断片的=綜合的批評の強度 柄谷行人「意味という病」
どうもこんばんは、毎度おなじみサラダ坊主でございます。
平日の夜に眠い目をこすって起きていらっしゃる不健康な皆様方へ向けて、一筆啓上させていただきたく存じます。
本日も文学系のエントリーを一本アップしようと思います。
取り扱いますテーマはずばり、柄谷行人の「意味という病」という評論集です。
或る程度、本を読み慣れている方でしたら一度は聞いたことがあると思いますが、柄谷行人は戦後最高の文芸評論家の一人です(御本人は「文学」から足を洗ったという趣旨の発言を随分前から繰り返しておられますが)。少なくとも私は、この「意味という病」という本を繙いたことで初めて、目くるめく「評論の享楽」に覚醒させられました。
例によってウィキペディアから略歴抜粋。
柄谷 行人(からたに こうじん、1941年8月6日 - )は日本の哲学者、思想家、文学者、文芸評論家。本名は柄谷 善男(よしお)。兵庫県尼崎市出身。
筆名は夏目漱石の小説『行人』にちなむ、と一般に言われるが、本人は否定。「kojin」という語感と響きから偶然に思いついたという[1]。
詳しい業績はウィキペディアでもその他のメディアでも御覧頂きたいと思います。私は中学生の時に父親の書棚から偶然「意味という病」を発見して病み付きになって以来、柄谷行人の著作の大半に眼を通しています。
この著作集は主に文学作品を取り扱った評論で構成されており、後年のように哲学や政治や経済といった主題に深く分け入っていく前の、切れ味鋭くセンシュアルな文芸評論の数々を存分に堪能することが出来る素敵な一冊となっております。
一つ一つの論文やエッセイについて詳しく読み込んだ分析を試みるのは難儀なので控えておきますが、ざっと総合的な感想を述べたいと思います。
夏目漱石を主題に据えた評論「意識と自然」で本格的なデビューを遂げた柄谷行人は元々、文学的な領域に活動の主軸を据えていましたが、近年は「世界史の構造」や「哲学の起源」などの政治的=経済的=歴史的な問題系に関心を移しています。本人としては恐らく「必然的な進化」であると捉えておられるのでしょうが、私の個人的な好みを言えば、「哲学の起源」のような体系的書物よりも「意味という病」や「畏怖する人間」に収められた文学的エッセイの方が遥かに魅力的で、興奮させられます。ロジックの精度に関して言えば、近年の著作の方がずっと高度で精緻なのかも知れませんが、やはり「柄谷行人を読む」醍醐味は、溌剌たる直観と半ば感情的な断言の飛び交う初期の文芸評論にこそ充溢しているのではないかと思っています。つまり私は、緻密な学者としての柄谷行人の洗練よりも、野蛮な批評家としての柄谷行人の「暴言」にこそ魅力を覚えている訳です。
彼の初期評論の魅力は、その強引な論理展開と、スタッカートを想起させる鋭い「断言」のリズミカルな連発によって形成されています。本当にその論理展開が正しいのかどうか、学術的に認められた「事実」と照合したときに妥当な表現となっているのか、それを確かめる暇も与えずに紡がれる「言葉」の「律動」に、読者(=私)は酔い痴れずにはいられません。なんていうのか、途中の計算式はあちこち間違えているのに、最終的に導かれた答えは宇宙の真理を表している偉大な数学者みたいに、途中のロジックはかなり暴力的であるにもかかわらず、最終的に連れて行かれる場所から見える視界の鮮烈さは尋常なものではありません。
もちろん、最終的に招き入れられる領域の風景が、学術的な検証に堪え得るものかどうかは分かりません。実際、御本人もインタビューの中で次のように語っておられます。
僕は哲学というか、理論的な領域では、世界的なレベルで仕事をするという意識が強くありました。だから、その系列の仕事は、何度もしつこく、慎重にやってきたのです。それは、海外の読者を意識していたからです。それで、自分で満足できる水準に達したのが、「トランスクリティーク」です。これには自信がありますよ。しかし、「日本近代文学の起源」などは、そんなつもりがまったくなかったのです。書いたとき、よもや翻訳されると思っていなかった。一般に、文芸評論を書くとき、僕はぜんぜん緊張していません。ぱっと書いて、書いたら書きっ放し。(「理論への意志」)
