サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

グローバリズムとコミュニズム

 先々週くらいから、乾石智子の『魔道師の月』(創元推理文庫)を読むことに飽きて、居間に積み上げたまま店晒しにしていた『共産主義者宣言』(平凡社ライブラリー)を鞄に入れて持ち歩き始めた。

 私は共産主義という思想の意味を少しも理解していない。私の父親が学生だった頃には、共産主義の思想に取り憑かれた熱狂的な学生たちが「革命」を志向して暴力的な闘争に明け暮れていたと聞く。父親は如何なる党派にも属さない平凡な若者であったらしいが、それでも周りの勢いに呑み込まれて警察官に石を投げ、全力疾走で現場から逃げ出したそうだ(私が子供だった頃の父の口癖は「君子危うきに近寄らず」と「君子豹変す」の二つであった)。

 今日では、少なくとも現代の日本社会においては、「共産主義者宣言」の全篇に亘って頻出する「ブルジョア」や「プロレタリア」といった横文字の単語は既に旬の過ぎ去った死語に等しい待遇を受けているように見える。「階級闘争」という厳めしい表現も、時代錯誤の不毛な観念のように受け止められているのではないだろうか。無論、安倍内閣による所謂「安保法制」の強行採決に反対して、多くの学生たちがデモに繰り出した日々は今も記憶に新しいが、そうした活動が具体的な成果に結実することはなく、当時の熱気も哀しいほど無惨に退潮してしまった。考えてみれば、これは奇怪な現象ではないだろうか? 「一億総中流」の時代が終焉を迎え、小泉内閣による過激な規制緩和の大合唱を経て、刻々と強まり続ける自由主義の圧力と「自己責任論」の普及によって、私たちの暮らす社会が「格差の拡大」を生き続けていることは最早、自明の理である。夫の稼ぎだけで家計は支えられ、妻は専業主婦となって家事と育児に勤しみ、郊外に持ち家を建てて、還暦を迎えたら年金生活に入る、というロールモデルは社会の「典型」であることを止め、大多数の若者にとっては「見果てぬ夢」に様変わりしつつある。これは社会が「階級化」されていることの紛れもない証左ではないのか? 非正規雇用の割合は拡大の一途を辿り、人々の平均的な所得額は下降を続け、未婚率は上昇し、生まれる子供の数は減少を強いられている。生活保護受給世帯の数は絶えず最高記録を更新し続けているし、年金の受給開始年齢は果てしなく繰り上げられていく見込みだ。ほんの数十年前まで、私の父母の世代が現役であった頃まで、当たり前のように信じられていた社会的秩序の形態は、良くも悪くも耐用年数の超過を露わに示している。にも拘らず、階級闘争という言葉の古色蒼然たる響きが人々の大きな関心を集めることはなく、誰も革命が可能であるとは信じず、不透明な居心地の悪さが募っていくばかりである。社会の変革、国家の変革が必要であることは、多くの人々が承認する一般的な事実であろう。しかし、誰もが変革の絶望的な困難に尻込みして、政治的な改革よりも個人的な改革の方に救済の可能性を、希望の萌芽を見出そうとしている。

 とはいえ、そういう現代社会の雄々しい変革を志して、私は「共産主義者宣言」を手に取った訳ではなかった。結局は、単なる知的な関心に過ぎない。そして私が平凡社の版を選んだのは、中学三年生の頃から愛読してきた批評家の柄谷行人が巻末に解説を附していたからであった。

 そもそも、私がカール・マルクスの名を知ったのは、柄谷行人の著作に触れたことが直接的な契機であった。彼は幾度も、自らの厖大な著述の中で、マルクスという思想家の偉大な重要性と画期性に就いて言及している。新進気鋭の文芸批評家として出発した柄谷氏が、更に自らの思想的な領域を押し広げ、文学に留まらず政治や社会、哲学といった広範な分野へ進出していった背景に、ドイツの哲学者カントと並んで、マルクスの齎した決定的な衝撃と濃密な影響が介在していたことは、多くの読者にとっては既に周知の事実であろう。

 自分の知力で理解出来る内容なのかどうか心許なかったし、己の移り気で忍耐力のない性分は弁えている積りであったから、どうせ直ぐに投げ出すことになるだろうと思いつつ、勇気を振り絞って挑みかかった「共産主義者宣言」はしかし、事前の想定に反して頗る読み易く、刺激に満ちた内容であった。

 端的に言って、この薄い書物は、階級闘争の歴史的な推移に関する概説と、そうした現状から導き出される可能的な「未来図」の素描と、これら二つの部分に大別される。そして、第二章の終盤で示される処方箋の楽観的な陳腐さには、私は率直に言って、首を傾げてしまった。「共産主義者宣言」という一冊の優れた書物は、社会の構造に関する犀利な分析においては稀有な価値を体現しているが、この書物が想い描く青写真は、現実味に乏しく、実践的な有効性を欠いているように感じられた。

