サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ヤン・ウェンリーという生き方

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

  小説というものの存在する意義や、それが齎す様々な価値について、漫然と考えを巡らせることがあります。過去にアップした記事の中でも、そのような主題を巡って綴ったものが幾つかあります。

saladboze.hatenablog.com

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 勿論、こうした設問に対する答えは、それを問いかける視点や論点の位置、角度に応じて色々な変奏を行ない得るものですから、一義的に「これが正解だ」というものを厳密に定めることなど最初から無理な相談ですが、それでも「小説とは何か」という難解な問題に向かって思索を積み重ねるのは無益なことではないと信じています。それは私が「小説を読む」ということに何らかの救済や慰藉を見出してきた人間だからでしょう。

 そのような設問に対する答えの一つとして挙げられるのが、「小説の役割とは或る象徴的なキャラクターを創出することである」という命題です。私たちが小説を読むとき、いやもっと根本的に言うなら、私たちが読み耽る「小説」という言語芸術の王道的ジャンルには必ず「人事」が描かれています。つまり、小説という芸術的ジャンルには常に「人間」の生き死にするプロセスが刻み込まれているものだ、ということです。

 私の愛する「銀河英雄伝説」もまた、そのような小説的理想の一つの具体的実例であると言えるくらいに、魅力的で多面的な個性を有する人物が数多く登場する作品であり、その物語の世界は二人の巨大なキャラクター、即ちゴールデンバウム王朝を斃して新たな銀河帝国の覇者に登り詰めた情熱的で才気煥発の美青年ラインハルトと、政治や戦争の醜悪な現実に心底ウンザリし、騒々しい世上の現実から遠く隔たった静謐な学究生活に憧れつつも、不幸にして優れた軍略の才能に恵まれてしまったために、軍人としての栄達を余儀なくされた変わり者のヤン・ウェンリーという双極によって構成され、支配されています。

 どちらのキャラクターも「選良」には違いなく、凡人には及び難い偉大な存在として描写されているのですが、私としてはヤンの成熟した(必ずしも「成熟」とは呼び難いかもしれませんが)シニカルな知性の内包する「誠実さ」により多くの共感を寄せています。ラインハルトの輝くような才能と、まさしく王者に相応しい驕慢なプライドには、確かに英雄的な頼もしさがありますが、その根底にあるものがアンネローゼとキルヒアイスへの固着的な愛情であるというのは、いかにも「独裁的な帝王の脆弱」を象徴する構図である気がして、物語としては面白いですが、個人的には共感し辛いのです。何というか、彼は舞台の外から、観客の立場を逸脱することなど有り得ない凡庸な群衆によって仰ぎ見られるべき存在であり、その異常に傑出した才能は内なる精神の未熟な側面とは実にアンバランスです。

 無論、均衡が取れていないのはヤンの場合も同様で、既に述べた通り、彼は自らの「才能」と「志向性」の矛盾によって苦しめられ、例えばラインハルトのように己の能力をいかなる留保も踏まえずに全面的に発揮するということに対して甚しく禁慾的です。それは彼の「美質」であると同時に「限界」でもあって、その比類無い「軍事的思想」は、ラインハルトのような「壮麗な正義」に比べれば遥かに地味で報いの乏しいものです。何と言えばいいのか、ヤンはその「巨大な才能」ゆえに、本来望んでいた人生の選択肢から疎外されてしまったという意味で「不幸な人物」なのです。

 いや、こういう言い方も適切とは言い難いでしょう。何を以て「不幸」と看做すかは、その事態を眺める視点の設定の仕方によって幾らでも変化しますし、最終的に暴徒の凶弾に斃れて短い生涯を閉じてしまったことも、それだけで彼の人生全体を「不幸」の一語に集約するには不充分な理由であると言わざるを得ません。幾らでも要約することが可能であるように見えながら、実際に厳密な検討を加え始めると明快な全体像から無限に遠ざけられてしまうというのは、本物の「人生」の感触を、この作品が備えていることの傍証ではないかと思います。彼はいつも躊躇い、逡巡し、自分の抱え込んだ才能と折り合いをつけることに難渋しているように見えます。その「難渋」は、軍事的な力の行使によって世界を理想的な状態へ導こうとする思想への「抵抗感」に基づく結果です。そこにはラインハルトのような明快なヒロイズムが成立する余地はありません。言い換えれば、ヤンの思想は常に「ヒロイズムの否認」に裏打ちされているのであり、それは彼が「ヒロイズムの齎す不幸」への用心深い省察を「歴史」という教訓の集合体から絶えず汲み取り続けていたことの所産なのです。

 ヒロイズムが「普遍的正義」という観念との間に顕著な親和性を有するものであることは明白でしょう。それは「正義」の名の下に他者の固有性を踏み躙る危険を常に孕んでおり、実際にラインハルトは門閥貴族を踏み潰し、ゴールデンバウム王朝を叩き壊すことで己の信じる「普遍的正義」の実現に邁進していきます。そのストレートな「正義への信仰」がヒロイズムの華麗な輝きを生み落とす訳ですが、ヤン・ウェンリーの思想はそのような「普遍的正義」への疑心を抛棄することが出来ません。或いは、それを「抛棄しないこと」こそ、彼が選択した最大限の「普遍的正義」の様態だったと言うべきなのかも知れません。

 普遍的な正義を信じないこと、或いは「単一の正義」を信じないことが、ヤン・ウェンリーにとっては最も重要な信念であり、それは「単一の正義」へ向かって躊躇せず邁進を続けたラインハルトとは対蹠的な考え方、生き方であると言えます。彼が腐敗したデモクラシーの現実を否が応でも思い知らされる立場にありながら、それでも己の名声を礎にクーデターなどのラディカルな理想主義へ傾斜しようとしなかったのは、つまり「デモクラシーの守護者」であることを辞めなかったのは、デモクラシーが「正義の複数性」を担保する仕組みであると頑なに信じていたからです。しかし、その「単一の正義を信じないという正義」の根本的な有効性は確かめられないまま、「銀河英雄伝説」という物語は幕を閉じてしまいました。それは恐らく、この長大な空想的叙事詩があくまでも「伝説」であって「歴史」ではない、ということなのかもしれません。物語の掉尾に掲げられた文句、即ち「伝説が終わり、歴史がはじまる」という一文は、この物語が「理想的正義の可能的形態」を描くための実験的なフィクション、つまり「理想論」であって、具体的な現実には容易く適用することの不可能な「空論」に過ぎないことを暗黙裡に告示しているのではないでしょうか。ここで語られているのは作者の「夢」であり、「不可能な理想」であって、それを実際的な「現場の問題」として捉える為には、もっと異質な考え方が必要とされるのではないかと私は思います。それが具体的にどのようなものなのか、皆目見当もつきませんが、いずれにせよヤン・ウェンリー的な「理想」も、ラインハルト的な「正義」も、その最終的な有効性は立証されておらず、それは身も蓋もない「歴史による審判」を経由することでしか、意味のある形で確かめることは出来ないものなのでしょう。

 相変わらず纏まりのない文章で申し訳ありません。

 明日は関東も雪が降るらしいですね。

 船橋からサラダ坊主が御送りしました!

 

銀河英雄伝説 文庫 全10巻 完結セット (創元SF文庫)

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