サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「私」を解体する力としての「恋愛」

 恋愛というのは必ずしも自発的な意志によって制御されるものではなく、往々にして突然、意識の枠組みを揺さ振るような形で、知らぬ間に押し寄せる感情の形態である。無論、それが所謂「恋人」同士の関係性として立ち上がる為には、理性と意志の力に多くを負わねばならないが、理性によって制御されるようになった後も、その根本に不可解な感情の濁流が渦巻くことには変わりがない。それは人間の感情の動きであるから、確かに「私」の内部で巻き起こっている事態には違いないのだが、その感情の動揺は決して「私」の意図的で人工的な制御によるものではない。他人から見れば、個人の恋情は悉く恣意的な感情の運動であるが、当事者にとっては少しも恣意的ではなく、寧ろ抗い難い強烈な支配力を以て押し寄せる、殆ど「運命」のような情熱的暴動である。恋愛は、相手を運命的な存在と思い込むことによって深まるが、そのような信仰が傍目には明瞭な謬見であり誤解であるとしても、本人の眼には、それは宿命的な必然性の所産であるように感じられるものである。

 言ってしまえば、恋愛は娯楽である。恋愛をしなくとも、一個の人間が生い立ちから末期までの数十年を無事に過ごすことは充分に可能である。つまり、それは誰にとっても必要不可欠の経験という訳ではない。だが、恋愛が娯楽に過ぎないということは、恋愛が恣意的な選択の所産に過ぎないということを意味しない。複数の娯楽の中から、任意に恋愛を選べばいいというものではない。それは向こう側から、つまり見知らぬ世界の彼方から、俄かに襲来する不透明な感情である。場合によっては、それは「私」の自己同一性を根底から揺さ振り、破壊しかねない暴力的な現象である。痴情の縺れが殺人に発展することは然して奇異な事件ではない。条件が揃ってしまえば、恋心はいとも容易く尊い人命を決定的な仕方で毀損してしまうのである。

 或る意味では、恋愛は人生の障害物である。それは或る健全な道徳的観念に従って、己の人生を理性的に統御するような成熟した生き方を粉微塵に破壊する麻薬的な効能を発揮してしまう。充分に準備され、意図的に計画された生涯を無惨に崩壊させる恋愛の邪悪な側面に、苦しめられる人間は少なくない。色恋沙汰に血道を上げて、築き上げた人生の威信や財産を棒に振る人間は後を絶たない。その点では、恋愛には迂闊に足を踏み入れない方が賢明であるし、恋愛に振り回されるくらいならば、いっそ誰のことも愛さずに済ました方が、人生の損害は大幅に減殺されるであろう。

 だが、そのような冷血漢に自らを擬することは、誰にとっても容易な所業であるとは言い難い。どれほど冷徹な人格を自負していても、恋情は突如として生きることの基盤を突き崩すように出現し、荒々しい膂力で人の心を拉致してしまうものである。無論、そのような感情に抗い、理性を保ち、賢明な判断を貫徹することが、人間としての尊厳に関わる重要な事項であることは論を俟たない。但し、誰にも心を動かされずに生きることが、何か優れた才能であるかのように言挙げするのは、極めて偏狭で一面的な思想の形態である。恋に落ちることが自堕落な愚行に過ぎないならば、誰にも心を寄せずに生きることも偏屈な愚行に過ぎない。良くも悪くも、恋愛は人間に対して、己の内側に蟠踞する様々な心理的屈折の実態を覗き込ませる。或る意味では、恋に落ちるということは人間的な修業であり、単なる娯楽という扱いでは済ますことの出来ない、呪われた部分を豊富に含んでいる。どんなに自閉的な幻想であっても、恋愛には必ず「他者性の介入」という重要な課題が付き纏う。束の間の「融合」の感覚は直ぐに色褪せてしまい、甘い睦言を交わした時間はやがて冷え切った係争の時間へ様変わりしてしまう。それは一見すると不幸な経験だが、そのような「冷却」の過程を含まないならば、恋愛は自慰に過ぎない。自慰を破壊するものとして恋愛は存在し、それは否が応でも従前の自己同一性の経歴を覆してしまう。そこに恋愛という営為の最大の尊厳が存在しているのだ。それは「私が私であること」の素朴な自明性を叩き潰し、今まで知らなかった己の暗部を白日の下に晒す。場合によっては、恋愛は「醜悪な自画像との対面」そのものである。他者との果てしない情念的応酬の過程で、自分が如何に醜悪な人間であるかを痛感するとき、恋愛は単なる「共同的自慰」以上の何かへと昇華されるのだ。

