サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主風土記 「花見川」

 先日の休みに、用事があって妻と娘と共に区役所へ行った。天気が良かったので、少し風は冷たいが、自転車で行った。京成とJRの線路を渡る地下道を潜り、税務署の近くのステーキハウスで遅めの昼食を取ってから、平坦な道を走って、花見川を越えた。

 用事自体は直ぐに済んだので、少し遠回りして帰ろうということになった。区役所の傍を流れる花見川に沿って、サイクリングの為に整備された道路が続いている。私たちは大した目的も持たずに、川沿いの道を走り出した。空には仄かに霞がかかり、鮮やかな午後の太陽の光をぼんやりと鈍らせていた。

 再び電車の高架を潜り、国道十四号線を越えて、当て所もなく真直ぐな舗道を疾駆する。食欲を満たされた娘は、自転車の振動に甘く刺激されて、荷台の椅子に座ったまま、眠りに落ちてしまった。右手の方角には、海浜幕張のビル群が見渡せる。花見川の流れに沿って、高層マンションが幾つか並んでいる。

 ずっと走り続けるうちに、河口を渡る陸橋の下から、海の青い影が見え隠れするようになった。この舗道が何処まで続いているのかも分からないまま、私たちは走り続けた。工場なのか、入り組んだ配管の塊のような建造物をフェンス越しに眺めながら角を曲がり、堤防の高台へ登る。一面の海原が、生温い陽光を浴びて、白々と輝いている。鮮やかな紺碧の海ではない。灰色と藍色の中間で、静かに時間の経過を計えているような顔つきの海面だ。咄嗟に私は、新潮文庫版のアルベール・カミュ「異邦人」の表紙を思い出した。アルジェリアの海のように、劇しい目映さを持たない、温度を下げた稲毛の浜辺である。

f:id:Saladboze:20180313234313j:plain

 暫くの間、懶い海の眺望に見蕩れた後で、私たちは海沿いの道を走り、美浜大橋を渡って(妻曰く、地元では「ナンパ橋」と呼ばれているらしい。美しい夕暮れの海景が眺められるそうだ)海浜幕張へ向かった。スターバックスアールグレイのフラペチーノを呑み、陽の翳り始めた肌寒い家路を辿る。今日も一日が静かに終わっていく。

異邦人 (新潮文庫)

異邦人 (新潮文庫)

 

 

Cahier(禁忌・罪悪・実存)

*この世界には、数え切れぬほど多くの「禁忌」が存在し、人間の心理と生活を縦横に縛っている。昨年の暮れから読んでいる三島由紀夫の「禁色」には、女を愛することの出来ない美青年の苦悩が描かれているが、例えば「同性愛」というものに対する社会的な禁圧の歴史と重みは、過去に無数の人間の魂を縊り殺してきただろうと思われる。

 自分の内面と社会的な禁圧との対立、こうした問題は性愛に限らず、地上のあらゆる事物に浸透して、様々な苦悩や闘争を生み出してきた。その苦悩の深刻さは、或る対象に加えられる禁圧の劇しさに比例する。社会的に是認されないものを愛するとき、欲するとき、求めるとき、人間の内面には深刻な亀裂が走る。

 社会的に定められた禁忌が、時代と共に変遷することは素朴な事実である。従って、禁忌の正しさを「相対的な正しさに過ぎない」と嘲弄することは容易い。少なくとも、歴史は禁忌の根本的な相対性を事実として明示している。だが、時代の価値観の渦中に置かれているとき、人間の内面が如何に強烈な制約を社会や共同体から課せられるものか、心当たりのない者は皆無であろう。社会の大多数が是認している正義や律法に反することは、劇しい罪悪感を生み出す。それに抵抗し続けることが齎す精神的な負担の大きさを、安価に見積もるのは賢明ではない。

 禁忌は常に罪悪という観念と隣接している。禁忌による支配は、懲罰による支配であると同時に、懲罰を内面化することによる支配でもある。懲罰の予感には、禁じられた行為を慎ませる心理的な威力が備わっている。

 一方で、人間には罪悪に対する欲望も存在している。禁忌を侵犯したいという欲望が備わっている。無論、それは誰にでも普遍的に装備されている欲望であるとは言えない。だが、多かれ少なかれ、禁忌に対する抵抗の欲望は、人間性の根源的な領域に埋め込まれているのだ。

