死が二人を分かつまで / 死んだあとの世界について
どうも真夜中のサラダ坊主です。
眠る前に気力を振り絞って何か書いておこうと思い立った次第です。
皆さんは死ぬことを怖いと考えたことがありますか?
ちなみにこれは自殺願望の告白とかでは全くないですからご安心を。
私は幼稚園の頃、自分が死んだ後も太陽は輝き、銀河は巡り続けるのだということを想像して、余りの恐怖に涙を流したことがあります。
何もかもが空白となり、何もかもが消え去ってしまうこと、にもかかわらず世界は存続するということ、死者となった「私」はそこに全くアクセスできなくなるということ。
その「アクセスできない」という絶対的な無力感に、幼い私は背筋の凍るような恐怖を味わったのです。
でも、そんなの単なる妄想に過ぎないですよね。
自分が死んだあとのこと、あるいは死ぬことの苦しみは、死者である私には理解できない、だから死について思い悩む必要はない、というエピクロス的な諦観というか真理は、まだ実感として私の魂に刻み込まれたり、私という存在の血肉になったりはしていません、残念ながら。
大人になって日々の雑事に追われて、改めて死後の世界を冷静にイメージすることが難しくなったために、「アクセス不可能の恐怖」から相対的に解放されているとはいえ、死の本質的な恐怖が克服された訳ではありません。死ぬことは生命体にとって最も畏怖すべき絶対的な「未来」であり、避けることは出来ません。
死んだあとの世界を目いっぱい空想してみても、それによって死の絶対的な虚無がもたらす荒廃感を打ち消すことは出来ないのです。
この恐怖はおそらく、「生」に飽きることによってのみ、マイルドに緩和されるのだと私は推測しています。「死」への恐怖は「生」への憧憬と裏腹です。これらは反比例の関係にあり、生きることにうんざりするようになれば、死ぬことはむしろ「恩寵」となるでしょう。
死ぬ時、絶対的な平穏と満足に抱かれていたいというのは、私の数多い欲望の一つです。「恩寵」のような死を迎えるためには、この一回きりの「生」を実り豊かなものへ育て上げる努力が欠かせないはずです。
言い換えれば、徹底的に「生き切る」ことが「満ち足りた寂滅」をもたらすのではないかという仮説の下に、私は自分の生涯を設計していきたいと考えている訳です。
何だかとっ散らかった話になりましたが、要点は「死の受容の可能性/不可能性」ということですね。
私は川上弘美の「真鶴」という小説が好きなのですが、この作品にはいつも「死の茫洋たる気配」が満ちています。半ば幻想的で、常に生きることと死ぬことの関係性が脱臼しているような印象の小説です。ぜひ一度繙いてみて下さい。
「夜」は人を哲学的な内省に導きます。ま、哲学的というよりも哲学風といった方が適切でしょうが。
船橋サラダ坊主でした!