「慈悲」と「恋情」の境界線

   愛することは、或る人間をバラバラに解体することへの根源的な抵抗として定義されるべき営為である。愛することは、相手を腑分けすることの対極に位置する。対象の総てを丸ごと包摂し、その総ての要素を善悪や好悪に関わりなく受容することが愛の本質であり、その崇高な価値である。だから、愛情には個別的な由来など存在し得ない。明確な理由に基づいて、その結果として「貴方を愛する」という具合に手順を踏むのは正統な愛情ではなく、多くの場合、それは欲望の詩的に修飾された表現に過ぎない。顔立ちが整っているから愛するとか、話術が巧みだから愛するとか、そういう事前の理由ほど無力なものは他に考えられないではないか。

 愛情は、愛することの根拠を明確に示し得ないものである。根拠の不明であることは、愛情の誠実さを少しも否定する材料にはならない。寧ろ、特定の理由を持ち得ないことこそ、愛情の真実さを保証する最高の根拠となるのだ。何故なら、根拠を明示し得るとき、愛情の対象は必ず交換可能なものとなるからである。掛け替えのない個性は、具体的な要素に還元することが出来ない。人間の個性は、特定の要素だけを単独に取り出すことで成立したり強調されたりするものではなく、その綜合的な纏まりの中だけに存在する。しかも、人間の個性は絶えず流動し、無限の変貌を塗り重ねていく慣わしである。従って、特定の要素への固執は、愛情の永久的な継続性に対する致命的な反抗となってしまうのだ。

 愛情は根拠を持たない。愛情は選別や採択とは無縁であり、常に巨大な全体性への全面的な肯定と承認として現れる。個別の要素に還元し得ない全体性に紐付くものだけが、真の意味で愛情の称号に値する。個別の要素に対する執着は、愛情ではなく欲望である。欲望は常に具体的な対象と結び付き、部分的な執着として顕現し、作用する。もっと言えば、執着とは常に選別と排除の論理の最果てに出現する偏狭な感情なのである。それは必ず対象を選び抜いて特権的な価値を与える過程を踏む。執着は、愛情とは異質な感情であり、傍目には類似して見えるとしても、その本質には重要な隔たりが介在している。

 愛することは、相手をその全体性において承認することであり、部分的な切り売りを厳格に峻拒する感情の名前である。愛情は、相手の存在を様々な部品へ解体するような暴力的行為を不可避的に慎む。部品へ解体するという作業は、或る要素への過剰な思い入れを懐くということであり、従って執着に他ならない。だが、愛情は執着を超越し、包摂する情念の働きである。欲望=執着は審美的な意識に基づいて極限まで対象を細分化し、その僅かな差異に特権的な意味を附与するが、愛情はそのような小賢しい解剖学を正面から否認し、無効化してしまう。審美主義は、無限に深まっていく執着の洗練された体系であり、それは愛情の持つ包括的な肯定の対極に位置する精神的態度である。美意識と愛情は矛盾し、相剋を演じる。両者の原理は正反対の方向を見凝めているからである。

 僅かな違いに重要で決定的な意義を見出すのが「執着=欲望=審美主義」の根本的な姿勢である。だが、高度に成熟した愛情は、僅かな違いに意味を見出す代わりに、無数の差異を綜合した先に顕れる不透明な全体性を丸ごと承認することに、至高の価値を発見する。如何なる変貌も短所も、愛情にとっては全体性を揺るがす瑕疵ではない。極めて微細な相違点に基づいて好悪の判定を調整するような態度は、愛情の畏怖すべき「受容性」の前では、現実的な威力を確保出来ないだろう。欲望は果てしなく細分化するが、愛情は果てしなく鈍感な包摂を繰り返していく。相手の過失も謬見も、愛情にとっては「慈悲」の対象でしかない。

 この「慈悲」という観念は、愛情と欲望の混同という極めて有り触れた謬見に対する解毒剤の役割を担っているように見える。慈悲は、与えることへの欲望であり、恋情は、求めることへの欲望である。この主題に就いては、また稿を改めて考えてみたい。

一切皆苦(坂口安吾をめぐって)

 生きることは常に苦痛に汚染されている。生きるという営為自体が、本来は起こり得なかった超自然的な奇蹟を無理に持続するような作業なのだから、そこに不自然な苦しみが生じるのは自明の帰結である。

 宇宙の探査が発達しても、一向に地球外の生命体との出逢いという見果てぬ夢は叶えられていない。生命の誕生は極めて絶妙な諸条件の均衡の中で偶発的に実現された、驚嘆すべき奇蹟であり、原初の生命が進化して、ヒトという種族を生み出すまでの間にも、偶然と幸運は幾重にも積み上げられ、折り重なってきた。そうして紡ぎ出された生命の構造が、無機的な世界における一種の「異常値」であることを鑑みれば、生きることが数多の試練と艱難に取り囲まれていたとしても不思議はないのだ。