 しかし、この書物に綴られている社会分析の成果は、1848年の公表から既に170年近い日月を閲した現在においても猶、その有効性を失っていないように見える。封建社会からブルジョア階級の成立に至る歴史的推移の適切な素描は、少しも古びていないし、旧時代の遺物として排斥するには余りに惜しい新鮮な省察によって支えられている。だが、マルクスが(エンゲルス?)「宣言」の中に盛り込んだ、或いは仄めかした未来図の精度は無数の疑問符に彩られていると言わざるを得ない。言い換えれば、彼は未来を語ることに性急であり過ぎたのではないだろうか? ブルジョア階級の勝利は、プロレタリア階級の暴力的な革命によって転覆されるという筋書きは、現代においては古めかしい御伽噺のように感じられる。寧ろ、ブルジョア社会の特質は、様々な技術の発達によって一層加速され、あらゆる「辺境」を貪婪に平らげることに今も血道を上げているのだ。インターネットに象徴される情報技術の異常な発展は、ブルジョア階級によって切り拓かれた資本主義経済の無慈悲な拡張を根底的に支持している。

 生産物の販路の絶えざる拡大という欲望にかりたてられて、ブルジョア階級は全地球を駆け回る。いたるところに巣を作り、いたるところを開拓し、いたるところで関係を結ばねばならない。

 ブルジョア階級は、世界市場の開拓を通して、あらゆる国々の生産と消費を国籍を超えたものとした。反動派の悲嘆を尻目に、ブルジョア階級は、産業の足元から民族的土台を切り崩していった。民族的な伝統産業は破壊され、なお日に日に破壊されている。それらの産業は新しい産業に駆逐され、この新たな産業の導入がすべての文明国民の死活問題となる。そうした産業はもはや国内産の原料ではなく、きわめて遠く離れた地域に産する原料を加工し、そしてその製品は、自国内においてばかりでなく、同時に世界のいたるところで消費される。国内の生産物で満足していた昔の欲望に代わって、遠く離れた国や風土の生産物によってしか満たされない新しい欲望が現れる。かつての地方的、一国的な自給自足と孤立に代わって、諸国民相互の全面的な交易、全面的な依存が現れる。(「共産主義者宣言」金塚貞文・訳)

 マルクスエンゲルスの言葉を借りるならば「国内の生産物で満足していた昔の欲望」を取り戻そうとしているのがドナルド・トランプ率いる合衆国であり、EU離脱に踏み切ったイギリスであると言い得るだろう。そうした「反動派の悲嘆」は、中東を席捲するイスラム過激派の熱狂的な民族主義にも通底している。それは確かにブルジョア階級の崩壊と自由主義体制の破綻を暗示する徴候のように見えるが、保守的な反動によって世界が新たな局面に足を踏み入れることは有り得ないに違いない。メキシコとの国境線に巨大な隔壁を築いたところで、グローバリズムの尖兵たるアメリカの経済が古き良き保護主義の監獄に逼塞し得るとは考え難いからだ。

共産主義者宣言 (平凡社ライブラリー)

共産主義者宣言 (平凡社ライブラリー)

 

サラダ坊主風土記 「安房鴨川」 其の四

 今回の記事で連載は最後になる(予定)。

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 鴨川シーワールドは、少なくとも関東地方ではそれなりに名前の知られたレジャー施設であり、名物のシャチのパフォーマンスも観覧したことのある方は多いだろうから、旅行ガイドブックを書きたい訳でもない私としては、日中の園内の様子に関する描写は割愛したいと思う。とりあえず季節外れの平日であったので、園内は頗る空いており、のんびりと見物して回るには最適の環境であったことだけを、附言しておく。

 その晩は、ホテルのレストランでビュッフェ形式の夕食を取り、妻と順番に幼い娘の面倒を見ながら、交代で大浴場の湯舟に浸かった。温泉を引いているということだったが、私は湯温の低さが不満であった。

 枕が変わった所為か、なかなか娘が寝入ってくれず、蒲団に横たわりながら私たちは睡魔に抗う時間を過ごした。漸く娘が好みの体勢を見つけて微かな寝息を立て始め、私もゆらゆらと霞んでいく意識の片隅で、果てしなく打ち寄せる外房の海の波音を聞いていた。昼間、明るい陽光に照らされ、紺碧に光り輝いていた海原は美しいの一言に尽きたが、日が沈んだ後の海は、端的に言って不吉な暗黒を抱え込んで見えた。轟く波音も、鮮やかな光の下で聞くのとは異質な、独特の不穏な律動として鼓膜を打った。

「やけに明るくない?」

 隣で娘を挟んで眠っていた筈の妻が、不意に起き出して言った。

「月の光じゃないの」

「でも、さっき見たときは、月は出てなかったよ」

 眠気を堪えかねて横たわったままの私とは対蹠的に、妻は蒲団から脱け出して、海と砂浜に面した窓辺へ歩いて行き、薄いカーテンの隙間に頭を突っ込んだ。

「すごい」

「どうしたの」

 気になって起き出すと、確かに部屋の床にも天井にも、青白い光が煌々と濫れていた。月明かりにしては、余りに眩しいような気もする。立ち上がり、妻の傍へ寄って暗い夜空を見上げた。

「星がすごいよ」

 言われて眼を凝らすと、確かに漆黒の闇夜に抗うように無数の星の光が点々と咲いているのが見えた。真っ暗な太平洋は、日没を迎えた都市のように人工的な燈火を燃え上がらせることがない。砂浜に沿った遊歩道に疎らな外灯が光っているが、それだけでは太平洋の暗闇を押し退けるには全く足りない様子だ。