 正しくないものを愛すること、これは誰にでも起こり得る事態である。正しくないものを愛する感情は、懲罰の予感によって牽制されつつも、社会的な暗部への潜行を開始する。それは抑圧されながらも、内面の片隅に消え残り、熾火のように燃焼を続ける。社会に適応する為には、禁忌に抵触しないことが重要な条件となるが、社会的な適応だけで、人間の実存的な欠如が完全に充足される訳ではない。過剰に突き詰められた社会的適応への努力は往々にして、人心を深刻な荒廃へ追い込む。或いは、劇しい飢渇を惹起する。この飢渇は日頃、理性的な管制の下に鎮められているが、飢渇の存在そのものを否認することは、自己への暴力に他ならない。

 恐らく三島由紀夫は、禁忌や罪悪といった主題に就いて、少なからぬ思索の蓄積を有していただろうと思う。彼ほど、社会的な価値と実存的な価値との間に生じた「亀裂」や「乖離」の意味を執拗に問い詰めた作家は珍しい。単なる露悪的な淪落は、彼の重んじる実存的な規矩に適合しなかった。露悪的な淪落ならば寧ろ、この世界には有り触れている。或いは、社会的価値と実存的価値の双方を、生半可な仕方で両立させる手合いも、巷間には夥しい(勿論、私自身も含めて)。だが、三島は社会的規範への驚嘆すべき従順さを保ちながらも、実存的な暗部(それは罪悪に対する欲望を秘めている)を肯定し続けた。それが単純で収まりのいい肯定でなかったのは論を俟たない。三島の特筆すべき魅力の源泉は、その引き裂かれた両義性の奥底に湧出しているのである。

Cahier(蹉跌・苦悩・里程標)

*昨夜、仕事の後、退職を希望する部下の社員と酒を交えて話をした。強く慰留しようという意思を持って、その場に臨んだ訳ではない。ただ、自分の経験を踏まえて、幾つかアドヴァイスを試みた。

 その女の子は、典型的に仕事が出来ないタイプである。第一に自分に自信がなく、自分の考えや意見をはっきり主張することが出来ず、そもそも自分自身の内面と対話する力が薄弱である。自分自身と向き合い、自分自身の真率な感情を汲み上げていく「思考」の努力が不得手なのだ。だから、自分自身に固有の基準や価値観を樹立することが苦手で、結果として自信が持てず、風見鶏のように他人の意見や思惑に振り回され、蹂躙されてしまう。彼氏候補だと思っていた相手が詐欺師だったこともあるらしい。

 自分で自分を信じることが出来なければ、失敗を成長の材料として活かすという普通の努力を維持することが難しくなる。他人の顔色を絶えず窺い、委縮しながら働くので、充実感や達成感も得られない。当事者意識や責任感も弱まり、指示待ちの受動態の傾向が亢進する。つまり、悪循環なのである。

 極めて初歩的な業務でも、つまらないミスが続くこともあり、私は幾度となく厳しい口調で叱責してきた。その重圧に堪えられなくなった所為もあるのだろう。自信を失い、これからの成長を自分に対して期待することも出来ず、挫けてしまったのだ。

 彼女は最初に私を飛ばして、私の上司に退職したいという意思を伝え、峻拒されたらしい。直属の上司は私なのだから、そこを飛び越えられたら、私としても立場がない。怖くて言い出せなかったのかも知れないし、言葉巧みに丸め込まれる不安もあったのかも知れない。本人に訊ねると、最初に私の上司(仮にYさんとしておこう)に言わないと、Yさんに怒られるんじゃないかと思った、Yさんに伝えた後、私にも伝えた方がいいかと訊ねたら、今は伝えないで内密で進めたいと言われた、だから今日まで話せなかったという返事であった。彼女の奇妙な気の廻し方にも問題があるが、何となく彼女の言い分は理解出来た。Yさんは、自己評価の高い人物であり、もっと端的に言えばナルシシズムの強い人間である。彼は部下に依存されることを自分の能力の証、自分に対する信頼の篤さの証だと思っているところがある。「おれが守ってやるから」と部下の女性社員に囁くのが、彼の常套手段である。それに酔ってしまう愚かな人も世間には存在するだろうし、彼も幾つかの成功体験を踏まえて、その手管を常套に選んでいるのだろう。そのこと自体の是非は、私の関心の埒外である。ただ、私よりもYさんの方が、彼女との業務上の繋がりは長いので、恐らく奇妙な親分肌を発揮して、何で最初に俺に相談しないんだと暑苦しい怒りを向けてくる懸念は確かに存在する。それを心の弱った彼女が懼れるのも止むを得ない。