 作家の坂口安吾は「風と光と二十の私と」の中で、次のように書いている。

「満足はいけないのか」
「ああ、いけない。苦しまなければならぬ。できるだけ自分を苦しめなければならぬ」
「なんのために?」
「それはただ苦しむこと自身がその解答を示すだろうさ。人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。満足は誰でも好むよ。けだものでもね」
 本当だろうかと私は思った。私はともかくたしかに満足には淫していた。私はまったく行雲流水にやや近くなって、怒ることも、喜ぶことも、悲しむことも、すくなくなり、二十のくせに、五十六十の諸先生方よりも、私の方が落付と老成と悟りをもっているようだった。私はなべて所有を欲しなかった。魂の限定されることを欲しなかったからだ。私は夏も冬も同じ洋服を着、本は読み終ると人にやり、余分の所有品は着代えのシャツとフンドシだけで、あるとき私を訪ねてきた父兄の口からあの先生は洋服と同じようにフンドシを壁にぶらさげておくという笑い話がひろまり、へえ、そういうことは人の習慣にないことなのか、と私の方がびっくりしたものだ。フンドシを壁にぶら下げておくのは私の整頓の方法で、私には所蔵という精神がなかったので、押入は無用であった。所蔵していたものといえば高貴な女先生の幻で、私がそのころバイブルを読んだのは、この人の面影から聖母マリヤというものを空想したからであった。然し私は、あこがれてはいたが、恋してはいなかった。恋愛という平衡を失った精神はいささかも感じなかったので、せめて同じこの分校で机を並べて仕事ができたらいいになアと、私の欲する最大のことはそれだけであった。この人の面影は今はもう私の胸にはない。顔も思いだすことができず、姓名すら記憶にないのである。(註・青空文庫より転載)

 苦しむことだけが人間の尊厳であり、満足に淫することは動物でも好む、当たり前の状態に過ぎない。こうした省察は一見すると、素朴に自己の利益と幸福を追求する近代的な功利主義の理念と食い違っているように感じられる。誰もが幸福であることを願い、欲望の健全な肯定を謳歌する時代の風潮の中で、坂口安吾の奇妙なストイシズムは、そう簡単には受け容れられないだろう。だが、私たちは彼が「堕落」を唱道した人物であることを史実として知っている。彼は決して堅苦しい道徳を、欲望の肯定に対立させようとした人間ではない。寧ろ彼はあらゆる社会的な道徳を嘲笑し、形骸化した規則を土足で踏み躙り、非人間的な制度の数々を撫で斬りにして生きようとした人だ。彼は人間の欲望の実態を少しも飾り立てずに、身も蓋もない真実として見凝めている。

 彼が自身の若き日々を思い返して書いたのは、要するに「老成の実際の空虚」であり、「本当の肉体の生活」に苦しめられていない青年たちの倫理的な純潔の虚しさである。彼は存分に人間の欲望を肯定しており、それを賢しらな道徳や理念で縛ることの愚昧を肚の底から信じ切っていた。欲望を道徳で縛ったところで、何の意義もない。そのような発想に留まったならば、彼は俗流の享楽主義を謳歌する軽薄な野獣で終わっただろう。だが、彼は欲望の充足だけを希求する単純なエピキュリアンではなかった。彼は如何なる欲望も常に裏切られること、もっと言えば人間の魂は如何なる享楽によっても満たされぬものであることを絶えず強調した。煎じ詰めれば「一切皆苦」という言葉に尽きる。彼は古びた道徳から解放されれば、自由に己の欲望を満たして生きていけるなどと、軽薄な功利主義を唱えた訳ではなかった。彼の思想の核心には、結局、人間は苦しみの内側に救済の光を探し求める以外のことは何も出来ないのだという、乾燥したニヒリズムが植わっている。だが、そのニヒリズムは決して人間の魂を腐蝕させるものではなく、性根の据わった勇気を掘り起こすものである。薄っぺらな享楽主義も、黴の生えた道徳的な保守主義も、彼の鋭利な眼差しの前では、あっという間に身包みを剥がれてしまう。彼は如何なる欲望の実現によっても結局は満たされることのない、魂の根源的な孤独を何よりも重視していた。だからこそ、彼は苦しむことの中に、微かな希望の光を追い求めたのだ。そして、行雲流水のような、俗世間を離れて種々の苦しみから脱却しようとする遁世の衝迫を否定した。彼は苦しむ為に人間の世界へ戻った。

 人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱ぜいじゃくであり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。(「堕落論」註・青空文庫より転載)

 坂口安吾は如何なる種類の欺瞞も踏み破ろうとする。尤も、彼は無味乾燥な真実だけを重んじた訳ではない。真理に叛いても、浮薄な幻想に惑わされて踊り狂う人間の浅ましい側面さえも、在るがままに肯定したのだ。それは積極的な評価を捏造したという意味ではなく、そうした醜悪な真実を直視する以外に本当の解決は有り得ないではないかという不退転の覚悟である。彼は人間の可憐な性質を十二分に弁えているし、その認識には自らの人生から吸い上げた実際的な経験の養分が潤沢に注ぎ込まれている。生きることは苦しみに満ちている。だが、その苦しみを味わうことでしか、本質的な救済と解放を手に入れることは出来ない。それは浮薄なエピキュリアンが、年老いて俄かに保守的な道徳家へ鞍替えするような、退屈で愚昧な人生の類型とは無縁の、清冽な覚悟と冷徹な省察に貫かれた発想である。