 だが、星屑の美しさだけが私を魅了したのではなかった。寧ろ重要なのは空ではなく、見渡す限り黒々と広がって白い波頭を幾重にも浮き上がらせている外房の海原の方であった。遥か彼方の水平線、それは既に墨色の海と溶け合って見定め難くなっていたが、海と空の境目に寄り添うように、等間隔で星の光のようなものが瞬いていた。水平線の両端は、突堤のように伸びた陸地に遮られていて、右手には橙色の光が幾つも輝いている。時折、燈台だろうか、純白の劇しい光が幻のように一瞬だけ強く輝いて、私たちの眼を射抜いた。水平線に沿って列なる小さな光の粒は、その港の辺りからゆっくりと吐き出されているようだった。つまり、あれらの光は、漁船の焚いている灯りなのだ。

 それは不思議な光景だった。天空に浮かんでいるのは、遙かな距離を隔てて真空の宇宙から放たれた星々の光であり、水平線に列なっているのは人間の手で生み出された科学的な光である。天然の光と人工の光、それらが闇に溶けた海原と天空に、銘々の輝きを晒している。それらは全く出自の異なる光であるにも拘らず、暗闇に閉ざされた視界の中で、同じ星屑の列なりのように煌いていた。これは、神秘的な現象ではないだろうか?

 星屑の光のように見えるもの、それが漁船の光であることを悟った瞬間、私の胸に生まれたのは、奇妙な安堵であり、励ましであった。日が落ちた後、単調に繰り返す波音を聞きながら、暗い海を眺めるのは、私にとって不穏な経験であった。生身の人間が決して足を踏み入れてはならない領域、絶対的な自然の懐、それは人間という生き物の救い難い儚さの徴のように思われた。どうにもならない絶対的な力、自然の脅威、それを古代の祖先は毎日のように切実に感じ取っていたに違いない。だからこそ、その堪え難い脅威を押し退け、幻のような命を守り、次代へ受け継いでいく為に、人間は数多の技術を発明することに心血を注いできたのだ。それは都会の闇が孕んでいる怖さとは、全く異質の何かであった。

 だが、鴨川の漁師たちは、寒風の吹き荒ぶ夜更けの海上に、小さな漁船で漕ぎ出して、自分たちの仕事を成し遂げる為に勇気を振り絞り、苛酷な自然の猛威と闘っているのだ。無論、彼らにとっては慣れ親しんだ業務の、退屈な反復の一コマに過ぎないのかも知れない。暗い海も、暗い空も、数珠のような星明りも、何の感情も揺り起こさない凡庸な眺望に過ぎないのかも知れない。しかし、私の眼に、漁船の灯りは人間的な叡智の輝きのように映じた。以前に読んだサン=テグジュペリの「人間の土地」という書物の記憶が、脳裡へ浮かんだ。飛行機に乗って、不確かな計器の表示に惑わされ、直ぐに不調を訴える脆弱な発動機の顔色を絶えず窺いながら、前人未到の淋しい大空を、昼夜を問わずに飛び続ける男たちの孤独。彼らの眼に、街の灯りはどれほど魅惑的で、神々しい光として映ったのだろうか。それと同質の感覚を今、私は味わっていると言ったら、きっと大袈裟なのだろうが。

肉声と省察(それは誰が語っているのか?)

 世の中には定説として認められている考え方や、或いは一般的な常識として流布している思想信条などが無数に存在する。だが、それらの多くは主語を欠いていて、誰の発案したものなのか、明確に見定めることが難しい。

 だが、どんな考え方にも、具体的な生身の人間の「肉声」が起源として関わっている筈である。例えば「旧約聖書」や「古事記」といった歴史的地層の遙か彼方で生み出された神聖な典籍の類にも、必ずそれを語り継いだり文字に起こしたりした生身の人間の「肉声」が反響し続けているのだ。そのことを私たちは日頃、涼しい顔で閑却し切っている。私たちは誰も日本国憲法の条文を起草した人々の私的な「肉声」に想いを馳せようとはしないし、そのことで特段の不便を感じることもない。学校で習う様々な科目の様々な教科書、そこに印刷されている内容に就いて、私たちはそれが中立的で公平な、つまり極めて客観的な記載の集積であると素朴に思い込んでいるが、実際にはそれも、具体的な生身の「肉声」を基盤として作られたものである。それが「肉声」である以上、そこに絶対的な超越性のようなものを想定することは認められない。

 こうした事実に充分な注意や関心を払わずに生きることに、私たちの多くは慣れ切っているのではないだろうか? だからこそ、私は長い間受け継がれてきた「伝統」や、巷間に広く流布する「常識」や、絶対的な規範としての「法律」の内容に関して、個人的な思索を行き届かせようともせずに、唯々諾々と従って平気な顔をしている。私たちはそれらが「可変的なもの」であるという事実に眼を向けない為に、受動的で保守的な態度を決め込むことにすっかり適応してしまっている。だが、どんな記述も言説も、そこには必ずそれを発した個人的な主体の偏った主観が関与しているのである。それを無批判に受け容れることは、私たちの思考が醜悪なほどに錆びついていることの証明に他ならない。