 一昨日、日中に店へその上司から電話があり、その前日に売り場で、彼女が仕事中に泣き崩れてしまったと報せてきた。その日、私は休みだったのである。彼女が泣いた理由を訊ねても、上司は仕事のストレスが原因などと曖昧な返事をするだけで、今一つ核心に触れようとしない。言葉を濁しているような口振りで、私は腑に落ちなかった。そこで先日の勤務表を記憶の中から呼び覚まし、現場に居合わせていただろうと思われるスタッフに、それとなく事情を訊ねてみた。彼女は、その話を誰から聞いたのかと、警戒心も露わに訊ね返してきた。Yさんからだと告げると、観念したように口を開いた。本当は、店長には絶対に私が泣き崩れたことを話さないでくれと、当人から念押しされていたらしい。何故、中途半端にYさんが私に昨日の出来事を話したのか、理解し難いと、その子は憤慨していた。話すなら洗い浚い総て話せばいいし、伏せるならば水の一滴も漏らさぬように伏せるべきだ。全くである。

 夜、改めて上司に電話で事情を確認した。彼は私に真実を話さなかったことを詫び、自分の感触では、退職まではいかずに抑え込めると思う、だから今の段階で騒ぎにはしたくない、だから伏せておいたのだという、不可解な理窟を弄した。本当に退職の意思を覆せるのか、既に数回の慰留は経ているという話を聞いていたので、正直な感想として、私には上司の自信が疑問であった。だが、彼がそう言うのならば、部下の立場では信じるしかない。私も明日本人と勤務が重なるので、終業後の落ち着いたタイミングを見計らって話を聞いてみますと言ったら、余り深く掘り下げない方がいい、軽く話を聞くくらいに留めた方がいいと言う。だが、こういう事情で、軽く話を聞くことに何の意味があるのか、私には理解出来なかった。何か後ろ暗い事情でもあるのかと、勘繰りたくなった。

 翌日、彼女は余り元気がないように見えた。営業中は相手の心理的動揺を避ける為に、退職の件に就いては一切触れなかった。終わった後、酒を飲みながら話をした。Yさんは退職の意思を覆せると自信を示していたが、開口一番、彼女は四月末に会社を辞めたい、その決意は極めて固いと明言した。やっぱりか、と私は思った。Yさんの慰留は、私も過去に受けたことがあるから言えるのだが、余り心に響かないのである。相手の為を想った説諭というより、自己満足的な独り芝居のように聞こえるのである。

 私は過去の自分の経験を材料に、退職という形で何もかも一時に投げ捨てずとも、異動や休職など、状況を変える手段は幾らでもあること、だから短慮を控えるべきであること、今の状態では極めて後味の悪い、消極的な退職となってしまい、次の人生に進む積極的なエネルギーを持つことが困難であろうこと、そこからの再出発が極めて精神的な負担となるであろうこと、などを説いた。別に何が何でも退職の意思を覆してやろうと意気込んでいた訳ではない。重要なのは、彼女が状況を冷静に判断し得る精神的な余裕を取り戻すことである。

 私が最も強調したのは、どんなに完璧に見える人間であっても、弱点や苦悩を抱えていない者は皆無であること、自分だけが苦しんでいるように見えるときでも、誰もが平等に固有の悩みを苦しんでいること、本当に苦しいときは、眼前の苦しみが未来永劫続くように感じられるけれども、状況は必ず変化していくものであること、自分の力量に適した環境で働くことは少しも恥辱ではないこと、だから異動や休職を選択することを恥じる必要はないこと、何度でも遣り直せばいいのだということ、そして何より、自分の未来を信じること、などであった。私が淡々と話している間、元来泣き虫である彼女はずっと泣いていた。話し終えた後、彼女に考え直す気になったかと悪戯っぽく訊ねてみると、泣き崩れた顔で笑いながら、ちょろい女だと思われるかも知れないけれど、考え直すことにしますと言った。Yさんに四回慰留されても退職の気持が全く揺らがなくて、自分の人間性に問題があるかと思っていた、と彼女が言うので、俺も慰留されたことがあるから言うけどさ、あの人の慰留、全然心に響かないんだよね、何にも分かってないんだよなと答えたら、彼女は肩を竦めて笑っていた。