風と光と二十の私と (講談社文芸文庫)

風と光と二十の私と (講談社文芸文庫)

 
風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇 (岩波文庫)

風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇 (岩波文庫)

 

 

共犯的幻想としての「恋愛」

 恋するとき、人は盲目になると、よく言われる。確かに恋愛が幻想である以上、そして私たちの認識や理性に奇怪な覆いを被せる心理的な魔術である以上、傍目には恋する当事者たちの言動が、有り触れた現実に対する理性的な判断を欠いているように見えることは避け難い。恋することは、現実の具体的な変革ではなく、飽く迄も現実に関する解釈の変革である。恋に落ちると、世界が輝いて見えると人は嘯く。無論、それは凡庸な錯覚に過ぎないし、恋が世界を変えることなど、基本的には有り得ない夢想である。

 だが、私たちの認識が常に、世界との直接的な関わりを持ち得ないものであることを鑑みれば、恋愛だけを特別に幻想的な虚妄として排斥したり、その価値を侮蔑したりするのは詮無いことである。恋愛が私たちの認識に齎す不自然な歪みは、恋愛そのものに帰せられるべき罪悪であると言うよりも、そもそも私たちの行使する「認識」という機構自体に内在的に備わった、根源的な問題であると言うべきである。

 幻想と現実という平凡な二元論的区分は、煎じ詰めればそれ自体が幻想に過ぎない。私たちは何かを見たり何かを聴いたりするとき、その時点で前提条件として「幻影」を眺めている。精確で冷徹なリアリズム、それは私たちの主観が世界との間に保有し得る関係性の形態の一種に過ぎない。言い換えれば、私たちは自分が望むように世界を好きな形で眺めることが出来る生き物なのであり、その点では、恋する者も恋から醒めた者も同断である。

 重要なのは、恋愛という情熱に駆られた主体が、その瞬間に如何なる性質の認識的な歪曲を蒙る傾向にあるのか、という問題を明らかにすることである。恋する者が何を捨象して、何を強調するのかという点を明確に考察することが、恋する者の盲目性の構造を理解する為には有益である。

 恋するとき、人は自分と相手との関係性を何よりも拡大して、最大限に強調して捉える。それ以外の問題は一気に色褪せて後景へ退いていく。時間の感覚さえも麻痺してしまう。何故なら、時間の感覚というのは一般論として、社会的な制度に他ならないからだ。外在的な社会ほど、恋する者にとって無意味な領域はない。彼らにとって、社会は不要な障害物に過ぎない。それは恋する者の自閉的な幻想を妨害する、独特の生理を持っているからだ。

 恋する者が願うのは、本来であれば異質な存在である筈の「自分」と「相手」との境界線の消滅である。それは相手の存在を自分の世界に完全に取り込んで吸収してしまいたいという危険な欲望の顕れである。無論、それは本来、不可能な欲望である。自他の境界線は、そう簡単に消え去るものではないし、もっと言えば、それは本来侵犯してはならない禁断の領域なのである。恋愛の情熱は、相手の主体性を尊重するというヒューマニズムの基礎的な原則を踏み躙る暴力性を含んでいる。

 だが、それが不可能な欲望であるという事実は、必ずしも恋愛の情熱を冷却しない。寧ろ、不可能であるという事実が、切迫した感傷的な情熱の暴走を煽動するのである。何らかの障害が存在することによって一層激しく燃え上がる恋愛が数多存在することは、巷間に流布する様々な物語を徴すれば直ちに明らかとなる。不可能な事実であるからこそ、それが叶うのではないかという奇怪な錯覚は、奇蹟的な恩寵に対する劇しい憧憬と化して人心を捕縛する。恋情は、不可能な夢想に対する憧憬であり、欲望であり、衝迫である。

 自他の境界線が、現実的な問題として消滅することは有り得ない。私たちは絶えず自分の意のままに操ることの出来ない異物としての他者に取り囲まれて生きているからだ。にも拘らず、そのような境界線の消滅が可能であるかのように錯覚するとき、人間は恋に落ちる。境界線の消滅、自他の融合、そのような願いを幻想の次元で達成し得るという予感の齎す陶酔が、恋愛の蠱惑的な本質である。

