サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

完璧と最善 生きることのスタイル

どうもサラダ坊主です。

皆さん一日の労働を終えてさぞかしお疲れでしょう。

私も疲れています。しかし、人生の時間は限られておりますし、いつデッドエンドへ突き当たるか知れたものではありませんから、今日も頑張って一筆したためようかと思う次第です。

仕事って、大体において際限のないもので、ここまでという線引きをすることは出来ますが、その境界線というのは往々にして曖昧で、任意的なものです。パーフェクトを常に求め続ける方々にとって、仕事というのは未来永劫に終わることのない「夢想」のようなものです。歩いても歩いても、水平線に手が触れることはありませんし、厳密な意味で「極北」というものは存在しないのです。それは誰だって理屈では心得ているはずですが、心がそれを認めない時というのもありますよね。完璧主義者の方にとっては、そのような水平線の風景は人生のデフォルトでしょう。

ところで、このような眺望というのは必ず人を疲労困憊させます。当たり前ですね。どこまで行っても涯のない旅路を強いられ、絶対的な安息に浸ることを許されないわけですから、遅かれ早かれ精神的な限界を迎えることは必定ですし、心が無事でも肉体が先に破綻する可能性だって決して小さくありません。過労死ラインを越えちゃって労災認定というのは、そういうことです。精神が肉体を凌駕しちゃうのは、マンガのなかだけの話に留めておきたいものですね。

ですから私は、なるべく完璧ということを信じないようにしています。もっと言えば、完璧という概念は人間という存在に向いていないんです。それは神様の領分に属すイデアであって、もとより有限の物理的実在である人間に、そんな数学的な理想像が適合する訳がないのです。完璧を求めるのは美徳ではなく、寧ろ人間に固有の「驕慢」であるとも言えましょう。改善することは大事ですが、それは百パーセントの成功を実現する為ではありません。あくまでも、現状を少しぐらいマシにしたいなという地道な動機に根差すべきなのです。

完璧を求めるということは、場合によっては健全な業務遂行を妨げかねない悪癖です。一点の曇りもない状態でなければ、それを「青空」とは呼んではいけないのでしょうか。でも、一点の曇りなき青空と、薄い雲が浮かんだ青空との格差って、そんなに本質的な問題ですかね? 青空は、荒天でないというその一点だけで、本質的に好ましいものであるはずです。だから、一切れの雲の塊に視界を汚されたような気分になるのは、余りに偏狭というものじゃないですか。

大体、人間の器量というのは「清濁併せ呑む」包容力によって判定される徳目です。たった一つのミスさえも見過ごせないというのは、機械なら正常な動作ということになりますが、人間の場合は「異常事態」であり、立派な「疾病」です。人間の美徳は本来、見逃せるということ、忘れられるということ、なかったことに出来るということ、先送り・留保・ペンディングできるという点にあるのです。障子の桟の塵ひとつ許せない姑は、早く死んでくれりゃあいいのにと陰口を叩かれるだけで、おそらくは敬意を表せられませんよね。

ま、要するに完璧に生きようなんて悪習とは手を切ろうという話です。峻厳な良心が求められるシーンなんて、人生の中でそう何回もありませんよね。過度に清廉な良心は、別名を「暴力」といいます。たとえば児童虐待だって、子供の小さな「過ち」を許せないことから始まるのではないかと思いますし。

特に結論はありませんが、完璧と最善は似て非なるものであるということを覚えておけば、たとえば仕事に追い詰められて自殺するなんて不毛な事件は防ぎやすくなるのではないかと思う訳です。

以上、真夜中の船橋サラダ坊主でした!