているという真実を理解することだ。「戦争は制御可能である」という傲慢な過信が、あらゆる戦争の惨禍と遺恨を作り出す、致命的な元凶なのである。金さんもトランプさんも、そろそろ頭を冷やすべきだ。