 自他の境界線の破壊という不可能な犯罪に対する共犯者として、恋人たちは睦み合う。境界線の破壊が可能であるという不可能な夢想を共有することによって、恋人たちの精神は相互に強く結びつけられるのである。そして恋心の魔術から目覚めるとき、彼らは例外なく、相手の精神や肉体の何処かに「理解し難い異物」を見出して幻滅している。それは境界線の破壊が不首尾に終わったという合図であり、甘美な幻想の権威が失墜したことの動かぬ証拠である。

 だが、それが直ちに恋愛の終わりとなる訳ではない。或いは、恋心はそのとき死に絶えるとしても、愛情は漸く成熟のとば口へ辿り着いたに過ぎない。愛することは、相手の存在を自己の内部へ吸収し、その固有性を収奪することではない。そのような甘美な夢想が有り得ないことを切実な痛みとして理解したとき、私たちは漸く「愛情」の本質的な崇高さに目覚めるのである。愛することは、他者の自立性を毀損せず、他者の固有性への敬意を自らの根本的な倫理の一つに据えている。相手を支配したり、或いは相手に依存したりすることは、自他の融合という不可能な夢想への衝迫が生み出す行為であるが、愛情はそのような幻想の破綻した後で生まれる情熱であるがゆえに、支配や依存とは無縁である。寧ろ、愛情は支配や依存を嫌悪し、排斥するだろう。愛情は常に自発的であることを規矩としており、あらゆる種類の支配や独占に抵抗する観念であるからだ。

恋愛の無倫理性

 恋愛という極めて主観的な営為には、倫理という規範的な理念が存在しない。恋愛を道徳的な御題目によって縛ったり制限したりすることには意味がない。それは恋愛を殺戮する為に下される鉄鎚のようなものであり、恋愛の根源的な反社会性に対する掣肘である。言い換えれば、恋愛は無倫理的であることによって社会を脅やかす危険な害毒となり得るのである。それを様々な制度や道徳を通じて制御しようとするのは、社会的な公序良俗を壊乱しない為の措置であるが、如何なる外在的な制度も、人間の魂の領域に存在する不可視の活動を、完全に禁圧することは出来ないだろう。そのような禁圧の試みは過去に幾度も実行に移されてきたが、完璧な成功を収めた事例は皆無である。

 恋愛という極めて情緒的な現象は、人間が頭で考え出す様々な制度や絡繰を次々と破砕するように、人間の心を駆り立てて衝き動かす。禁じられた相手や対象を愛してしまうことは、誰にとっても避け難い事件のような形で、不意に襲い掛かるものだ。その感情が社会や共同体の掲げる規範に適合しない「罪悪」であったとしても、その感情が発生したという事実を禁じたり処罰したりすることは虚しい。感情は、人間の理性によって完全に制御し得る従順な飼い犬ではない。それは主人の思惑とは無関係に、或る自律的な動機に基づいて右往左往するものであるからだ。

 結婚が或る社会的な制度であり、様々な人間の頭脳を用いて整備されてきた、外在的な約束事の束である以上、その制度に参入する場合には然るべき理性的な振舞いが要求されるのは当然である。外在的な制度に参入することを自らの意思で選択したのであれば、その制度が要求する諸々の倫理的規則を遵守することは当然の話である。だが、私たちの社会は「恋愛」と「結婚」という異質な観念を滑らかに接合する近代的な「御伽噺」を信じ込むことを強いられている。「恋愛」と「結婚」との滑らかな接合、或いは「結婚」を「高度に洗練され、鍛え抜かれた恋愛の形態」として理念化する手続きは、私たちの暮らす社会の全体を覆っている。だが、それは厳密に考えるならば、困難な跳躍であり、狡猾な詐術なのである。感情という極めて危うい可塑的な事物を、結婚という社会的な建築物の礎石に用いることは、絶えず命懸けの崩落との戦いを呼び込むこととなる。頼りなく揺れ動く不安定な感情の上に、数十年間の継続に堪えることを求める堅牢な社会的規矩を積み上げることが、如何に剣呑な博打であるか、私たちは充分な検討を経ずに済ましていることが多い。その沈着な検討を踏まえずに、生涯の最期まで互いに添い遂げようと崇高な誓約を取り交わすこと自体、恋愛の情熱が齎した衝動的な営為なのであるが、その感情の渦中に置かれているとき、無味乾燥な疑念は、二人の決意を揺るがす邪悪な迷妄に過ぎないと、斥けられる場合が殆どである。未来の不安定な性質を殊更に論うことは、未来に対する勇気の欠如、或いは愛情の脆弱性の証拠として、否定的なニュアンスで受け止められることが多いのだ。

 恐らく結婚の本質は、愛情の有無ではなく、愛情の有無に拘らず「共に支え合うこと」に存している。愛情の強弱は、そもそも人間の感情が様々な要因に左右され得る繊弱な構造を有している以上、数十年の間に幾らでも変動するであろうことは容易に推測され得る。従って重要なのは「愛情の強弱に左右されない紐帯」を強固に建設することである。それが結婚における最大の、最も重要な倫理的規範であり、社会的使命である。感情に左右されない理性的な関係、或いは理性にまで高められた感情に依拠する関係性、それを構築することが「結婚」という難業に課せられた終極的な目標なのだ。