 重要なのは、どんな意見も法律も具体的な誰かの「肉声」なのだという素朴な事実を閑却しないことである。但し、それは法律や常識を蔑ろにしてもいいという不遜な態度を称揚することとは違う。どんな問題に対しても無闇に気後れせず、きちんと自分の頭で考え、思索の隧道を掘削し続けていく為には、どれほど立派に見える言説であっても、それが個人の肉声の集積である以上は十中八九、何らかの偏倚や歪曲が関わっているに違いないということを、素朴な摂理として弁えていなければならない。そうしなければ、私たちは実に容易く強権的なイデオロギーの繰り出す冷たい論理に屈服させられることになる。いや、本当は止むを得ず屈服させられているのではなく、自らの無知によって屈服しているだけに過ぎない。

 どんな言説も具体的な個人の「肉声」を揺籃として育まれ、社会に流布されているのだという原理的な事実を学び、把握することは、言い換えればあらゆる事物や言説の「歴史性」に眼を開くということでもある。「歴史性」という観念は無論、その本質的な性格において、「永遠の真理」という妄想的な理念に鋭く対立する。無限に正しい真理など有り得ず、どんな考え方も歴史的な具体性の積み重ねの上に「暫定的に」形成されている仮象に過ぎない、という認識が「歴史性」という観念の最も重要な特質である。「歴史性」の観点に立脚する限り、「永遠の真理」などというスローガンが非常に独善的で滑稽な御題目に過ぎないことは、直ぐに喝破し得る素朴な問題である。しかし、実際にこの世界、この社会で生きている私たちの歴史的な「実存」において、そうした崇高なスローガンの欺瞞に絶えず敏感で敵対的な存在として自らを規定し、練り上げることは少しも容易ではないし、素朴な問題でもないのが実態である。

 教科書に綴られた知識や、法律によって定められた事物の善悪、そういったものが歴史的な経緯を踏まえて生み出された「肉声」の或る透明な表現であることを知るだけでは、私たちはそれらの孕む「欺瞞」に就いて批判的な検討を加える為の力を獲得出来ない。つまり、或る認識や言説の歴史的な相対性を指摘するだけでは、そうした歴史的遺産の改革や訂正に辿り着くには不充分なのだ。或る事物の歴史性を理解する為には、私たちは実際にその事物が長い歴史の中で辿ってきた具体的な推移と経緯に関する知識を確保せねばならない。だからこそ、歴史を学ぶことには生産的な価値が宿るのである。

 歴史が失われるとき、私たちは同時に事物の「歴史性」を理解することが出来ない状態に閉じ込められる。或る事物の現況が、束の間の結晶のようなものに過ぎないことを忘れ、それが永遠且つ普遍的に存在するかのように誤解してしまうようになる。それが私たちの批判的な思考力を麻痺させ、現実に対する受動的な隷属を不可避の宿命のように受け止めさせることになる。そういうものなんだから、仕方ないのさ、という見え透いた諦観に沈み込み、自分の頭で考えるという極めて基礎的で重要な習慣を抛棄するようになる。それは人間的知性の度し難い堕落の形態に他ならない。「肉声」を忘れる者は「肉声」で語り、論じる力を奪い去られる。だから、ドナルド・トランプのような独裁者に投票し、彼を大統領の地位に押し上げることを「正義」であると錯覚してしまうのだ。私たちは歴史を学ぶことから始めねばならない。歴史だけが、私たちの思索を奴隷の閉塞から救済する唯一の方法なのである。

サラダ坊主風土記 「安房鴨川」 其の三

 再び紀行文の続きを書く。

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 総武線快速列車の直通運転の終着駅であり、一つの重要な「境界」である上総一ノ宮駅を出発すると、次第に車窓越しの景観は仄かな南国の雰囲気を知らぬ間に纏い始めた。その薄らとした気配というか徴候は、勝浦駅に辿り着く頃には、かなり鮮明に捉えられる状態になっている。日本の古式床しき地理的区分である「令制国」の慣習に準じるならば、いよいよ「上総国」(かずさのくに)を通り抜けて「安房国」(あわのくに)へ足を踏み入れたという感覚が浮き彫りになり始めるのだ。

 JR外房線の駅名を眺めてみれば、自分が総州から房州へ入り込みつつあることの明確な証拠を手に入れることは容易である。「安房小湊駅」「安房天津駅」そして終点の「安房鴨川駅」まで、口喧しく感じられるほどに当地が「安房国」の版図であることを此方へ訴え掛けてくる。

 外房線が海沿いを走るか、内陸に沿って走るか、ただそれだけの違いで印象ががらりと変わったに過ぎないのかも知れないが、勝浦から南へ入ると、温暖な光が降り注ぐように感じられる。農業よりも漁業の香りが色濃く私の鼻腔を擽り始める。この辺りまで来ると、住宅などの建物が犇めき合っている海側の風景と、がらんとして人間の気配が疎らな山側の風景との間に歴然たる違いが目立つようになる。

 良くも悪くも、千葉県は海の国である。尤も、そうした事実は、松戸に住んでいた頃は少しも意識する局面に恵まれなかった。雄渾な江戸川の風景は見慣れても、潮風の匂いを嗅ぐ機会は、あの常磐沿線の地域では得難いものだ。だが、総武沿線は船橋にしても千葉にしても、海までの距離が近く、広大な外界へ向けて無限に開かれているような印象がある。海岸線から遠く離れた国道十四号線の北側に住む私の家のベランダにも、夏場の蒸し暑い日には、噎せ返るような磯臭い空気が爛れた妖怪のように押し寄せてくる。