 或る環境に固執して、ずっと居座って続けることが常に正しいとは思わない。辞めることより続けることの方が常に尊いとは言えない。だが、続けられる余地というのは、探せば意外に掘り当てられるものだ。しかも彼女は少なからず、職場の人たちのことを愛していた。仕事を裏切り、見捨てることは案外簡単だが、共に働く人々を裏切ることは常に困難である。共に働く人々を愛せるのならば、嫌いになった仕事を再び愛することは容易である。無論、彼女の選択は長い人生における、一つの里程標に過ぎない。その里程標が重要な分水嶺だったと想える日が訪れるかどうかは、これからの彼女の生き方次第である。何れにせよ、私は彼女の健闘を祈るばかりである。

Cahier(「神」という、或る垂直な関係性)

夏目漱石は百余年前の昔、「草枕」の冒頭に「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」という著名な文句を書きつけた。一世紀が経っても、地上の事情は変わらない。大半の問題は人と人との狭間で起こり、複雑に絡み合う心理の文様が、大抵の問題を一層荷厄介なものに仕立て上げる。それが浮世の忌まわしい摂理である。

 喜びと悲しみは表裏一体である。愛憎相半ばするのが巷間の常識である。無論、禍福は常に地上に氾濫していて、儘ならない人の心には、愛する歓びも憎み合う苦しさも両方備わっている。それを「俗世」とか「俗塵」という言葉は名指しているのだろう。私も俗人である以上、「草枕」の画工のように悠然と、高雅な無何有の郷を徘徊する自由は許されていない。世俗の雑事に縛られて齷齪するのが今生の定めである。それに不満を訴える積りもないが、時に心が荒んで草臥れることもある。

 そういうとき、つまり人間だらけの世界に倦んだとき、天を仰ぎたくなるのは、心の奥底に埋め込まれた人類的な感情、つまり宗教的な感情の残滓なのかも知れないと思う。世間の理解を受けられないとき、或いは自分の想いが巧く周囲へ通じずに空転するとき、天を仰ぎたくなるのは、神という超越的な理念への祈りなのかも知れない。あらゆる宗教が、地上的なもの、世俗的なものからの超越を欲するのは、それが宗教的な感情の根幹を成す衝動であるからだ。神の実在云々は、その衝動の根源的な性格に比べれば、恣意的な表象の問題に過ぎないのではないか。人間を超越した存在に対する縋るような信仰は、それを信じなければ遣り切れない人々の心が生み出した魔術である。その魔術に客観的な詮議を加えても無益なことだ。人間に対する絶望が生み出した澄明な祈り、人間の世界の絶望的な相対性に対する嫌悪が育んだ「垂直的関係」を、科学的な無根拠を理由に断罪しても、有効な損害は与えられないのである。

 人間ではないもの、人間を超越したものとの垂直な関係性を信じることは、煎じ詰めれば、人の世で生き延びていく為の切実な手段であり、己の実存を破綻させない為の支えを確保することである。つまり、超越的なものを信頼し、彼岸の浄土を夢想することは必ずしも、現実の世界を否定することには直結しないのだ。人は哀しいほどに「生きよう」と試みる存在である。その手懸りを現実の俗塵の渦中に見つけられるのならば便利だが、そのように思えない場合も多々あるだろう。そういうとき、超越的な紐帯を信じることは、それがどんなに浮世離れして見えたとしても、当事者にとっては切実な祈りの形態なのである。生きようと願うことは、それ自体が既に倫理的な行為である。

サラダ坊主風土記 「佐原・香取神宮」

 珍しく日曜日に休みを取った。特に狙った訳ではない。普段なら人手が足りなくなる日曜日に、たまたま人手が揃っただけの話である。娘も未だ小さいので、特に旗日の休みに固執する理由もない。寧ろ週末は何処へ出掛けても混み合っていて、時間と労力を空費する場合が多いので、平日に休む方が性には合っているのだ。

 大事なのは、曜日よりも天候である。先日までの厳しい寒さが、三月に入った途端、俄かに緩んでいる。今日は二十度近くまで気温が上がり、晴天に恵まれるという予報だったので、前日から妻に何処かへ出掛けようと誘われていた。行先が思い浮かばぬままに当日を迎え、普段の休日よりは少し早めに起き出して、朝食のパンを焼いて齧った。

