サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

夢に似た捩れ 「カフカ短篇集」を巡る雑録

 最近、ドイツ文学者の池内紀氏が翻訳と編纂を担った「カフカ短篇集」(岩波文庫)を少しずつ読んでいる。淡々とした筆致で、波瀾万丈の壮大な物語とは程遠い、素描のような掌編が並んでいる。どれも独特の味わいがあり、不気味さと諧謔とシニカルな省察が緊密な文章によって丁寧且つ滑らかに結び合わされ、なかなか面白い。

 無論、私が「なかなか面白い」などと評するのも烏滸がましいほど、フランツ・カフカの遺した小説たちは、破格の巨大な栄光に包まれた二十世紀文学の古典であり、その作品に就いては夥しい量の論文が過去に綴られ、今もその総量は果てしない膨張の過程を持続している。私が思いついたようなことは何もかも予め、この地上の何処かの書物や電子的な画面の片隅に書き込まれているに違いない。だが、他人の感想は飽く迄も他人の感想であって、私の感想ではない。それらが綺麗に重なり合っていたとしても、私自身の言葉で、私自身の感想を具体的な備忘録として書き表しておくことには、個人的な意義が存する。

 カフカの小説が「夢の世界」に呑み込まれるような感触を備えていることは、多くの評者によっても、市井の読者によっても繰り返し指摘されてきた。無論、カフカの様々な小説を一括りにして「夢の形式」などという便利な観念的ラベリングで片付けてしまうのは、誠実な読者の振舞いではないことに留意すべきだろう(例えば長篇「失踪者」の第一章に当たる短篇「火夫」などは、熟練の筆致で紡がれた良質なリアリズム小説の外観を堂々と鎧っている)。彼の遺した奇妙な小説の群れが、結果的に「夢の世界」に近似した世界観を含んでいるとしても、それは作家の夢見がちな性格を立証するものではない。カフカは決して「夢の世界」の文学的な再現の作業に過大な野心を燃え上がらせていた訳ではないだろう。一読すれば歴然としているが、彼の文章は極めて簡潔で、抽象的なものや観念的なものの茫洋たる拡張や氾濫とは対蹠的な性質を孕んでいる。つまり、現実から乖離した奇矯な「夢想」の断片を放縦に繋ぎ合わせている訳ではないのだ。寧ろ、彼は飽く迄も「事物」の現前する諸相に対して、極めて忠実な記述を貫徹している。但し、誤解を避ける為に敢えて附言すれば、それは精細な写実的表現の徹底を意味するものではない。唯物論的なリアリズムが、カフカの作品の普遍的な特質であると言いたい訳でもない。彼の筆致は常に簡明で、曖昧模糊たる抽象的表現を小刀で削り落としたように排除している。しかも、その作品は自由自在に動き回り、決して特定の明瞭な主題に向かって収束しようとは企てない。例えば本書に収録されている「中年のひとり者ブルームフェルト」という作品は、奇妙な二組のボールの話から始まり、職場におけるブルームフェルトの不満の描写で唐突に幕が引かれる。最初に登場する奇妙なボールが何だったのか、結局どうなったのか、具体的な説明は何も与えられないままに終幕を迎えるのである。曰くありげなボールの文学的な意義に就いて、読者は様々に憶測を組み立てることが出来るだろう。しかし、それらの憶測に具体的で明確な論拠を附与することは、作品の忠実な読者である限りは殆ど不可能に等しい。

 主題の不在と、簡明な筆致。これら二つの要素は何れも、カフカの作品から一切の観念性や抽象性を追放しているように見える。それが結果として「夢の世界」の感触を齎すことになる理由に就いては、批評家の柄谷行人氏が、初期の評論の中で明晰な解釈を提示している。カフカの作品は「意味という病」(©柄谷行人)に対する徹底的な逸脱の運動性を抱懐している。それは「物語ること」の純粋な運動性を鮮やかに浮かび上がらせるということだ。フランツ・カフカの文学に対する無限の「解釈可能性」は、あらゆる解釈を排斥し、峻拒する作品そのものの純粋な強度に由来しているのである。

カフカ短篇集 (岩波文庫)

カフカ短篇集 (岩波文庫)

 
畏怖する人間 (講談社文芸文庫)

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意味という病 (講談社文芸文庫)

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