 安房鴨川駅から無料の送迎バスに乗り、鴨川シーワールドの敷地に隣接するオフィシャルホテルへ辿り着き、フロントで荷物を預ける。宿泊台帳に素性を書き入れ、入園のフリーパスを受け取って戸外へ出ると、眼下に広大な太平洋の紺碧の水面が煌きながら現れた。一月の寒々しい季節ではあっても、遮るもののない海原と砂浜へ降り注ぐ目映い陽光は文句なしに温かく、夏場ならば眩暈を覚えるほど劇しい光の氾濫に襲われるに違いないと思う。

 日頃、海を見る機会に乏しい、厳密には全くない私のような人間には、鴨川の岸辺から眺める太平洋の広々とした青さは、それだけで特別な世界に降り立ったような感興を齎すものであった。幾つもの波頭が果てしない干満の反復を示し、遠くの方では盛り上がって波に変わろうとする水面の紺碧の隆起が無際限に生み出され続けている。その単調で無機的な眺望には、異様な迫力と魅惑が備わっていた。水平線の向こうには何も見えず、ここが陸地の最果てであることを暗黙裡に物語っている。それは不思議な感覚だった。

 それなりに都市化された世界だけに閉じ籠もって日々過ごしていると、こういう自然の風景が齎す感興に対して無防備になる。何と言えばいいのか、人間が掃いて捨てるほど蠢いている都会の息詰まるような風景に、時々嫌気が差すことがあるのだ。そうした厭世的な理由から田舎暮らしへの美化された憧憬に心を焦がす人は大勢いるだろう。肋骨を折られるんじゃないかと危惧せずにはいられない通勤ラッシュの満員電車に来る日も来る日も揺られている人々は特に、人間の匂いを嗅いだだけで反吐が出そうになることもあるのではないだろうか。駅や街中で起きる不毛な啀み合いや下らない喧嘩の類は総て、人間が密集し過ぎていることに由来する現象なのではないかと思う。余りに過剰な人間の集団は、私たちの精神を耗弱へ追い遣る。

 無論、余りに人が疎らな世界に暮らすのも淋しいもので、私自身は隣家と何キロも隔たっているような僻地へ移り住むことになったら、きっと堪えられずに逃げ出すだろうと思う。例えば先ほど少し触れた勝浦などは、市域全体の人口が直近では2万人を割り込んでおり、過疎化地域に指定されているという。豊かな海の幸に恵まれながら、人口の減少に歯止めがかからない古びた田舎町は、日本中に点在しているだろう。いや、寧ろそうした地域の方が多いのかも知れない。東京から余り離れていない地域で暮らしていると、あの満員電車の風景が平均的な日常のように感じられるが、本当はそれは日本の典型的な現実ではないのかも知れない。そう考えると、自分の「日本」に関する種々のイメージに一体どれほどの価値と精確性があるのか、随分と疑わしくなってくる。

 少しの間、明るい海岸の眺望に眼を凝らした後で、私たちは時季外れで人影の疎らな鴨川シーワールドへ足を踏み入れた。

「検索不能」という価値

 世の中、誰でも何でも分からないことはパソコンやスマホで手軽に「検索」して調べるのが当たり前になっている現代社会において、相対的に「検索出来ない情報」の価値が増大していくのは、考えてみれば至極必然的な成り行きである。誰かが「情報化」したものを手早く掻き集めていくのは、既に人間の仕事ではなくなっている。重要なのは「情報化されていないもの」を発見する嗅覚の鋭さであり、「検索すること」よりも「検索という新たな形式」を発明し、それを柔軟にグレードアップさせていく知性の機動力なのである。

 言い換えれば、これだけ情報化と検索の技術が発展した時代においては、知識の総量の豊かさを誇ることは必ずしも人間的な威信の発露には帰結しない。無論、知識を蓄え、教養を高めることは誰にとっても人間的な成長と完成の為の、不可避の条件であるには違いない。だが、皮相な情報を掻き集めるだけならば、私たちは既に自分の海馬に頼らずとも、デジタルな信号の大洋に総てを委ねることが出来る段階に辿り着いている。出来上がった情報、誰かの手で予め調理された情報、それらを手に入れること、蒐集すること自体には、特権的な意義は認められなくなりつつある。重要なのは、検索によっては手に入ることのない情報、事物、景色に触れて、それを自分の言葉で解剖してみることだ。

 デジタルな技術の異様な発達が刻々と加速度を高め、世界全体を貪婪な大蛇の如く覆い尽くしていけばいくほど、アナログな領域の価値が相対的に向上していくのは、少しも奇異な現象ではないし、私がわざわざ文章に書き起こさずとも、多くの人々によって既に承認された社会的な現実であるに違いない。出来上がったもの、完成したものの価値は、これから益々目減りしていくだろう。知識の豊かさが、既に誰かの手で完成された公理の暗誦に過ぎないのであれば、そうした「賢さ」は世間から全く評価されなくなっていくだろう。昔は(その「昔」の具体的な年代を明快に指し示すことは出来ないのだが)知識を得ること自体がとても困難な道程であったから、先人の遺訓を大量に脳味噌の襞へ畳み込んでいるだけでも充分に社会的な崇敬を集めることが可能であった。しかし、これだけ情報を検索する速度が向上し、その厖大なデータベースに誰でも容易くアクセスすることが可能になってしまった時代においては、そうした相対的な威信は一挙に残酷なほどの値崩れを惹起することになる。フラッシュメモリーと記憶の容量を競い合うような愚昧な蛮勇を誇示しても、単なる曲芸のようなものとしか受け取られない時代が具現化しつつある。