自分の知的レベルを度外視した上で敢えて申し上げるなら、作者の意に反して私は「トランスクリティーク」よりも「日本近代文学の起源」の方を楽しみました。淡々と観念的に積み上げられていく論理展開より、アクロバティックで主観的な「批評」の方が趣味に合うのか、ドキドキするような知的興奮を味わえたのです。それは初期の柄谷氏の労作において現れている才能が、極めてジャーナリスティックなものであったからではないかと思います。後に氏は「理論的な領域」に活動の軸足を移していくことになりますが、その領域で展開された著作は、少なくとも私の頭には難解で、何より官能性を欠いているように思われました。
たとえば、本書に収録されている「小説の方法的懐疑」という批評的エッセイには、体系的に組み上げられた論理の城塞とは異質な、いわば知的ゲリラの面目が躍如としています。
意匠は滅びても、経験は滅びない。つまり、ロブ=グリエが極限までおしすすめた方法的懐疑は、彼とその後の作家がどのような作品を書いていようが関係なく存続するのだ。それはデカルトの哲学そのものは時代遅れだが、彼の方法的懐疑だけはたえず新鮮であるということと類似する。自然発生的におこってきた近代小説が自己意識を深化させ、ついにコギト的なものを析出していった過程がそこにある。現代の小説総体はおそらくこういう懐疑とはかかわりなく存在しつづけるにちがいない。しかし、他方で一般の読者から直接的には絶縁したようにみえるレベルで、一見空しい知的遊戯のような小説の自己革命が進行しているということも不可避的なことなのだ。おそらくそれは「小説」を衰弱させるだけかもしれないし、また衰弱そのものの意識なのかもしれない。しかし、そのことと、知的厳密さを追求しようとする姿勢とはべつのものである。
これは恐らくアカデミズムの規範に則って綴られた文章ではありません。緻密に、一つ一つのロジックの確実性を検証しながら進んでいくのではなく、「状況」の「概略」を一挙にマッピングして、その「略図」に様々な図式や表象を手際よく配置していくような躍動的知性の働きがここには介在しています。その意味で「ジャーナリスティックな才能」だと、私は感じるのです。ガイド的な知性と呼び換えてもいいかもしれません。
もう一つの特徴は、この文章が不特定多数の読者に向けて開かれた文章であるということです。もちろん、決して理解が容易な訳ではありませんし、相応の予備知識がなければ、すんなりと頭に浸透する内容ではないかもしれませんが、ここには文学の専門家だけに向けて綴られた隠語的な性質が稀薄です。もっと端的に言えば、このエッセイは「文章」として優れています。論理それ自体の整合性を厳密に追求する学者的な手つきの代わりに、読者へメッセージを伝えるためのプリミティブな「文学的洗練」が息衝いているのです。堅牢な体系よりも、直観に基づいた批評的「断片」の魅力を、皆さんにもぜひ堪能していただきたいと思います。
講談社文芸文庫版「坂口安吾と中上健次」の後書きに、氏は次のように綴っておられます。とても印象深い文章ですので、下記引用します。
ただ、私がかつて文芸評論を書いていて、のちに哲学的著作に転じたといわれるなら、それは誤解である。学生時代、私は小説家になろうと思わなかったし、小説の批評家になるつもりもなかった。私は何か哲学的なことをやりたいと思っていた。しかし、それは大学の哲学科でなされているようなものではなかった。私は、人間について、社会について考えたいと思っていた。が、それは心理学や人類学というようなものとは違っていたし、社会科学というようなものとも違っていた。
私がやりたいのは、それら一切合切をふくむものであった。しかも、それは自分自身の生と切り離されたものであってはならなかった。いったい、そんなものがあるのか。ある。当時、「文学」という言葉は、そのようなものを意味していたのである。それは狭義の文学とは別である。この意味では、私は最初から非文学的であったし、今もなお「文学」的である。(「荒ぶる魂」)
テクニカルに洗練された狭隘な「専門性」ではなく、あくまでも様々なジャンルを横断する「交通的知性」を重視する氏の方針は、今も変わっていないと言えるでしょう。「自分自身の生」と不可分の、そして生きることの「一切合切」を取り扱えるような綜合的領域としての「文学」を愛する精神は、たとえ文芸評論を書かなくなったとしても色褪せることはないのです。この横断的な批評のあり方(トランスクリティーク?)こそ、柄谷氏の著作を特色付ける強烈な「魅惑」の源泉だと思います。
読んだことのない方は是非ご一読を!
入り口としては「意味という病」のほかに、「畏怖する人間」や「反文学論」などをオススメします。世界の見え方が違ってくると思いますよ。
以上、サラダ坊主でした!