 その偉大と困難を思い知ることは、恋愛という浮薄な関係性に対する訣別を踏まえずには不可能である。その意味で、恋愛が若者の、或いは青春という不安定な季節の特権であることは端的な事実であろう。しかし、結婚という枠組みに囚われることを暫し閑却した上で、つまり法的な庇護や社会的な道徳などの錯雑した観念的体系を一旦棚上げした上で、純粋に「愛する」という営為の意義や構造を抽出してみたら、如何なる景色が広がるだろうか? 夫婦だから、恋人だから、或いは「結婚」と「恋愛」とは、そもそも異質な関係性だから、といった種々の言い訳や前置きを取り除いた上で、様々な形式を選択し得る「愛情」という倫理的な営為の意味を考えてみるとき、私たちの意識はもっと明晰な問題に逢着するのではないか。如何なる関係性に置かれていようとも、誰かを愛するという営みの中には、共通の、普遍的な基盤や法則が備わっている。子供を愛するのと、恋人を愛するのとでは、自ずから愛情の性質が異なるものだという至極尤もらしい言説には、要するに性愛の問題を弁別の基準に据えるべきだという認識が絡んでいる訳だが、果たしてそれは「愛情」の本質を穿つ重要な区分であろうか? 性愛が絡むかどうかという問題は、単なる動物的な性欲の問題であり、愛情が性欲との間に密接な関連性を取り結ぶ機会が多いことは確かに事実であるが、それを理由に愛情と性欲を一体的に混同して一向に怪しまないのは知的な怠慢であろう。

 愛することの倫理性を、結婚という社会的な伝統の決め事に依拠して考えるのは、或る意味では思考の抛棄であると言える。愛することに関連する諸般の問題は、単なる法律や道徳に還元されるべき事柄ではない。誰かを愛すること自体に、倫理など求めようがない。或いは、愛することを倫理的な問題として捉える教条主義が、愛することの根源的な創造性や豊饒さを毀損するかも知れない懸念を、安直に失念すべきではない。愛することは、倫理的な規矩に先行して存在する根源的な感情であり、倫理は自ずから正義や道徳といった共同体的な規範に関連し、附随することを強いられている。愛情は、倫理や道徳や正義や律法に先立って存在するがゆえに、社会に対して絶対的な優越性を常に保持している。愛することは時に、法律さえも転覆させる強靭な力を孕んでいるのだ。崇高で誠実な愛情の光の前に、黴の生えた蒼白い紙面の法典は無力であり、空虚である。そもそも法律でさえも、本来は誰かを愛するという人間の根源的な感情を母胎として産み出され、育まれたものである筈だ。従って、愛情を倫理的な規矩に基づいて断罪するのは本末転倒であり、もっと直截な言い方を選ぶなら、倒錯的な行為である。

「愛情」に就いて

 最も原始的な愛情の形態を、動物的な交接への欲望だとするならば、最も純化され高められた愛情の形態は、神々しい「無償の愛」或いは「無私の愛」である。無論、如何なる見返りも求めない愛情という崇高な理念が、宗教的な幻想の産物に過ぎないことは、経験的には確かな事実である。だが、それが如何なる場所にも存在し得ないと断定する為の充分な根拠を、少なくとも私個人は有していない。

 無償の愛情は、分かり易く言い換えれば「見返りを求めない愛情」であると一般的に認識されている。愛するとき、何らかの報酬や利得を欲しているのならば、それは愛情ではなく、相手に対する執着であり、迂遠な方法で行われる間接的な支配でしかない。相手を支配しようと望むのは、相手から搾取し得る何かが現在の自分の実存を支える為に必要であるからだ。言い換えれば、支配することと依存することは、同じ事象の異なる側面に過ぎないのだ。相手を自分の言いなりにする必要が生じるのは、相手の存在によって自分が支えられている場合に限定されるのが世間の相場である。

 愛する為には自立が必要であるという言い古された議論は、このような支配=依存の消息を鑑みれば直ちに承服することが出来る。無償の愛を相手に注ぐ為には、相手の存在に執着しなければならない諸条件を削除することが肝要である。相手の存在に依拠することで辛うじて支えられるような危うい「生」は、本当の意味で相手に愛情を注ぐ原資を持たない。自分の内部に欠けている何かを補填する為に他者の存在を求める態度は、時に劇しい愛情の形式を表面的には備えるものであり、その切迫した感傷的な情熱の力強さは、愛情の力強さの獰猛な表現であると看做される場合も少なくない。だが、それが謬見であることは、冷静に事態の構造を捉えてみれば直ちに了解し得ることである。足りないものを他者に求めるのは、一見すると当たり前の選択であるように感じられる。この高度に分業化された現代社会では、自分の持たないものを他人から拝借しようと試みることは少しも奇異な振舞いではないと考えられている。しかし、時代の状況や環境の条件に拘らず、他者への依存は不毛な頽廃への里程標である。決して孤立を尊ぶ訳ではない。寂寥に息苦しさを覚えることを非難する積りはない。それが自然な人間的感情であることは疑いを容れない。だが、自然な人間的感情の総てを野放図に走り回らせるのは、余り賢明な態度ではないと、明言しておくべきだろう。