 折角の好天である。二歳の娘がのんびり散歩出来るような場所がいい。携帯でささっと調べたら、佐原の古い街並みと香取神宮を散策するコースを紹介しているページに行き着いた。香取神宮には、前から一度行ってみたいと思っていたので、さっそく妻に提案した。了承を得て、十一時半過ぎにJR幕張駅を出る千葉方面行の総武線各駅停車に乗ることに決めた。調べてみると、その電車に乗っても、佐原駅へ到着するのは十三時半である。想像以上に遠い道程だ。だが、そういうことを言い出したら切りがない。明日、交通事故で死ぬかも知れない、儚い浮世の人生である。思い立ったら吉日、愚図愚図言わずに出掛けてしまうのが一番いい。

 携帯の乗り換え案内の指示に従い、稲毛で成田空港行きの快速列車に乗り換え、成田駅で銚子行きの成田線に乗り換える。天候は酷く穏やかで、眠たくなるような眩しい光が辺りに満ちている。成田から佐原まではたった五駅しかないのに、到着まで四十分余りを要した。駅の間隔が広いことに加え、駅毎の停車時間が随分長い。車窓から眺められる風景は大半が田野と雑木林で、彼方に地平線が窺える。極めて平坦で、静寂に満ちた景観である。

 佐原駅で用便と喫煙を済ませ、正面の乗り場で個人タクシーを雇った。バスも出ているらしいが、ベビーカーを携えているし、知らない街で知らないバスに乗るのは、億劫なものである。老齢の穏やかな運転手が、香取神宮へ向かう途次、佐原の古い街並みに差し掛かった辺で、土地の簡単な案内をしてくれた。金沢にも倉敷にも京都にも消え残っているような類の、年季の入った家屋の黒々とした外観が、小野川の流れに沿って列なっている。観光客と思しき人影も、駅前には全く欠けていたが、忠敬橋の近辺には数多く見られる。

 香取神宮まで、タクシーで十分ほどの距離である。参道の入り口には飲食店や土産物屋が幾つか固まっている。穴子の幟に惹かれて、私たちは遅めの昼餉を取ることに決めた。私は穴子天丼と笊蕎麦のセット、妻は穴子の天笊である。娘は行きの車中で既に握り飯を二つ平らげていたが、欲しがるかも知れないので、一応串刺しの焼き団子を注文しておいた。だが、娘は団子には一切眼もくれず、定食の味噌汁をねだるばかりで、仕方なしに子供用の匙で少しずつ掬って飲ませた。握り飯二つの威力が、確り胃に効いているらしい。座敷の席に通されたので、娘は食事よりも歩き回ることの方に夢中である。御蔭様で、昼餉は無事に済んだ。

 食事を終え、ベビーカーを押して砂利の坂道を苦労しながら這い上がり、手水舎へ辿り着いた。脇の喫煙所で一服してから戻ると、娘は流れ落ちる手水の飛沫に手を晒して御満悦である。見知らぬ老女が、そんな娘の姿を嬉しそうに見守っている。ここの水は非常に綺麗で呑んでも害がない、日本百名水に選ばれたほどの上質な水だと、訳知り顔で教えてくれた。

 拝殿へ向かう途中、娘は手頃な木の枝や枯葉を拾って、てくてく歩いていた。拝殿へ通じる門の下で、石段の上に慎重な手つきで枝葉の類を安置し、舌足らずな声で「待っててー」と言う。妻が社務所御朱印を貰いに行く間、娘は新たに拾った杉の枝葉を扇子のように操って、地面の砂利を掃き清めることに熱心であった。

 賽銭を投じ、二礼二拍手一礼の古式に則り、普段は余り気にも留めない神様に家内安全無病息災を願う。娘はその間もずっと砂利を払うことに夢中である。子供の謎めいた情熱というのは、何度見ても不思議なものである。

 佐原から千葉へ帰る列車は、一時間に一本しかない。余り遅くならぬように、参拝を終えると直ぐに引き返すことにした。タクシーは見当たらず、発車間近の循環バスが偶々エンジンを吹かしていたので、急いで乗り込んだ。道の駅を経由して、小野川の古びた家並を通り過ぎ、駅のロータリーまで運ばれる。眠気の昂じた娘を抱え上げて、駅舎へ走る。四両編成の千葉行きの総武本線が、やがてプラットフォームに走り込んできた。