 そうなったときに、私たちはどのような生き方を求められるのか。明白に言えることは、私たちは誰でも「固有の省察」を掘り当てることでしか、己の価値を保てなくなるだろうという見通しである。この見通しに未踏の愉悦を感じるか、陰気な嫌悪を覚えるかは、その人の生き方の定義によって異なるだろう。これから、既定の価値を踏襲するだけの生き方が、社会的な説得力を喪失していくことは確実である。誰かが相応の労力を支払って「言語化した思想」を、複写機のように頭の中へ仕舞い込むだけでは、誰からも尊敬されないし、敬愛されないし、そもそもそんな人間に新たな価値を生み出す力が宿る筈もない。私たちは今後益々「自立」という人間的条件を勇気を振り絞って獲得し、保有することを社会の側から要請されることになる。自分なりの視点で物事を捉え、自分なりの解釈を磨き上げて、血の通った「定義」を幾つも拵えていく作業だけが、私たちの人生にオリジナリティを授けてくれる。

 言い換えればそれは「正解ではなく誤答を選べ」ということになる訳だが、それは感情的で暗愚な誤答の上に胡坐を掻いて開き直れ、という意味ではない。そのような安易な考え方で世の中を引っ掻き回す愚か者は、何処にでも氾濫している。私は正解だけを目指すような生き方、正解を手に入れることがゴールであると看做すような生き方を、未来の世界は決して容認しないだろうという予感と共に暮らしているのである。私たちは誤解することから出発するしかないし、誤謬の累積の上に自分の歪んだ人生を営んでいくしかない。私たちの眼球が超越的な「神」の視座を宿すことは有り得ないからである。世の中で日常的に口にされる「人は客観的に考え、論じるべきだ」という意見は、決して「神」を目指すべきだという挑戦的な言明ではない。それは誤謬の瓦礫の中で足掻きながら、少しでもマシな答えを作り出していくべきだという倫理的な覚悟の宣言なのである。私たちの考えは常に「誤謬」である。しかし、それでも一向に構わないのだ。重要なのは「愚かであること」を峻拒することではなく、「借り物の賢さ」を否認することである。愚物であることは、人間の生存の根源的な条件なのだから、少しも気に病む必要はない。それよりも他人の作り出した「正解」をカタログのように羅列して振り翳す「不毛な賢者」であることを、徹底的に恥じるべきなのだ。無論、これは自戒の為の論述である。

「出生」と社会的合意

 典拠が何だったか、具体的に思い出せないまま書くが、先日、2016年の日本における嬰児の出生数が遂に百万人を割り込んだという報道に接した。

 少子高齢化が、成熟した、古びた国家である日本の「宿命」だという論調は長い間、私たちの社会における共通の認識として、通奏低音の如く殷々と鳴り響き続けている。その背景には無論、様々な与件が関わっており、例えば若年層の経済的困窮が引鉄となって、未婚率の上昇と晩婚化の亢進、出生数の抑制といった現象が強化されつつあるという見解は、少しも目新しい推論ではなくなっていると言える。確かに金銭的な窮乏が、そして低所得の生活が将来的に改善される見込みが年々乏しくなり、裕福な栄達への希望が着実に痩せ衰えつつある時代の悲観的な風潮が、若年層の婚姻や育児に対する消極的な方針を強めていることは事実であろう。

 だが、経済的な理由だけで総てを説明しようとすることは、偏狭な見方であることに私たちはもっと留意せねばならない。多くの貧しい発展途上国では、日本とは比較にならないほど子沢山の世帯が多い。私の祖父母は、太平洋戦争を潜り抜けた世代であり、その生活水準は現代と比較して随分貧しかったであろうと思われるが、父方も母方もそれぞれ四人の子供を儲けている。貧しさだけを出生率の低下の理由として挙証するのは、経験的に考えて妥当な解釈ではないのである。

 個人主義の発達、ということが、現代社会の特質の一つとして取り上げられ、大仰に語られている場面に遭遇することは珍しくない。実際、この国における近代化の過程は、地縁と血縁の弱体化という現象を限界まで推し進めてきた。それでも未だアメリカのような極端な水準には達していないかも知れないが、日本の地縁と血縁に呪縛された共同体の歴史的地層は、先住民の虐殺を通じて獲得された広大な新天地への入植という形で始まり、独立宣言の採択から未だ240年ほどしか経っていない合衆国よりも遙かに古く根深い。個人主義の発達を妨げる古びた因習の拘束力が極めて濃密であることを、私たち日本人は考慮に入れるべきであろう。