 どんなに綺麗事のように聞こえるとしても、物事の理想的な形態を想い描くことは、人間に許された崇高な権利である。眼前に繰り広げられる自分の個人的な愛情の形態が、極めて醜悪であったり奇怪であったりするからと言って、愛情に関する崇高な理念の数々を無意識に軽蔑するのは公正な態度ではないのだ。愛することは確かに、与えることであり、捧げることである。しかも、その贈与は見返りを得る為の功利的な手段ではない。言い換えれば、愛情は何らかの目的や利益に寄与する為の方法でも手段でもないのである。愛することは常に、与えることそれ自体の中で完結する、無目的な営みである。それは確かに相手の幸福を願うことであり、相手の存在を祝福する祈りであるが、愛することが直ちに幸福や祝福と結び付く訳ではない。如何なる切迫した祈祷も、愛する者に襲い掛かる悲劇的な不幸の数々を折伏し得るという絶対的な根拠とは無縁である。愛することは、相手の幸福に資することであるという。だが、私たちは日常的に「貴方のためを想って言っているのだ」という押し売りの愛情を経験している。相手の幸福を願うことが愛情であることは事実だが、極論を述べれば、相手の側には幸福である義務は課せられていないのである。幸福も不幸も、それを選び取るのは本人の主体的な決意であり、従って相手の幸福を望むことさえも、本当は恩着せがましい、僭越な圧迫なのだ。それは所謂「親心」に典型的な形で結晶している事実である。「子離れ」という言葉が存在するように、親の子に対する愛情は時に、愛情の仮面を被った依存的な現象として機能する場合がある。子供に対する執着は、容易に美化され得る社会的な徳目であるが、それさえも一歩間違えれば「支配=依存」の錯雑した絡繰に沈んでしまうのだ。

 無償で愛すること、如何なる見返りも求めないこと、それは究極的には「他人から愛されることを欲しない」という非人間的な様相を呈することになる。言い換えれば、相手が自分を愛してくれるかどうかという問題は、視野の外部へ排除されることになる。それは殆ど宗教的な「聖性」の領域へ肉迫する事態であるが、そこまで辿り着くことが如何に困難であるかという端的な現実は、そのような理想的形態の価値を直ちに貶めるものではない。そのような形而上学的理想に意義を見出すのは馬鹿げていると嘯くシニックな現実主義者が、理想に溺れる聖人君子より人間として優等であるという保証は何処にも存在しない。所詮、人間は我執に塗れた存在に過ぎず、互いの生命を貪り合う醜悪なエゴイストの群れに過ぎないという乾燥した省察が、私たちの人生を力強く倫理的に高揚させるという理由も特に見当たらない。

 愛することが求めることであるならば、確かに恋愛の現場では複数のエゴイズムが互いの肉を貪り、骨を削り合う残忍な響きしか聞こえないだろう。より多くの取り分を確保しようと策略を弄し、相手の実存を収奪し、自分の充足の為に奉仕させようとする態度が、如何に甘い言葉と媚態と誘惑で鎧われていようとも、愛情の崇高な肩書を拝借した、単なる貪婪な欲望の暴走に過ぎないことは明瞭である。自分の欲望を満たす為に他者の存在を利用しようと試みる総てのエゴイズムは、愛情の崇高な側面を黙殺している。愛することが与えることであり、捧げることであるならば、そして与えるという営為そのものに内在的な充足が備わっているのだとすれば、それは他者に対する如何なる種類の期待とも無縁である。他者に依存しないという根源的な方針の徹底、それは他者の固有性を、或る意味では等閑に付している。与えることだけに集中する愛情は、特定の他者に執着する理由を失っているからだ。それは逆説的な意味で、冷酷な態度であろうか? 神聖な愛情は、対象を選ばず、個人を特定しない。それは私たちが日頃、当たり前のように普段着の言葉で呼んでいる「愛情」とは随分と異質な手触りを有する感情の形式である。誰に対しても等しく注がれる愛情を、果たして私たちは歓ぶのだろうか? これは愛情という観念に関わる、最も重要で難解なディレンマ(dilemma)である。