「結婚」に就いて

 結婚は、恋愛という感情的な熱病とは根本的に異質な、或る社会的な制度である。恋愛が常に個人の情緒だけを頼りに営まれるのに対し、結婚は飽く迄も社会的な制度の規定に拘束されている。恋愛は常に主観的な営みであって、それが傍目には如何に不毛で愚昧な過ちに占められているように見えたとしても、当人同士の間で幻想的な情熱が充分に燃え盛っているのであれば、第三者が容喙する余地は微塵も存在しない。

 だが、恋愛の良し悪しが専ら主観的な基準に則って判定されるのとは対蹠的に、結婚の良し悪しは概ね客観的な基準によって裁定され得る。恋愛は感情の消滅が関係の消滅であるが、結婚は必ずしも感情の消滅だけで関係の消滅を正当化することは出来ない。言い換えれば、結婚は情熱によって支えるべきものではなく、理性的な判断によって賢明に運営されるべき社会的な関係性の単位である。それは社会の附属品であり、部分であるから、社会の合意や規範と無関係に、個人の主観や恣意に基づいて運営されてはならない。

 そもそも、恋愛には社会的な承認など不要である。「二人だけの世界」というのが恋愛の特質であり、逆説的な意味での「道徳」なのだから、そこに外在的な規範を持ち込むのは御門違いである。二人の主観の幻想的な融合が、世界の総てを覆い尽くしてしまう、その心理的な魔法が恋愛の醍醐味である。それは根本的に反社会的で、ナルシシスティック(narcissistic)な関係性の形態なのだ。

 だが、結婚は社会的な祝福の対象であり、法律による庇護を享受し、共同体の存続に貢献する関係性の形態である。その入り口、或いは深層に、恋愛のナルシシズムが底流しているとしても、少なくともその外皮は公共的な正当性の染色を受けている。社会的に公認され、祝福される恋愛は、そのような祝福を受けた時点で、「二人だけの世界」という閉鎖性を手放すことを命じられるのである。

 「二人だけの世界」という閉鎖的な妄想を、必ずしも否定する訳ではない。社会的な観点から眺めれば、そのように映じるというだけの話である。その甘美な快楽を否定するのは、無味乾燥な話である。社会的な正しさだけを望むのは、人間の本性に反する欺瞞に他ならない。それは確かに清廉潔白、品行方正であるが、見栄えのする欺瞞は「清濁併せ呑む」という種類の美徳へ永遠に辿り着くことが出来ない。

 「二人だけの世界」を破壊する要素は様々である。結婚には身内が必ず絡むものであるし、職場や友人、行政といった多様な立場の人間とも関わりを有するのが普通である。つまり、結婚とは結婚の当事者だけでは完結し得ない関係性の形態なのである。その意味で結婚は社会的であり、公共的である。そして「二人だけの世界」という甘美な熱病を破壊する最大の要因は、紛れもなく二人の「子供」である。子供の誕生は、恋愛の幻想的な興奮を鎮静化する最良の特効薬である。この崇高で無邪気なトリックスターは、恋人たちの主観的な妄想を思う存分、攪乱してくれる。

 結婚が社会の存続に寄与する最大の美質は、それが子供を養育する優れた揺籃の礎となる点に存する。家庭は未来の人類を慈しみ、育成する最良の拠点である。そして、子供の誕生は、単なる恋人の延長線上に存在していた二人を「夫婦」として錬成する重要な契機として働く。それは社会的な成熟に他ならず、恋愛の根源的な自閉性から脱却することを意味する。恋愛の反社会性は、結婚の社会性によって扼殺される。少なくとも、私たちの住む世界は、そのように形作られている。

 無論、総ての夫婦が子供を授かる責務を負う訳ではない。望んでも子供を得られない夫婦は大勢いるし、夫婦の合意の下に敢えて子供を持たない場合もあるだろう。子供を持つかどうかの選択の自由は、法的に保障されるべき事柄である。だが、子供を持たないことによって、恋愛の反社会性が分泌する甘い汁を吸い続けようと考えるのは、軽佻浮薄の態度である。そもそも、結婚は制度化された恋愛ではない。恋愛は本質的に、如何なる制度にも馴染まない、孤立した関係性であり、制度化されることによって消滅してしまうような事象である。結婚は、性愛の原理が支配する領域に留まるものではなく、もっと根源的な「共闘」の形態なのだ。