 個人主義の発達、そして社会そのものの成熟が、近代化の齎した豊饒な果実であることは疑いを容れない。私たちは互いの存在を厳格な規範によって拘束し、監視し続けなくとも、平穏な生活を営めるほどの物質的な幸福を、歴史的な努力の積み重ねの末に手に入れることが出来た。物質が行き渡れば、それを力を合わせて守ったり、或いは限られた面子で分け合ったりすることの必然性が失われていく。言い換えれば、物質的な豊かさが社会全体に浸透することに比例して、共同体に帰属することの重要性や必然性は薄らいでいくのである。それが個人主義的な考え方の発達を促し、私たちの考え方、或いは思想信条のスケールを縮減する結果を齎す。

 共同体に対する強固な帰属は、その歴史的な伝統性に対する敬意や理解を育むが、共同体への忠誠が軟化していくと、必然的に伝統への理解は弱まる。つまり、共同体の存続という問題に対する関心が衰微することになる。それが即物的な次元においては「繁殖」に対する関心や欲望の弱体化を招くのは、当然の帰結である。

 私たちは所帯を構えることや子供を産んで養育することに関して、選択の自由を認められつつある。無論、大勢の多様な人間で構成された巨大な社会の変容は、一朝一夕に完成するものではないし、一旦、躰に根付いた価値観の変更には厖大な時間と労力が欠かせない。だから、今でも「家族」という社会的な単位の重要性は、完全には死滅していないし、寧ろ過剰に亢進した個人主義的な傾向に対する反動のように、共同体への帰属を美化する考え方は局地的に強まっているとさえ言える。それは社会全体が高度経済成長やバブルの時代の楽天的な「成長至上主義」から、異なるフェーズへ移行しつつあることの証左である。日本社会は今後、飛躍的な発展を遂げることはなく、静謐な成熟の段階に進んでいくという観測が、この国では最早、支配的な言説の地位を占めつつあるのだ。

 言い換えれば、私たちは再び「貧しさ」の中へ回帰しようとしているのだ。無論、それは戦後直ぐの焼け野原の中で人々が歯を食い縛って分かち合っていた「貧しさ」とは比較にならないほど豊饒な「貧しさ」である。だが、重要なことは、現状の豊かさが今後も永久に右肩上がりの成長を続けることは困難であるだろうというペシミスティックな考え方が、社会的な合意として承認されるかどうか、という点に存する。人は直ぐに与えられたものの価値に倦怠を感じてしまう生き物であるから、既に手に入れてしまった富の総量がこれ以上増えないだろうという観測は、直ちに「貧しさ」として感受されてしまうのである。

 言い換えれば、私たちの国においても、ドナルド・トランプの君臨する合衆国同様に思想と社会的境遇の「分断」は拡大しつつあるということだろう。「家族」という古き良き価値観を重んじて育児に異様な熱意を示す人々が存在する一方で、婚姻や出産という社会的な価値に関心を示さない人々も増加の一途を辿っている。これは極めて困難な問題であり、共同体への帰属と「繁殖=存続」への欲望が同期している以上、私たちは出生率の向上という問題意識そのものの根本的な妥当性に関して、先ず旺盛な議論を展開しなければならないのだ。だが、私たちはどのように問うべきなのだろうか? 何れこの国が滅びても構わないと考えるならば、「繁殖=存続」の原理と手を切ることは少しも咎められるべき判断ではない。しかし、この国が滅びても構わないのか、という恫喝に、既に共同体への忠誠心を失った個人主義者が容易く屈従するとは考え難い。

人工知能は、書くことの秘儀を駆逐してしまうのか?

 文章作成を主務とした人工知能(AI)が実用化され、色々な方面で活躍しているという。その記事作成能力は恐るべきもので、既定のテンプレートに厖大な情報を紐づけることで、客観的な事実を伝達する為の文章を瞬く間に書き上げてしまうらしい。文法的に精確で、事実を精確に、系統的に伝える洗練された文章を、人間が決して追随することの出来ない驚異的な速度で、AIが次々に作り出してしまうという近未来の空想が、いよいよ血肉を伴った現実として具体化されつつあるのだ。

 AIの実用化によって、数多くの職業が近い将来には消滅してしまうだろう、というSF的な発想は今日、少しも荒唐無稽の妄想の類ではなくなっている。自動車の自動運転技術が完成すれば、遅かれ早かれ、この世界から夥しい数のドライバーが退場することになるのは自明の理である。そして、その影響は、文章を書くことを生業とする人々の世界にも波及しているという訳だ。これから、本当の意味で創造的な仕事だけが人類の掌中に残され、それ以外の単なる「作業」は悉く剥奪されていくだろう。そうした近未来の青写真を、荒廃したディストピアのように物語って悲観したり呪詛したりするのは、真っ当な人間にとっては賢明な態度ではない。尤も「創造的な仕事とは何か」という設問に正しい答えを与えるのは容易なことではないから、悲観的な人々を新しい希望の世界へ導いていくのは骨の折れる作業となるに違いない。

 AIは、定められた手順を恐るべき「速度」と「精確性」を維持したまま、無際限に踏襲していくという性質の業務に関して、人間が幾ら束になっても敵わないほどの驚嘆すべき有能さを示す。それはAIに限らず、広義のコンピュータそのものが、その生誕の瞬間からずっと保有し続けてきた「才能」の本質であろう。定められた手順を正しく素早く実行する、という仕事に向いているのが、人間とAIの何れであるか、この期に及んで見苦しい議論を戦わせたところで無益であるのは分かり切った話だ。これから私たちの社会は新しい次元に移行し、いよいよ近代的な価値観の制度疲労は臨界点に達するであろう。古き良きラッダイトの猿真似を試みるのは、醜怪な犬死の原因にしかならない。