「愛」と「理解」の相剋をめぐって

 人を正しく愛する為には(愛情に正しさという倫理的規範を求めるのならば、という仮定的な条件下において)、相手の考えや心情を精密に理解する為の努力を怠ってはならない、という尤もらしい命題が頻々と唱えられている。それは一見すると、疑いようのないくらい、輝ける正論だ。だが、それが人を愛するという作業の現場から眺められたときに、とても図々しい正論のように映じることも、一つの経験的な事実である。

 人を愛することは、相手のことを正しく理解することだ、という立論には、人間を透明な硝子玉の仲間のように思い込んでいる節がある。そういう偏見の虚飾が付き纏っている。だが、そもそも人を理解するとは、どういうことだろうか? 数式の問題を習い覚えるように、私たちは愛する人々の真実を正しく、適切な仕方で習い覚えることが可能だろうか? 数式はルールの束であり、いわば記号で編まれた壮麗で抽象的な六法全書である。だから、基本的には、その秩序や法則が揺らぐことはない。だが、人間は数式とは異なり、絶えず流動する諸行無常の存在である。況してや、人間の心ほど簡単に方向や性質を革めてしまうものは他に考えられない。絶えざる変異と転化の塊である人心を、正しく理解することが出来るだろうか? そもそも、相手を理解することと、相手を愛することとの間に、短絡的な相関性を見出すのは賢明な態度であろうか。

 敢えて言ってみる。愛することは、理解しないことなのだと、断言してみる。誰しも恋の始まりには、相手の未知な部分に惹かれ、その見知らぬ空白を埋めたいと願う。もっと知りたい、もっと近づいて見定めてみたいという欲望が、仄かな好意に油を注ぎ、燃え立たせる。愛の深まりは、理解の深まりであると言いたくなる気持ちは分かる。だが、愛情が極めて不合理な感情であることを、知らぬ者はいない。若しも愛することが相手の真実を理解することであり、その矛盾を解き明かすことであるならば、私たちは正しい答案だけを欲するだろう。過誤や失錯のない相手だけを愛することになるだろう。或いは、相手の理解し難い矛盾に当惑して、絶望に抱擁されるかも知れない。本当は、相手を理解することなど、愛情にとっては少しも必要ではない些事なのではないか。愛することが呑み込むことであり、相手の存在と生命を丸ごと肯定することであるならば、正しい理解など全く無用である。理解することが愛することの核心であるならば、私たちは理解し難いもの、理解の及ばないものを愛することなど出来ない。だが、理解し難いものを排除するような態度が、愛情の名に値するだろうか。理解し難いものであるから排除するというのならば、それは愛情ではなく、百歩譲っても「正義」の領分に属する方針である。

 愛情の深まりは、理解という或る意味では小賢しい態度を捨て去れるか否かに懸かっている。往々にして人が何かを理解したと宣言するとき、それは相手や対象を自分の手持ちの規矩に合わせて縮小しているに過ぎない。自分の物差しの中に相手を押し込めて、使い慣れたラベルを貼付して、既存の分類の何処かに当て嵌めているに過ぎない。それは結果として「無理解」を生み出す為の手続きでしかない。言い換えれば、愛情はそのような結果としての「無理解」を超越する為の唯一の可能な方途なのである。

 理解するという言葉には、行き届いた認識というニュアンスが含まれているが、そもそも何らかの対象を完璧に理解するなどということが、人間の頭脳に可能であるかどうか甚だ疑問である。完璧な理解という代物は概ね部分的であったり局所的であったりするのが常道で、或る部分に関して異様に明晰な理解を持ち得たとしても、物事は結局のところ「綜合的な全体性」として存在しているのだから、その明晰さは必ず他の認識との間に整合し難い深刻な亀裂のような矛盾を抱え込む羽目に陥るものだ。人間の心など、まさしくこの荷厄介な全体性の権化のようなものであり、相互に矛盾する感情が一つの人間の内面に共存して日常的に入れ替わることは、頗る有り触れた現象である。その部分的な要素を明快に理解したところで、その理解が直ちに全体へ及ぶことは考え難い。

 けれども、愛することは部分に執着することではない。単純な話、例えば相手の肉体は好きだが性格は嫌いであるというような場合、それを一括して「愛している」と呼べるだろうか。それは肉体への欲望に過ぎず、その人間を愛している訳ではないと、誰もが思うのではないか。そういう部分的要素へ相手の価値を還元するのは、愛することから最も隔たった振舞いであり、寧ろそのような「分類」こそ「理解」という行為の根幹に存する手続きなのである。理解する為には、相手を多様な部品に切り分けて捉えねばならないし、相手の構造や、その内在的な因果関係を解剖しなければならない。それは一つの知的な努力であり、そのような知性を持たずに真っ当な社会的生活を営むことは不可能であるが、少なくとも愛情の現場に、そのような知性が活躍する余地は乏しい。知性的であることは人間の優れた魅力であり美質の一つであるが、知性の刃を振り翳すことは愛情に対する邪悪な毀損である。