「恋愛」に就いて

 恋愛とは、簡単に要約すれば「特定の対象への執着」である。或いは「究極の依怙贔屓」と呼び換えてもいい。

 日本語には「愛憎相半ばする」という表現があるが、実際、特定の対象への執着としての「恋愛」は、相手に対する肯定的な感情だけで純粋に構成されている訳ではない。恋愛における感情は、猫の目玉のようにくるくるとベクトルを反転させるのが通例であり、愛しさと憎しみとの間には、密接な相関性が横たわっている。それは恋愛という感情が、盲目的で幻想的な執着であることの、必然的な結論である。

 恋愛は、所謂「博愛主義」とは決して相容れない。一般的な社会では、誰にでも優しく寛容に接する人間は、そこに性的なニュアンスが含まれない限り、絶大な信頼の対象として評価される。相手の性別、思想、門地などに拘らず、対等な人間として常に相手を尊重することを忘れないという習慣は、社会的な動物としての人間にとっては、考えられる限り最上の美徳である。だが、そうした博愛主義をそのまま恋愛の領域に持ち込んでも、それは恋愛の情熱が発する要求を決して充たさないだろう。何故なら、恋愛における最大の美徳は「博愛」ではなく「依怙贔屓」であり、特権的な対応であるからだ。

 他の人が知らない相手の側面を自分だけが理解しているという信仰は、恋愛においては無上の愉悦であり、強烈な陶酔の源泉である。自分だけが愛されているという感覚、自分だけが真実の愛を捧げているという妄想(それが過言ならば「願望」)は、恋愛の情熱を高揚させる麻薬的な条件なのだ。その執着が、極めて簡単に負性へ転換し得ることは言うまでもない。何故なら、恋愛は対象に幻想の鎧を纏わせることで初めて成立する情緒的な現象であるからだ。相手の総てを理解したいと望みながら、しかも理解し難い無数の謎めいた側面が現れるときに、恋愛の幻想は最高の強度へ到達する。その幻想が瓦解するのは、身も蓋もない相手の真実に触れたときである。

 往々にして真実とは、極めて無味乾燥で魅力を欠いたものである。幻想の調味料によって飾り立てられていないとき、人間は退屈なエゴイストにしか見えない。そういう無味乾燥な真実を理解してしまえば、恋愛という幻想的な遊戯は終幕の刻限を迎えるしかなくなる。無論、そこから本当の意味で、「人間愛」の構築が始まるのだと、尤もらしい口調で語ることは容易い。そうした論法は、結婚に就いて語る場合に頻繁に適用される慣わしである。

 恐らく、互いの総てを理解し合える、分かち合えるという幻想、本来異質な他者である筈のものが完璧な合一を果たし得るという妄想こそ、恋愛という情熱の根本的な原理であると私は思う。「完璧な理解」という不可能な理想が、恋人たちの献身的な情熱と果てしない睦言を支える、力強い太陽なのである。

 だが、成熟した人間関係は、「完璧な理解」が不可能であることを悟ることで始まる。如何なる齟齬も許さない潔癖な「理解」への信仰は却って、恋人たちの間に息苦しい疎隔と亀裂を齎すだろう。どれほど深く愛し合ったとしても、必ず相手の存在の内側には、理解し難い曇りのようなものが残る。その不可知の領域を丸ごと肯定する理性を持たなければ、恋愛から始まった関係は必ず幻想の破綻と共に崩壊する。それは最初から分かり切った摂理である。

 恋愛の情熱は、或る意味では、人間に対して「不可能な欲望」を持つことによって醸成され、引鉄を絞られる経験である。人間、或いは他者への「過大な期待」が、恋愛という壮麗な幻想を作り出す。無論、本来思い通りにはならない筈の他者に「過大な期待」を懐くことは、常識的に考えれば苦行でしかない。だが、そうした苦行を経由しない限り、私たちは「完璧な理解」という不可能な夢想の甘美な旋律から逃れられないものである。そして「完璧な理解」が不可能であるという厳粛で身も蓋もない真実に直面することで、私たちは本当の意味で、倫理的に人を愛する力を学ぶ準備を整えるのだ。離別の哀しみと苦しみは、真実との邂逅の齎す副作用である。それは確かに苦痛であり、様々な負性の感情を培養する危険な感情的毒薬であると言える。しかし、火傷を負わずに真理だけを掠め取ることは出来ない。代償を支払わずに宝珠を手に入れることは許されない。