 今後、既定のマニュアルの遵守にばかり血道を上げる人々は、職場から放逐されることになるだろう。言い換えれば、誰かの指示に依存して、決まり切った単純作業に従事することしか出来ない人々は、AIの実用化の残酷な衝撃を正面から浴びて斃れることになるだろう。だが、それは本当に不幸で悲観的な天気図であると言えるだろうか? 重要なのは、「正しさ」というものの価値が一挙に下落するであろうという見通しである。文法的に正しい文章を書く能力、誤字脱字を見逃さない能力、つまり「予め定められたルールの遵守と適用」ばかりに特化して磨き抜かれた能力は、株価の大暴落に苦しむことになるのだ。尤も、そうした事態は遙か昔から受け継がれてきた人間社会の「真理」の拡大された形態に過ぎないという見方も充分に成立する。古今東西を問わず、人間の社会は「新しいものを生み出すこと」で進歩してきた。その為に私たちは「考える葦」として生きてきたのだ。どういうことか?

 これからの時代、つまりAIの実用化が充分に推進された時代においては、人間に残された職業的な価値は「考えること」に集約される筈である。行動すること、そして計算したり分析したりすることは、総てコンピュータの爆発的な能力に委任され、私たち人間は、彼らとの間に共存共栄の為の協定を締結することになる。つまり「棲み分け」が物事の鍵を握るようになる。もっと言えば、私たちは常に「何故、それをやるのか」という根源的な定義の追究を、あらゆる職業の現場において携えながら生きることになるのだ。例えば、物流業界の現場の人々は、その過半がAIに仕事を奪われるだろう。少なくとも、物流の仕事を単なる「荷物の運送と揚げ降ろし」だと解釈して疑わないような人々の手許には、AIとの競争力は残らないに違いない。物流の使命が「物を運ぶこと」に尽きるのであれば、AIの方が遙かに適役であることは火を見るより明らかである。私の所属する小売の世界でも、商品の包装や会計の計算などは明らかに人間よりもAIの方が得意である筈で、そうした単純な作業を「小売の使命」だと誤解している人々は、AIに雇用を奪われても文句は言えないのである。単に顧客の注文を受け、必要な売買の手続きを踏むだけならば、人間を雇う必要はない。つまり、AIの発達と実用化は「人間がやるべきこと」を専一に洗い出し、浮き彫りにする為の重要な指標として機能することになるのだ。

 答えの出ている仕事に取り組むのは、AIだけで充分である。彼らは労働基準法の適用を受けないし、年中無休で働かせても差し支えなく、その存在に敬意を払う必要もない。効率を考えるならば、AIでも成し遂げられる業務にわざわざ人間を割り当てるのはナンセンスな判断である。それは「創造的な仕事」であると一般的に盲信されている文筆業の世界においても充分に当て嵌まる真理であるだろう。単にデータを纏めたり、関連付けたりするだけの文章、或いは諸々の情報を予め定められたテンプレートという鋳型に流し込んだだけの文章、それらは人間が書くよりもAIが書いた方が手っ取り早く、精確である。言い換えれば、単なる「情報」に過ぎない文章ならば、人間の手を経由する必要性は皆無であるということだ。

 そうやって段階的な腑分けを経由するうちに、私たち人間に固有の「価値」というものが少しずつ露わになっていく。人間にしか書けない文章、それは客観的な文章や、中立的な文章ではない。自分の立場を明示せず、自分の主体性を注ぎ込むこともなく綴られた「美しい文章」などに、未来の社会は断じて価値を認めようとはしないだろう。

 だが、それは来るべき人工知能社会だけの特質という訳ではない。厳密には、今まで明るみに出なかった真実、多くの余計な障壁に阻まれて、見極めることが困難であった真実が、AIの発達という社会史的な条件を触媒として鮮明に結像するというだけの話ではないだろうか。今も昔も、単なる中立的で客観的な文章に、人間の魂が震撼させられたことは一度もなかったのではないか。精確な情報が要請される場面は無論、社会の到る所に日々出現している。しかし、そうした情報の価値は今後、AIによって管理されることになり、私たち人間は無味乾燥な「正しさ」の監獄から釈放されることになるのだ。

 私が私であることの意味、それを問い詰めない限り、これからの新しい時代の「雇用」を人間が保ち続けることは不可能である。書くことの秘儀など、さっさと駆逐されてしまうがいい。そうやって夾雑物を軒並み取り除いた後に残る一粒の砂金の「価値」を、私たちは真剣に見定めるべきだし、寧ろそれだけを相手取って生涯を卒えるべきである。こうした考え方は極論のように響くかも知れないが、燐寸しか使えない時代に燐寸を使うことの意味と、ライターが存在する世界で敢えて燐寸を用いることの意味との間には、千里の径庭が横たわっている。燐寸が滅び去ることの必然性を、懐古趣味だけで覆すことは不可能であるし、そもそも不健全で因習的な発想なのである。